2012年2月29日水曜日

雪の音

し。。ん。。。
朝、目をさますと音がしない。
「あ、雪だ」
カーテンをはぐると真っ白な世界があった。

「今夜未明から雪が降ります」
テレビが言った。
寝る前、あの独特の音のしない音が聞こえない。カーテンをはぐるとまだふっていなかった。


ここ高尾はいつでも静か。たまに電車の音がするぐらい。そんな静かな場所。だけど雪が降ると、まるで違う静けさがある。

雪の音は、なにかこう、全てをくるんでしまう、吸収される音。。。とでもいうのだろうか。音が聞こえないのではなく、出る音をみんな吸い込んでいってしまうようにおもえる。それはあの小さな結晶のひだひだの中に音という波動が引き込まれていくからなのかもしれない。

ど。。。ん。。。
雪の固まりが屋根から地面に落ちた。地面がかすかにゆれる。
ざざざざーーーっ。。
木の枝にのっかった雪の重さに耐えかねて枝が手をふるった。

白と黒の世界。
白鷺が川の上を飛んでいく。今日はいつもと違って、あの純白の身体が、ちょっと黄色く見えた。

2012年2月28日火曜日

はじめに心ありき

文明が起った始まりはどこだろう。
私たちは「こうなりたい」という願望があってそうやって来た。
こうなりたいとおもったきっかけは?
はじめに心があったんじゃなかったろうか。

その心が、この文明や戦争や、そしてこの混沌を作り上げて来たんではなかったろうか。たとえ一部の人間が「戦争やろう」といいだしてやったとしても、やっぱりそこに戦争するという心があった。

心は言葉で出来ている。怒りや悲しみは、言葉でなく感情だけが動くといっても、その元になるものは、誰かさんがこうするからいやだとか、この病気がつらいとか、みな言葉で出来ている。

言葉はすでに過去に作られた既知のものである。机、と言えば、「ああ、あれね」と知っている。難しい四文字熟語でさえ、辞書を見れば「ああ、こういう意味ね」とすでに誰かが「知っている」ものである。だから言葉は知っているもので出来ている。
その知っているもので出来たものが組み合わさって文章になる。すなわち、心はすでに知っているもので満たされている。

考えたら何とかなると私たちは信じている。だから一生懸命考える。この世の仕組みの問題、自分の将来の問題。。。だが考えるのは心だ。心は言葉を使っている。その言葉は過去のものだ。だから私たちは、過去のものを一所懸命拾い集めて新しい事をやろうとしている。

これまでだって一所懸命考えて来た。そしてこの文明が出来た。という。その文明?どれ?どこが文明なのだ?地球、人々、生き物をこれほど破壊する文明?これを文明と呼べるのか?これが進化なのか?破壊することが?

戦争の悲劇はどこぞのえらい将校さんがやったことだといえるのだろうか。私たち一般市民の中にも戦争はある。自分の家族の中にも戦争はある。今、ニュースで見る犯罪の多くは家族内で行なわれている。母と息子、父と娘、兄弟、祖父と孫。。かっとなった、気がついたら、だれでもよかった、みんなそんな言葉で犯罪の理由にしている。

その犯罪が起るのはどこからだろう。心からじゃないのか。
心からわき起こる衝動。誰にだって起る衝動。それは国のせいとか、セーフのせいとか、システムのせいなんかじゃないのではないのか。

私たちは、心のあつかいにあまり重きを置かなかった。「人にやさしくしなさい」「自然にやさしく」「地球にやさしく」そんな心地よい言葉でくるむ事によって解決できると思って来た。
だが文明の始まりは心だ。その心を暴く時期に来ている。心はどんなクセを持っていて、どんなに厄介で、どんなに人を振り回すかをはっきりと知る時期だと思う。こんなにこの文明が煮詰まってどこにも行けない閉塞感があるいまだから。

地球の問題児であるゆえんは、この人間種が、ある一方方向にだけ発達させて来た心の中に問題があるのではないか、そうやまんばは思ったのであった。

2012年2月26日日曜日

人間種ってこんなもん?


やまんばは、どーみても、この地球上でいろんなものをこわしている生き物は、人間種だけなような気がするんだな。

猛獣が大地をこわすっていっても、せいぜい蟻塚ぐらいだろうし、木を倒すっていったって、象がちょっとイライラしてぶちあたるぐらいだろうしなあ。でもその倒れたものも、朽ちていってほかの生き物のエサとなったり住処となったりして循環する。

人間種はといえば、地面に大穴は開けるわ、森は消しちゃうわ、自然界にあるものを合成させて延々と朽ちないものですみか作っちゃって、そのままほっぽりっぱなしだし、腐らないもの作って自分で食っちゃうし、ほかの生き物を絶滅させちゃうし、おまけに同じ種で殺しあっちゃうし。最近はお天気なんかも「ここで雨ふれ」なんて変えちゃうし。そこまでいろいろできるんなら、「へっへっへっ。オレ様は強いんだぜサイコーーーーっ!」ってしあわせなのかっていうと、なんだかみんな不安で不幸で文句がいっぱいある。

ほかの生き物同士が殺しあったりするか?
せいぜいメスの取り合いでケンカになったり、縄張り争いで威嚇したり、そんな事で気が済んでいるんではないだろうか。(やまんばは知りませんが、ほんとに殺しあう生物もいるかも知れませんが、しかし人間種ほど殺しあうことはないとおもいます)

ウチュー人がそれを外からみたら、
「どーみても、あいつらが問題児だな」
とおもうはずだ。

なんでこんな生き物なのかなあ?
森で樹々をめでながら、なんだか恥ずかしくなるやまんばであった。
そもそもなんでここに人間種はいるのだろう。ここにいる意味はなんなのだろう。こんなにこわし続けていていーのだろうか?

いんや、もっと何かいい方法はあるのだ。このシステムさえ変われば、人間種は立派になるのだ。だって、人間が何よりもこの生物界のトップなのだから!
と、人々は思っている。
だけどそもそもそのトップという考えは、人間種がかんがえついた「アイディア」なのだ。生物がピラミッド状に支えあっていて、そのトップが人間さまなのだ、という考えは、勝手な人間さまご都合主義なのだ。
セミにいわせたら、「ケッコー毛だらけ、ネコ灰だらけ」というに違いない(なんでセミ?)

これまでだって、革命じゃ、宗教じゃ、イデオロギーじゃ、システムじゃ、金融じゃといってなんだかんだと変えて来た結果がこれなのじゃ。これからまたその路線でこれじゃこれじゃと変えてみたところで結局また同じ「アトランティス」の二の舞なのじゃなかろうか。そういう意味では、面白いところに生きているなあと思う。文明の煮詰まった状態。

やまんばはちっちゃいとき、大人になる頃には車は空を飛んでいるはずだ!とおもっていたが、いまだに地面を這いずり回っているし、月にいっちゃったぐらいだから、今頃は木星に新築アパートでも出来て移り住んでいるんだと思ってた。それが現実は、地球の周りをぐるぐる回って、カエルさんの実験するぐらいのレベルじゃないか!

つまんない。
つまんないのだ。人間種ってこんなもん?

じゃあ、殺さないようにしようとか、核を処分しようとか、人にやさしくしようとか、そういう、あれがダメならこれ、それがいけないならこれ、というふうなあれこれ取っ替える事に答えがあるのではないのではないか。この地球上にいる問題児である私たちを、問題児でないものに変えていくものが、そこにはない気がする。

何か根本的なところにわたしたちが問題児であるゆえんが隠されていて、その事に気づけと言われている気がする。


絵:「成毛眞の超訳・君主論」MF新書 売れてます!

2012年2月19日日曜日

人間種もこの地球上の生き物

自然は常に刻々と変化している。

季節は巡って、毎年同じように変化しているように見えるけど、よく観察するとひとつとして同じように変化しない。決してくりかえしは起らない。全てが流転しその刻々に変化を繰り広げて、さながら川を流れる水のように変幻自在なのだ。
それと同じように動物も昆虫もいつも同じように同じところにはいない。自然も虫も動物も、刻々と変化して常に新しいのだ。

人間という種族もこの地球上に生まれている限り、自然と同じように変化しているのだろう。しかしひとつだけちがう。
人間は同じ事をくりかえしたがる。

木が「アタシは去年のように同じ枝ぶりでいたい」とか、イノシシが「去年と同じところで同じミミズ食いたい」と、ねがうだろうか。
彼らはただ淡々と、刻々の変化に身をゆだねているように見える。

なぜか人間の中には願望がある。
「あたしはこの生活が好きなのよ。このままずっとこれで生きたい」とか「オレはこんな生活いやなんだ。だからこの町を出る!」とかいう。
これでないあれ、あれとおなじもの、願望の始まりは、葛藤を生む。葛藤は苦しさを生む。苦しさは恐怖を生む。

木に葛藤はあるのだろうか。イノシシに葛藤はあるのだろうか。

その葛藤が文明を生んだのだ。という。だからこそ人間なのだという。イノシシや木とは違うのだという。

その事で葛藤を正当化するだけでいいのだろうか。その葛藤が人間にあらゆる不幸を招き寄せる事も理解する必要があるのではないか。道具は使いこなせてなんぼなのだ。


自然界の動植物は、人間界のように病気に満ちあふれているのだろうか。自然界の昆虫たちは人間のようにみじめな気持ちになったりするのだろうか。

人間も同じこの地球上に棲息している生き物なのだ。彼らのように死ぬまで生きて、空を飛ぶオオタカのように、生きる歓びを感じて生きられるのではないのか。

私たちの中に起っている葛藤が、本来自然に流れている、ほかの生命たちと同じような強烈なエネルギーの流れを、せき止めたり歪んだものにしているんではないだろうか。

私たち人間種もまた、草を食む虫のようにたのしげに、風になびく木の葉のように、谷に響き渡る野鳥の唄のように、上昇気流に乗るオオタカのように、今を謳歌できる地上の生き物なのではないか。

2012年2月16日木曜日

危機感をもつ。。





やまんばは暇にあかせて「インボーもん」や「ありえへん」もんをネットでサーフィンする。いろんなところで人々が炎上している。インボーもん的に見た銀行のシステムも、なるほど、そーゆーことか、とおしえられる。無からお金をどんどん生み出す今の金融のシステムも、やらいうまい事考えついたもんやなあ~と感心する。

すると庶民は「なんだなんだ、お前だけもうけやがって」と怒る。そんなシステムあってはならぬ。ないものにしてしまえ。と、だれかがいう。すかさず、そーだ、そーだと同意する人々が増える。ちょっとの怒りがおっきな炎となる。すると人々は「そーだ、そんなシステムがあるから俺たちはビンボーなんだ。そんなシステムがあるから、俺たちは不幸なんだ。そんなシステムがあるから、女房と喧嘩するんだ!(それちゃうやろ)」となっていく。

すると人々は、「そんなシステムがなくなったら、オレは金持ちになるし、ハッピーになるし、女房と仲良く出来るんだ」となる。(ほんまかいな)
いつの間にかこの世のシステムやセーフの誰かさんさえいなくなれば、自分が幸せになる、と思い込み始めるのだ。
いや、そこまで極端ではなくっても「とりあえず、あいつがいなくなれば、とりあえず、あのシステムがなくなれば。そーだ、あいつが悪の権化だからだ。え?そっから先?そりゃあ、まあ、そっから先はそっから先だ。とりあえず、敵はあいつだ」となる。

しかしそれでホントに幸せになるのか?システムが変われば人々は本当に幸せになるのか?あれさえなくなれば、幸せに?

これは別の視点から見ると、自分の事、自分の家族、自分の精神状態を見るのが怖いから、その矛先を大きな存在に向けて、自分から逃避しているようにみえる。自分の問題を外のせいにしてすり替えているようにみえる(のはやまんばだけか)。ようするにこれはほとんどディズニーランドにいくのとかわらないんではないか?おいしいもの食べたり、お買い物をするのと変わらないんではないか?

ところが「危機感を持て」なんてテレビで言ってるぐらいだし、そうしないといっぱしの大人じゃないとおもわれるし、ショッピングで買い込むとケーベツされるけど、世界情勢なんて知ってると「お父さんすごいねえ」と、ソンケーしてもらえる。それにみんなで言ってりゃ目立たないし怖くない。
こっ、これは1石5鳥ぐらいじゃないか!

だけどそこには自分への危機感はどっかいっちゃってる。だいたい「今の世の中は。。。」と言い続けたところで、子供にもそのうち飽きられる。
「お父さん、またはじまった。。。」


やまんばはおもう。
となりにいるニョウボに「オイ、その指動かしてみろ」といったところで、
「あんた、なに、それ」と、シカトされて指一本動かす事できないではないか。
それを大きなシステムをそれ動かせ、やれ終わらしてしまえって叫んだところで、いったいどう動かせるんだろうか。

まず自分だな。自分に危機感もって自分をカエルだな。
え?それがイッチバ~ン、むずかしーのだ。
だからまずシステムを変えさせるのだあ~!(ちげーよ)



絵:「東京消える生き物増える生き物」MF新書
   
絶滅危惧種を憂うというよりも、新たな環境に適応していく野生のたくましさ、したたかさを温かく見守っている著者さんの心意気にひかれるやまんばであります。

2012年2月14日火曜日

ホイットニーの死


ホイットニーヒューストンが亡くなった。
美声、歌唱力、美貌、何をとってもパーフェクトだった彼女。やまんばもずいぶん魅了されたもんだ。真っ白い歯を見せて左上の方向を見て歌うあの姿。未来は明るい、この世は美しい、そして人間の無限の美しさをおしえてくれた彼女だった。

それなのに、かなしい結末が待っていた。何が彼女にそんな死を与えたのか。

魅了されたわりには最近の彼女の動向を知らなかったやまんば。
記事を読むと、けっこうきつい現実を背負っていたようだ。薬物に溺れ、いろんなものに依存し、今まで稼いだお金はみんな使っちまった。最近は知り合いに100ドル借りるような生活だったよう。

最近の彼女のコンサートでは、高音が出ない、歌っている途中で呼吸困難になるなどファンにとっては「最悪のコンサート」だったそうな。

そんな時にグラミーショーで唄う。そこで彼女は何度もグラミーショーに輝いた。そこで、その場所で高音が出なくなった自分をさらけ出す。人々はどんな批判をするのだろう。私はどんな目で見られるのだろう。。。
あの頂点にいた彼女は、今の彼女をどんな思いで見ていたのか。そして今回の仕事は、彼女の心にどんなにプレシャーを与えただろう。私たちが想像する以上のものだったのではないか?グラミーショー出演者が泊まるホテルで奇行が目立っていたようだ。かなり泥酔していたという。

人は他人からの非難を恐れる。そして非難される自分をなじる。今の自分の姿を見るのはつらい。見ないでいられたらどんなにいいか。自分を忘れる事が出来るなら、どんな手だって使う。薬物、酒、セックス。。。これらは自分を忘れる事が出来るアイテムだ。だがそれも一時だけの事。醒めるとまた自分が襲ってくる。自分から逃れるためにまた手を出す。これが依存症と呼ばれるものだ。
だが、それは彼女だけのことなんだろうか。私たちだってみんな同じように自分から逃げている。
彼女の死は何かを語っているように思える。


やまんばは、ある日の午後、ある唄声にであった。
NY地下鉄57丁目駅の通路わきの壁に大きな身体をよせてその人はいた。彼女の姿はたとえるならスターウオーズに出てくるジャバそのものだった。
その巨体から発せられる声を聞いたとき、やまんばの身体全身が震えた。今までこんなに全身が震えた事はない。

彼女はホイットニーヒューストンの「Greatest Love Of All」をアカペラで熱唱していた。その声はもうホイットニーの比ではなかったのだ。ものすごい力強さ、圧倒的な歌唱力、そして地の底からわいて来るような強烈な波動。。。その瞬間、あたりの空間すべてが彼女モノだった。
やまんばはもう一度あいたいと何度もそこを通ったが、あれ以来一度もジャバにあう事はなかった。

アメリカにはプロとして表に出て来ない、下に厚い層があるのを知る。
どんなおもいで彼女はあそこで歌っていたのだろう。。。彼女の唄の中に彼女の思い、生き方、魂の質、美しさ、そして慈悲の心、そんなものが折り重なって声になって現れていた。やまんばに圧倒的な説得力をあたえた。
彼女はホイットニーのように高音が出なくなったりしても気にしないだろう。生活に苦しくなっても「いつもの事よ」と、あの黒人特有の楽天的な資質で笑っているのだろう。

人が不幸になるのは他人が作るものじゃないのだ。ただ自分がつくりあげるだけのことなのだ。それはただ自分で「作り続けている」だけなのだ。それはいつでも作るのを止められる。だれでも。今この瞬間に。

ああ、もう一度あのうた声を聞きたい。
でもジャバもまたもうこの世にいないのかもしれない。(ジャバじゃないっちゅーの)


絵:「マレーネ・デートリッヒ」

2012年2月11日土曜日

非難と正当化

非難と正当化。
今、この二つのことが人々の中で溢れかえっている。

心の中は、人への非難、セーフへの非難、システムへの非難、学校への非難、などなどいそがしい。そして非難している自分は、あの人を非難できる私は正しいと、自分を正当化できるのだ。すなわち非難をするということは、正当化とセットになっているのだ。
それは自分を非難することも同じだ。
オレってバカだ、あたしってだめだ。という。
しばらく言ってると、だんだん心が耐えられなくなる。すると今度は、でもそこまでじゃない、とか、あいつよりましだ、とか、あれはあのときしょうがなかったんだ、という言い訳をする。ほら、正当化。

そうやって心の中で非難と正当化が行ったり来たりする。

最近はやっているツイート。
単に呟くのだけど、そのつぶやきが活字になる。自分が心の中でぶつぶつ呟くことが活字になる。すると不思議なことに、活字になるとなんだか自分が正しいような気分になってくる。

ほんでまた、それに「ウンウン、それ、わかる~」なんてコメントを貰ったりしたら、もう「絶対的にアタシは正しいのだ」となる。
自分の心でしゃべっていることをそのまま活字にすると共感もしてもらえるし、正当化出来る。これは快感だー。快感は習慣になる。

じつはそれが公の場にさらされていて、その人の胸の内を全部見せてしまっていること、そしてまた、その人とかかわる、例えば仕事先の人が、ひょっとしたらその人の胸の内を完全に見ているかもしれない。そういう危うさが、正当化される快感によって分らなくなってくる。それはたとえ匿名にしていようと。


そーすると、これがなくては自分を正当化でできなくなる。ツイートに依存をし始める。どこかで「自分ってひょっとしたら、間違っているかも。。。?」と思っているが、それを「そんなことないない」といってくれる誰かがいることによって「おっしゃ、やっぱりアタシが正しいんだ」と自分を説得できるからである。

するとだなあ。誰かが「きみ、ここちがうんじゃないかなあ~?」と、せっかく指摘してくれたとしても、「アタシは間違っていない」というツイートによる正当化で、自分自身のいたらなさに気がつくいいチャンスを自ら消してしまうことになるのである。

非難と正当化は同じコインの裏表だ。それは自分からの逃避の材料。
その心のうちは、自分を見るのがこわいから、言い訳をして逃げようとしているのだ。

じつは心で勝手に自分を非難しているだけなのだ。ほんとに勝手にひとりでやっているだけなのだ。誰もそれをしなさいとは言ってないのに。

それは小さい時から「これをやっちゃいけません」という条件づけをもらい続けて来たからだ。だからいけないことをしてしまった自分を見るのがこわい→瞬間にそこから逃げようとするという条件反射をするだけなのだ。

私たちは自分を責める必要も、他人を責める必要もまったくないのだ。

もしここに自分を非難する瞬間の動きがなかったらどーなる。
「あ?それ?そういえば気がつきませんでした。今後気をつけます」
となる。
それをしてしまった自分を、何の感情も動かさず見る事が出来る。そのとき、それは部分ではなく全体的に状況を見渡す事が出来る。そして言った相手の言う意味が分かるのだ。
ではその非難する自分という条件付けはどうやって取り払う事が出来るのか。

誰かに何か言われる。それに心がぴくっと反応したら、その反応に気づけ。自分の中にそれがあることに気づけ。そこから逃げない。やって来た問題をだれかのせいにするのではなく、自分の問題としてだけとらえる。ツイートに逃げるな。そこにい続けろ。思考を動かすな。思考は感情を増幅する。ただ自分の中に、今、起っている動揺とともにいろ。それを見続けろ。
ただそれだけで、心は軽くなるのだ。

2012年2月7日火曜日

egasunオープン!




ついにわれらが舞台美術家江頭良年さんのお店「egasun」(えがさんと読みます)がオープンいたしましたあ!
オリジナル欧風カレーとネルドリップ式珈琲のおっしゃれ〜なカフェです。
内装は江頭さん自らが手がけられました。舞台美術家と舞踊家が織りなす粋な空間。まるで舞台の中にいるような新しい感覚のお店です。独自の店の色調もまたおもしろい。ちょっと西八王子にはおしゃれすぎる(西ハチさん失礼)くらいの雰囲気を醸し出しております。

香辛料た〜っぷりの欧風オリジナルカレーは、口の中に入れた瞬間広がる華やかな香り!コク!そしてゴロゴロと存在感のあるビーフ!う〜ん絶品です。1日5食限定のチキンカレーもチキンのモモが一個ドドーンと入ってるボリューム!
こだわりの有機栽培珈琲をこれまたこだわりのネルドリップで丁寧に入れてくれます。うますぎ。
ぜひお近くの方は足を運んでみてください。一度いったらやみつきになります。

さてこのへんてこなロゴはつくしが作りました。ちょっとクセのある、一度見たら忘れられないロゴにしました。

ちなみにマスターの顔はこんな顔。


カウンターの中で見つけたら「えがさん!」ってよんであげてください。
オリジナルカレー、チキンカレーはともにえがさん畑でとれた無農薬野菜のサラダ付きで900円。ネルドリップ式珈琲は単品で400円。セットにすると1200円。
ランチタイム12時から13時30分までは、ネルドリップ珈琲付きでポッキリ1000円のお得です。
営業時間は、今月は月曜から金曜日まで昼公演(マチネ)です。
11時からオープン、19時がラストオーダーになります。

来月あたりから夜公演(ソワレ)もはじまります。月、木の予定だそうです。ソワレはもちろん、お酒あり、創作料理ありです。(これがまたオリジナルでうまいぞーーー)そちらも楽しみにしていてくださいとのことです。
お休みは土、日、祝日ですが、その日にはパーティの予約も受け付けてくれるようです。

住所はここ↓



えがさん、おめでとうございます!!!

2012年2月6日月曜日

イノシシは働いている

久々の雨にもかかわらず、畑に行く。
ピーマンとししとうの苗がからっからに乾いているので、それを小さく切って畝の上にばらまいた。カラカラのシシトウの苗に真っ赤なシシトウの実がひとつだけぶら下がっていた。ほかのシシトウの実は白く透明になってよれよれして手で触るとすぐ破れた。しかしその赤い実だけは堅く力強い皮になっていた。
中はどうなっているのだろう。力づくでひき破ると、中にりっぱな種がぎっしりつまっていた。やはり、植物は子孫を残そうとする実は、こうやってしっかりとした皮で守っているのだ。

この苗は買って来たものだから交配種に違いない。しかしここまで必死に種を残そうとしているシシトウに敬意を払う。よし、交配種だろうがなんだろうが、ここに植えよう。
ナス科の野菜は連作なんてもってのほか。やまんばはそんなジョーシキは無視。羽が生えて遠くに飛んでいくものや、鳥さんが好んで食っちゃって遠くに運んでもらうものではないもの、すなわちぼてっとその場に落ちて子孫を残すものはそのようにしてみよう。

さて、この畝をどーするか。ロゼッタ状に広がったギシギシやナズナさんたちがびっしり畝をおおっている。やまんばは、小さなクワを取り出して、浅く耕した。
雑草がひっくりかえされてしっちゃかめっちゃかになった畝を見てはっとした。
これはまるで、イノシシが掘り返したあとみたいじゃないか。。。

そういえば去年の夏、余った大根のさやを(さやのままだぞ)、フェンスの外にばらまいた。ある日イノシシが来てそこら辺りを掘り返した。それまで草ぼうぼうだったところにいきなり土があらわになった。すると間もなく、そこから次々と大根が芽を出し始めたのだ。あれよあれよという間に大根は大きくなった。いわゆる耕してもいない、がれきだらけの土の中に大根は育った。

よく自分の畑をイノシシにぐちゃぐちゃにやられた人が
「おう、イノシシに耕してもらったんでい」
と強がってみせるんだが、ほんとにそうだったりして。

考えてみると、山の土の中に空気が取り込まれるのは、根が張った草や木が死んで、その根が枯れて空洞になったり、ミミズやもぐらやヘビなどが穴をあけて空気を取り込む事ぐらいか?空気が土の中にどっかんと取り込まれるのは、ひょっとしたらイノシシが大胆にほっくりかえす事ぐらいなのかもしれない。とすると、彼らがミミズなどを求めてあっちゃこっちゃ掘り返すのは、結果的にその土に空気を入れたり、活性化させているんではないか。そうやって山や自然のバランスが作られているんではないか。

「あれ?オレって働いてる?」
と、振り返るイノシシ。

最近、畑に来る度におもうことがある。畝の中に空気が欲しいなあ。。。
なぜかひっくり返したくなる衝動に駆られるのだ。土の中にもっと空気を、と。

あれ?アタシって、イノシシしてる?

2012年2月1日水曜日

キジョラン

朝起きてゴミ出しにいったら、キジョランがとんでいた。杉山をバックに白いキジョランが飛ぶ。ふわふわとどこにむかっているのやら。やがてそれは所定の位置に着陸。そこで芽を出し、まるでずっとそこにいたかのような顔をして大きくなるのだろう。それをめざしてまたアサギマダラがやって来る。あの、ふわふわした飛び方の蝶は、あるいはキジョランの花の飛び方がうつったんだろか。


「キジョランってねえ、キジョが髪振り乱して飛んでるみたいに見えるからキジョラン」
そういって、やまんばは真っ白い頭をぶんぶん振り乱してみせる。
「あ、ほんとだ。キジョだ」
ふじだなコーヒーで妖怪会議を終え、妖怪銀座を歩きながらキジョランを見つけた妄想少年とやまんば。
「キジョってねえ、鬼の女って書くんだよ」
「え?ぼく、貴婦人の貴って書くんだと思った」
貴婦人が髪振り乱すかよ。この、熟女泣かせのおとぼけやろうめ。