2018年11月11日日曜日

静けさの中に入る



心の中を観ることをしていくと、どんどん自分の中をほりさげていくことになる。


前はおおざっぱな感情だけが見えていたのに、それを通過すると、より細かい感情に気づき、それも通過すると、ますます微細な感情にまで気がつくようになる。
ほんの一瞬の心の動きのはじまりまでもが感知される。



そのうち、自分が外ものに反応していることに気づきはじめた。

外に見える世界。
人の言葉、人の態度、
畑、庭、山、
外に見える世界に反応している自分。

ネットの文字に反応し、
テレビの映像に反応する自分。

そしてふいに浮かぶ思い、想念、イメージ。
あたまの中も、また外のものだ。



いわゆる「幸せ」も、外からやってくる。
食べて幸せ、聞いて幸せ、見て幸せ、
理解して幸せ、達成して幸せ。。。

だがそれは長くは続かない。
ネガティブな感情も、ポジティブな感情も、長くは続かない。
ネガティブな感情は、追いかければ長く続く。そして肥大化する。
ほっておけばそれはやがて消える。
どっちにしろ、外を見て受けとる反応は、やがて消える。

その仕組みにいささか疲れはじめた。
なぜこうも、反応しなければいけないのか。そこに本当のものはあるのか。

『反応の中に答えはない。。。』

心のどこかでそう聞こえた。



反応から来るものではないなにかがある。
それは外からはけして来ないもののようだ。

見ず、聞かず、外に反応をしない時間をもつ。
心の中の声さえ聞かない。
すーっとまっすぐ自分の中に降りて行く。



静けさがある。
静けさのむこうに何があるのだろうか。
わからない。
ただそこにいることが心地よい。


目の前に見えている世界が、『何の意味もない』
という言葉の意味が、
ちらちらと、わたしをくすぐる。




キクイモが消えた



畑の一角に、ずっと森のようにこんもりと生い茂って勝手に育っていたキクイモ。

収穫の時期が来て、土を掘り起こしてみると、いつもはわらわらと出て来る芋が、今年はこつ然と姿を消した。

昔は背丈ほどあったハルジオンも姿を消した。アカザも消えた。
畑の中で植物たちは変化をつづける。
キクイモもその姿を消そうというのか。

鳥に食べられる豆類は、移動したがっている。風に吹かれて飛んでいく種も移動したがっている。種たちはそれぞれの特徴を生かして、どうにかして移動したがっている。

芋たちは自ら移動しない。だから移動させなくてもいいものだとして、サトイモもそのまま同じ所にうわりっぱなしだった。でもそういえば、新たな所では芋は大きいいが、昔からある場所は、小さくなってきている。かれらもまた何らかの形で移動したがっているのだろうか。

キクイモは同じ所で、かれこれ6年育ってきた。
サトイモもおなじくらいだ。

キクイモはキクイモの、サトイモはサトイモの、それぞれの土の中で飽和状態が起こっているのかもしれない。来年は別の場所に移動させてみよう。

ん?しかし芋はどうやって移動するのかな?
人の手だけ?
え?サル?
ちょいぐいして、ほったらかすのは、そのためか(おいっ!)




2018年11月4日日曜日

過去の清算




ダンナが、今過去の清算をしている。

阿佐ヶ谷時代からニューヨーク時代へ、そして今の高尾時代へと生きてきた片鱗を整理しはじめている。
人間生きていると、いろんなものが増えていく。表現するものは、表現したがゆえに、いや、アイデンティティを確立するために、表現物が増えていく。それにともない、道具もがんがんと増えた。

昔はカメラはフィルムが当り前。今はデジカメが当り前。時代はどんどん変化していく。無用の長物となったでかい引き延ばし機、現像にまつわるもろもろの機材や材料。ありとあらゆるものを、どんどん捨てはじめた。

音楽の機材もおしげもなく捨てていく。そしてずっと大事に持ってきた若い頃に影響を受けたこむずかしい本たちさえも。

彼の中に何かが起こっている。過去で埋め尽くされた心に、新たなものを入れていくスペースでも作ろうと言うのだろうか。

今はヤフオクや、メルカリなどのシステムがある。使わないものを誰かに渡してそれを生活の足しにするでもなく、気持ちいいぐらいばんばん捨てていく。それが彼らしい。

一方の私はと言えば、モノが捨てられない性格。
「ひょっとしたら、いつか使うかも。。。」
と、穴のあいた畑用の手袋、新聞紙、間違えてプリントした紙、お菓子のカンカンまでとっておく。(メルカリに出せるものなどひとつもない!)
「いつか資料になるかも。。。」
と、読みもしない本もずっと本棚に入ったまま場所を占領しつづける。へたに制作などしたら、どんどん作品という名のゴミまで増えて行くではないか!

強烈に整理下手な私の部屋は、いつもわけのわからんものが乱雑につみ上がっている。このまま行ったら、ここは私のせいでゴミ屋敷になるかもしれない。。。



ダンナが一枚のモノクロのベタ焼きを見せてくれた。
大量のベタ焼きを整理しているうちに、なつかしい写真が出てきたのだ。
まだ黒髪が光っている30前後の私が写っていた。自分で言うのもなんだがかわいい(笑)。
こうやって、過去の自分をみては、
「ああ、あのころは若かったなあ~」
なとど、しみじみとおもうのだ。
きっと今の白髪頭の私を写真にとっても、十年後には、
「ああ、あのころは若かったなあ~」
などと、きっとしみじみとおもうのだ。。。!

だがベタ焼きでうつっているあのころの私は、決して自分が今若いとは思っておらず、若さを謳歌するでもなく、もっと若かった自分を思い、今の自分をうれいて、苦悩していたのだ。

それってどうなの?なんか、損こいてね?
ずっとずっと、過去をうらやんで、今をうれいてばかりなのだ。
今を「こうではない」と言い続けて、未来にもっといいものを探そうとし続けているだけなのだ。

約30年前の私が、
「で?今はしあわせかい?」

と、聞いてきている気がした。


2018年10月23日火曜日

野葡萄



信号で待っていると、土手に生えた草に目がいった。
秋がだんだん深まって、植物たちがその姿を変えはじめている。

すこし黄色がかってきたイタドリの緑の葉っぱが、赤い水玉模様を作っていた。あいらしさにおもわず見入る。あっちにもこっちにも。

緑一色から、赤い水玉模様に服装を変えたイタドリの葉っぱたち。モスグリーンの地の色に、レンガ色の大きな水玉模様を大胆にあしらった、ウールのコート。
茎や葉脈が赤く、それがなぜか赤いヒールを思わせる。
まるで芯の強いOLみたい。

その横には季節外れのよもぎが凛と立っている。
青みがかった緑色のスーツを着た中年の紳士のよう。

勝手な妄想の中、じーっと草たちに見とれていると、信号が青に変わっていた。あわてて渡る。


柿の葉っぱなんか、芸術家の極みだ。もうどの葉っぱを手にしていいかわからなくなるほど、最高傑作だらけ。葉っぱの一枚一枚に向かって、その美しさをほめたたえたいぐらい!でもそんなことしてたら、日がくれちゃうね。

いつもこの美しさをぐっと所有したくなる衝動にかられる。
けれども家に持ち帰ったかれらは、ほどなくその美しさを終らせていく。
それもまた潔いかっこよさ。


だからじーっと目に焼き付ける。
あんたらの美しさをどれだけ味わっているやつがいるか、わかってる?
ここにへんな一人の人間がいること、かれらは知っているのかなあ。
まあ、そんなことへともおもわず、かれらはかれら自身がその美しさを謳歌しているのだろう。



今日の作品は先日制作した野葡萄。

わたしの絵の生徒さんが、昔スケッチしたという水彩画の野葡萄の絵を見せてくれた。それがとても強烈な印象を私に残した。
ふしぎなカタチの枝、葉っぱ、カラフルな野葡萄。

私は植物の正しいカタチを描くことが苦手。それはいくら正しく描こうとしても、かれらの調和のとれた美しさにはかなわないのだもの。
だから私は私の印象で、かれらを表現してみたい。
それは今日であったイタドリのOLさんのように。


2018年10月21日日曜日

7才のわたし。



夜寝る前に窓を開けて、真っ暗な山を見る。
「今、どんな感じ?」
心の自分に問うてみる。

胸の奥が、ふるふるとふるえている。
「これは、なに?」
問うても誰も答えない。
ただ、不安なふるふるではない。
たとえていうなら、明日楽しいことがある前の、期待のようななにかのふるふるだ。

「私は今、いったいいくつなんだろう?」
そんな疑問がわいた。
「。。。7才。。。」
心の声にびっくりする。
「え?7才。。?」

今57才のわたしが、たった7才の自分?
50年分はどこへ消えた???

でも考えたら、意識は今でもそのぐらいなのかもしれない。あのころの私と、何ら変わっていない。

じゃあ50年間分の知識や歴史はどこへいった?

知識とは、単なる「社会」という名前がついたゲームのルールを知っているというだけだ。双六や、野球や、サッカーのルールと何ら変わりない。私の歴史とは、そのルールに必要な、ボールやコマを持って、そのルールに沿って生きて来た。そういう歴史だ。

でもまったく変わらない何かが私の中にある。
それは「私」という感覚。
その私は7才なのかもしれないし、なにでもない、なにかなのかもしれない。

暖かな布団の中にもぐりこんでイメージする。

誰でもない7才の私。
過去も未来もない、ただそこにある存在。


絵:天狗舞い






2018年10月19日金曜日

心という車の運転免許



バイト先で知り合う若い女の子たちがおもしろい。

まだ二十歳前後。彼女らの母親は私より若い。そんな彼女たちとしゃべっていると、ある共通項に気がつく。

ウザイ、イラつく、キレル、ウケる、などの感情を表現する機会が多いためか、彼女らは自分が何を感じているのかをつねに気づいているようだ。

そのため、逆に言えば、その自分の感情が大きく心の中を占め、ふりまわされやすくなっている。クローズアップされた自分の感情に気がつくと、それを否定しようとするため、二つの感情をもつことになる。
1。イラつく自分
2。それを否定してイラつく自分。
この二重苦で、自分というものをうっとおしいとまで感じている。

また別の子は、そういう自分をおもしろがっている。
どっちにしろ、自分の中で発令される感情に気がついているのは、時代が変わって来ているからか。



このことはとても面白い現象だと思う。
通常大人の私たちは、自分自身が感情的になっていることにあまり気がついていない。
その感情と自分が一体化してしまうからだ。

本当は、どこかで気がついてはいるが、感情的になってはいけないと言う、根深い道徳観念が、それをおさえこむ。
もしそのことを指摘しようものなら、火のようになって怒る(笑)。



私たちは、外のものを見ることを学んできたが、心の中を見ることをまったく学んで来なかった。
例えていえば、車の運転技術はあるが、心という車の運転免許をもってないようなもんだ。

せいぜい動き出す車の前に立ちはだかり、フンムムム~~~っ!と、力づくでおさえこんで、感情が表に出ないようにするという、原始人のような(原始人さん、失礼)、心の車のコントロールしかしてないのだ。

ギアやブレーキやアクセルがあるように、心にもちゃんと仕組みがある。今こんなにも精神を病む人たちが増えているのだ。その仕組みを真剣に学んでいく時代に入っていると思う。


でもいかんせん、感情について話しをすれば、人はすぐさまぱたっ!と心を閉ざしてしまうぐらい、感情に対してあまりにもアンタッチャブル。
日々の忙しさの中で、感情が動く自分を見ないようにする。
はたまた誰かにグチって、気が晴れたかのように装う。
おさえこんだ感情はいつのまにか、病気や精神的な病いなどの形になって現れてくる。



ほんの少し、意図的に静かな時間を作り、自分の心に聞いてみる。
「今、私、何を感じてる?」と。

その感じているものに抵抗をせず、ただ受け取ってみる。
その感情は、決して悪いことじゃない。
あなたが生きて来たこれまでのいきさつが、
どうしようもなく持たざるを得なくて、持った感情なんだ。
それを肯定する。

いいよ。感じて。
いいよ。怒って。
いいよ。悲しんで。
いいよ。いいよ。いいよ。。。

そのほんの少しの時間が、心の扉を開いていく。
心が溶解していく。


2018年10月18日木曜日

バーチャルしあわせ



「あたし、何だか幸せじゃない。どーやったら幸せになれるんですかー?」
若い女の子が、ちょっとイラ立ちながら私に聞く。

彼女は現役の大学生。今卒論制作の真っ最中。来年にはIT企業に就職も決まっている。顔は超美人。スタイルもセンスもいい。頭も切れるし、まわりの気遣いもうまく、これ以上出来ないぐらい仕事上手だ。

そんな前途有望な彼女が「あたしは幸せじゃない!」と言い放つ。
それを人生下り坂のおばばに聞くかー。
わたしにゃ、あんたがもってるもん一個ももっとらんわー。



私たちはしあわせ探しをする。今ここにないものを探す。
ないものをゲットできたらしあわせになるだろう!と信じて、日夜探し続ける。

おいしいものを食べる、
楽しいことをする、
行きたい所に行く、
すてきな人と出会う、
はたまたすごいグルに出会う。。

ところが、そのしあわせはそう長くは続かない。すてきなパートナーとだって、やっとゴールインしても、今じゃ粗大ゴミあつかい。

これってなに?!
しあわせって、そんなもんなん?

これが二元の世界。「ゲット」すれば「失う」というおまけもついてくる。コインの裏表。



どうもそれは本当のしあわせではないらしい。
そのしあわせの後ろには、必ず失う悲しみやむなしさがあることに気がつくことだ。

かりそめのよろこび。
ひとときだけのたのしみ。
やがて消えるもの。
そして失ったらまた求めるエンドレスの衝動。

欲しがる、ゲットする、失う/忘れる。
また欲しがる、ゲットする、失う/慣れる。
また欲しがる、ゲットする、失う/飽きるw。
また欲しがる。。。

そういう形状のしあわせを、どっかで引いて見ている視点をもちつづけることかもしれない。(あまりうれしかあないかもしれんな。浸れないんでw)





ほんとのそれはある日、唐突に、ふと、ほんの少し、そこはかとなくやってくる。

何の条件づけもなく、なんのきっかけもなく、
目の前のものがキラキラしはじめる。
何かわからないものが、内側からあふれてくる。
ああ、、と、心が膨らんでくる。
自分と他人という境が消えてくる。
それは時に、強烈なエクスタシーにもなり、
これ以上ない静けさにもなる。


条件づけのしあわせは、このしあわせを感じたいがための、
自我の、バーチャルしあわせの試みなのかもしれない。



絵:「Witch」私の好きな魔女。彼女はこの絵の顔によく似ている。