2018年10月21日日曜日

7才のわたし。



夜寝る前に窓を開けて、真っ暗な山を見る。
「今、どんな感じ?」
心の自分に問うてみる。

胸の奥が、ふるふるとふるえている。
「これは、なに?」
問うても誰も答えない。
ただ、不安なふるふるではない。
たとえていうなら、明日楽しいことがある前の、期待のようななにかのふるふるだ。

「私は今、いったいいくつなんだろう?」
そんな疑問がわいた。
「。。。7才。。。」
心の声にびっくりする。
「え?7才。。?」

今57才のわたしが、たった7才の自分?
50年分はどこへ消えた???

でも考えたら、意識は今でもそのぐらいなのかもしれない。あのころの私と、何ら変わっていない。

じゃあ50年間分の知識や歴史はどこへいった?

知識とは、単なる「社会」という名前がついたゲームのルールを知っているというだけだ。双六や、野球や、サッカーのルールと何ら変わりない。私の歴史とは、そのルールに必要な、ボールやコマを持って、そのルールに沿って生きて来た。そういう歴史だ。

でもまったく変わらない何かが私の中にある。
それは「私」という感覚。
その私は7才なのかもしれないし、なにでもない、なにかなのかもしれない。

暖かな布団の中にもぐりこんでイメージする。

誰でもない7才の私。
過去も未来もない、ただそこにある存在。


絵:天狗舞い






2018年10月19日金曜日

心という車の運転免許



バイト先で知り合う若い女の子たちがおもしろい。

まだ二十歳前後。彼女らの母親は私より若い。そんな彼女たちとしゃべっていると、ある共通項に気がつく。

ウザイ、イラつく、キレル、ウケる、などの感情を表現する機会が多いためか、彼女らは自分が何を感じているのかをつねに気づいているようだ。

そのため、逆に言えば、その自分の感情が大きく心の中を占め、ふりまわされやすくなっている。クローズアップされた自分の感情に気がつくと、それを否定しようとするため、二つの感情をもつことになる。
1。イラつく自分
2。それを否定してイラつく自分。
この二重苦で、自分というものをうっとおしいとまで感じている。

また別の子は、そういう自分をおもしろがっている。
どっちにしろ、自分の中で発令される感情に気がついているのは、時代が変わって来ているからか。



このことはとても面白い現象だと思う。
通常大人の私たちは、自分自身が感情的になっていることにあまり気がついていない。
その感情と自分が一体化してしまうからだ。

本当は、どこかで気がついてはいるが、感情的になってはいけないと言う、根深い道徳観念が、それをおさえこむ。
もしそのことを指摘しようものなら、火のようになって怒る(笑)。



私たちは、外のものを見ることを学んできたが、心の中を見ることをまったく学んで来なかった。
例えていえば、車の運転技術はあるが、心という車の運転免許をもってないようなもんだ。

せいぜい動き出す車の前に立ちはだかり、フンムムム~~~っ!と、力づくでおさえこんで、感情が表に出ないようにするという、原始人のような(原始人さん、失礼)、心の車のコントロールしかしてないのだ。

ギアやブレーキやアクセルがあるように、心にもちゃんと仕組みがある。今こんなにも精神を病む人たちが増えているのだ。その仕組みを真剣に学んでいく時代に入っていると思う。


でもいかんせん、感情について話しをすれば、人はすぐさまぱたっ!と心を閉ざしてしまうぐらい、感情に対してあまりにもアンタッチャブル。
日々の忙しさの中で、感情が動く自分を見ないようにする。
はたまた誰かにグチって、気が晴れたかのように装う。
おさえこんだ感情はいつのまにか、病気や精神的な病いなどの形になって現れてくる。



ほんの少し、意図的に静かな時間を作り、自分の心に聞いてみる。
「今、私、何を感じてる?」と。

その感じているものに抵抗をせず、ただ受け取ってみる。
その感情は、決して悪いことじゃない。
あなたが生きて来たこれまでのいきさつが、
どうしようもなく持たざるを得なくて、持った感情なんだ。
それを肯定する。

いいよ。感じて。
いいよ。怒って。
いいよ。悲しんで。
いいよ。いいよ。いいよ。。。

そのほんの少しの時間が、心の扉を開いていく。
心が溶解していく。


2018年10月18日木曜日

バーチャルしあわせ



「あたし、何だか幸せじゃない。どーやったら幸せになれるんですかー?」
若い女の子が、ちょっとイラ立ちながら私に聞く。

彼女は現役の大学生。今卒論制作の真っ最中。来年にはIT企業に就職も決まっている。顔は超美人。スタイルもセンスもいい。頭も切れるし、まわりの気遣いもうまく、これ以上出来ないぐらい仕事上手だ。

そんな前途有望な彼女が「あたしは幸せじゃない!」と言い放つ。
それを人生下り坂のおばばに聞くかー。
わたしにゃ、あんたがもってるもん一個ももっとらんわー。



私たちはしあわせ探しをする。今ここにないものを探す。
ないものをゲットできたらしあわせになるだろう!と信じて、日夜探し続ける。

おいしいものを食べる、
楽しいことをする、
行きたい所に行く、
すてきな人と出会う、
はたまたすごいグルに出会う。。

ところが、そのしあわせはそう長くは続かない。すてきなパートナーとだって、やっとゴールインしても、今じゃ粗大ゴミあつかい。

これってなに?!
しあわせって、そんなもんなん?

これが二元の世界。「ゲット」すれば「失う」というおまけもついてくる。コインの裏表。



どうもそれは本当のしあわせではないらしい。
そのしあわせの後ろには、必ず失う悲しみやむなしさがあることに気がつくことだ。

かりそめのよろこび。
ひとときだけのたのしみ。
やがて消えるもの。
そして失ったらまた求めるエンドレスの衝動。

欲しがる、ゲットする、失う/忘れる。
また欲しがる、ゲットする、失う/慣れる。
また欲しがる、ゲットする、失う/飽きるw。
また欲しがる。。。

そういう形状のしあわせを、どっかで引いて見ている視点をもちつづけることかもしれない。(あまりうれしかあないかもしれんな。浸れないんでw)





ほんとのそれはある日、唐突に、ふと、ほんの少し、そこはかとなくやってくる。

何の条件づけもなく、なんのきっかけもなく、
目の前のものがキラキラしはじめる。
何かわからないものが、内側からあふれてくる。
ああ、、と、心が膨らんでくる。
自分と他人という境が消えてくる。
それは時に、強烈なエクスタシーにもなり、
これ以上ない静けさにもなる。


条件づけのしあわせは、このしあわせを感じたいがための、
自我の、バーチャルしあわせの試みなのかもしれない。



絵:「Witch」私の好きな魔女。彼女はこの絵の顔によく似ている。



2018年10月16日火曜日

痛み


スナップエンドウやソラマメなどを蒔くために、何日かジャングルになった畑の草刈りをしていたら、また左肩が強烈に痛くなった。やっぱり動かしちゃあいかんのやな。

夜中に何度も痛さで目が覚める。
民間療法の玉ねぎショウガはちみつのお湯割りも効かない。

こうなったら、イメージで行く。
「神の使者」で有名なゲイリーの新しい本「愛は誰も忘れていない」の中に書いてあった彼のからだの痛みの取り方をマネしてみる。


まず左肩に意識を向ける。その左肩の中から光が現れるのをイメージする。
ひ、光が、現れるのを、、、、
ん?現れない。。。

気を取り直して次!
からだの中に光が満たされるのをイメージする。。。
ひ、光が、、、現れるのを、、、、、イメージ、、、、、
できんやないけ!

あたまのイメージでは、からだの中に光が現れて、その光が自分の身体をおおう、、、
はずであった。

撃沈。。。



これでも私、表現者やで。
イメージのひとつもつくり出せんで、どこが表現者やねん!
と、ひとりツッコミを入れる。

んが。
ふんむむむ~~~~~っ。。。!
と、イメージできない苦しさにもがいているうち、そのたびに痛みが消えているのに気がついた。

光は見えないが、そこに意識を向けている間、痛みが消えているのだ。
ま、、、、こんなんで、、、、ええんかいな、、?
と、どっか納得いかないまま、寝てしまう。



明け方、うつらうつらとする中で、あるイメージを見る。
光のカタマリのまわりにこびりついた黒い破片たち。

それは私のからだの部分だった。そのからだの部分たちが、光の中で溶けていく。
その映像を見ながら、
「ああ、、、私の不満やネガティブな意識が、この世界に闇を作っていたんだ。それがカタチになってこの世界を作っているんだ。。。。」
そう教えられた気がした。


起きる前に見るビジョンは真理をついていると私は思っている。
それは自我がああだこうだと、屁理屈を言いはじめる前のものだからだ。


痛みは、私に肉体を意識させる。
「私は肉体だ」と言って聞かせるにはもってこいの症状だ。

と、同時に、痛みがなぜ発生するのかも教えてくれる。
私の中にある、あらゆる不満や罪悪感がそれを生み出してくる。それは攻撃を自分に向けているからだ。たとえ攻撃を他人に向けようと、それは自分に還ってくる。
その痛みを自分で味わうのだ。


きのうの夜もまた、やってみたが、相変わらず光は見えない。
しかし自分の身体が消えていくのに気がついた。

中身が空っぽなだけではない。からだ全部が消えようとしていた。

と同時に痛みも消えて来た。




絵:「ルパンとショームズ」/ミステリマガジン扉イラスト


2018年10月5日金曜日

過去の背負子


「最近やってることはねえ。過去を消すのよ」
「は?どうやって?」
「えーと、、、後ろに続いていると思ってる長ーーーーーい過去の記憶をぷっつんと切るの。そしたらねえ。未来も消えるの!」
「。。。。」

きのうの飲み屋での会話。
飲んでてする会話ではないわな。
いんや。。。飲んでるから出来る会話かな?

私たちは、「自分」というものを過去の記憶によって作りあげている。
私の名前、私の仕事、私の家族、私の出身地、私の友だち、私の趣味、好み、考え、クセ、習慣。。。
そういうものをどこかで携えて生きている。

出来事や名前や肩書きが固形物なら、記憶はノリ。記憶というヤマトノリで、関西ならフエキノリでくっつけて、そのカタマリを背中に背負い込んで生きている。

過去この考え方で生きて来たから、当然その考え方で、未来も進む。
と言うことは、未来はある程度予測できる。過去の延長線上に未来があるからだ。その予測できる未来が気に入らないなら、過去を捨てることだ。

過去を消す、捨てる。
一見難しいけど、過去は今ここにはない。あたまの中の記憶としてあるだけだ。
きのうああしてこうしてあれ食ってあれ飲んで~。。。
思いだそうとすればいっぱい出て来る。
たのしかったなあ~またやろう~とか。

でも目の前にあるのはパソコンと文字。いつもの部屋の中の風景。

過去は重たい。過去を思いだすと思考が動き出す。
ああしてこうしてああなって、ああ、ああすればよかった、こうしておけばよかった。。。。
楽しいことばかりじゃない。心がすこし苦しくなる。
今まではそれが当り前だった。過去を振り返って、反省し、未来に繋げる。人生とはそういうもんで、大人とはそうするもんだと思って来た。

でも過去を今に持ち込まないと、軽くなる。
今?私?誰でもない何かがここにある。

あたまの中だけが騒いでいたんだ。
あたまの中だけが、あれじゃないこれじゃないと、苦悩していただけなんだ。
ことは勝手に起こっている。今も動き続けている。
それに判断を下していたのはあたまだけだった。判断が苦しくさせていたんだ。
過去に居続けたのは、あたまだけだった。

過去がつまった背負子をおろすと、安堵が広がる。
過去がどれだけ重かったのかを知る。

目の前に風景が広がる。
軽やかな何かが存在している。




絵:「主」/紙絵


2018年9月30日日曜日

共感の世界


共感。

この世知辛い世の中、右を向いても左も見ても苦しいことだらけ。日々の生活はつらいことのオンパレード。

そんな心の思いを吐露して共感してくれる友だちのありがたいこと。
つらいね。そうだよね。わかるよ。
そのとき、ああ、つらがっていいんだ、悲しがっていいんだ、ハラ立てていいんだ。。
自分の中から湧き出てくる感情を肯定してくれる存在。心に安堵が広がる。

感情的になってはいけないという段階から、その感情は人として持っていいんだという肯定の認識が生まれる。

共感は安堵し、よろこびが生まれる。
そしてまた同じことが起こると、同じように感情が動き、同じように共感を求める。
感情が動き、それを吐露し、共感され、安堵する。
それが繰り返される。

その繰り返しにふと気がつくとき、あなたはその共感の世界からはなれて見ている。
ぐるぐると回っている洗濯機の中から出て、回っている渦をみている。
そのとき、次の段階へと進む。



なぜ感情が動くのか。なぜここで悲しいと思うのか。なぜこれに怒るのか。
いつもそれに怒っているのが苦しいことを深くのぞいていくと、そこに必ず理由があることを知るだろう。とても個人的なものだ。自分に起こった過去の出来事の重なりで、その感情はわき上がってくるのだから。

その感情の起こりを、他人のせいではなく、自分のこととして観る。
不幸にも偶然出来事が起こり、あいつのせいであなたが怒らされたのではなく、その人はあなたの中にあるものを、表に出させようとして、役者をやってくれているのだと認識することをうながされる。
過去の、いつかどこかで自分の中から拒絶したものを見ていたのだと気がつきはじめる。


たとえば、「こういうことはいけないことだ。」と教えられると、その時からそれはいけないことなのだというルールが生まれる。
「それ、いけないんだよ」
「なんで?」
「だってママがそう言ってたもん」

そのルールめがねで世の中を見ると、なるほどそれはたしかにいけないことだ。それはぜひ正す必要がある。そしていつのまにかそれを正すことが、その人の心の平安をもたらすことのように思いはじめる。
だからそうしない人を怒る、裁く、うまくいかないと泣く。感情がわきだつ。



感情が起こるには理由がある。
最初に言葉がある。
その言葉にのっとって、
からだがぴくりと反応する。
そして感情が動く。
ほぼ同時。

こういう心の中の仕組みをひもといていくと、共感もまた感情の世界だと気がつく。
そこにはそれを解体していく方向性はない。

自分の感情の仕組みを知り、それに向かい、拒絶していたものを受け入れはじめると、正しいまちがっているというルールが、どれだけ人を混乱させ苦しめているのかわかってくる。そのルールを真正面から眺めていると、それは絶対的な価値感でも強固なものでもなくなってくる。
それでもまだ根深い価値観は残っているが、表面的な価値観にふりまわされなくなる。
感情がやって来ても、どこかで引いて見るようになる。
外からの共感は必要としなくなる。




別のよろこびがはじまる。
何かが手に入ってよろこんでいたものが、何もなくてもただうれしい。
安心できるなにかがあるわけでもないのに安堵する。

なんだ。こんなことだったのか。
そっかそっか。
子供のときもっていたものだ。
親からもらうルールめがねをかける前のあの感じ。

ただここにいることが、うれしかったあのころの。



絵:「杉」/紙絵



2018年9月26日水曜日

ビギナーズラック


庭の斜面にダイコン植えた。虫も食わずに元気。


ダイコン引っこ抜かれる。
落花生、食われる。
人参、引っこ抜かれる。
ジャガイモ、食われる。
トウモロコシ、食われる。
きゅうり。。なす。。。さつまいも。。。枝豆。。。

もー。
なに作っても、猿とたぬきに食われるやんけーー!
と、ふてくされていた。

ある日、庭を眺めていた。
「あ。庭には猿こねえし。たぬきもめったにこねえし(たまに来てるんかい!)」

ウチの庭は、はっきり言って畑にはまったくむかない。山に迫っていて、日があたらない。木だらけ。日陰だらけ。草のいきおいが強過ぎる。しかも急な斜面。
土もわけの分らん砂まじりの土。

やまんばは庭のあっちこっちのかたすみに、遊び心でダイコン、人参、落花生の種を蒔いてみた。
なぜか知らんがみんな元気に育っている。同じ時期に畑に撒いたダイコンは枯れ、何度も蒔き直しをしているありさまなのに。


片隅に植えた落花生。葉っぱのいきおいがいい。

小さなすきまに人参



これはいったいどゆこと!?
まったく肥料の入ってない、畑としてはほとんど機能を果たしていない場所に、元気に育つ野菜たち。

やまんばは、頭を抱えた。
そのとき畑でいちばん最初に種を蒔いた時のことを思いだした。あの時の爆発的な野菜たちの育ち方は半端なかった。しばらく放置されていた畑を開拓したので、たまりにたまっていた堆肥があってそうなった、ともいえる。

しかしこの二つの現象に共通点を見つけた。
ビギナーズラックだ。
物事の初心者がもっているとされる幸運のこと。

いやいや。私はすでに畑のビギナーじゃない。

ビギナーとは、すなわち過去がないのだ。
畑の最初の時、私には、畑に対しての過去がなかったのだ。
そして今、庭に対しても、庭に野菜を植えるという過去がなかった。

それは何を意味しているかというと、それにまつわる記憶がないと言うことだ。
ゼロ。ナッシング。
真っ白なあたまで、庭に、畑に、種を蒔いた。
庭と畑の最初の爆発的ないきおいの共通項はそのことだけだ。

ほぼ縁の下にジャガイモ植えた。どーなる???


過去。
最近そのことについてよく考える。
もし私たちに過去の記憶がなかったら、苦しみはない。
あのとき、あんなことされた、あのとき、あんなことしてしまった、
いいことも悪いことも、思いだしては比べ、嘆き、それを元に未来を想定し続ける。
過去の後悔と、未来の望みに翻弄される。

自分にまつわることもそうだ。
私はこんな過去をもっていて、こんな肩書きをもち、こんな性質をして、、、、。
その自分の過去が、自分をふりまわしていることに気づく。
こんな状況になったら、こんな風になってしまう私!そうならないためには、ああやってこうやって!と、そうならないための苦労をする。

ん?まてよ?今そんな状況にあるのか?
まわりを見渡せば、そんな状況にない。あたまがそれをイメージして大騒ぎしているだけだ。

そんなとき、過去を消してみる。
私の背中からずーっと続いていると思っている過去を、ぱき。と切ってみるのだ。

目の前には静かな光景。
いきなり静かになる心。
自分に対するたくさんのレッテルがない。
ゼロ。真空。すべてが止まる。時間がなくなる。


私たちはつねに時間の中にいる。
畑に種を蒔く。芽が出る。大きくなる、という時間がある。
すると次には、大きくしなければいけない、育てなければいけない、という次の観念が動きはじめる。
起きる時間、仕事に行く時間、ノルマをこなす時間、スケジュール、死に行くまでの時間、、、。
その時間の中で翻弄され続ける。

時間が止まる経験をすると、当り前だったはずの時間というものが、すこし苦しく感じはじめた。

ビギナーズラック。過去のない自分。
私はずっと、ビギナーでいられるだろうか。


無肥料栽培の白菜の育苗は全滅w