何かにネガティブな反応を起こすとき、
人はそこにある観念を持っている。
それはひとつではない。
二つ三つ、あるいは十個の観念を同時に作動させ、その出来事に反応する。
時には大きな反応、時には些細な反応。
それが私たちを不自由にさせている。
ネガティブな心は、この世をリアルにする。
反応するたびに、この世がぐっとリアルに見えてくる。
こうやって自我は私たちをこの世界に釘付けにする。
『この世界があるよ。
この世界しかないよ。
ここでサバイバルして生き延びないのは負け犬だよ。』
そう呟いてくるあたまの中の声。
だがこの世界は本当は存在してないとしたら?
夢だとしたら?
世の目覚めた人々はいう。
この世は幻想だ、と。
それは比喩ではなく、真実だとしたら?
夜見る夢は、朝目覚めて、「ああ、夢だった」と気づく。
目が覚めるまで、とてもリアルじゃなかっただろうか。
と言うことは、今私たちが目覚めていると思って見ているこの世界が、夢でないと誰がいえるだろう。
まさに目覚めないかぎり、夢か現実かは、わからないじゃないか。
この世に釘付けにするのは、まさに私の中の声。
自我の声。
脅してくる声。
問題定義する声。
自分を矮小にしてくる声。
小さくて、か弱くて、限界があって、
誰かに守ってもらわなくてはいけない存在のようにたたみ掛けてくる声。
すると矢継ぎ早に、あの問題はこうして、その問題はああやって解決させて、これはこうでなければダメ、こうするのが常識。。。。
そうやってこの世にがんじがらめにさせる。
チョーリアルな世界は、問題があってこそなのだ!
赤く咲くのは、ケシの花~
白く咲くのは、ユリの花~
どう咲きゃいいのさ、この私~。
夢は今みてる~♪
これは夢の世界の中で、どう生きればいいのだ!?
と、問答している歌だな。
深いっ!
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