2020年7月7日火曜日

お化け屋敷に漏れる光



なんかね。
もう全部、自分がそう思い込もうとしてたんじゃないか?と思い始めてます。

「これは怒りです」
「これは不安です」
「これは悲しみです」

という風に、最初に自我が、そう決めて、
それを受け止めた心が「そうか。これが悲しみか」
と真に受けて、そう信じ込んで、それを採用してきた。
そんな気がしてきています。

この世界のことは、自分で解決しなきゃいけないと思ってきました。
そやけど、どこまでいっても絶対的な解決法などないとだんだんわかってきます。

元々は、「これが不安だ」「これが問題だ」
と心のどこかで聞こえた言葉に反応してただけでした。
「そうだそうだ。これが問題だ!」
そして
「なんとかして解決しなきゃ!」
と、行動を起こす画策を練る。

そうやって、この世界に巻き込まれていった自分がいました。




この世界は幻想だって、いくら口で言ってても、いざ「問題」を見つけられたら、
「解決」に向かって突き進む。
これ自体が、この世界は幻想ではなく、実在するものだと、完全に信じているっていう証拠になります。完全に自我の策略に乗っています(笑)。

そういう自分に気がつくことから始まります。
そしてそんな自分をゆるしていくことです。

出発点は心。原因は心。
外はその結果。
結果が目に見えているだけなのでした。

見たことに対する反応は、そのままでいいんでしょうか。それは絶対的でしょうか。
そもそもそれは怒りでしょうか。それに対する反応は、別の反応があるかもしれません。





私たちはことあるごとに、悲しもうとしたり、怖がろうとしたりします。
それがこの世界だからです。
この世界の醍醐味は、恐れを味わうことなのです。お化け屋敷

自分で作ったお化け屋敷を、自分で怖がり続けているのです。
自分で作ったことを忘れて、延々とそのお化け屋敷の中で、ほんのちょっとの飴のために、日々鞭打って、死ぬまで生きている。

私たちは生まれもしなければ、死にもしない、完全なる自己らしいのです。
私はそれを覚えてはいません。
だけどこの世界の大いなる矛盾には気がついています。子供だましのお化け屋敷に。




真っ暗な闇の中に、時々一瞬チラッと外の光が漏れます。
ほんの小さな穴から漏れる光でさえも、このお化け屋敷のチープなガラクタを、
興ざめするような仕掛けを垣間見せてくれるのです。

その掘っ建て小屋は巨大な光の中にある目に見えないほど極小の、
小さな点のようなもの。
その中で必死になって恐怖や問題をなんとかして解決しようと躍起になっている自分が見えます。

その時、私はそのお化け屋敷の中にはいません。
その姿を一体どこから見ているのでしょうか。

その時の自分はとても静かです。暖かい心でその姿を見守っています。



そのお化け屋敷の夢を見ている私が目を覚ますことを、
じっと待ってくれているのでしょう。








2020年7月2日木曜日

過去と未来




久しぶりにお天気です。

ベランダで洗濯物を干していて、クスッとしました。
これから用事があるわけでもないのに、私はあせって干していたのです。

「いつも母に急かされていたからな~~。早く!早く!って。。」
と、あせる自分の理由を母に求めました。

その後ふと、電車の中でスマホを見ている人々のことを思い出しました。

これから会議があるために資料を読んでいる人かもしれませんし、大事なニュースを読んでいるのかもしれません。それぞれに理由はあります。

そしてまた心はここにいることに苦痛を感じているから、それから逃れるために意識をそらしていることもあるのです。

意識は今ここにいることを嫌います。

私もまた、今ここで洗濯していることを無意識に嫌っていたのです。
だからあせって早くこの場を終わらせようとしていたのです。

電車の中の人々は、自身が今そこで電車に乗っていることを苦痛に感じているのかもしれません。その苦痛を軽減させるために、音楽を聴いたり、何かを見ることに夢中になって気をそらしているのかもしれません。


心は未来へ未来へ、次のことへ次のことへと向かいます。
その次のことをしている時もまた、その次のことに思いを巡らせています。
そして過去のことを思い出し、苦しんだりイライラしたり、
その苦しませてくる相手をどうやって対処しようかと、また未来の想定をしています。
その時、心は今にいません。

自我は、私たちを時間の世界に持っていきます。過去と未来へ。
今という時間は、過去から未来へと続く一瞬の通過点ぐらいにしか価値を置いていません。
だから今を退けようと、あの手この手で私たちの意識を過去と未来に釘付けにするのです。
なぜ今を嫌うのでしょうか。それが真実だということを気づかせないように。


けれども本当は今しかありません。いつでも今です。永遠の今です。
過去は頭の中の記憶に過ぎません。
未来も頭の中の空想に過ぎません。

恐れは過去からやってきます。
過去に見聞きした恐ろしい事件、恐ろしい話、恐ろしい経験。
そしてそれを元に未来を予測します。
こうならないように、ああなってはいけない、と。

そうやって頭の中を過去と未来を行ったり来たりさせ続けさせるのです。
その魅力にすっかり取り憑かれた私たち。

過去や未来に意識が行くと、心は縮んだ感じになり、
凝縮したひとつの肉体を持った私が、
たった一人でこの世界を必死で生き抜かねばならない戦士となってきます。


でも私は今、ベランダでシャツを干しています。
シワを伸ばして、パンパンと叩いて、ハンガーにていねいにかけるのです。
久しぶりのお日様が心地いいのです。
目の前の山で小鳥たちが歌っているのです。
川でカジカも鳴いています。

今にくつろぐと、今が浮かび上がってきます。今が満ちていきます。
明日になっても今です。三年後も今です。

今にいる私は、縮み上がった体ではなく、ただそこにあるものです。

リズミカルな電車の音と揺れを心地よく味わっている何かです。







2020年7月1日水曜日

この世界







暇です。
畑もやめて、バイトもやめて、コロナの影響で仕事もない。

何もせずにいてみると、心が何かをしたくなります。
心は騒ぎます。
あんたこのままでいていいの。どうするの、将来。。etc。

人は何かをせずにはいられないなあと思います。何かをすることによって、未来の保険を得ようとしている自分に気がつきます。

その根底には、自分は肉体であり、その肉体を維持するために、お金を稼がなければならず、そのためには、何かをしないと生きていけないという絶対的な信念があります。

この世界は実在していて、その中を物質的な私がウロウロしてて、その肉体を生かすためには食料が必要で、食料を得るためにはお金が必要で、、、、と、何かをするのです。

この心の中心にあるのは、恐れです。

私は肉体で、この肉体を維持するために何かをしなければいけないとは、肉体は死ぬという信念から来ています。
恐れの一番は、「自分は死ぬ」ということかもしれません。

死んだら全て終わり。という考えもあります。そうだからこそ、必死でここを生きる人もいれば、だからこそ、死に救いを求める人もいます。また死んだのちの世界に救いを求める人もいます。
どちらにしろ、「死」が私たちの頭から離れることはありません。



暇だといろんなことを考えてみるチャンスがあります。
それは不安の材料になることもありますが、じっくり考えてみる特典が与えられているチャンスとも言えます。

私はいかにこの世界に縛り付けられているかを感じました。この世界だけが世界であり、この肉体だけが私である。精神世界や、哲学を学んできても、どれだけ自分がこの世界を実体のあるものとして信じてきていたかを思い知りました。


過去の自分を思い出します。
どんだけ頑張っても、自分の思い通りにはならず、どんな予想をしてみても、そんな風にはならない。
そういう実体験を通してわかってきたのは、自分が考えているとおりに物事は起こらないってことでした。

すべては唐突にやってきました。
いきなりニューヨークに行ったのも、頭の中で聞こえた「ニューヨークに行け」という誰かの声でした。仕事はどんだけ頑張って営業しても来ず、ある日いきなりまったく知らないところからきました。

つまり何もかもが自分の意図したところとは関係がなかったということに気がついたのです。
頭に浮かぶものは、自分でコントロールできたことなのか?
浮かぶ考えは私が意図して浮かばせたことなのか?

そんなことはありませんでした。
浮かぶものは、不意に浮かんだのです。
来るものは、不意に来たのです。



「起こることが起こってる。全てはシナリオ通り」
という考えがありますが、それだとただ流されるままに動かされている感じがします。
私はそこに魅力を感じませんでした。

起こってくる出来事をコントロールできないとすれば、
たった一つコントロールできるものがありました。
それは見方です。

起こる出来事を今まで通りの解釈、つまり恐れで受け止めていくのか、
そうではない別の見方をしていくのかで、受け止め方が変わります。

私は従来通りの受け止め方ではなく、新しい受け止め方をしていくことを選びました。
従来通りの受け止め方だと、そのまま従来通りにことは起こっていくのでしょう。過去が未来を作るように。

しかし恐れを増幅する選択ではなく、まったく真逆の選択をしてみたら?


私は恐れている自分に気がつき、恐れを回避するためにする行為をやめることにしました。恐れの中でする行為は、混乱しか産まないことに気がついたのです。

この行為をやめるということがいかにパワフルなことになるのか。
「何もしない」ことが、新たな道を作り始めたのです。

そうすると決まって頭の中で騒ぎ立てる自我の声があります。
「どうするの。何もしないで!あんたの将来はとんでもないことになる!」

頭の中で聞こえるこの声は、たいてい脅してきます。私はずっとこの声が自分の味方だと思ってきました。その声が指し示すように、私はこの声に指示を仰ぎ、いう通りにやってきました。だけどどんどん探るうちに、これは恐れの源に過ぎないことがわかってきました。この声が恐れを増幅し、私はこの声に踊らされていただけなのでした。



そしてその声を何度も何度も聞き流すうちに、その奥にあるものを感じ始めたのです。
それは平安でした。

そしてその平安は、かつて感じていたものでした。幼い頃常にずっとそばにいたものでした。
守られている安心感であり、とても暖かく、
その中でいつまでもコロコロと転がっていたい、愛の溢れる感覚でした。


その視点は、この世界を弱肉強食の世界ではなく、緑あふれる美しい世界に見せてくれます。
ああ、私はずっとこの世界を見ていたし知っていた。
ただそれを恐ろしい世界へと入れ替えていただけなのでした。


そしてこのことをきっかけに、この世界での解決策はいつも矛盾をはらんでいて、完全な答えなどないのだと気づかせてくれました。
この世界の大いなる悲しみは、この世界での解決法では満たされることはないのです。


ある出来事があって、私はその解決法を必死になって探りました。だけど誰もが納得のいく解決法などありませんでした。
もともとそんなものなかったのです。

私は解決する方法を半世紀も取り組んできたことを思い出します。
そんなものなどないと気がついた時、なんと解放されたことでしょうか。

私は解決する行為を手放しました。
そして私と共にある、平安の存在に委ねました。

シナリオはどうなるのでしょう。
自我を選ぶシナリオはもう書かれているのでしょう。
自我は過去と未来にしか興味がありません。
過去と未来は同じものでできているからです。

でももう一つの、本当の私を選ぶことは、
どんなシナリオが待っているのかは私は知りません。

きっとそれは喜びに満ちたものになることでしょう。



絵:「雪のマッターホルン」/表紙イラスト


2020年6月25日木曜日

一人の戦士




「怖い。。これをどうにかしなければ、、、」
恐れの中にいるとき、私の意識は前のめりになっています。

頭の中は、それを逃れる方法、解決する方法を次々考え出します。
はたまた、まだそんなところにいるのかと、怖がっている自分に腹が立ち、その怖さを退けようとします。

だいたいそんな感じで心の中は動いています。
この一連の動き全部が自我の動きです。
自我はこの世界には恐ろしいものがあり、それを自分で解決しなければいけない。誰もやってくれないのだからと言い聞かせてきます。そこで私は一人の戦士になります。


その前のめりになっていること自体が、戦士として自分で一人で戦わなければ(解決せねば)と思っている心の状態でした。
この世界が実在し、自分一人で戦わねばならない場所だと。

それはまさに自我で解釈し、自我で解決しようとする試みでした。
汚れた鏡を、汚れた雑巾で拭いて綺麗にしようとするあてのない戦いでした。

自我と共に前のめりになっている自分に気づきます。
一瞬止まり、自我である私は後ろに退きます。

そして私の本質に委ねます。
その時私は鎧を脱いでいました。
恐怖で緊張していた体は、あるいは鎧をつけた戦闘態勢の状態ともいえるでしょう。

委ねた心と体はとても軽くなります。

私はすぐ前を歩く、見えない神が歌う、聞こえない歌と共に、歩いていきます。



絵:「猫じゃらし」


2020年6月20日土曜日

いい子でいたなら。。。





「大丈夫。神様が守ってくれる」
そう言われて、ホッとしたことがあったのではないでしょうか。

思えば、幼い頃はいつもそばに何かがいて、それと共に喜んだり楽しんだりしていた気がします。
それが何かは知らないうちに、やがて親をとおして「神様」という言葉が入ってきました。



ところが「大丈夫。あなたを守ってくれる神様がいる」と言ってくれる言葉のあとに、
「いい子でいたなら。。。」というものがついてくるようになりました。
神様が守ってくれるには、「いい子でいるなら」という条件が必要になりました。

しかしその言葉の背後には、こういう思いが付録のようにありました。
「もしもいい子でなかったなら。。。」



それはいつも守ってくれている神が、いい子でいなかったなら、恐ろしい神に豹変する、、、ということを子供心に暗示させました。
おとぎ話にもたくさん出てきます。神を敬わなかったら、神に背いたら、神はどんな大きな力で私たちに痛い目に合わすかを教えてきました。

その神に対するイメージは、そのまま大人になっても持ち続けます。
「ぼーっとしてたら、ろくなことにならない」
「嫌なことが起こった。これはきっと自分が何かやらかしたからに違いない。」
「あいつにバチが当たった。」
言葉の中に神というものは出てこないけれど、罪を犯せば、神によって罰せられるという無意識の恐れがあります。

荒ぶる神の心を鎮めるために、人類はあらゆることをしてきました。人身御供を差し出したり、大きな仏像を作ったり、厳粛な儀式を行ったり。。。
それが少しでもまちがうと神は罰を与える。だから人々は神を恐れ、敬い、なんとか機嫌を取ろうとする。
日常生活でも、神を恐れ、怠惰を嫌い、ひたすら切磋琢磨する人にだけ幸福が訪れると信じる。


それが神なのでしょうか。
神は私たちが機嫌を取らなければ守ってくれない、そんな心の狭い存在なのでしょうか。

神が絶対的な存在なのであれば、神が愛そのものであるなら、条件次第で態度を変えてくるものなのだろうか。

そう思い込んだのは、私たち自身なのではないだろうか。
そこに恐れるものを吹き込んだのは人間の考えだったのではないだろうか。
いい子でいたなら、罪はない、罰も与えない。
しかしいい子でいなかったら、罪があり、罰を与えられる。
これは言い方を変えれば、人をコントロールするにはもってこいの考えでもある。。。


恐れる時、私たちは体を縮め、恐ろしいことが過ぎ去るのを待つ。
だが喜びにあふれている時、心は広がり拡張し、私たちは体のことを忘れている。

神は条件など必要としないのではないでしょうか。
愛に条件など必要でしょうか。

幼いころ、いつもそばにいた何かは、
私が何をしようと、ただ愛に溢れていた。

一緒に喜び、一緒に歌い、一緒に飛び跳ね。。。



何もせず、静かにする。
何も感じない。だけど何かがこの胸の奥にある。

騒がしい声は、「何かしていないとバチが当たるぞ」と、罪を見つけようとする。
けれども神はバチなど与えない。そう信じたのは人間。
自分たちが作った「恐ろしい神」を本物と信じ続けていただけだ。

その偽物の神が騒ぐ声を通り越して、本当の神の声を聞こう。

それは今でも常に語りかけている。
神は喜びとともに私たちに歌いかけている。

どんなに大人になっても、
幼い頃聞いていた神の歌は、今でもここで鳴っている。

自分で作った神には、もうお役目は終わってもらおう。



絵:「池のある風景」/和紙



2020年6月15日月曜日

お化け屋敷のオーナーさん





あるところにオーナーさんがいました。

オーナーさんはある時いいことを思いつきました。
お化け屋敷を作ったのです。

ところがオーナーさんは、自分がお化け屋敷を作ったことを覚えていません。
お化け屋敷の中で、毎日毎日、「怖い怖い」と言い続けています。

お化け屋敷の中に、どんな怖いものを仕込んであるかも覚えていません。だから隣の部屋にどんな魔物が潜んでいるかと、おっかなびっくり住んでいます。

そしてとても怖いものを仕込んでいます。それはテレビです。
テレビをつけると、毎日恐ろしい話が流れてきます。連続殺人犯がまだ捕まっていない話、未知のウイルスが世界を凌駕していく話、子が親を虐待する話。。。

オーナーさんは、それを見ては震え上がり、外に出るのも警戒します。あの電柱の後ろには、まだ捕まっていない犯人が隠れ潜んでいて、今にも襲ってくるかもしれない。人とすれ違ったら、何をうつされるかわかったものじゃない。。。。

自分で作ったものに、自分で怯えているのです。
どうにかしてその恐怖から逃れるために、あの手この手を使って対処しようとします。



でもなぜオーナーさんは、自分で作ったのに忘れているのでしょう?
それは、覚えていては楽しくないからです。

この部屋にこの魔物が仕込んであって、どのように現れてくるのかを覚えていたら、ちっとも怖がれないのです。
臨場感がないって言うんでしょうか。ドキドキ感がないって言うんでしょうか。
それを味わうために作ったのに、それが味わえないなんて、作った意味がありません。

だからオーナーさんは、あえて忘れることにしたのです。

でももう何年も、何十年も、何百年も繰り返しています。
いつになったら、自分が作ったお化け屋敷のことを思い出すのでしょうか。

それはたぶん、

もう飽きました。
恐怖を楽しんだところで、何の意味もありませんでした。

だってそれによって私はちっとも幸せになんかなれなかったんだもん。

と、気付いた時なのでしょう。



ところでそのオーナーさんって?

白状します。

私のことです(苦笑)。




絵:「Murder Comes to Call」ミステリー表紙イラスト