2018年11月30日金曜日

石けんなし生活9年目



勝手に石けんなし生活がはじまって、9年と8ヶ月。

我ながらびっくり。
ほぼ10年近く、石けん使わないで生きているのだー。
なんだ。全然へーきじゃん。

乾燥する季節になった。色々とお肌のまがりかどなお年頃。いろんなものが必要かと思いきや。
なんもいらん。

かさかさお肌にも、かゆかゆお肌にもならん。
お手手もクリームいらん。
お顔にもクリームいらん。
お身体にもクリームいらん。
そりゃーばばあになったから、シワもシミもあるけどよー。
でもすべっすべさー。

朝お水で顔洗って、ハイ終わり。
お風呂でシャワーだけで身体と髪の毛洗って、ハイ終わり。

なんも必要ないカラダ。
なんとエコなのだ!

最近気に入ってる魔法の歯ブラシ、KISS YOUのイオン歯ブラシ。
必死こいて磨いてないのに、
歯磨き粉なしでピッカピカのつるっつる!
先日歯医者さんにもほめられちゃった。
「よく磨けてます」(笑)

シンプルでええのう〜。

追記:

石けんなし生活は、こうでなければいけないとか、こうするべきを、
緩めていくきっかけになった実験やったなあ〜とおもう。


なんだ〜。そんなに深刻にならんでも、
いらんもんが、この世の中にはいっぱいあるんかもしれんなあ〜と。

引き算人生のきっかけになったっす。



2018年11月29日木曜日

私が影響を受けている人や本



この世の苦悩は、外にあるんじゃない、心の中の何かが私の人生に影響を与えていると気がついてから、内側の旅が始まった。


そうした中で、津留さんや、安達さんという存在を知り、自分の中の観念をさぐりはじめ、そして今奇跡講座にめぐりあった。


宗教も、新興宗教も好きじゃない。
セミナーも通わない。
ひたすら本とネットで理解を深め、実践していった。



基本的にあまり自分が何に影響を受けて学んでいるかを書きたくない。
今この人やこの本に夢中であっても、明日は全然違う本に夢中になる。そんな私。いい加減に人に勧められない。勧めた瞬間、もう私はそこにはいなかったりする。

どんどん移動する旅の途中で、ここは押えどころだなあと感じているのが、津留さんの考え方だった。自分がどうしていら立つのか、自分がどうして不安になるのか、心の動きをクリアに解き明かしてくれた人だ。

残念ながら津留さんは亡くなられたが、その考え方をベースに噛み砕き、それをあらたな独自の方法で受け継いでらっしゃる方が、安達さんだと思う。
安達さん風にいうと、「この人間業界をどうお気楽に生きていけるか」を教えてくれている。私もずいぶん楽にさせてもらった。



ふたりのメソッドに、観念浄化という方法がある。私たちの中にある膨大な量の観念をひとつひとつ意識化し、それを消していくというものだ。
これの良い所は、自分の感情をはっきりと見ることが出来ることだ。

自分がどんな観念をにぎっているかを知る方法は、ネガティブな感情に気がつくことだ。

イラだっているモノには必ず原因がある。その原因とは言葉。言葉とはすなわち、観念のこと。善悪の観念。その善悪の観念にふりまわされている私たち。
その観念からの解放は、津留さん流にいくと、ただそこを観るだけである。

津留さんにはいくつかのメソッドがあるが、わたしはいろんなジェスチャーをするのが好きではない。なのでただじっとそこを観るという方法に落ち着いた。

観て、観て、見続けるうちに、その観念の元になったものが、「あ〜〜!あのときあの人が言った言葉だ!」とか思いだされる時もあれば、「親にいっつもいわれてたことだ」と納得することもある。または、映像が現れ、一瞬の内に消える時もある。
そして何も起こらないときもある。(これが大抵だがw)

でもはっきりとわかることは、やったあとには何もモヤモヤしたものがなくなっていることだ。さっきまでのあのモヤモヤやイライラはどこへ行った?と、おかしくなるくらい消えているのだ。




そんな観念浄化をするうちに、あるブログを読んで、私は思いだした。何年か前に買った、高くて分厚い紺色の本、奇跡講座テキスト編。

この本を買った人はたいてい、一瞬読んで本棚にしまうか、ドアのストッパーに使うらしい(笑)。私は本棚の肥やしにしていた。
とても難解で、ほとんどの人が途中で放り投げてしまう本。。。。

この本は「テキスト編」「ワークブック編」「教師のためのマニュアル編」という三部作になって構成されている。これらがどんないきさつで書かれたかは、ここでは書ききれないので、どこかで探してほしい。



この本はとんでもない本だった。
今までの私たちの考え方生き方を、まったくの逆向きに変えようとする恐ろしい本だ。
私は今まで観念浄化、つまり自我の考え方を消化、および浄化して、この世を楽に生きようとしてきた。だがそれはあくまで、この世界は存在するという前提だった。

よく覚者がいう、「この世は幻」「この世は夢」という言葉。
これは比喩ではなく真実だというのがこの本。つまりこの世は存在していないと。


私は小さいとき感じていたことが、はっきり目の前に、大人の意識の、大人の言葉で書かれていたことに衝撃を受けた。
あれは子供だったからこそ、そう思っていただけではなかったのか!と。
次々解き明かされていく幼かったときもっていた自分の感覚。
あれは間違いではなかった。あれも勘違いではなかった。そしてあのことも。。。



私はかなり幼いときから、この世の理不尽さをあじわった。
この社会の残酷さの洗礼を受けた。

なんという世界なんだ?
どうして私はこんな所にいる?
こんな世界の中でたった一人で生きていかなければならないのかという絶望の中で過ごしていた。

しだいにこの世の生き方を身につけ、それなりに社会人のような顔をして生きてきた。それでも心はずっと「この世の謎」に挑んで旅をしていたのだ。
それが50年後に、今やっと紐解けはじめている。


津留さんの観念を観るやり方はとても私の役に立った。奇跡講座がいう、人間がもつ隠れた罪悪感の巨大な塊を、早々と意識化させてくれた。

観ることによって、そこに光を当てるという津留さんのやり方と、奇跡講座がいう「赦す」というあり方は、どこか似ている気がする。

一方は、観念があるといい、そこに視線という光線をあてて影を消す。
もうひとつは、もともとないものとして「赦す」という。
ちがうけれど、何かが似ている。

その両方を使って、方向転換をしようとしている私。
自分の中にある巨大な罪悪感を完全に消してしまうには、いったいどのくらいの時間がかかるのだろう。。。それでも何かが背後で動いているのを感じる。


奇跡講座はいう。
解放への道はひとつじゃない。
この道もまた、そのひとつにすぎない。

私が通ってきた道は、私独自の道で解放へと向かうのかもしれない。

長くなりました~。




絵:「天狗舞い」




2018年11月27日火曜日

洗車妄想劇場


車を洗ってた。

まっちろい車は、いつのまにか黒い涙でも流したかのように、
墨アミ40%のグレーの縦線が、車全体に縞模様を作っていた。

混雑するショッピングモールに駐車すると、
「お前はシマウマか!」
と、つっこみたくなるよーな汚い車が目立っている。

もう、、もう洗わないとムリーー!

ということで、朝から洗車。
スポンジとシャワーでゴシゴシやりながら、

「洗車。フツー、ダンナがするもんだろ?なんであたしが?
帰ってきたダンナにきれいになった車を見せびらかしてやろう。
『ほーら!洗ってやったわよ!あんたが洗わないから!』」

と、心がエアー演説をぶちかましている。

じょびじょび、さらさら、じょばじょば、じゃじゃーーーーっ!(外側の音)
ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ、、、!!(内側の音)

外より、内側の音の方が、けたたましいったらありゃしない。

私の中に観念がいっぱいある。

車は男が洗うもの。
冷たい水を浴びたら風邪引く。
頼んだら、やってくれることが正しい。
ご近所さんに見られて、
「まー、オタクのダンナ、車も洗わないの?」
なんて言われたらどうしよう?

心の声は止まらなかった。
これ、止まらないなあ。。。
ああ、そっか。ほっとこ。

心の雑音に、乗っからずにいた。
しゃべってる音を、ただ聞いていた。




ふと、ご近所さんが車を洗ってる姿を思いだした。
「あたしねえ。洗うの好きなのよ~。うふふ」
そーだ。女の人が洗ってたな。

だんだんきれいになる車。
何だか楽しくなっていた。
最後にふきんできれいに拭いた。



ダンナには、黙っとこ。
気がついたら、それはそれですごいし、
気がつかなくってもじぇんじぇんオッケー。


いつのまにか、あの観念は消えていた。


2018年11月25日日曜日

チョーリアルな世界!



何かにネガティブな反応を起こすとき、
人はそこにある観念を持っている。

それはひとつではない。
二つ三つ、あるいは十個の観念を同時に作動させ、その出来事に反応する。

時には大きな反応、時には些細な反応。
それが私たちを不自由にさせている。

ネガティブな心は、この世をリアルにする。
反応するたびに、この世がぐっとリアルに見えてくる。
こうやって自我は私たちをこの世界に釘付けにする。


『この世界があるよ。
この世界しかないよ。
ここでサバイバルして生き延びないのは負け犬だよ。』

そう呟いてくるあたまの中の声。
だがこの世界は本当は存在してないとしたら?
夢だとしたら?

世の目覚めた人々はいう。
この世は幻想だ、と。

それは比喩ではなく、真実だとしたら?

夜見る夢は、朝目覚めて、「ああ、夢だった」と気づく。
目が覚めるまで、とてもリアルじゃなかっただろうか。

と言うことは、今私たちが目覚めていると思って見ているこの世界が、夢でないと誰がいえるだろう。
まさに目覚めないかぎり、夢か現実かは、わからないじゃないか。



この世に釘付けにするのは、まさに私の中の声。
自我の声。

脅してくる声。
問題定義する声。
自分を矮小にしてくる声。

小さくて、か弱くて、限界があって、
誰かに守ってもらわなくてはいけない存在のようにたたみ掛けてくる声。

すると矢継ぎ早に、あの問題はこうして、その問題はああやって解決させて、これはこうでなければダメ、こうするのが常識。。。。
そうやってこの世にがんじがらめにさせる。

チョーリアルな世界は、問題があってこそなのだ!



赤く咲くのは、ケシの花~
白く咲くのは、ユリの花~
どう咲きゃいいのさ、この私~。
夢は今みてる~♪

これは夢の世界の中で、どう生きればいいのだ!?
と、問答している歌だな。


深いっ!


2018年11月22日木曜日

最近見た映画、ドラマ。


最近見る映画やドラマが、外の問題に対して戦っているというよりは、
内面に向かって取り組んでいるものが増えていることが興味深い。

最近見た映画で面白かったのは、
『ミッション・エイト・ミニッツ』
死ぬ人物の、最後の8分間の中に入って、ミッションを遂行する話。

その同じ監督の処女作、
『月に囚われた男』
自分とは一体何か?どこまでが自分なのか?
という問いを突きつけてくる。
これはヤラレたなあ。
ちなみにこの監督はデヴィッドボウイの息子なのだ。
さすが宇宙人の息子!w

デンゼル・ワシントンの
『フライト』
最後に震えたなあ〜。

同じくデンゼルの
『ウオーカー』
聖書ってこんな風に出来たのかもしれない、とおもわせてくれた。

『アンノウン』
これが自分だと思っていたアイデンティティが、解体していく。

『ミスター・ノーバディ』
最後の「死」を知る主人公が、不死の人々に語る言葉、
「君も私も存在していない」

『Lion』
25年間も迷子だった主人公の話し。事実にもとづいた話。
美しい映像。めっちゃかわいい男の子!

『ものすごくうるさくてありえないほど近い』
自閉症の男の子が、911で亡くなった父を求めて、たくさんの人々に会う物語。
まさにあの時間、わたしはNYにいた。
あの空気感をそのまま伝えてくれている。
あのとき、NYの人々の心は一体になっていたんだよ、ほんとに。


勧善懲悪のワンパターンからの脱出?
最近の若い監督は、外に敵を作って戦うことをやめたかのようだ。
人間とは何か?本当にこの世界はあるのか?
という問いを、私たちに投げかけてくる。
そういう映画を見るのは楽しい。



ドラマの方も、また何か変化がある感じがする。
今回の『下町ロケット』も、一話目を見たんやけど、
「あー、あたこれかー」って、見るのやめちまった。

問題が起こって、それに奮闘して乗り越えて、
やったー!バンザーイ!って達成感を共有して、
そしたらまた問題が起こって、それに向かって戦って、
七転八倒の末に、やっと乗り越えて、やったー!となって、
また問題が。。。。
それのなにがおもしろい?
やまんばはあきたーーー。

で、『僕らは奇跡で出来ている』
はおもしろいなあ。
今の人たちが抱えている閉塞的な義務感や価値観で、
いっぱいいっぱいになっていることを
はっきりとみせてくれ、
その中にすーっと入っていく主人公。

彼もまた自分の内面に苦しんだのちに生まれた別の視点。
まったくちがう視点からものを見ようとするヒントを与えてくれる。

外に問題を見つけて解決していくことは、もう限界がある。
本当は問題は外になんかなかったんだ。
内側にあったものを外に見ていただけだったんだ。

面白い時代がやって来る。



絵:「Hot Fudge Murder/Cynthia Baxter」/ペーパーバック表紙


2018年11月11日日曜日

静けさの中に入る



心の中を観ることをしていくと、どんどん自分の中をほりさげていくことになる。


前はおおざっぱな感情だけが見えていたのに、それを通過すると、より細かい感情に気づき、それも通過すると、ますます微細な感情にまで気がつくようになる。
ほんの一瞬の心の動きのはじまりまでもが感知される。



そのうち、自分が外ものに反応していることに気づきはじめた。

外に見える世界。
人の言葉、人の態度、
畑、庭、山、
外に見える世界に反応している自分。

ネットの文字に反応し、
テレビの映像に反応する自分。

そしてふいに浮かぶ思い、想念、イメージ。
あたまの中も、また外のものだ。



いわゆる「幸せ」も、外からやってくる。
食べて幸せ、聞いて幸せ、見て幸せ、
理解して幸せ、達成して幸せ。。。

だがそれは長くは続かない。
ネガティブな感情も、ポジティブな感情も、長くは続かない。
ネガティブな感情は、追いかければ長く続く。そして肥大化する。
ほっておけばそれはやがて消える。
どっちにしろ、外を見て受けとる反応は、やがて消える。

その仕組みにいささか疲れはじめた。
なぜこうも、反応しなければいけないのか。そこに本当のものはあるのか。

『反応の中に答えはない。。。』

心のどこかでそう聞こえた。



反応から来るものではないなにかがある。
それは外からはけして来ないもののようだ。

見ず、聞かず、外に反応をしない時間をもつ。
心の中の声さえ聞かない。
すーっとまっすぐ自分の中に降りて行く。



静けさがある。
静けさのむこうに何があるのだろうか。
わからない。
ただそこにいることが心地よい。


目の前に見えている世界が、『何の意味もない』
という言葉の意味が、
ちらちらと、わたしをくすぐる。




キクイモが消えた



畑の一角に、ずっと森のようにこんもりと生い茂って勝手に育っていたキクイモ。

収穫の時期が来て、土を掘り起こしてみると、いつもはわらわらと出て来る芋が、今年はこつ然と姿を消した。

昔は背丈ほどあったハルジオンも姿を消した。アカザも消えた。
畑の中で植物たちは変化をつづける。
キクイモもその姿を消そうというのか。

鳥に食べられる豆類は、移動したがっている。風に吹かれて飛んでいく種も移動したがっている。種たちはそれぞれの特徴を生かして、どうにかして移動したがっている。

芋たちは自ら移動しない。だから移動させなくてもいいものだとして、サトイモもそのまま同じ所にうわりっぱなしだった。でもそういえば、新たな所では芋は大きいいが、昔からある場所は、小さくなってきている。かれらもまた何らかの形で移動したがっているのだろうか。

キクイモは同じ所で、かれこれ6年育ってきた。
サトイモもおなじくらいだ。

キクイモはキクイモの、サトイモはサトイモの、それぞれの土の中で飽和状態が起こっているのかもしれない。来年は別の場所に移動させてみよう。

ん?しかし芋はどうやって移動するのかな?
人の手だけ?
え?サル?
ちょいぐいして、ほったらかすのは、そのためか(おいっ!)




2018年11月4日日曜日

過去の清算




ダンナが、今過去の清算をしている。

阿佐ヶ谷時代からニューヨーク時代へ、そして今の高尾時代へと生きてきた片鱗を整理しはじめている。
人間生きていると、いろんなものが増えていく。表現するものは、表現したがゆえに、いや、アイデンティティを確立するために、表現物が増えていく。それにともない、道具もがんがんと増えた。

昔はカメラはフィルムが当り前。今はデジカメが当り前。時代はどんどん変化していく。無用の長物となったでかい引き延ばし機、現像にまつわるもろもろの機材や材料。ありとあらゆるものを、どんどん捨てはじめた。

音楽の機材もおしげもなく捨てていく。そしてずっと大事に持ってきた若い頃に影響を受けたこむずかしい本たちさえも。

彼の中に何かが起こっている。過去で埋め尽くされた心に、新たなものを入れていくスペースでも作ろうと言うのだろうか。

今はヤフオクや、メルカリなどのシステムがある。使わないものを誰かに渡してそれを生活の足しにするでもなく、気持ちいいぐらいばんばん捨てていく。それが彼らしい。

一方の私はと言えば、モノが捨てられない性格。
「ひょっとしたら、いつか使うかも。。。」
と、穴のあいた畑用の手袋、新聞紙、間違えてプリントした紙、お菓子のカンカンまでとっておく。(メルカリに出せるものなどひとつもない!)
「いつか資料になるかも。。。」
と、読みもしない本もずっと本棚に入ったまま場所を占領しつづける。へたに制作などしたら、どんどん作品という名のゴミまで増えて行くではないか!

強烈に整理下手な私の部屋は、いつもわけのわからんものが乱雑につみ上がっている。このまま行ったら、ここは私のせいでゴミ屋敷になるかもしれない。。。



ダンナが一枚のモノクロのベタ焼きを見せてくれた。
大量のベタ焼きを整理しているうちに、なつかしい写真が出てきたのだ。
まだ黒髪が光っている30前後の私が写っていた。自分で言うのもなんだがかわいい(笑)。
こうやって、過去の自分をみては、
「ああ、あのころは若かったなあ~」
なとど、しみじみとおもうのだ。
きっと今の白髪頭の私を写真にとっても、十年後には、
「ああ、あのころは若かったなあ~」
などと、きっとしみじみとおもうのだ。。。!

だがベタ焼きでうつっているあのころの私は、決して自分が今若いとは思っておらず、若さを謳歌するでもなく、もっと若かった自分を思い、今の自分をうれいて、苦悩していたのだ。

それってどうなの?なんか、損こいてね?
ずっとずっと、過去をうらやんで、今をうれいてばかりなのだ。
今を「こうではない」と言い続けて、未来にもっといいものを探そうとし続けているだけなのだ。

約30年前の私が、
「で?今はしあわせかい?」

と、聞いてきている気がした。