2023年3月30日木曜日

過去という川に浸るのをやめる


 

「今ここ」という言葉が流行って久しい。


現在がすべてのカギを握っている。



私たちの思考は、ほとんど過去を思考している。

すべてが、すでに知っていることを考えている。

知らないことは考えられないからあたりまえか(笑)。


だがその知っている過去の記憶や知識は、私に苦痛を与える。



言葉という概念が、もともと分離を前提にして作られたものだ。

私とあなた、男と女、コップとテーブル。

それぞれが分かれて存在するように見せかけるのが名前。


その分離前提が、さらに分離を生む概念を作り出す。

あなたは体で、その体とは生まれて死にゆくものだという概念。

それは自分を小さく卑小な存在に落とし込める記憶。

この言葉という概念の中で私たちの頭の中は埋め尽くされている。


頭の中は何も考えていない時などない。

ほっておいたら自動的にただ言葉の川の中に放り込まれている。

その膨大な考えをあまりにも無頓着にその中を生きている。


無頓着に流されるままにしておくと、次第に悲惨な方向に向かう。


知っている考えで考え尽くしても、

やがて破壊にしか向かわないことを知るのは、

考える価値のあることだ。


そのことを知るためにも考えることに価値がある。

その先は袋小路になることも知ることができる。


その考え自体が不幸にさせ続けていることに気がつき始めると、

もうその考えを持つこと自体が苦しくなってくる。


過去は自分や他人の罪でいっぱい。

その川の中で、あいつが悪い。いや私が悪い。

いややっぱりあいつのせいだ、、、と言い続けることの先に何があるのか。

そこにあるのは苦しみだけじゃないか。


だから私はその過去という川の中に浸ることをやめようと思った。



過去を考えるのも苦しい。

未来など恐れでいっぱい。

心のよりどころは、もう現在にしかなかった。


ところがその現在にいることがなんとも心もとない。

「今ってどこ?」

という感じ。

瞬間瞬間って、どういうこと?意味わかんない。


慣れの問題だ。

うん。そのうちわかる。。。。はず。。。(笑)




心は過去ばかりを見ていた。

だからその考えを止める。

意志的に静けさの中にいた。


何も考えないこの瞬間に、私に罪はなかった。

そのことに驚いた。


過去を考えていない私に、罪悪感も罪も恐れも見当たらなかったのだ。


ただそこにあるのは安堵。

ここにいることの安心。


朝目覚めた時、一瞬今日の予定がよぎる。

だが私はその考えを追いかけない。


計画を立てなくても、ことは進んでいくことに気がついた。

だから今にくつろいでいることができる。


自分の中にある罪悪感という闇を徹底的に光の下にさらけ出していっているおかげだと思う。

それに合わせて自分の無罪性と兄弟の無罪性をじわじわと思い出し始める。



今にいる時、形を追いかけられない。

どんな形にしようかと、思い悩むこともない。


心に指針を置いている時、形はただ流れていく景色になってくるようだ。




過去は罪でいっぱい。


今に罪はなかった。


なんという解放なのだろう。


なあんだ。
それ、早く言ってよお~。


絵:「うんちく埼玉」別バージョン








2023年3月26日日曜日

君、バカなの?

 

松尾貴史

見えている世界は自分の心の結果が現れている。


変えるのは、その見えている現象ではなく、心だ。




最近整骨院に通っている。

結果があまり見えてこない。

「あの病院、ダメなんかな?」

まわりの別のクリニックに目がいく。

あっちのがいいのかな?いや、その向こうにあるやつの方かな?


その時コースの今日の文言が浮かんだ。

「兄弟を信頼する」


あ。そうだった。

先生を信頼しよう。


大事なお金を持ってプールに行く。

大丈夫かな?ついではやめたほうがいいのかな?

コースの文言が浮かぶ。

「防衛しないことの中に、私の安全がある」


あ。そうだった。

防衛しないでいよう。



この二つの思いは、

はっきり言って「君、バカなの?」というたぐいだ。


間違った選択をしちゃいけない。

自分でなんとかしなきゃいけない。

正しい整骨院を選んで、正しく直してもらわなきゃいけないのだ。

間違いがないように、自分がちゃんと防衛しなければいけないのだ。


自分が決めて、自分がちゃんと守らなきゃいけない。

それが大人ってもんだ。

そう教わってきた。




ところが、兄弟は疑うものではなく、信頼するものだ。

防衛しようとするから、攻撃されるんだ。

というコースの考え。


真逆じゃん!


私たちはどうしても形の結果を求める。

だからあの病院この病院とさまよう。

いい病院を自分で探し当てなければ!と。


しかし「君、バカなの?」を実行すると、ギクシャクしなくなる。

いい病院を探して露頭に迷うこともない。

安心してその場にくつろぐことができる。





いやいや。

学校のせんせーは、そんなこたあ言わねえ。


「せんせー!つくしちゃんが、バカなこと言ってますー」

と、優等生にチクられる。




心が原因。

見えている世界は自分の心の結果だということが、ここで生きてくる。


結果は一瞬確認するためにある。

そして即座に原因に戻る。


兄弟を疑ってかかっていることは、

自分で自覚しない限り、自動的にやっている。


そう教えられてきたし、

そうでなければ、そもそもここに生まれてこないからだ。



疑うとは分離そのもの。

防衛とは、敵がいるという信念そのもの。


自動的に疑い、防衛、攻撃を繰り返しているのが私たちなのだ。



その自動的に疑っている、その心を見る。

自動的に分離したがっている、その心を見る。

外に敵を見つけたがっている、その心を見る。


その心を見なければ、永遠に分離の中に居続ける。

永遠に鏡に映った敵と不毛な戦いをやり続ける。


それが鏡だとわかった時、戦いは終わる。


私だったんだ、と。


私が恐れて、私が私と戦い続けていたんだと。


だから私の心に帰る。

分離させたがっていた心に。

敵を欲していた心に。





分離することが、疑うことが、戦いという防衛をすることが、

賢い生き方だと教わってきたのは、


そもそもそれを教えたせんせーもまた分離を背負って生まれてきたからだ。

そうすることが正しいと信じてきたからだ。




そのせんせーを赦し、


「君、バカなの?」を生きていく。







2023年3月25日土曜日

私一人ではない


 

今回、コケたことで色々教えられた老いという恐れ。


体が動かなくなって、不自由になる。

自分で何もできなくなって人に頼る。

そのためにはお金が必要。家が必要。。。

しかし私にはない。。。


その漠然とした恐怖の中で生きる。



最近通い出した25mプールの中は、

私も含めて100%老人たちで埋め尽くされている。


彼らの心の中は、自身の体のことで頭がいっぱいだろう。

この体をちょっとでも快適にするために。


その思いを私も共有していた。

ちょっと足をくじいただけでここまでの思いが浮上する。

大病を患った人の心はいかばかりか。


その心は自分を責める気持ちでいっぱいだろう。

あの時もっと制御していたら、あの時、、ああ、あの時も、、、。

しかし悔やんでも仕方がなく、絶望の中で小さな光を求めて生きる。


後悔と絶望。。。

老人たちはこんな思いを抱えて生きている。


プールの後、JAに行けば、そこにも介護の人に付き添われた老人たちだらけ。


心は体とお金のことでいっぱいだ。

この私はといえば、お金もなければ保証も全くない人生。


老いてきて、ますますリアルになってきた。

なんでこうしてしまったんだろう。あの時ああやっとけば。。。


老いが考えさせるお手本みたいな思いが押し寄せる(笑)。


体というこの厄介なものと、それを少しでも快適にさせるためのお金。

この二大巨頭を求めて人間は彷徨う。

この世は地獄だ。




自分の心の中を見れば見るほど、

ものすごい恐れの中で生きているのがわかる。


それを目先の楽しいことで気を紛らわす。

見ないことにする。なかったことにする。一瞬忘れる。

その気の紛らわせでかろうじて生きている。


私にはそれができなくなった。

ごまかせなくなった。

人はどんな思いを人知れず抱えているのか、

自分の思いを通して見えるようになってきた。


それは私一人が抱えている恐れではなかった。

この世界に生きる全員が抱えている恐れだ。


私一人ではない。

今はそれが私を支えてくれている。


プールで泳ぐ50人ぐらいの老人たちを愛しい気持ちで眺める。

泳ぎながら心に愛が広がってくる。



明け方、

徹底的に自分を責める心で起こされる。


部屋のアレが汚い。あそこを綺麗にしなければ。。

そう思って起き上がって綺麗にする。しかし心は晴れない。

当然だ。本当はそこが問題ではないからだ。

自分の存在自体を責めているのだから。



私は自分の闇に向かい合う。

正直にそれを聖霊に語る。


闇は手放されるために出てくる。

私の中の全ての闇を光に捧げたい。


そして今この瞬間にも、私と同じ悩みを抱えている、

この世界のどこかの誰かも、

ともに癒されるよう祈る。


私一人が抱えているのではない、

この苦しみをがともに癒されることを願いながら祈るとき、

私の心は広がる。


個の自分ではない何かに触れている。


心が癒されていく。





絵:「縁側ネコ」