2020年10月24日土曜日

チープなおもちゃ


 



頭の中にいろんな言葉が散乱していた。

イメージで言えば、床に犬のおもちゃや、食いちぎった新聞紙がいっぱい散乱している感じ。


最初はその一個一個を見つけては、それと格闘していたが、

いんや。これは全く意味のない言葉の羅列だと気づく。





朝起きた瞬間から、自我が一緒に起きてくる。

自我のそれとわかる基準は、「なんかモヤモヤする」だ。

一個一個のおもちゃを見てみると、

不安なおもちゃ、心配なおもちゃ、イライラする新聞紙のかけら、恐れのピーピーボール。


「ほら。これ、どお?

こっちは、入手したての新商品さ」

自我はいつの間にか夜見世のオヤジみたいになり、

私が食いつくであろうチープな商品を提供してくる。


「これは確かに新しい、、、。

ん?ちゃうやん。

おっちゃんこれ、前からあったおもちゃに色塗り変えてるだけやん!」


「これらは全く無意味だ。。。」

そう思った時、目の前に散乱していたおもちゃはしゅるしゅるしゅる~~っと消えていった。



私は自分の頭に浮かぶ言葉は、自分のものだと思ってきた。

自分を正しい方向に導いてくれる言葉だと。

だけどその言葉を聞き続けてもちっとも幸せにもなれなかった。

その言葉は、アメを1%、ムチを99%くれた。

それでもこれは自分の捉え方が間違っていたんだ、

もっと正しい捉え方をしなければいけないのだと信じきっていた。


やがてその言葉は、自分を良い方向には進ませないものだと知る。

私にはもう一つの心があることを知った。

それが私の本当の心だった。





私には想像もできないほどのことが起こったらしい。

それは神の世界の話。

ある時神の子は、神から分離ができたらどんな感じかな~と思った。しかしおもっただけで、一瞬のうちに取り消されて、分離など起こらなかったのだが、その神から離れたいと思ったその思いが大きな罪悪感になった。あまりにも大きな罪の意識は、自分の中に保つことができず、投影という形で自分の外に出そうとした。それがこの世界の始まり。

この世界が分離で出来上がっているのもそのせい。
男と女、高い低い、大きい小さい、すべて互いを否定し合うことで成り立っている世界。

自我はそれを使い、今もこの世界を維持させ続けている。

だが神は神の子を一人ぼっちにはしなかった。聖霊という存在を一緒に送った。



私には選択肢がある。

夜見世のオヤジを教師として選ぶのか、

聖霊を教師として選ぶのか。


簡単ではないことはわかっている。ずっと自我を選んで生きてきた。選んでいるという自覚さえなかった。浮かんでくる言葉にフォーカスし、
「そうだそうだ。それが正しい。で?どうやればいい?」
と、思いっきり自我を教師として選んできた。

まさかそれが私自身を破壊する目的であったとは。
けれども自分の今までの苦悩がそれによるものだということは明白だ。


この世界に正しい答えなど見当たらない。すべてが一時しのぎ。

夜見世のオヤジの考え方で出来上がってきた私には何もわからない。

今は気がつくかぎり、聖霊に答えを求める。


聖霊は声に出して答えてはくれない。私に具体的に語ることなどない。

それでも心をそこに委ねていると、自然とその時々に起こっていることが、あちらこちらに導かれて紐解けていく。

これは夜見世のオヤジには到底できない芸当だ。




自我はこの世界は実在するといい、

聖霊はこの世界は実在しないという。
神の子は分離しなかったのなら、この世界などあるはずはない。


しかししっかりあるように見える。

あるように見せているのは、

「神から分離しちゃったー、やっちまったー!」

と罪を信じている私の心だ。


その思いが、目に見えるものすべてを重く深刻にさせ、世界を維持してきた。

今でもついついオヤジに乗せられてしまう。


それでも考え方を意志的に方向転換していくことで、ずいぶん穏やかになった。


朝見せてくれたチープなおもちゃたちも、一瞬で笑って退けられるようになりたい。








2020年10月22日木曜日

バチ信仰

 



小さい頃から「バチが当たる」という言葉にビビっていた。


神様はいつも私を監視していて、いいことをすればご褒美をくれ、悪いことをすればバチを与える。

その信仰はつい最近まで続き、悪いことしないように気をつけなきゃと慎重に生きてきた(つもり)。


でもイヤなことはいきなり起こり、

「何!?何!?いったい私、何悪いことしたあー!?」

と、悪いことをしたからバチが当たったのだと信じ、その理由を探る。


探せば大抵何かが思いつく。

「あれかなあ。。。あれにしちゃあ、バチが大きすぎる。。。やっぱこれか、、な、、?」


それはまるで、悪いことが起こった原因を見つければ、もう悪いことは起こらないような気がして。

しかし意に反してイヤなことはまた起こり続ける。





バチを当てる神は、どんな神なのか。


神様はいつも私たちを監視して、いいこと悪いことを見分ける。

神はそんなに怖い存在なのか。どっちかというと閻魔様に近い。

神のご機嫌を取りながら、ビビりながらこの世界を生きることを強いてくる存在なのか。


この世界のいいや悪いは、立場によってコロコロ変わる。

国が違えば法律も変わる。

手で食べちゃいけません!という日本の神様と、

手で食べなければいけません!というインドの神様は、どこらへんで分かれるのか?


神様はそもそもそんなに了見の狭い存在なのか?




そんな疑問を持つうちに、「バチを与える神様」を教えてもらうもっと前に、

ずっとそばにいた存在を思い出し始めた。


それはとんでもなく優しく、暖かく、穏やかで、

私がどんなことをしても微笑んで見守ってくれている何か。


その存在は、いいこと悪いことなどという種分けをしない。

この世界で犯した私の罪を、罪とも認めない。

その圧倒的な包容力に気が付き始めると、今までバチを与えてきた神が一体何だったのかがわかってきた。


それは自我だったのだ。

自我は神の仮面をかぶって、私を罪人だと信じ込ませ、

バチがあたるにふさわしいものだと教えてきたのだった。


自我の声は大きい。あれがいけない。これがいけない。ああするべき。こうするべき。

私がずっと悩まされ、振り回されてきたその大きな声は、神のふりをした自我そのものだった。


この世界など神は作っていない。ここは自我が作り出した世界。

だからこそこの世界に詳しい。

私たちがずっとこの世界に魅了され、とどまるように飴と鞭を使う。




私は大騒ぎをする声の、その奥の静けさの中の声を聞こうとした。

ずっと昔いつもそばにあったその声を。


まだまだ遠くに聞こえるその声ではあるが、心をとても穏やかにしてくれる。

その存在は、私を監視などしていなかった。

そうではなく、全てを一瞬たりとも見逃さず、ただただ見守ってくれていたのだ。


目の前に展開する知覚の世界が、昔見た薄いぺらぺらのハリボテのように思えてくる。


カーテンを開けるように、その知覚の風景を開けると、奥には眩ばかりの光があった。

私という体もそのカーテンとともに開かれてその光と一体になった。



この世界は全てのものが分離で成り立っている。

それはこのあなたと私という分離した肉体の目から見た世界。


しかしその世界は霧のようなもので、

それを通り抜けると、すべてが一つだった。






2020年10月16日金曜日

同行二人

 


高知にいた頃、お遍路さんの菅笠に「同行二人」という文字を見つけた。


「あれはどおゆう意味なが?」と母に聞く。

「お遍路さんには、いっつもお大師さんが一緒に歩いてくれゆうという意味ながよ」

「へえ~」


あの頃のお遍路さんはいつも一人だった。

チリンチリンという音が聞こえると、自然とその音の主を探す。

さっそうと歩いている人もいれば、背中に何かを背負ったまま歩く人もいた。

日常の中で彼らを見ることは、そこだけ別世界を垣間見ているような不思議な感じがしたものだ。

それでもその文字が目につくと、私をホッとさせてくれる。


そうか。お大師さんがそばにいてくれてるんだ。


幼い私にそれは自然と心の支えとなった。

いつも誰かがそばにいてくれている。




それはお遍路さんから来たものか、もともと持っていたものかはわからない。

けれども幼い頃の私には、いつもそばに誰かがいる感覚があった。

墓場で一人で遊んでいるときも、祠で一人で遊んでいる時も、庭の木に登ってイヌマキの実を食べている時も、熱でうなされている時も、誰かがいた。

それは人の形はしていなくて、何かわからない、暖かい眼差しを持った空気のようなものだった。


成長するにつれ、私はその存在を忘れていった。

自分で自分をなんとかしなければいけないという思いに何十年も取り憑かれていった。

そしてもう自分では、どうしようもないというところに達した時、私は思い出した。

一人ではなかったことを。





ある夜中、私は言葉ではない言葉を受け取っていた。


「見逃してなどいない。

一ミリたりとも。一瞬たりとも。

あなたのすべてを見ている。

そしてあなたに与えられる出来事は何一つ不平等なものはない。

すべてあなたのために向けられたものである。」


確信に満ちた大きな暖かさで告げられる。


この世界は、たとえそれが一見不平等に見えたとしても、誰一人一ミリたりとも見落とされることなく、出来事はその人のために起こる。


それはまさに誰かが常にそばにいない限り、わからないことではないだろうか。




起こる出来事は、全て私のために起こっているのなら、何を心配することがあるだろう。

それでも自我は「こんなはずじゃない!」と叫ぶだろう。

自我はその都度、判断し、解釈し、問題を見つけ出す。


だが私はこれまで自我のその言葉を聞いて、苦悩してきたのだ。


自我は起こる出来事は問題だと教える。

だがもう一つの存在は、起こる出来事は私を解放するためにあると教える。



目の前に起こる出来事、目の前に見えるもの。。。

すべてを解釈なしでは見られないように訓練されてきた私たち。


パソコン、机、椅子、すべてに意味があると教えられてきた。


自分と他人は分かれていて、世界と自分は別れていて、机とパソコンも分かれているという概念の世界。

この概念の世界こそが自我が作り上げたものだった。


私はこれまで自我とともに旅をしてきた。

自我が教える概念とともに旅をしてきた。

だがそれが架空であると気づいた時、

この世界に生まれる前からいた存在を思い出した。



今、60年間の概念の蓄積を少しづつ減らしながら、

同行二人で神への帰路の旅が始まっている。





絵:「コノハナサクヤヒメ」

先日「私の神様の絵を描いてください」という依頼を受けた。
ニニギノミコトに求愛された美しい女神。
優しさの中に強さを兼ね備え、富士山の象徴としても表される神。


依頼主の彼女が、この神とともに幸せな旅が始まりますように。



2020年10月7日水曜日

ある無垢な存在

 



半分眠って、半分起きている状態の時、
ある懐かしい人物のことが約40年ぶりに思い出された。

「ああ、そうだ。あのひとのように、、、!」


その人物は、私が今まで出会った中で一番無垢な心を持ったひとだった。
自分の損得を顧みず、
「つくちゃん、大好きだー!」と、私のためならなんでもやってくれた。
それと同時に、男の人ってこんなにも繊細な心を持っているんだと教えてくれた人でもあった。


SNSで探す。


いた。


懐かしい顔。すっかりおじいちゃんになっていた。

でもあの頃もおじいちゃんのようだったな。

20代の私とあまり年は変わらないのに、私にとって彼はすでにおじいちゃんだった。


生まれ故郷に戻り、50代で結婚したのかな?孫のようなお子さんもいる。

野山をかけめぐり、そしてまた小屋にこもって、彼の世界をうち広げているようだ。


そんな姿を遠くから眺められる嬉しさ。

駆け寄って抱きつきたい思い。

私は今、人の美しさに触れている。


あっても会わなくても、心は繋がっている。

死んでいても死んでいなくても、心は繋がっている。


たった一つの大きな心。

それが一個一個バラバラになったように見えているこの世界。




言葉と形だらけの、どんよりとした暗い雲の厚い層の中に私たちは住んでいる。


その言葉の厚い層から一瞬飛び出したら、そこには青空が広がっていた。

私はそこで彼と出会う。


全ての人たちは、その青い空に本当は住んでいる。


でも下に広がる雲の中がとても魅力的で、その中でもがき苦しみながら楽しんでいる。

そこはどんな問題も解決されない。

たとえ一瞬解決できたように見えようとも、また別の問題に翻弄され続ける言葉と形の世界。。。



私たちはこの形象の世界にうまく適応するために自分自身を改造してきた。

世界とは人生とはこういうものだと自分に言い聞かせながら。


だが彼はその本当の自分を、うまく改造することができなかった。

その本質をオブラートに包むことはできず、
むき出しの状態でこの世界に生きていた。


私はそれを知らずに触れていた。

そしてその美しさに癒されていたのだ。。。




その後、私たちは別々の道を進み、

そして今私は改めてその心に触れている。

この暗い世界に住む一輪の花のような存在に。


その無辜性に触れて、私は私自身を思い出す。

そしてその空をも超えて、神を思い出していこう。


ありがとう。



2020年10月2日金曜日

神様の絵の依頼を受ける

 


今、依頼を受けて神様の絵を描いている。


一時期、別の世界にいる空想の存在を描き続けていたことがある。

天狗、龍神など、私がイメージする神の世界だ。


彼らはとても静かで、私の心の中にサーっと入ってくる。

彼らは言葉を発しない。沈黙したまま、私の中に住んでいる存在。



依頼された神は、木花佐久夜毘売( コノハナサクヤヒメ)。

瓊瓊杵命(ニニギノミコト)に求愛されたこの上なく美しい女神。

美しいだけでなく、強い意志を持って自身の運命を切り開く。


依頼主のイメージが神のイメージと重なってくる。

この神が彼女の中に入って、世界を輝かせてくれることを願う。


制作中、この位置にはこれを配置し、

ここにはこれが必要、これはここにおいてはならない、、。

なぜだか知らないが、そういう決まり事が次々に浮かんでくる。


突然胸の奥に強烈な熱い想いを感じ、私は泣いていた。


遠い昔、宗教的な絵を仕事にしていた時期もあったのかもしれない。

そんな思いがよぎった。




今の私は、神を外に見ない。

私にとっての神は形を持たない。


それはここにある、あそこにあるというものではなく、すべてだ。

あまりにも大きすぎて、あまりにも強烈な光を放ちすぎて、

私たちには捉えることができない。

今の私たちの力では、それを見た瞬間、気が狂ってしまうだろう。


だからこそ、遠い昔から私たちはその捉えきれないものを、

私たちが感じられる範囲の小さな形に置き換えて、

祭り、大事にしてきたのかもしれない。



神を感じられるものは唯一、喜びによって。


胸の奥がジーンとする、暖かくなる、

そして大いなる静けさと平安の中に、神を認識する。

今の私にとって、それが最大の神からの贈り物だ。



女神の絵には、彼女の胸に大きな光を添えた。

この光が全てに満ちていきますように。




絵:「ドラゴン」


2020年9月26日土曜日

小人がいる世界

 


小さな小人を探すドラマを見ている。


身長15センチくらいの森に住む小さな人。いたら楽しいだろうなあ。


想像してみる。

今そこにある草むらの中にいるのかもしれないし、

あっちの切り株の後ろに隠れていて、不意に現れるかもしれない。


そんな思いでワクワクしたことはないだろうか。

私たちが見たこともない、知らない世界に思いを馳せ、心をほころばせるのだ。


妄想癖のある私には、そんな時間が楽しかった。

今住んでいるこの世界がとても息苦しくて、窮屈で、退屈で、

何か別の場所、別の世界を探し求めていた。



小人を見たことがある人は、あまりいないだろう。

滅多に現れない存在。

だからこそ人はそこにロマンを感じる。


じゃあ、もしこの世に紙袋というものが、滅多に見れないものだとしたら、

紙袋はロマンを感じさせるものになるのかもしれない。

紙袋のある、私たちが知らない別の世界。。。


夢がないって?

もしテーブルの上を、たくさんの小人たちがしょっちゅう跳ね回っていたら、

それにロマンを感じるだろうか。

当たり前すぎて、

「もう、うっとおしいなあ、ちょっとは静かにしてよ!」

ってことになって、ロマンどころか、撃退法まで考え始めちゃうかもしれない。




そのロマンの元になっているものは、小人ではなく、

この世界の窮屈さからきているのではないだろうか。


私たちは滅多にないものをありがたがる傾向がある。

その滅多にないものに、

この世界からの脱出の糸口を無意識に求めているのだ。


私は本当はここの住人ではない、もっと別の世界に住む住人なんじゃないか?と。


その思いが、人を探求の道に進めるのだろう。

この世界がどこかおかしいと思うからこそ、

哲学や宗教が生まれるのだ。


私たちは、本当にこの世界の住人なのかと。



そのドラマのタイトルは「ゴーイングマイホーム」

まさに今の私の心を表していた。



2020年9月18日金曜日

何もしなくても。。。

 



 

喜びは、何かで得られるものだと思ってきた。


美味しいものを食べる喜び、

友達とワイワイやる喜び、

仕事が終わったー!という喜び、

道端に咲いた小さな花を見つけた時の喜び、

面白い映画を見ている時の喜び、

空を見上げた時の喜び、、、。


喜びは、何かをして得られるものだから、常に喜びを探していた。喜べる何かを。

喜ぶことは幸せ。幸せは手に入れるもの。喜びも手に入れるもの。



しかし本当はそうではなかった。

喜びはもともとそこにあるものだった。



それに気がつき始めたのは、ふいに訪れる謎の幸福感からだった。


何もしていないのに、そよそよと胸の奥から溢れてくる喜び。

「え、何?今、私何かした?」

と、慌てて探す。

何かをして得られるものだと、当然のように思っているからだ。


しかしさっきから椅子に座って、パソコンを見ているだけ。

面白い情報が見つかったわけでもない。


パソコンに向かっている時だけじゃない、

部屋を移動している時、

庭に目をやっている時、

そしてただ道を歩いているだけの時にやってきた。

心に何も思い出したわけでもないのに、嬉しさがこみ上げてくる。




なんという感覚と言えばいいのか、

胸のあたりがふわっと暖かくなる。そして自然とニヤケてくる。


山道を歩きながらヘラヘラ笑ってる白髪頭のオババと人が遭遇したら、

それはもう山姥としか見えないだろう。



歩きながら全身が喜びで満たされてくる。

見るもの、聞こえるもの、全部が私を祝福してくれている感じ。


両手を下に広げて、道の脇にボウボウ伸びている草たちに触れながら歩く。

「嬉しい。嬉しい。嬉しい。。。!」

涙まで流れ始める。大声で叫びたくなる。


「みんな、ありがとう!愛してるよ!」




そんなことが起こるたびに、私たちの本性はもともと喜びの塊なんだとわかってきた。

ただただ喜びの存在なのだけど、そこに蓋をされているだけなのだと。



私たちは常に、何かを探して求めている。

それは一番深いところに、「私たちは何かが欠けている」という深い欠乏感から来ている。


欠けているからこそ、それを埋めなければならないと、

無意識に常に何かを探し求めているのだ。



そしてケーキを食べた瞬間、その探すことが一瞬だけ止まる。

仕事を終えた瞬間、その探すことが止まる。


その一瞬の探し求める衝動が消えたスキマに、

本来の喜びの私たちが顔をのぞかせる。


仕事が終わったから喜びがきたわけでも、

ケーキを食べたから喜びがきたわけでもなかったのだ。


探し求める思いが一瞬消えて途切れたから、

本性である喜びが顔を見せただけだったのだ。




私たちは喜び。

喜ぶことが私たちの仕事。


喜べば、そこに神がいる。


肉体を持つ私たちの耳には聞こえない音楽を、

声のしない歌を、

神は歌っている。