2022年8月7日日曜日

問題問題詐欺



気がついたら、体のどこかにあるできものを触っているってことないだろうか(笑)。


できものをホジホジしている自分に気がつき、

「あ」と思った。


私は何かとっかかるもの、引っかかるものが欲しいんだ。


それはもうニキビの問題でも脂肪の問題でも車のワイパーの問題でも旦那の問題でもお金の問題でも、なんでもいいのだ。

引っかかれるものさえあれば。


自分の心の中をつぶさに観察していると、四六時中探している。

何を?問題を。


あ。この問題!あったあった。この問題さえ解決できたら、私は幸せになれる!

その問題に取り組み、そして無事解決し、

ホッとしたのもつかの間、また次の問題が発覚するのだ!


その問題に一生取り組み続ける。


私たちは自分が体だと思いたい。

肉体だと思うってことは、あなたと私は違いますっ!と線を引きたい。

分離を確認したい毎日なのだ。


なんでやねん。

平安が怖いねん。平安を拒否しているねん。

ホゲーーっとすることが怖いねん。

それは自分が消えてしまう気がするから。


だから必死で毎瞬毎瞬問題探しに明け暮れるのだ。

これを問題詐欺師という。(今作った)



電話がかかってくる。


「もしもし?」

「あー問題問題。それ問題ですよー。どーしますかー。」

「え?問題があるんですか?」

「そーですよ。その問題を解決しないことには、あなたには幸せが訪れません」

「えー。どーすればいいんですか?」

「それはですねえ。。。。」


と、あなたは問題問題詐欺に引っかかる。

そもそも詐欺師は問題があるという前提から始まるではないか。

問題がなかったら、詐欺師にはならない。


ずっと問題と取り組んでいる間は安心である。

それは自分という個別の肉体を温存できるから。


「あーたっ、一瞬でも問題を忘れてホゲーっとでもしてみなさい。

その瞬間、自分が消えてしまうのですよっ。

なんて恐ろしいことでしょう~。」


その自分とは自我の自分。

実は存在していない架空の人物。


その人物の人生は苦痛と苦悩で満ちている。

苦労と努力の中で、ほんのちょっとの飴をもらって喜ぶだけのちっこい人形。

その人形が、自分が消えることを恐れている。


本当の私はそこにいない。

そんなちっこい架空の人形の中にはいない。


平安が恐ろしいのは、

本当の自分を思い出すと消えてしまう自我の恐れ。



問題問題詐欺から卒業だー。





ミステリー表紙イラスト



2022年8月2日火曜日

正直にみる


 

自分に正直になるとは、

自分が今恐れている、ということを自覚することだ。


私たちが自分の心を見たくない理由はそこにある。

恐れている自分を知りたくないのだ。



小さい時から「恐れてはいけない」と親から教わってこなかっただろうか。

それは親もまた、恐れてはいけないと言う思いを抱えているからだ。

だから恐れている我が子を見るとイライラする。

そして「恐れるな!」と怒る。


でも恐れるな!って怒られて、

はいっ、わかりました!と恐れなくなれる子供っているか?w


それほど恐れとは「見てはならないもの」アンタッチャブル領域に入る。



恐れといってもいろんな言葉で言い換えられる。

心配、犠牲、モヤモヤ、苦しさ、イヤーな気持ち、ビクビク、ドキドキ、ハラハラ、惨めさ、悲しさ、寂しさ、いたたまれなさ、憎しみ、嫉妬、、、。

あらゆる形をとった恐れのバリエーションに気がつくこと。


普段はその恐れに気がついて、とっさに否定する、

あるいはないことにする、

さっとカーペットの下に隠すことはよくやることだけど(やるんかい)、

それをあえてしない。


自分の中に恐れがあることを見ることだ。

それは恐れている自分を肯定することでもある。


「私は今、恐れているのだあ~!」

と胸を張っていう(笑)。


この行為はとっても大事。

行為と言っても、体の行動のことじゃない。心の行動のこと。


その自分の恐れを見ることが、心が強くなっていく過程。

ここから心の訓練が始まる。



自分の心を正直に見る、つまり自分の恐れを正直に見始めると、

今まで自分がどれだけ恐れの中で生きていたかがわかる。


また、その恐れを見ないようにするために、

気を紛らわせたり、違うことをやって忘れようとしたり、

それを克服するための解決方法を必死で考えたりしている。


行動のほとんどのモチベーションが、恐れから発していることにも気がつく。


そして恐れをもたらした誰かを非難して攻撃していることにも気がつく。

怒りの下に恐れがある。攻撃されたと思うから、それに対して防衛をする。

防衛のための攻撃として怒る。


その恐れの元になっているものは、体。

自分は体という思いが、外から傷つけられる、攻撃されると信じる。


実際、体は何も傷つてられてはいないのに傷ついたという。

それは自分は体だと信じているから、

その思いさえも体と同じように解釈して傷ついたと思うのだ。


しかし実際心は何も傷ついてはいない。

心も体と同じように傷つくと思うのは、実は観念なのだ。




恐れは観念でしかない。


それはおいそれとはわかることではないけれど、

ああ、気のせいなのねとバイバイできるようなものではないけれど、

まずは自分の中にある恐れを自覚すること。


恐れながら行動している自分に気がついていること。



そのうちに恐れている自分の位置とは違う位置でそれを見ている自分に気がつき始めるだろう。

恐れと同一化していない自分。

恐れの中にいる自分を外から見ているのだ。


そのすぐそばにもう一つの別の見方をする存在がいる。

それをコースは聖霊という。

その聖霊とともに、この恐れを見る。


恐れはまだそこにあるだろう。

けれども聖霊の視点は、これを恐れとは見ない。

聖霊の中に恐れという判断はない。

まったく違う見方をする。


それは愛の眼差し。

聖霊は愛という判断しかない。


私たちはその聖霊とともに、その恐れの見方を変えていける。


それが私たちの本来の見方だったのだ。

その見方をすっかり忘れてきてしまった。


だが思い出せる。

その意志さえあれば。


すべてを愛で見る心眼。

その眼差しで見た世界は、いったいどんなふうなのだろう。




絵:似顔絵「JAY-Z」



2022年7月31日日曜日

過去を受け入れる



部屋の押入れの一角に、隠されるようにおいてある私の過去がある。


それはNY時代にやっていたペーパーバックやハードカバーの表紙に使われたイラストの原画だ。

今はパソコンで作るため、全てデータになっているが、日本に帰ってきてからもしばらくは依頼仕事の原画は紙を使って制作しており、その都度Fedexでアメリカまで送っていた。そしてそのアメリカにいた頃にも日本の仕事をやっていて、やはりその都度日本に送っていた。その原画たちが大量に部屋の片隅にあるのだ。


そのいわば「私の過去」を今回完全に整理しようと思い立った。

終活に近づいているのか?それとも新しい自分を見るために過去を終わらせようとしているのか。


引っ張り出してみた。

パラパラと覗くだけで一気に過去が押し寄せてくる。

ああ、こんな作品もあった。そうだったあの時はここで苦労したんだ。

記憶から完全に消えていた過去が一瞬で思い出される。


そして愛おしさがこみ上げてきた。

この幅50センチ、長さ70センチの中に、私の想いが詰まっていた。

ここはこういうアイディアにしよう、ここの色はこれでパキッとさせて、そしてぐいっと動きをつけて、こう大胆にレイアウトしよう。。。


あの時代、アメリカで私のような手法で紙を切って作品を作っているイラストレーターはいなかった。

そしてポップなイラストのラブロマンスやミステリーはなかったのだ。


その斬新さが買われて、私は一気に忙しくなった。

これまでのペーパーバックのあり方を変えたイラストとも言われて記事になったこともある。

バーンズ&ノーブルという大型チェーン店の新刊のコーナーにあるイラストを使われた表紙が全部私の絵で埋まったこともあった。あの時代にスマホがあったら、確実に写メ撮ってたのになあ。



私は整理が下手だし、めちゃくちゃ忙しかったから、いちいちその絵がどんなふうに印刷物になっていたのかを確認する暇もなかった。

それが今回整理するにあたり、ググってみる。あったあった。こんなふうに使われていたのか(遅すぎ!)ああ、この作家さんの仕事は結構やっていたなあと。


一人の作家さんのシリーズ。
アメリはでは一人のイラストレーターへのリピートが少ないと聞いている



断捨離ってあるけれど、ただでさえ服を捨てるのも、ものを捨てるのも辛いのに、

自分がゼロから作ったものを整理し、捨てていくのはとても勇気がいる。


私は今まで自分が作ったものをどこか恥ずかしいものとして、目を塞いできた。

汚点のような感覚。それは自分自身が自信がないからなのだろう。

自分自身を否定しまくって、愛せなかったからだろう。

だから押入れの隅っこに隠しておいたのだ。


でもこうして、ひとつひとつ見ていくと、そこには愛があった。

たとえ依頼仕事で自分本来の思いからは遠く離れてはいても、私の感覚の中から出てきたもの。

その都度、思いをいっぱい入れて作ってきたのだと心に響いてくる。


自分から出た愛の表現を、私は自分で目を背けてきたのだ。

今だから私はそれを受け取ることができるように思う。

自分自身を愛せると思い始めたから。

その愛をはっきりと今受け取ろう。


受け取ることによってそれを終わらせていくとき、過去は必然的に消えていく。

広げられたカーペットが巻き戻されていくように。

それと同時にそれまで過去の延長線で同じように広がっていた未来は当然消えていくだろう。



そしてそこに知られざる未知が出現する。



2022年7月29日金曜日

PEACE PILGRIM(平和の巡礼)


 

最近ある白人おばちゃんの話を聞いて、びっくらこいた。


彼女は28年間、平和を説いてアメリカ大陸を歩き続けたのだ。


お金も食物も持たず、持っていたのは、

着ていたチュニックのポケットに入れた手紙と紙と鉛筆ぐらい。

文字通り無一文。体一つで世界を歩き続けた。

自分の名前さえ捨てて。


夜は道路の横で星空を眺めながら寝、

食事は誰かに与えられるまで食べない。


え。。。なに、それ?


何にも持たず、旅し続けるって、ありえない!

しかも女性だよ!めちゃハイリスク!



彼女は自分のライフワークは平和のために働くことだとはっきり自覚したという。

その平和という目的のために全身全霊を投げ打ったのだ。


チュニックには、「PEACE PILGRIM(平和の巡礼)」と書かれていた。

背中には、「平和のために徒歩2500マイル(40000キロ)」


しかも1952年、女性として初めてアパラチアン・トレイルの全行程をワンシーズンで歩き通した。

1964年、その2500マイルを達成して以降、彼女はもうカウントしなかった。

交通事故で亡くなる81年まで、一体何マイル歩いたのか。



彼女は旅するにあたり、

どんな組織にも属さないこと、

雨露をしのげる場所が与えられるまで歩き続けること、

食べ物は与えられるまで食べないこと、

そして人類が平和の道を習得するまでさすらいの身であること

を誓った。


昔アナスタシアというロシアのタイガに住む女性の話を読んで、

人の体というのもはこんなにも無限の可能性があるのかと興奮したが、

実際そうであったかどうかは定かではなかった。

だけどこのおばちゃんは、実際そうであったのだ。


一点の曇りもなく自分の道を見つけた時、

人はなんと無限の可能性を持っていることか!

心の力が持っている強さは、私たちが考える常識を超えている。

いや。恐れがないというのはこんなにもすごいことなのか。


あぜんとした。

とんでもないぞこれは。



マジでコースを生で生きている人だ。

しかもこのおばちゃんはコースはまるっきり知らない。


やばいやばい。ここまで行けるんだ。。。!


セコい私は、老後の心配しなくていいんだ。。。とまで考えた。

(そこ、ポイントじゃない)


彼女はずっと神と共に歩いていたに違いない。

喜びと内なる平和と安堵と静けさの中で。


こんなにもすごい人なのに、日本で彼女の本が出版されていない。

いつか出版されることを願う。



なんだか自由を感じ取った。


彼女から何かを受け取った。







2022年7月27日水曜日

今がちょん

 

今ここに生きる。


ポピュラーになった言葉だが、

その意味はとんでもなく深遠なことだった。



奇跡講座のワークブック135

「自分を防衛するなら、私は攻撃される」


という文言の中の一言に釘付けになった。


全文は

「神に対するあなたの現在の信頼もまた別な防衛であるが、

それは一すじの悲しみの跡も残さず、

喜びだけが絶え間なく増え続けるような、

何ものにも乱されない未来を約束する防衛である」



この「現在の信頼」というところにピタッと心が張り付いてしまった。


現在を信じるって何?


わたし「今」を信じたことあっただろうか?

ないない。

心は絶えず、過去と未来を行ったり来たり。


あれはどうだった?

そのあれが、こうなったらどうする?

ちっとも今にいられない!


そこでやっと気がつく。

自我は今が怖いのだ。


今にいてもらっては、自分の出る幕がない。

過去と未来は具体的なこの世界の話。

具体的に人物が浮かび、出来事が浮かび、状況が浮かぶ。

過去は嫌なことでいっぱい。

だから未来にそれがなくなるためにはああしてこうしてと。


時間はリニア式に一直線に見える。

左側にながーーーーい過去があって、右側にながーーーーい未来がある。


で、今は?


「、」ちょん。


そう。自我にとって今は、ちょん。


現在のちょんを信頼する。(なんでやねん)



今には具体的なものが何も出てこない。

物語が動き出した途端、それは時間になる。

時間と空間は自我のものだ。


つまり自我にとって、過去と未来は物語上なくてはならないアイテム。

ちょんは、あっては困るスルーアイテムなのだ。

むしろ「ちょん」程度にしておきたい(笑)




ところがコースは、そこにこそ一点の悲しみもない、

喜びだけが絶え間なくあり続けるところなのだというではないか。


私、現在を信用してなかったわ。

いやいや。考えたこともなかったわ。今を信用するなんて。


して、今を信頼してみる。


。。。


なんだか安心する。


今の信頼と一緒に歩いてみる。

ちょっとゆっくりになる。

だけど楽になる。


買い物をして荷物を持ったら、

今までは、家に帰り着くこと、先のことばっかり考えていた。

で、帰り着いたら、今度はまた次の未来のこと。。。

ほっこりするときなんかない!


でも今と一緒にいると、帰り道が楽しい。




朝起きたとき、神と一緒にいるイメージをしている。

神といっても人物ではない。形のない何か。


その中にじーっと浸っていると、

胸の後ろを軸にして、下を向いた扇が開いていく。

木でできた骨の部分は私。白く貼られた和紙は神。

扇が徐々に広がって光りだす。

最初90度ぐらいだった。毎日やるほどにどんどん角度が広がっていく。

なぜそんなイメージがあるのかわからないけど、とても心地よい。


今にいるとは、そんな感じなんだろうか。

自我ではなく、神といる時間。


自我といるときは、言葉だらけ。

「こっちへおいでよ、こっちの方が甘い水だよ」と誘っている。

しかしそのおしゃべりは、重く苦しいもの。

しかもおしゃべりが終わることはなく、

そこには何の解決もないことを知り始めると、

その声を信用しなくなってきた。



言葉のない今。沈黙の中にこそ答えがある。


今にいるとは、神とともにいることなのだろう。

そして神とともにいるとは、

真の答えとともにいるということなのだろう。


今がちょん、ではなく、


今とはとんでもない秘密を持った、唯一の脱出口である、

「ガチョーーーン!」な今なのだ。





絵:「ぽんぽこたぬき」

2022年7月25日月曜日

やりとげる必要はない

 


やりとげる必要などない。


そんな言葉が耳に入ってきて、ハッとした。


そうだ。私はずっとやりとげよう、やりとげようとしてきた。


ゴールはあそこ。

でもそのゴールに達成できなければ、私はここにいる資格などない。


そうやって自分を叩き続けてきた。

もっと頑張らねば!もっといいものを作らなければ、、、!


極端な話、自分の生き死にに関わることだった。

だから仕事の依頼が来た時、

「これをやり遂げなければ、私は死ぬしかない。。。」

とまでの緊張感に圧迫されてきてたのだ。




納期がある時はそこに突き進むことができた。

納期という山に向かって突き進んできた。

苦しんで苦しんで山を乗り越えた先の達成感。


しかし依頼仕事ではない自分でやりたいことでさえ、

プレッシャーをかけていた。

苦しんで苦しんで作った方がより良いものができる、と。


で、いつも途中で投げ出していた。


そんな自分を、情けない奴、無能な奴と思ってきた。

頑張ってやり抜いてこそ、ここにいていい人間なのに。。。と。




それが冒頭の言葉でひっくり返った。


やりとげる必要はない。。。?

それはつまり、結果を出す必要がないと言っている。

結果なくして一体何を目指すのだ?





この世界で形を残すことが、この世のゴールだ。


コースはこの世界で何をするかということには全く言及していない。

ではコースのゴール、目的は、つまり真に生産的なものは何か。


それは喜び。その喜びの中にとどまること。


(人が聞いたら、まったくアホみたいな答え)



私はいいアイディアを思いつく。

お!これはいい!絶対やったら面白い!

ウキウキとやっていくけど、だんだんと最初のパッションが消えていく。。。


それは私が無能だからだと思っていた。

そうではなかったのだ。

そこに長年信じてきた信念があったのだ。


「苦しんでこそ、いいものができる」



つまり最初はワクワクで作っていたのに、

その先に待っているゴールの手前には、必ず苦しみが待っている。

その苦しみは、苦しめば苦しむほど、より良いものができると。。。。


そりゃー、無理ゲーだろ。


納期なんてないんだぞ。

超えていく山はどこにあるんだ?

なのにその手前に苦しみが必ず立ちはだかっている。。。(笑)


無理無理ー。


そんな信念あったら、嫌になるに決まってる。


やりとげられなくて当然だった。。。

ここで私はやっとできない自分を赦せた。


やりとげなくていいんだ。

形を求めることじゃなかった。

形を苦しんで求めること自体が、自我の目的だった。

自我は、私たちが苦しんでこの世界で戦い続けることを望んでいる。

そこ、目的じゃなかった。



目的は幸せで「ある子」と。

私の仕事は幸せで「ある子」と。

たとえその幸せの中で形ができようと、それがゴールではなかったのだ。

幸せの中にとどまること、喜びと一緒に「ある子」と。


なんて単純なことなのだ。

だけどなんと深いことなのだ。


その幸せのために、光を遮ってきたもの、

つまり苦しむために作り出された数々の信念を手放していく。

握りしめていた信念を赦し、訂正をお願いする。


それは私の思い込みから、この世界を解放することになる、、、!



秋の展覧会の日程が決まった。


今までは、やりとげることに重きを置いてきた。


だけどもうゴールは違うところにある。

作家自身が楽しんでしまおう。


それこそが、私の役割なのだ。




つくし作品展

11月23日(水)~12月6日(火)


場所:高尾駒木野庭園(たかおこまぎのていえん)

   東京都八王子市裏高尾町268-1

電話:042-663-3611

時間:午前9:00~午後4:00 無休


詳しいことはまた改めてお知らせしま~す。





絵:MF新書表紙イラスト