2017年12月10日日曜日

「わたしの」をとってみる


見えてみるもの、聞こえてくるもの、感触、匂い、味わい、
みんな、外にあるもの。
だから自分じゃない。

でもあたまの中で聞こえてくるもの、
こころの中で感じるいろんな感情、
かなしさ、うれしさ、いかり、いらいら、しっと、
そして考え。

それは自分の中から出て来るから、自分が感じた、
自分が考えたっておもってる。
じつはそれも自分じゃない。
だって、それも「観ている」からね。
観ているってことは、自分じゃないのさ。見えてるからね。


外側のものも、内側のものも、
みんなわたしのことじゃない。
じゃあ「わたし」はどこにいる?

どこ、なんて場所はない。
どこにもいないんかも(笑)。

ただ存在する感じだけがある。


わき上がってくる感情を、自分のものだと思うのをやめてみる。
「わたしのかなしみ」というところの、
「わたしの」をとってみよう。

痛みのあるカラダを、自分のものだと思わずに、
「わたしの痛み」といわず、
「わたしの」をとってみよう。

そこには、ただ「かなしみ」があり、「痛み」があるだけだ。

それを否定もせず、ただそれとともにいよう。


すべてのものは、現れてはやがて消えていく。





2017年12月7日木曜日

自我ちゃん自販機



寒い朝、布団の中で目をさます。

「おきよっかな?まだイヤだなあ。。。
起きる?いや。まだ、もーちょっと。。。
起きる?んーーーーと。。
あ、起きよっと!」

と、ガバッ!と起き上がる。
そのとき、ふと思った。

あれ?これ、「起きよっと!」って、思ったから起きたんかな?
ひょっとしたら、カラダが起きようとしたのを自我が気づいて、
「あ、起きよっと!」って、あとづけで言ったんちゃうか?
ってね。

自我は後だしジャンケンっていわれるけど、こゆこと?

最初にカラダの動きがあって、その後で、さも自分がやったかのよーに、
「わしが起きよーと思ったから、カラダが起きたんじゃ~」
と、いけしゃーしゃーというやつ。
どっかにそんなやついたよなあ。

えーーーー。
マジ?

そーいえば、なんで目をさましたんや?
どーやって目をさますんや?
自我が「自分」だとしたら、どーやって、自我が自分で起きるんや?
それまで自我は意識もなかったはず。。。

きっと自我に言わせれば、「わしが目をさましたんや!」と言うだろう。
けど逆だったら?
カラダが目をさまし、自我が動き出すとしたら、自我が自ら動いて目をさましたわけじゃないやんけ。

カラダが目をさまして、自我が自動的に動き出したんじゃね?受動的に。
まるで自販機が100円入れたとたんに動き出すよーに。

今日も自我ちゃんは、自動的におしゃべりしている。



2017年12月2日土曜日

心の中が暴れている


絶望と葛藤の中にいた。

なんでわたしがこんなことをしなけりゃいけないんだ!?

三十数年間の自分のキャリアがもたらすプライドが、現実と戦い合っている。

ふざけんなよ!

と、その場で投げ捨てることもできるかもしれない。

それをしないのは、勇気がないから?空気読まないといけないから?

だがそこでちゃぶ台をひっくり返すのは、その場でやって気持ちがいいだけのことをやろうとする幼い意識だ。

力づくは、その状況を覆す力がない。
物理的なものをこちらから変えようとしても、その場しのぎなだけで、また同じような状況がやってくる。

この私の中の何かが変わらないと、外の現象は変わらない。



心の中の自我は訴えまくっていた。
それをもう一人の私が聴いている。

もうやめてくれ。
たくさんだ。
イヤだ!こんな状況は耐えられない!
死んだ方がましだ!


「君は今、あばれているのだね。
いいよ。あばれても。」

そう、もう一人の私は言った。

心の中は荒れ狂った。
言いたい放題言いまくった。
ここで書けないようなことも言いまくった。

心はすさまじい嵐の中にいるのに、私の動きはいつもと変わらない動きをしていた。



不思議なことに、カラダは疲れなかった。
それは心の中の思いを、そのまま受けとめていたからだろうか。

人は心の中であふれてくる残酷な思いを、思ってはいけないと封じ込める。
悪いことを考えたら、悪い事が起こるというような、信念があるからだろう。

どっちにしろ、自分のことしか考えてない(笑)。
他人のために封じ込めているわけではないのだ。

そういうもろもろの信念がある故に、人は自分の中からわき上がってくる感情を無意識におさえこむ。
出ようとするものをおさえこむのだから、それなりに力を使う。
いや。かなり力を使っている。

もぐらたたきで、もぐら(感情)がひょっこり顔を出してくるのを、ぽんぽん叩いて封じ込めるが、そのうちいちいち叩くのが面倒になって、その全部を手でずっと押え続けているようなもんか?


私は私の中にある感情を正直にみはじめてから、いろんなことが起こっている。

生まれてからいろんな観念とともに生きて来た。それに気づきはじめると、玉ねぎの皮を剥くように、その観念がはがれはじめる。
と同時に、あらゆる感情に気づきはじめる。それは苦痛でもある。

こんなおもいまでもっていたのか!という、見たくない自分も見る事になる。
そして、自分とはこういう存在と思っていたものまでが、はがれ落ちはじめるからだ。

なじんだ性格、なじんだクセ、なじんだ感情、なじんだ考え。そんなものが崩れはじめると、元に戻ろうとする作用が働くらしい。それをホメオスタシスというらしい。

そういう苦痛の経過を受け取ってもらえる存在がいるのがありがたい。


どこに向かっているのか。
どこにも向かってないのか。
ただ思いだすだけなのか。

なにもわからない。
ただ、このまま進むのをうながされているのはわかる。










2017年11月30日木曜日

夜、裸足で庭に出る


寝る前に、窓を開けて裸足で縁側に座る。

冷たい大地と足の裏がかかわり合って、次第に暖かくなってくる。
夜空を見上げる。雲の切れ間からお椀型の月がのぞく。
目がしだいに慣れて来て、目の前の漆黒の闇がかすかな樹々の姿を映し出す。

私は深呼吸する。そっと目を閉じる。感覚の中に入る。
今どんな感じ?

ほおに当たるかすかな風が冷たい。
足の裏で感じる大地との感覚が、ちりちりする。
と、同時に、手の中もちりちりとしはじめる。
石の上に座ったお尻から背中にかけて、ジーンと冷たい。
でも膝かけの中の足はあったかい。

感情は?
わからない。
不安? いんや。
怒りは? ない。
さびしさは? ないなあ。
かなしみは? ちっとも。

では、しあわせ? う。。。わからん。
じゃあ、不幸せなの? それはない。
じゃあ、今の感情は?
わかんない。。。

何も感じないの?
なにも。。。
ただ、、、しずかなだあ。。。

その後ふとんに入っても、その感覚のままでいる。
この感情はなんだろう。
何も感情がないってことは、幸せなのだろうか。それとも不幸せなのだろうか。
そのどちらでもないのだろうか。

この感情は、何も名付けられない感情は、いったいなんだろうか。

しばらくは布団の中でその感覚のままいた。
そしてゆっくりと無意識に落ちて行った。




絵:「虎の尾」/和紙、水彩、オイルパステル


2017年11月29日水曜日

手応えない感じw


ここんところ、あまり更新できない。

なんかね。
微妙な変化がおこっているんだけど、それを言葉にすると、ウソくさくなっちゃって。
でもあえて言葉にしてみると、

そうか。なんでも、これでいいんだな。
ってかんじかな?

めっちゃ、手応えないってゆうか。。。(笑)



自分の中に次々とわき起こってくる、感情や言葉。

それが自分の中から出てきたものだから、自分が考えたと思いこんで、それに乗っかって来た人生。

そののち、それに振り回されている自分に「ん?」って気がついて、それを今度は観察すると言うことをし始めた。

そうすると、あるパターンがあることに気がつく。
いつも同じ感情や言葉がわき起こっていて、それに心が動揺し、それをなんとかしとうと焦って行動するというパターンに。

それに気がつきはじめると、それを感じる自分と向かい合うことになった。

心はいつもの感じで突っ走ろうとする。
しかし観察する意識が、その突っ走りを100%にしない。どこかでブレーキをかけはじめる。
アクセルとブレーキを同時に踏んでいるかんじ。

キーキーと音をたてて、その場でバクソウする。
いや、時には、そのまま突っ走る。

そういう行ったり来たりが起こりはじめ、混乱する。動揺する。
そしてまた動揺する自分に気がついている自分、それら全部をひっくるめて、駄目だしする自分。

不快の中でもうろうとなる。
そういう時期をしばらく過ごす。

だが、じょじょになにかが変わりはじめた。
じょじょに。かすかに。ゆっくりと。

そして今は、そういう自分に、これでいいんかもしれない。。。とおもいはじめている。

生まれて来て、いっぱいいっぱい身につけて来た観念。
その観念をひとつひとつはがして行く作業は地味だ。
いや、はがしていくのではないなあ。
はがれていく、というほうがあってる。

ラフがうまいこと描けない。どうしよう。時間がない。
焦る自分。いつものように駄目だしする自分。

だが。
前の自分とはちょっと違う。
自我は、ただウソの言葉を発するだけなのだ。
事象は、勝手に起きている。
ことは勝手に進んで行く。

ことが進む過程で、あーでもない、こーでもないと言い続けるのが自我の言葉。
その言葉に乗っかって、「そうだ!時間がないのだ!」と、
そのまま鵜呑みにしておおさわぎをするのもいいし、
「あ、いつもの言葉ね」と、
気にしないで、ほっておくのもいい。
どちらでもいい。
そう思えてくる。
だって、ことは勝手に起こるだけなんだもの。

「自分」が何かしているわけじゃないんだもの。

ね?
なーんも手応えないでしょ?(笑)



2017年11月25日土曜日

ある朝



朝起きた瞬間、感覚の中に、わずかにひゅっと冷たい風が吹いた。

「あ。。。。」

ほんのわずかな瞬間だったが、自分がずっと持ち続けていた緊張、それが起こる瞬間をとらえたのだ。

この感じ。。。ちいさいときからあった。。。

それはこの社会に生まれて来て、一人で生きていかねばならない、一人で頑張らねばならない、という孤独感と、身震いするような緊張感。

どういうわけか、気がついた。

気がついたとき、もうそこにはいないことに気づく。
緊張感を外から見たからだろう。
その中にいると、気づくことはないのだから。



あの緊張感は、ぎゅっと固められるような、突き放されるような、寒い所に放り出されるような感覚。孤独な幼いつくしちゃんは、その吹きすさぶ嵐の中を、ひとり立ち上がって歩いて来たのだ。

非二元的に言うと、これこそが分離の意識なのだろうか。
それまで一体だった母親の胎内からでて、一個の独立した存在としてこの世で動き始めたその孤独感と緊張感。

それから間もなくして、この社会の形を知り、その残酷さと暖かさの両極を観る。
分離した意識は、残酷さの方に重点が置かれた。
この残酷さをどう乗り越えるのか。
この嵐の中でどう生きていこうか。
そう、必死で考えてきたのだ。

そう。まじめに。深刻に。この世をとらえてきたのだ。


だが、その深刻さが、だんだんゆるんできた。
この世は、そんな深刻な場所じゃないんじゃないか。。。そうおもいはじめている。

そんな矢先の、朝のあの感覚だった。




2017年11月22日水曜日

あたまの中の音を聴く



川の音を聴く。
あたまの中の声を聴く。

川の音は聞き流す。
でも頭の中の声は、聞き流せなくて、その声に乗っかる。

なんで?
それは「言葉」だから。
でも言葉も「音」なのにね。

「か、わ」という二つの違う音なのに、
人はその音を聴いて、川をイメージする。
時には靴をイメージするかもしれないが。

どっちも聞こえる。
けどあたまの中の音は、意味をもつ。
川の音には意味がない。
だから意味がある方に気がとられる。

外から「ばかやろう!」と、音が聞こえたら、
そくざにそこに耳を傾ける。

外から「ザーザー!」って、聞こえても、
ん?ておもうけど、
「雨か」といって、それを聞き続けることはしない。

ひとは「ことば」に気を取られる。
頭で鳴っているだけの音に、意味をもたせる。
そこに世界を広げる。

目の前にはパソコンの画面が見ええているだけなのに、
明日のことを思い煩い、
今どこかにいるだれかさんのことをきらっている。

あたまの中で、ただ鳴っているだけなのに。
あたまの中で、浮かんで来ただけなのに。
それが真実のように思えて、その中に入り込む。

川の音は聴かない。
頭の声は聴く。

そうやって、頭の中の声と戯れ続けている私たちがいる。