2012年2月1日水曜日

キジョラン

朝起きてゴミ出しにいったら、キジョランがとんでいた。杉山をバックに白いキジョランが飛ぶ。ふわふわとどこにむかっているのやら。やがてそれは所定の位置に着陸。そこで芽を出し、まるでずっとそこにいたかのような顔をして大きくなるのだろう。それをめざしてまたアサギマダラがやって来る。あの、ふわふわした飛び方の蝶は、あるいはキジョランの花の飛び方がうつったんだろか。


「キジョランってねえ、キジョが髪振り乱して飛んでるみたいに見えるからキジョラン」
そういって、やまんばは真っ白い頭をぶんぶん振り乱してみせる。
「あ、ほんとだ。キジョだ」
ふじだなコーヒーで妖怪会議を終え、妖怪銀座を歩きながらキジョランを見つけた妄想少年とやまんば。
「キジョってねえ、鬼の女って書くんだよ」
「え?ぼく、貴婦人の貴って書くんだと思った」
貴婦人が髪振り乱すかよ。この、熟女泣かせのおとぼけやろうめ。

2012年1月30日月曜日

それ、図星

他人に何か言われて、ドキっとしたり、動揺したり、このやろーとおもったりするのは、それが図星なのだ。

動揺するから「あのやろー、あんなこといいやがった、ゆるせねえ」となる。かくしてそのときから、その相手の事を心の中であーだこーだといいがかりをつける。相手には聞こえてないのに。

相手に聞こえてないのに、心でいいがかリをつけてもしょーがないじゃないか。効き目全くなし。しかし気がついたら、心の中で延々とやっている。
なんでや?
ようは自分が自分を納得させたいのだ。
なんでや?
動揺してるから。
なんでや?
それ、図星だったから。その図星を認めたくないのだ。

その動揺をなんとか止めたい。だからあのヤロこのヤロと言い続けて相手を罵倒し、自分は悪くない、相手が悪いのだ。あんな事言うあいつが悪いのだ、と、自分を正当化しようとしているだけだ。

でも最初の発端は、図星な事言われた、というだけなのであった。

「こっ、、、ここは人には見られてねえよなあ。バレてねえよなあ」
とひた隠しにしている事が、
「あなたはこうですよね」なんていわれて、
「ばっ、、、ばれてる!」
とあせった。もしくは、それも意識にのぼっていないくらいなんだが、なにか、こう、感情にひっかかることをいわれたのだ。
もし見当はずれな事を言われていたなら「へ?」で終わりなのだ。
だけど引っかかるっちゅうことは、そこになにかあるっちゅうことなのだ。

認めちゃえばいいのだ。ああ、私はそうなのだな。そんなところがあるな。とその部分を静かに認めればいいだけのことなのだ。
「お前に言われたくない」というプライドが自分を苦しくさせる。苦しいからそこから逃げようとする。でもどっちみち逃げ切れない。だってそれ自分だもん。相手から逃げる事じゃない。

静かに自分を見る。
言われた部分をジッと観察する。恥ずかしいけどそこから逃げない。ガマンするのはそこだけだ。その感情が震える中にとどまる。相手を罵倒しない。自分の感情だけを見る。
すると、何かがすーっとほどけてくる。なんだ、そんなに重要な事じゃなかったんだ。そうか、ここか、そういう事だったんだ。なら次から気をつけよう。そんなふうになってくる。そこには他人への非難も、自分への非難もない。

他人は、自分が傷つくためにいるんじゃない。
自分に気がつくために、他人がいるんだ。

2012年1月28日土曜日

今を生きる

今朝、ここら辺は揺れました。
「ひゃあ〜、ついにきたか!?」
ズズズズ〜〜〜ン、という地響きと揺れ。お、これは近い。富士山辺りだな。テレビつけると、山梨県東部。ここらは地続きだから直接感じるのだ。


さて、そんな「今を生きる」。
よく聞く言葉だ。使い慣れた使い古された言葉だ。
刹那を生きるともいう。
この刹那とは、0.75秒くらいの時間のことだそうな。その一瞬一瞬を生きるという。
しかしこの刹那(せつな)は、なんとなく、せつない、という言葉ににてるから、刹那に生きるとは、なんとな〜く、せつなく生きる、なんてニュアンスで受け取られて、生きるって、せつないことよねえ〜、なんてふうになる。

ま、それはさておき、今を生きるってだいじなことよねえとおもうんだが、さて、心の中は今を生きてるんだろうか。
じつはほとんど、過去と未来で満たされているんじゃないだろうか。
心はいつも何かを考えようと探している。何か自分にマイブームな事。

例えば心配事。
あれが心配、と思っている思考は、過去にその心配事が起ったか、聞いた事がある、知っている。これ、すでに知っている事だから過去。そして心配しているその心は、未来にその心配事が起ったらどーしよー、と思考している。これからおこる可能性の事、つまり未来。

さっき地震があった。
311の再来じゃないか!?なんて心配する。ほら、過去と未来。今を生きてはいない。今は?地震はない。それだけだ。だが、心は何かいつもつかんでいようとする。なぜか。
手持ち無沙汰だから。

しばらく地震の事で心配すると、だんだん飽きてきて、いつも考えているマイブーム心配事に移行する。。。。。
おい、いつ今を生きてるんじゃあー!

例えば楽しかった事。
「あ、あったあった。楽しかった事。ディズニーランド楽しかったなあ。また行きたいなあ。行くためにはお金がいるなあ。あ、行くお金ない。。。やばい。仕事しないと。し、仕事探さないと。。。。私このまま仕事なくなったらどーする?路頭に迷う。ああ、ホームレス。。。いやだ。いっ、いやだ。あんな姿になるなんて。。」
楽しかった事も過去。過去を未来に再現しようとする。再現のために何かしようとする。結局、過去に見聞きした事を思い出し、未来を喜んだりうれいたりして、いそがしい。
おいっ、いつ今を生きてるんじゃあー!

心はいつもなんかを探している。
心が空っぽになると不安になるので、なんかないかと探す。でも知っている事しか知らないので、結局過去の事ばっかりしか思い出さない。すると心は過去を思い出しては未来を想定するというベルトコンベアーに乗る。

結果、心の中はほとんど過去と未来でいっぱいになって、現在がちょろしかないことになる。
とゆーことはなにか。今を生きるって、あほになれっちゅことかいの。

そっ、そーかもしれん。

2012年1月23日月曜日

人間は肉食?菜食?

やまんばが石けんなしで多大なる影響を受けた野人さんは、
「人間は肉食動物だから、野菜なんぞクワンでよろしい」
という(細かい理論はわすれたが、おおすじにおいてそーゆーことらしい)。

んで、インボーロンものを翻訳しておられるタメキヨさんは、
「人間、肉など食ってはいかん。ケンコー的な野菜を食って、科学的なもんなど口に入れてはいかんし、科学的なもんを身体に取り込んでもいかん」
とおっしゃられる。

どっちも健康そうなお二人である(笑)。

野人さんもタメキヨさんのブログもとーっても参考になって、やまんばが大好きなお二人であるが、ここまで正反対の意見をいただくと、どっちがいいねん!といいたくなる。
んでやまんばは、このまっぷたつに割れる意見を、足して二で割ったなら(なんでやねん)、ようするにどっちでもええっちゅうことかいの、と推測するわけである。


物質の中を分解すると、原子があって、その中心に原子核があって、そのまわりを数個の陽子とか、中性子とかのちっこいもんがぐるぐる回っているらしい。(くわしいことはわからんが、そーゆーあたりらしい)ほんでその回ってる空間というのがものすごーく広く、実はその原子のほとんどの面積を占めていて、それがぎゅーっと集まって物質になっているから、もともと物質というものはほとんどからっぽらしい。
と、ゆーことは、肉食っても、野菜食っても、ほとんどからっぽなもんを食っているという事だ。でも、食えば腹は満たされるわけだ。なんでや?人間は空気を食って腹を腫らせているという事か。


ちっちゃい時から「飯を食わんと死ぬぞ」といわれてきたわけだ。「水は2日飲まないと死ぬぞ」と教えられて来たわけだ。
だから飲んで食う。それだけなんじゃないか?
ひょっとしたら、食わんでも生きられるんかもしれん。現に仙人はかすみ食って生きてるし(そこじゃねえだろ)。

ようするに、心が満たされるんじゃないだろか。
「食べると生きられる」という信心と、「これが身体にイイ」という信心が合体すると、「ああ、私ってケンコー的」と、心が満たされる。これが一番重要なポイントじゃないだろか。物質的な事よりも、心が身体に影響をあたえているのだ。

物質の中の原子核や陽子以外の空間の部分は、ひょっとしたら思考や精神や信心や心が占めているんではないだろか。

と、すると、野人さんのように肉食でも生きられるし、タメキヨさんのように菜食でも生きられるのだ。

人間は臨機応変なのだ。

2012年1月21日土曜日

その場でぼてっと落ちて子孫繁栄

寒空の中、秋ジャガイモをほりおこした。
秋ジャガを育てるのは難しいらしい。夏に植えておいたのだが、案の定、種芋もそのままに、横にちっこいちっこい新ジャガが2個くっついているなどの、情けなーい結果に。

ちっこいイモは毒だとか言われるので、食わずにそのまま種芋にしちゃえ!で、収穫ほとんどゼロ。夏に入れた種芋も腐る事なくそのまんまの姿でいるので、それも突っ込んでおく事にする。(単に種芋増やしただけだ)

里芋も畑全部にフェンスを張り巡らしたおかげか、それともイノちゃんの興味をそそらないイモだったのか、被害はなかった。でもほんとに興味をそそられたら、奴らは身体を張ってフェンスを突き破ってくる。が、それもなし。
「くんくん。ふっ、なんだちっこいイモしかついてねえじゃねえか。そんなもののためにオレ様はリスキーな事はしないんだぜ」と無視されたか。

里芋もちっこいのんがぽろぽろついているだけだったが、聞く所によると、親イモをそのまま種芋にするとおっきいイモが出来る(!)という話。いやしいやまんばは、その手を使う事に。里芋をほりおこすたびに、小イモ(子イモじゃなくてちっこいイモ)だけ収穫。残りの親イモは、そのまま上下を逆さまにして同じ穴に突っ込んだ。

えびイモとか京イモとか呼ばれるヤツも植えておいたんだが、超ちっこいのんがくっついていいるだけ。だもんで、なかったことにして、そのまんまにしておく。2年越しのえびイモは果たしてどーなるのか、実験。

畑のあっちこっちからジャガイモが出来る。かつてそこでジャガイモを作ってあったところだ。多分掘り忘れたちっこいこぼれイモからでているようす。だがそのイモの方が、新たに植えた秋ジャガイモより収穫が多いのだ。
これって連作じゃねえか!連作の方が収穫が多い?土寄せもされず、いる事さえ無視されて、ほったらかされたジャガイモちゃん。なぜにそっちがわんさか出来る?
「お〜い、わたし、ここにいるよ〜!」と、うったえているのか?
いやいや、そーやってそだてた(?ちがうだろ)ほうが、いっぱい出来るんだぜ、と教えてくれているのかもしれん。

考えたら、植物は自ら種を飛ばして移動するものと、そこでぼてっと落ちておっきくなるものがある。鳥さんやリスさんに運んでもらう手もある。
しかし、大根や小松菜など畑の野菜の種は、あんまり鳥さんやリスさんに運んでもらう種じゃない。と、いうことは、その場でぼてっと落ちて、またはその土の中で移動もせず、育つことが出来て子孫を繁栄する事が出来るってことじゃねえだろか。

たんじゅん農法の林さんはいう。
「何でも連作していいが、豆類だけは連作するな」
豆はハトが大好きだ。豆は移動する手段を持っている。
と、いうことは、基本「あたし連作きらい」ってことじゃないだろうか。

おお、豆以外、連作しまくるどー!

(あれ?落花生はどーなる?あれは地面の中に出来るから鳥には食われん。という事は、連作できるのか。いや、モグラが持っていく?モグラさん、落花生好き?)

2012年1月18日水曜日

ジョーシキを疑え

石けんなくても生きられる。肥料なしでも野菜は育つ。

そんなことを体験してくると、世の中のジョーシキを疑いはじめちゃうのだ。必要必要と言われているもの、こうしなきゃいけないと言われているのも、ほんとにそーなのか。

暴飲暴食はダメ、肉食はダメ、酒タバコはダメ、甘いものはダメ、合成保存料はダメ、合成着色料もダメ。
しちゃあいけないのに、やっちゃうから、ほら、あんた病気になった、といわれる。
だけど目の前に肉汁したたる焼肉をうまそーに食うシーンを連日見せつけられる。新聞の折り込みにも雑誌の広告にもうまそーなもの、心奪われるものを山ほど見せつけておいて
「あんた、こーんなもの食っちゃったら、とんでもないですよ」
と後ろからささやかれる。これは馬の前にぶら下げられたニンジン状態。ストレスはたまる一方。

食え食え、ほらもっと食え、といいつつ、早期発見早期治療という。
その誘惑に負けて食べて、メタボ検診にいくと「はい、メタボです」といわれる。「ほかにこんなのが見つかりました」と見せられる。「はい、あなたは病気です」とくる。
なんかベルトコンベヤーに乗せられてないか?

ああ、オレは酒飲み過ぎたから病気になったんだとか、ああ、タバコ吸い過ぎたから肺がんになったんだと思い込む。けど私の友だちはタバコは一切やらないのに最近肺がんになった。彼女は30年前にちょこっといっとき吸ったタバコが原因だと言う。ほんとかなあ。。。

そう思い込まされているだけなんじゃないか。あれが悪いこれが悪い。止めときゃいいのにやっちゃったから、ああ、やっぱしそーなった。。。
と、おもいこまされてるんじゃねえのかい。

そのおろおろ、イライラ、どきどき、するその動揺がストレスを生んで病気を作っちゃうんじゃねえか?
だいたいそのおろおろ、どきどきさせられるのは、「こーしろ、あーしろ」「そうしないとあんた、どーなっても知らんでえ。そのうち病気になるでえ」と脅されて来たからなんじゃないか?


病気は物質的な原因というよりは、もっとその動揺している「心」に原因があるんではないかとおもうのだ。

その動揺させる原因は、この世のジョーシキ、
こうあるべき、
理想の姿、
理想の食事、
理想のダンナ、
理想の仕事、
理想の人生のカタチ、
そんなガッチリ組み込まれた条件づけと、目の前に存在している現実の自分の姿を比べて作られる葛藤なのだ。

では、そのジョーシキは絶対的に正しいのか?
そのジョーシキに全員が合わせなくてはいけない法律でもあるのか?

2012年1月17日火曜日

老いてけ堀


ちいさいとき、親に「年いくことは悪いことなんだよ」
なんて教わった事あった?
ない。

ないのにもかかわらず、なんだか年がいくこと、老いることはいけないことのようなニュアンスがある。私たちの心の中にもバッチリ「年だけは取りたくない」という思いがヘドロのように横たわっている。

コマーシャルは歌う「マイナス5才肌」「いつまでも若々しく」
こーゆーコトバがあちこちに溢れていて、老いることはいいこと、と思っている人はあんましいないだろう。
このやまんば、実は日頃「早く年いきた~い。おばあちゃんになりた~い。もっと白髪が増えて欲しー」というほど年いくことに憧れたのに、いざ自分が年いったという実感をしてしまうとうろたえた。

れーせーにかんがえたら、だれだって年がいって老いて死ぬ。100%みんな死ぬ。みんな老いていく。その事実を知っているくせに「年だけは取りたくない」という。そんなむちゃな。
そのむちゃさが、現実と理想のギャップを作り、人に焦りをもたらす。
だいたいなんで年いくことは当たり前の事なのに、なぜそれを認めようとしないのか。


もしも世の中が「老いるってすてきなことよね」と認識されていたらどうなっただろうか。シワが出来ると「あっ!アタシ、ついにシワが出来た!バンザ~イ!」という世の中だったらどうだったんだろう。
「おめでとう、シワ!」ってみんなでお祝いしてくれたなら。。。

アンアンやノンノで、老いの美の特集組んだり、コマーシャルが「プラス5才肌」とか「今よりもっと多いシワをあなたに!」と、シワ作りに励むクリームを売っていたらどーなっただろうか。価値とするものが今とまるで違っていたら。。。

この世はもっと気楽で明るく生きられていたんじゃないだろうか。
なんでもかんでも、あれだめ、これだめっていってるの、つらくなるいっぽうじゃあねえかあよお。

絵:「消えた戦国武将」MF新書表紙 
一晩でボッコリ消えてしまったお城「帰雲城」の謎に迫る!!しかもその場所は謎の飛騨国の近く。。。。う〜ん、もとオカルト歴史もの大好きなやまんばはそそられるのだあ〜!