2019年9月28日土曜日

畑という大きな親



11年やってきた畑をやめた。

なんでかって?
もちろん挫折したからさー。
成功してやめる人はめったにいないやろ。

一番の理由は、体力。
二番目は一番目とほとんど同じ。野生動物とのおりあいがつかなかったこと。

やってもやっても彼らに持っていかれる。普通ならやらないこと、大根にネットを掛ける、枝豆にネットを掛ける、落花生に、ジャガイモに、取られないようにあらゆることをやった。それでも食べられる。彼らが食べないのは、唐辛子とシシトウとピーマンぐらい。他は全部平らげる。

畑に向かうたびに、荒らされてないか気が重い。
心の勉強をしていることで、物理的なもの以外にまでその原因をさぐった。この現象は自分の考え方の何が悪いのか?どう考えればこの現象が終るのか?と。

それでも答えは見つけられなかった。



やめるきっかけになったのは、イノシシに入られたこと。徹底的にやられた。その惨状を見た時、なぜか心は穏やかだった。どこかでやめるきっかけを探していたんだと思う。

それでもその予感は一年前から徐々に来ていた。父の死の前後、忙しくて畑に向かえない。草は生え放題。畑は徐々に山に帰ろうとしていた。その上バイトで体力はがっくりと落ちた。


ある時、畑に未来を感じない自分を見つけた。
そのおどろきとあまりの悲しさに、畑でひとり大声で泣いた。
その時自分がいかに土に触れることを愛してやまなかったかを知る。
小さいときからいつも一人で土と戯れていたのだから。




畑は私に収穫だけでなく、ありとあらゆることを教えてくれた。

辛い時、苦しさに喘いでいる時、草を刈っていると、ふいにヒントをくれる。
まるでまわりの土や草や虫たちが、私の心にじっと耳を傾けて聞いているかのようだった。

すべてが私の仲間だった。草は刈られることをいとわなかった。最初は草を刈ることに罪の意識を感じていた。しかし彼らに私たち人間がもつ自我のようなものはなかった。ただただ受け入れてくる。自我の塊の私をただただ受け入れる。したいようにさせる。

私は畑という大きな親の懐の中で遊ぶ、ひとりのやんちゃな子どもだった。



イノシシはこの畑に野生の空気を入れてくれた。イノシシにホックリ返されて、畑全体に出来た大量の巨大な穴たちは、土にたくさん空気を入れた。畑が、大きく深呼吸をしているように見えた。

「ここで学ぶことはもう終ったね。さあ、交替だよ」
そう、イノシシは言っていた。



私は黙々と小屋の整理を始めた。
整理したら、またやりたくなるかな?
ひそかに期待をしている自分がまだいた。
しかし心は動かなかった。

それでも自我は過去楽しかったことを思い起こさせて、まだ畑にしがみつけとうながしてくる。それをバッサリ切られることになったのは、ダンナに力仕事を頼んだときだった。彼が一瞬のうちに腰をやられた。その時私の畑への執着が、彼のケガにつながってしまったと気づかされた。


畑は私の背中を押していた。
「もう、ここから出て行きなさい。」


畑にあった支柱を全部外して、小屋をきれいにした。
私が畑から持って帰ったのは、生前ゆいいつ父に買って送ってもらったハミキリとのこぎり一個。それだけで十分だった。


帰りがけ、畑にいっぱいお礼を言った。
もう言葉にはならないくらいの感謝でいっぱいだったけど、全然言いたらないけど、
それでもきっとわかってくれているだろう。

さようならは、なぜか言えなかった。


薄赤く色づいたすすきがゆれて、私に手をふっていた。




2019年9月27日金曜日

幸せを求めて




しあわせってなんだっけ?

ポン酢醤油のあるうちさ~♪
って、うん。それもある。(あるんかい!)

そう。わしらは、幸せを感じる時、あるものをここにもってくる。
ケーキ。おいしもの。好きなもの。好きなこと。

楽しいことをしたから幸せ。
楽しい時間を味わったから幸せ。
必ずそこに条件がある。「~だから、幸せ」

「何にもないけど幸せ。」
とは、なかなかならない。
つねに幸せになるアイテムを無意識に探している。



そして私たちは、幸せを未来に託している。
「こうなったら、幸せ」
「いつかこうなれたら。。」
「今がんばったら、あとでご褒美が。。。」
「今苦しいけど、三年後には、資格を取ってああなって。。。」
「今きついけど、老後には悠々自適。。。」
(でもダンナがリタイアして大満足な奥さんはめったにいない。
たいてい「え~~~、家でゴロゴロしてないでどっかいってよ」となるw)

ケーキ食べている真っ最中でも、心はどこか未来にある。
「これ食べたら、あれ食べよ」とか。

心/自我は、つねに心を今ここにいさせない。未来か過去に押しやる。




先日、11年間やっていた畑をやめることにした。
そのとたん、私に未来がなくなった。
種を蒔くとは、未来に期待をさせていたのだ。それが突然消えた。お先真っ暗だ。その時私はどれだけ畑に自分の未来を重ねていたかを知った。
未来が自分にどれだけ生きる糧を与えていたのかを知ったのだった。

そしてぱらぱらと紐解けていく、この世の幸せの実体。

未来にいくら幸せの希望を抱いたところで、その「未来」にたどりついたとき(それは「今」になっているのだが)、それはまたその先の未来の希望に託すだけで、延々と続く、果てしない、いつまでたっても叶えられない幸せなのだ。

そういうことがわかってくると、「~して幸せ♥」は、子どもだましのおままごとに思えてくる。


今、コーヒーを飲みながらシフォンケーキをつまんでパソコンを叩いているが、それは幸せの本質ではないのを知っている。
仕事の納品を終えてビールを飲む幸せ感、それさえも本質ではない。
私たちが本当に求めていることは、これではないのだ。




ただ、安堵したいのだ。
ああ~、これでよかったのだ、と。
探すことをやめられた瞬間の、ホッとする感じ。

何かしなければ、いけないという焦燥感から解放された、何もしなくていい安堵感。
何もしなくても、ここにいていいと言われている安堵感。
どんな能力もなくていいと、ただそこにいるだけでいいと、自分は何もしなくても価値があると、心底感じられるここちよさ。

心がざわざわせず、静かで、満ち足りた感じがして、平安が広がっている。。。
内側から広がっていく何かを感じている。。。
自分ではない何かになろうとしない自然な感覚。



いつのまにか、私たちは幸せとは何かをゲットして得るものだと思わされて来た。
忘れているだけだ。

それは何をしなくても、いつもここにあったのだ。




2019年9月24日火曜日

コースのワークブックを終えて



奇跡のコース/奇跡講座/奇跡の道のワークブックを一年かけてやり終えた。

かなりいいかげんで不良な生徒だったが、自分がこんなふうに地道に心を訓練するような人間だとは思わなかった。
それだけ切羽詰まっているのだ。生きていくということに。

あろうことか、ウチのダンナまでワークブックをやりはじめた。
彼もずっと探求し続け、不二一元論のマハルシ、マハラジの教えを徹底的に読み解いて来た彼が、だ。
ふたりとも切羽詰まっているのだ、生きていることに(笑)。

奇跡のコースのワークブックは365個、一日ひとつの文言とともに一日を過ごしていく。早くても一年かかる。まじめなじっくり取り組む人は何年もかける。

ずっと信じて来た考え方を180度回転し、ま反対に向けるワーク。おいそれとは、一筋縄ではいかない。
自我とともに生きて来た私たちは、その言葉に絶句、抵抗し続ける。
そんなわけないやろ!あほか!と。
だから途中で断念する人続出。あの分厚い本は、ドアのストッパーにされるか、本棚の肥やしに収まる。
それでも買った人は、何年かのちにふと手にとってしまう。そしてあらためて読みはじめるのだ。

365章にまで行き着いて
「やったあー!ついに終ったー!」
と、諸手を上げてよろこんでいるのもつかの間、その後すぐにダンナがやりはじめた。

だから今一緒に読んでいる。
ワークブックは、一度で終らせず何クールもやる人が多い。
あらためて一年後に読み返すと、最初っから本筋しかいってないことがわかる。ど直球で一個のことしか言ってない。
一年前にこれらの言葉を読んでもさっぱり意味が分からなかったが、今はすこし理解しているのがうれしい。
きっと何クール目に入ったとしても、そのつど言葉の意味をもっと深く理解していくのだろう。

理解のひとつに「私は一人ではない」と言うことを気づかせてくれた。
いや本当は知っていた。ずっと前、当り前だった感覚。誰かとともにいたことを。

それがいつのまにか、たった一人でがんばらなければいけないのだと信じてやっていた。
私はこの世界をまったく知らないのだから、自分一人で必死で学んで、必死でついていかなければいけないのだと思って来たのだ。

だけど思いだした。誰かと一緒だった。いつも一緒だったのに、もうすっかり忘れていて、半世紀以上たっていた。
何かの存在を感じるわけでもない。誰かが横に立っているわけでもない。それなのに一人じゃないという感覚。ひとりぼっちじゃないという感覚。

その間、自我はひっきりなしに言ってくる。
「お前はひとりだ!一人でがんばらないといけないんだ!誰もお前を助けてなんかくれない!なぜならお前は無価値だからだ!」
ずっとその声に耳を傾けて来た。
そうだ。私は無価値だ。だからがんばってがんばってがんばらないと、この世界にいられないと。


それも今は小さな声になっている。
あの声は本当の自分の声ではない、と知っていることの安堵感。
言わせておけばいい。そのうち消えてなくなる。

コースは、頭の中に聞こえている声がいったいなんなのかを徹底的に教えてくれる。
あまりの徹底ぶりに、本を壁に投げつけたくなるほどだ。
投げつけてもいいんだと思う。
そのときその人は、正直に自分の心と向き合っている。



心を見ることは怖い。
それは見られると消えてしまう何かが、恐れを抱いているからだ。

その怖がっているものは、本当の私なのだろうか。


2019年9月9日月曜日

あらしの夜に



昨晩台風の風の音が怖くて、寝られなかった。
こりゃ、高知県人。こんな台風の風の音で、なにビクビクしてる!
と、頭でいくら説得しようったって無理だー。

怖れの中で、怖れを消せない。
悶々とする中で、怖れをきらうのではなく、怖れってどんな感じ?と味わうことにした。
きらうって、怖れを受け取らないことだ。
どんな感じかと味わうとは、自分が怖れていることを受け取ることになる。


そっとからだの感覚に耳を澄ます。
胸のあたりがなにやらモワモワするあるイメージが出てきた。
それはぱりぱりと軽いものが割れて行くイメージ。たとえて言うならレタスの芯が割れているかんじ。そのレタスの芯が胸のあたりでぱりぱりと割れている。
恐怖ってこんなかんじなんだ。。。

そのなんとも言えない感じを味わいながらも、その最中風の音にビクビクと囚われていない自分がいた。
しばらくすると、悲しみが出てきた。恐怖なのに悲しみ?怒りも交じっている。レタスの芯のパリパリのあとに、何か別のものが見え始める。

何かが胸に突き刺さっている。太さ十センチ角のアルミの棒のようなものが、斜め上から私の胸の中に突き刺さって、背中に抜けていた。

こんなものが私の胸に刺さっていたのか。。。

ふと小さい時に起きた事件を思いだした。
飼っていた子犬のコロが死んだときのことだ。
「ああ、まだ私の中にあれが残っていたんだ。。。」

まだ小さかったコロをだいて、友だちの家に遊びにいったときのこと。コロはまだ繋がれていなかった。その子の家の庭でちょうどいいカゴを見つけた。コロの上にひっくり返して檻のようにして乗せておいた。

ひとしきり友だちと遊んで家に帰るろうとするとコロがいない。やっと見つけたコロは庭の脇を流れていた水路の中で溺れ死んでいた。コロは軽いカゴを押しながら水路に向かったようだ。
自分の不注意でコロが死んでしまった。あの時カゴをかぶせなかったら、コロは死んでいなかったにちがいない。
泣きじゃくりながら浴衣に包んだ濡れたコロの亡がらを父といっしょに海に捨てにいった。
あのときの悲しみと恐怖、それに自分への怒りが入り交じったものが、アルミの角棒として私のむねに突き刺さっていた。



「もう、これは私には必要ない。。。聖霊さんに取り消してもらおう」
あふれてくる思いをそっと胸から取り出して、見えはしないが、たしかにそこにいるであろう聖霊にそれを差し出した。

私たちは通常自我の中で考えている。自我は自我で消せない。
自我の土俵にはいない存在にそれをゆだねるのだ。


それからしばらくして心が静かになった。胸にあったアルミの棒は消えていた。

私の怖れは、自分が何かまちがったことをしているんではないかおもっていること。
その元になっているのがコロの事件。私のまちがいで、ひとつの命を落とさせてしまうかもしれないという究極の恐怖だ。

だから台風の嵐は、私が見落としたもので、何かが壊れる、誰かに迷惑をかける、そんな事になるんではないかという恐怖だったのだ。
だからいつも「雨戸はだいじょうぶ?玄関に置いてある傘立ては?あれは?これは?」と、心が右往左往してしまうのだった。


少し前とはまるでちがう静かになった心は、
ただ風の音を聴いていた。



2019年9月5日木曜日

セクハラ返しだ!



バイト先の店長のセクハラ言葉がすごい。
ここまであからさまに言う人をみたことがない。
そこでやまんばは、負けじと輪をかけて、店長にセクハラ発言をする。

「朝からすごい会話なやあ~」
と店長苦笑い。
セクハラ攻撃には、セクハラ言葉で100倍返しだ!

と、ここまでやって、はたと気がつく。
これ、攻撃やん。

攻撃されたと思うから、自分を守るために倍返しの攻撃!
これは延々と続く防御作戦。互いにニコニコにやにやしながら傷つけ合っているだけだ。
自分がやってることのむなしさばかばかしさに気づく。
もうやーめたっ。





最近、こんな風に考える。
「これ、愛で見たらどうなるんやろ?」

こんなこと考えるのはガラじゃない。どっか小っ恥ずかしい。
でもふいにそんな言葉が浮かんで、それを言うと自然とそんな目で見始める。
店長との会話が「攻撃やん」って気がつけたのも、そんな習慣がついていたからなのかもしれない。



私たちが世の中を、いかに怖れを通して見ていることか。
怖れながら見て、怖れながら行動する。
それがあまりに自動的すぎて、自分が怖れの中にいることさえ気づけない。

自分を守るために攻撃する。防御と攻撃はセットになっている。
その前提は敵がいる。敵は自分を傷つける。
そういうめがねでこの世を見る。いつ襲ってくるかわからない敵に向かってつねに防御策を練る。

そして私の場合、外だけじゃなく、自分の中に敵がいた。自分がいつ、自分に攻撃されるかわからない戦闘態勢の中で生きて来た。ビクビクおどおどしながら、自分がいつ裁かれるか、四六時中見張っていた。

だから怖れがどれだけ強いものか知っている。
それにどれだけ振り回されて来たことか。。。!!



けどそれは、存在しないものを存在しているかのごとく思っただけだった。
柳の木がゆれるのを、お化けがいる!と思って怖れているようなもんだった。

戦場は、心の中にあるだけだった。
怖れは、心の中にあるだけだった。



これ、怖れで見てない?
それを愛で見たら、どう見える?