2014年4月25日金曜日

ぜ〜んぶひっくるめて、まるっと交配だ!



今、やまんばの畑は菜の花だらけ。まッキッキ。
見事なまッキッキをながめて、
「うん。このままほっとこう」と決めた。

白菜もチンゲンサイも小松菜もフユナもタアサイもコカブも水菜も壬生菜も、ぜ~~~んぶひっくるめて、まるっと交配だ!

どっちみちアブラナ科は交配する。どんだけ離して隔離してひっぺがしてって頑張ったって交配する。きのうの話じゃないが、雑種になりたがっているのだ!(ほんとか?)

やまんばの数少ない過去の経験から、アブラナ科が交配すると百花繚乱になる(はず)。白菜の種のはずなのに、蒔かれた畝にはギザギザの葉っぱや、丸い葉っぱや、ヒョロ~んと長い葉っぱや、どー見ても水菜だろ!とつっこみたくなるもんや、わけの分からん物だらけの畝になる。
どーよ、こーゆーの。

「これは何の種ですか?」と聞かれると、
「それは蒔いてみての、お、た、の、し、み、です」と答える。

ほら、今おっしゃれ〜なベビーレタスのサラダが楽しめるミックスレタスの種ってあるじゃん。それのよーな、アブラナ科バージョン、おっしゃれ〜なミックスアブラナの種っちゅーのんは。(お、おしゃれか?)
おお、じゃあこれはどーだ、アブラナ科福袋。
どーよ、こーゆーの。

しかも雑種は強いときたら、そりゃーもー、こーゆー未来が待っている。
「雑草?アテクシの畑は白菜が雑草でございますの。ほ~っ、ほっほ。」
と、イバレるのだ。

だから他の種を蒔くときだけ菜の花を苅るだけで、自然さんの「種つくりほーだい」にしておく。すると種はそこいらへんにまきちって、まさに!ザッソー化するのだあ~~~!(妄想炸裂)

するってえと、畝道にもどこにもかしこにも食う草だらけになる。大根の雑草、白菜の雑草。。。。ああそーだ、ノラボウも雑草化しつつあるし、すでにルッコラもこりゃなんだーも(コリアンダー)雑草化しているし。
うへ~~~~い、ついでに裏の山にも蒔いちゃうか!

山桜は種をまくといろんな種類の山桜がうまれる。自然の中の種はその小さな種の中にいろんな可能性を持っている。ニンゲンだって同じ親から生まれるのに兄弟は全然違う。もし交配したがっているモノたちがいれば、それはきっとそれを欲しているからに違いない。野菜は元々野生の草から作り上げられたもの。だとするなら、またもとの姿に帰って行くのかもしれない。

げげげ~、食えんなったらどーしよ。
いやいや、そんな元の姿になる彼らを見られるのもおもしろい経験やんか。ソンときゃ、またニンゲンさまが長い時間をかけて改良した種を買うことにしよう。

まるっと交配種(別名アブラナ科福袋)、ご入用の方はやまんばまで。(そんな種いらんいらん)

2014年4月24日木曜日

ニンゲンは雑種だ


ウチの畑に一本のオリーブの木がある。最初は小さな苗で、ほとんど忘れ去られ、ほったらかされて、草とツルにおおいつくされまくり、ときどきおもいだしたよーに、草刈りしてその草を根元に置く。そんな素晴らしーほったらかし農法によって、いつのまにかでかくなった。
しかし花を咲かせるだけで、ちっとも実がならない。

先日、庭師の知り合いの方がひょっこりウチに来てくれた。
畑のオリーブのことを話す。
「オリーブは自家受粉できないから、もう一本別のオリーブを植えるんだよ。」
「あ、そっか!」
「だけど、違う種類のオリーブじゃないとダメだよ」
「え?なんで?」
「同じ種類のオリーブだと受粉しないんだ」
「へえ~、種類って何?オリーブっていろいろあるの?」
「いっぱい種類があるさあ。」
「だけど畑のオリーブの名前がわかんない」
「枝を一本折って植木屋さんに持って行くといい。それでわかるから」
「はは~、なるへそ~」

同じ種類のオリーブの木では受粉しない。
昔テレビである実験をしてたことをおもいだす。

男性陣にTシャツを素肌に一日着てもらい、体臭がオモイックソ着いたそれをビンの中にいれて、女性たちに匂いをかいでもらうのだ。
彼女たちは瞬間にはっきりと、
「この匂い好き!」というのと、「ゲっ!この匂い、だいっきらい!」
と反応する。
だが一人が大きらいでも、他の人は大好きだったりするのだ。彼らの遺伝子を調べると、拒絶反応したものだものどうしは、遺伝子的に近いところにあるらしい。だが好き!ってな匂いは、遺伝子がまったく遠いところにあるそうだ。おもしろくね?それっていわば近親相姦を嫌うように仕組んだ、いわば自然の摂理みたいなもんじゃね?
イヌでも純血種より、雑種の方が強い。自然は雑種に雑種になろうとする。雑種って書くからなんか劣ってるみたいなイメージがあるけど、ほんとは「優れている」んかもしれん。


桜はいろんな種類がある。
山からとってきた桜の種を蒔くと、いろんな種類の桜が生まれる。そこでその中からステキな桜を選んで、その木を移植し種をとっても、やっぱりいろんな種類の桜になるそうだ。
ソメイヨシノは種から育てたのではなく、枝を挿し木にして増やしているらしい。クローンとか、双子みたいなもんだ。だから双子ソメイヨシノが開花するときは、みんないっせいに咲くのだ。
しかし高尾山の山桜はあっちこっちで好きな時期に咲く。ニンゲンさまのつごうにはあわせないのだ。


「ソメイヨシノは実がならないんだよ」
庭師さんはいう。
これは人間の匂いの話と一緒なのか?
隣り合ったソメイヨシノどうしが、
「なあに?なんで姉妹のあんたと実を結ばなきゃあ、なんないわけ?ありえな~い」と、シカトしあっているんだろーか。
クローンはクローンどおしでは、子はできないんか。なんか宇宙の奥深さをかいま見せてくれるなあ。

人間の小学生レベルの感覚では、
「同じものがいっせいに咲くって、きれいよね~」
っておもうけど、高尾の山にうっすらと浮かび上がる淡い山桜の美しさは、大人の気品をかんじさせる。
「この美がきみたちにはわかるかい?」
と、自然は問いかけてくる。

人間はそういう意味では完全な雑種だ。シェパードとかラブラドールとか、名前のついた種類ではない、ありとあらゆるところから入り交じった、とんでもなく雑種な存在だ。イヌでも野菜でも雑種はつよい。

ホントはニンゲンってすごく強い存在なんじゃない?




2014年4月21日月曜日

花の視線はどこに。。。?







おとつい、いつものよーにビール片手に寄せ植えしたのを眺めてたら、花の向きが気になった。

なぜか玄関脇の小さなコーナーの花たちが、全部北東の方向に向いているのだ。
畑の野菜は、みんななんとなく南東の方向に向いている。彼らは朝日が好きなんだろうなあ~とおもってた。だけど玄関脇の花は北東。朝日がほしいのであれば、真東をむいていいではないか。なのになぜ北東?

じゃあ、そのすぐ近くにある寄せ植えした鉢の方はどうかと言うと、真北を向いている。おっかしーじゃねえか。同じ種類の花でさえも、鉢の方は真北。玄関脇は北東。

一体彼らはどこに意識を向けているのだ?とおもって、彼らが向いている方向を線で引っ張って、交叉する部分をみたら、、、、
なんと、ここじゃねえか!やまんばがいつも彼らを眺めてる位置だった!!!

庭に回って他の花たちを観察してみる。そこは南側にあるので、当然彼らは南を向くはず。。。
すると同じ一つの苗の中で南に向いたグループと、家の方を向いたグループのまっぷたつに分かれているではないか!(やまんばは庭の方はいつも家の中から彼らを眺めている)


やまんばはむか~し山岳部だった頃、山のふしぎな話を先輩から聴かされてぞくぞくした記憶がある。

何の花だったか忘れたが、一人で山を歩いていたら、めずらしい高山植物の群生にであったそうだ。あまりの美しさに引き込まれてしばらく眺めていたらしい。その後その群生をぐるっと回って歩いていたとき、奇妙なことに気がついた。花たちは、ずっとその人の方に向いていたのだという。
「それがどっちに歩いても、こっちを向いているのよ。何か恐ろしいような神秘的な不思議な体験だったわよ」
やまんばはその話を聞いて、ぞぞぞぞぞ~~~と、鳥肌が立った。

たしかにやまんばが畑に行くと、野菜たちがやまんばに気がついているのを感じる。その先輩のように花がこっちに顔を向けるとゆーことはないが、「見られている」という感覚はいつもある。

しかしこんなにはっきりとこっちを向いているってどおよ。
観るものには観られるのだ。

「野菜の肥料は足音」という言葉がある。まさに足音を聴いて植物は育つのだ。
やまんばは野菜に向かっては「オイ、芽が出るんか、出ないんか、どっちなんじゃ!」と、疑いのまなこで眺めているのもバレているのだ。
今のところ、寄せ植えには「疑い」がない。ビギナーズラックとでもいうものであろうか。失敗の経験がないので、「疑い」もないのだ。だからきっと花たちも心地いいんだろう。


やっぱ、彼らには「お前のしたことは、するっとまるっとお見通しだっ!」なのだ。

2014年4月17日木曜日

ようこそ心の旅へ



やまんばは今心の旅をしている。
自分の心の中が、今何を感じて、何を考えているか。

自分の心の中を見ることってなかなかできない。自分の心のなかって、得体が知れなくて、なにか恐ろしい感じがする。
それは「この感情があってはいけない」という善悪の判断があるからのようだ。

私たちは親からいわれたり、絵本を見たり、本を読んだり、映画の主人公の行動を見て、怒っちゃいけない、泣いちゃいけない、嫉妬しちゃいけない、怖がっちゃいけない、、、って、学んでこなかっただろうか。

だからかあ~っとなった時、「あ、自分おこってる。いけない!」と一瞬自分の心を見て、いけないことだと判断し、それをどうにか回避することをしていないだろうか。

回避とはたとえば、鼻歌歌ってみたり、別のこと考えてみたり、仕事に没頭してみたり、歩いてみたり、スマホ見たり、メールのチェックしたり、次の休みの日に何をしようかワクワクを探したり。それか、今度はかあ~っとなった相手のことを心で罵倒してみたり、いいわけしてみたり、相手の悪いところを並べ立てたり。そのうち話は別のところに展開して、いつのまにかかあ~っとなってた自分を忘れている。

一番だいじなことがある。
「あなたはどうしてそれに対して怒るの?」

どんな時怒る?
その今の怒りは前にもあった?
ひょっとしたら、いつも同じところで怒ってない?
その怒りをずっと同じことで怒っていたいですか?

ほんとうの怒りの原因は「相手」にあるんじゃないんだ。
発端となっているのは、その相手がする「行為」のほうだ。
その行為に許せない自分がいるってことだ。
でもその行為をやめさせようとしてもたいてい失敗に終わる。たとえ一時的にやめさせても、また繰り返すか、別の人が同じことをする。そんなことってない?

そんな徒労に終わる苦心を、別の方向に変えてみるってのが、心の旅だ。

旅の出発点は、自分の感情がぶるっと震えた時。
そこが旅の始まり。

「あ、あたしおこってる。。」
と感じた時は、きっとあなたは駅前にいる。
そこには「わたし駅」という駅名が書かれてある。そこから旅に出るのも
「いやいや、またにしよう」
と、くるっと駅に背を向けて、駅前の商店街の方においしそうなものを探しに行き回避するのもあなたの自由。

あなたは思い切って改札を入る。
駅員さんがにっこりする。
「ようこそ心の旅へ」

ホームはがらんとしててあなたしかいない。
さっき感じた怒りを逃げずにそのまま味わう。怒っている自分を怒っているまま、からだ全身で味わう。腕がぴりぴりする。足ががくがくする。振動に心が揺さぶられる。気がつくと電車に揺られている。電車はどんどん加速し始める。全身で電車の振動を味わう。あなたは自分を怒らせた相手のことなどもう忘れている。怒りは凄まじいスピードで走るエネルギーの固まりだ。そのエネルギーに身をゆだねてみよう。だんだん楽しくなる。もっと、もっと、もっと!

ぱたっと、いきなり振動が消える。
え?
車掌さんがいう。
「着きましたよ」
気がつくと電車は止まっている。
駅の改札で駅員さんに
「おつかれさまでした~」とにっこりされる。
いったいどこに着いたんだろう?と
駅をでて、ふり返る。
「わたし駅」と書かれてある。
なんだ、さっきの駅じゃないか!

だけどなんかさっきと空気がちがう。さっきまであった怒りはどこかに消えている。駅前の商店街からおいしそうなコロッケの匂いがする。
今日の晩ご飯はコロッケだ。
ルンルンしながら家路に向かう。。。


心の旅はどう?
ここからはじまる。私たちはすべてを「味わう」ためにここにいる。

さっきの怒りはひとつ旅をするごとに消えて行く。怒りは消化されると消えるようだ。消化しない限り、えんえんとその怒りはあなたにまとわりつく。何度も何度もそれを消化しろと促してくるのだ。それは怒りだけでなく、すべての感情について。

電車はやがてどうして怒るのかを教えてくれる旅にも連れて行ってくれる。
なんで人生がくるしいのか、それをやめることはできるのか。
それもやがて知るだろう。
この世の秘密を教えてくれる「わたし駅」。

すべての答えは自分の中にある。
自分の感情を怖がらないで、抵抗しないで全身で受け取れば、あなたはもう自分の旅にでている。



2014年4月12日土曜日

ふと浮かぶことって。。。




ふと頭に浮かぶことってある。

そのアイディアにドキッとしたり、え?めんどーくさい、とおもってみたり、ムリムリ、ありえな~い、と否定したり。

こんなことはみんなの中にも時々起こらない?
やまんばは、ふと頭に浮かぶことをたどってみたんだ。

ニューヨークにいくことになった時もそうだった。
その他、覚えてもいないささいなことで、その直感とゆーか、ふと浮かんだこととゆーか、そーゆーことをそのまま、まにうけてやったことによって、ことがスムーズに進んだり、ものすごーい勉強になったり、何かを掴んだりしていたんだ。

実はそのふと頭に浮かぶことって、すごく大事なことを教えられているんじゃないだろうか。ふと頭に浮かぶって、どっからくるんだろう。


んで、そのふと浮かんだあとに、すぐやってくる考えがある。
これは「え~~~?」ってな感じの、反応なのだ。
このすぐ後に来る考えは、だいたいにおいて常識的なことをいってくる。

「それはジョーシキ的に考えてもムリでしょう」
「ばっかじゃないの?」
「そんなことしたら、何いわれるかわかんないわよ!」
「ヤバいヤバい。何かんがえてんだ、おれ」
「あーー、ん?それ、あとあと。今、忙しいから」

こーして、あとから沸いてくる考えと一緒に、そのふと浮かんだアイディアは忘れ去られることになる。時々ふと思い出しても、ああ、やっぱりあれはありえなかったことだわ。あーよかった。ふりまわされなくて。と、胸をなで下ろす。
とまあ、そんなことの繰り返しじゃないかしら、日常って。

後から浮かぶ考えは、自分で考えている。
生まれてきてこのかた身に付けてきた、考え、教育、常識、伝統、等々。
だから自分で「考え」ているのだ。

だけどお~、
その前に、『ふと浮かんだ』ものはいったい『誰が』考えて運んできたものなのだ???

世に天才と言われている人々は、その「ふと浮かんだこと」を、アホみたいに信じてそれに賭けてきたんじゃなかろうか。天才とアホは紙一重とゆーではないか。

誰やねん!いったい誰やねん!
これはわしの頭ん中からと、ちゃうどお。

ふと浮かぶ考えは、ジョーシキとかけはなれていたりする。でもそれをまに受けて行動することによって、解放されてくるなにかがある。
やまんばもジョーシキから考えたらムリな状態でNYに行った。その結果とてつもないものをもらった。

このカラダの上のほうについている丸い頭の中で考えに考えて出来上がるものは、やっぱり頭ぐらいの大きさのもんかもしれない。
だけどふと浮かぶものは、サイズ感がない。時間もない。ジョーシキもへったくれもない。それは時によって分子ぐらいの大きさであったり、または宇宙規模の大きさだったりと、スケール感がちがう。

このふと浮かぶものに忠実に動いてみたら、どーなるか、ふと思ってみたわけさ。


絵:「なぜ皇居ランナーの大半は年収700万以上なのか」MF新書表紙イラスト
なんと!よくテレビで見る皇居ランナーさんたちはみ〜んな、お金持ちだった!
あなたの頭の中でふと皇居走ってみたいなあ〜とおもったら、あなたにはリッチがやってくる!かな?

2014年4月10日木曜日

単なる日記



きのうの小保方さんの記者会見は、現代の魔女裁判みたいなもんだな。
みんなでよってたかってここが悪いあそこが悪いといいまくる。
ひょっとしたらなんかすごい大事な事を発見しちゃったんかもしれんな。だからみんなが大騒ぎするんかもな。

専門科の人にいわせれば、200回以上実験結果が出たって、そんなもん個人の解釈だそーな。第三者が同じ実験をしてできなかったら終わりだそうだ。

天下の自然農法の福岡正信さんの農法は、はっきし言って福岡さんにしかできないぞ。するってえと『自然農法』は、単なる個人の解釈ってことだな。


今日は市場に行って魚魚魚~~と買ってきた。ホタルイカと、キビナゴと、生ダコと、ホタテの貝柱と、中落ちの刺身をたらふく食った。
特に生ダコはちょ~~~~~~うまかったぜよ。

その市場の中に花屋さんがあって、そこでも寄せ植え用の苗を買った。さすがに市場だけあって安い!100円から200円までだったのでしこたま買えた。
また寄せ植えが増えた。
今んところ、玄関に寄せ植えの鉢5個と、玄関横のコーナーにチャラチャラした花を寄せ植えした。
まだまだ寄せ植えブームは続きます。

単なる個人的日記でしたー。
(って、いつものことじゃねえか)

2014年4月9日水曜日

ほげー、ベランダ衣装ケース育苗が撃沈。



一人寄せ植えブームで盛り上がっているうちに、肝心の畑夏野菜育苗のことすっかり忘れてた!

去年は衣装ケースで育苗。大豊作とはいかなかったけど、とりあえずトマト4種、ピーマン、ししとう、ナスの種取りできた。気をよくして、よっしゃあ今年もベランダで衣装ケース育苗やー!と張り切ったはいいけど。

ブラジャー寄せ植えにウキウキチャラチャラしているあいだに、二階のベランダで灼熱の太陽に焼かれて、衣装ケースの中のキュウリの苗があああ~~~~っ、死んでもた。
ごめん。苗ちゃん。寄せ植えにうわきしてたあたしのせい。。。

しょげてるとだんなが、
「ベランダってどうよ。下からの反射熱がすご過ぎるぜ。前から不自然やなって思ってたぜ。」
うちのだんなは口が悪いこと世界一。辛らつだが真理をついたりするからたちが悪い。

「う。。。。」
何も言い返せないまま、庭から重たい思いをして二階に運んだトマト、ピーマン、キュウリ、バジル、レタスの衣装ケースをまた庭に降ろした。

庭は温度が低いし、床下からの風が冷たい。絶対苗には悪いと思っていたのに、現実はドオよ。床下にほったらかしにされていたキュウリの双葉がちゃんと出てるじゃん。ベランダでほっこりあったかく育った、枯れてない別のキュウリの苗を横に置いたら、ほとんど変わらない育ち方じゃねえか。こりゃどーいたことぜよ。

今年もまた収穫とはほど遠く、種取りするだけに留まりそーな気配。。。
ぱぱさん、ごめーん。

やまんば流無肥料無農薬無耕作農法実験は続く。。。。
(よーするに『楽した~い農法』やな)

2014年4月8日火曜日

花粉症、ほぼ消えちまっただよ〜ん。



やまんば、今花粉症がほとんどでない。

花粉の量は今年は少ないと言われているが、それでも我が家の目の前の杉林から放出される花粉量はハンパない。ここは砂漠か!?とゆーぐらい、砂嵐が吹き荒れる。今はヒノキ。ヒノキは重いらしく、下をはうように飛んでいく。

しかーし!やまんばはくしゃみもほとんどない。鼻水もたれない。目もかゆくない。せいぜい夜ちょっと喉をかくだけ。明け方、鼻水かタンか知らないが、黄色い粘っこい液体が喉を伝うので、それを口からだすだけだ。

石けんなし生活でずいぶん楽になった症状だったが、冬から春に向かってカラダが敏感になっていく過程で花粉症の症状が軽く出ていた。
やっぱり完全には消えないのかなあ~とおもっていたが、あるとき
「すべての問題は本人の心のテイコーから起こる」
と気がつき、症状をイヤがることをやめてみた。

すべての症状を、オッケーオッケーと受け止めた。
冬の固まったカラダが、春にむけて解放されていく。
「そんな時は敏感になるのがフツーよね~」
と、深刻に受け止めず、かゆい時はかき、かかないでいられる時は、実況中継して楽しんでみた。

そんでもって、その一番の原因である花粉が舞いまくるこの空気を
「ありがとう~!」
といって、鼻からも口からも、ずずずずううううう~~~~っと、思いっきりすいまくったのだ。だってこの空気がなかったらわしら生きられないでしょ。それを空気はいいけど、花粉はだめ、なんてえこひいきしている場合ではないのだ。


あれがいけないこれがいけないとアレコレ予防をする。
すると心はちぢこもり、カラダもちぢこもる。
テイコーはカラダを小さくする。
テイコーは心を小さくする。

ちぢこもったカラダは刺激に敏感になり、心はもっとビビる。
するともっと予防をしなければいけないと、カラダにバリヤーを張り巡らせる。いつのまにか鋼鉄のバリヤーで全身と心を覆い尽くすことになる。

これはどっちにベクトルを向けるかってことじゃないだろうか。

予防して予防して予防しまくって、ビビりまくって生きるか。
開いて開いて開きまくって、受け止めまくって生きるか。

どっちも正しい。
どっちもあなたが選択した生き方だ。

2014年4月7日月曜日

生まれてきた時、、、ってことはあ。。。


 
先日、生まれてきた時のことを覚えているか?と3才の男の子に聞いた件であるが、よく考えてみれば一番だいじなことを忘れていた。
彼は、自分が生まれてきた時のことを覚えている、とゆーことは、生まれる前を知っているとゆーことだ。

わしらは自分はだれや?と思う時、自分とはこの肉体だ、とおもう。風邪引くのも走るのも怒るのも、この肉体からやってくる。この肉体が感じてこの肉体が動く。なので、つい、わしはこの肉体や、とおもう。

しかし彼は自分を肉体だとは思っていない。
となりの部屋に行き、いわば私たちから姿を消し、そして「ばあ~!」といって、私たちの前に誕生した瞬間を見せたのだ。
それは私たちから見えないところにいる、と言うことまで説明しているではないか。
さらにいうなら「妹と一緒にやってきた」と言うことは、あきらかに肉体を持っていない時に、すでに彼は意識を持って存在していて、妹と申し合わせていたと言うことだ。

もし彼が自分が肉体やと思っていたなら、いったいいつから意識を持つ事になるのか。おなかから出てきた時か?それとも精子が卵子に入った時か?それとも細胞分裂始めた時か?それともおかーさんが、つわりがはじまった時か?
だけど彼はそのどれでもない。その前から自分がいることを知っている。肉体は借り物だと言うことを自覚している。

やまんばも昔、なかなかこの肉体をうまく使いこなせなくて、しばらくもがいていた。しかしあるときぴったりと収まって、
「ああ、やっと全部入った。。」
と自覚した瞬間があった。



わしらはいったい何者なんだろう。
よく人間は肉体と魂だという。しかしこの魂っていうのは、どーも抹香臭い。しかも「たましい」っていっときゃあ、なんとかなる、みたいなざっくり感がある。

わしはこれを「意識」と呼びたい。
するととたんにバクゼンとするやろ?夜中にお墓のまわりをうろうろする青白いしっぽがついた光のよーな物質的なものではない、抽象感満載なもの。とらえどころがなくて、そのまんま宇宙に広がっていきそーなもの。

きっとわしらはそんな存在なのだ。それはひとつの意識ともいえるし、個々の意識ともいえるし、いわばひとつでも億兆個でも、いくらでも変幻自在なもの。
その意識がこの物質地球に降りてきて、人間ゲームを楽しんでいるのだ。

いったい何を楽しんでいるんだろう。
それは『感情体験』をしているようなのだ。
物質や時間や言葉を持つことによって、大いなる感情の体験を創造しているのだ。善悪の二元論もすべて言葉から来ている。感情はその二元論によっておおいに触発される。そのわしらの感情が宇宙に広がって、宇宙をますます豊かにしているのだ。



しかしその感情工場で生きる人間たちは、どこかでうんざりしている。
「もう、こんな人生イヤだ!」って。

3才のボクは、だんだん生まれてきた時のことを忘れるのだろうか。そしていつのまにか自分とはこの肉体だと思うのだろうか。
そして他の大人たちと同じように、
「ぼくは好きでこんな親のところに生まれてきたんじゃない!」
と叫ぶのだろうか。

生まれてきた時のことを話す、彼のあのうれしそうな顔は何を意味するのだろうか。
私たちもああやってうれしそうに生まれてきたんじゃなかったんだろうか。

すべては選択だと言われている。
どんな感情になるのもどんな人生にするのも。それは生まれてくるという選択をした時から、選択ははじまっている。私たちは圧倒的にすべてに対して『選択できる』と言う自由が与えられている。

あなたはどの感情体験を選択する?

2014年4月5日土曜日

生まれてきた時のこと覚えてる?






近所に3才のボクがいる。やまんばはその子がお気に入り。
先日ちょっとした用事でその子のお宅にうかがった。

一緒に遊びながら、前から気になってたことを聞いてみた。

「ねえ、生まれた時のこと覚えてる?」
「うん」とボク。
こんなこと聞いては失礼かな?とおもい、おかあさんの方をむいて、
「聞いてもいいですか?」ときいた。
お母さんはうなずいた。
すると彼に聞いたわけでもないのに、
ボクが、
「うん。いいよ」と、答えた。
その時、彼の顔が真剣になっているのをみた。

なるほど。これはお母さんに聞いていいかと聞くというよりは、その本人にお伺いを立てなければいけないことだったのだ。生まれて来ることの話は神聖なことであって、冗談半分に聞いてはいけないことだったのだと知った。

それから彼は隣の部屋に行き、私たちがいるリビングとのあいだのふすまを閉めはじめた。そして顔幅ぐらいに閉めた時、「ばいばい」といい、ふすまをぱたんと閉めた。
やまんばとお母さんは顔を見合わせ、きょとんとした。
彼はあちらの世界に行ったのだ。なにをしているのだろう。向こうの部屋で声がしたようにもおもえた。
それからしばらく立って、彼は隣の部屋からベランダにでたらしく、リビングのベランダに面したアルミサッシをあけて、大きな声で
「ばあ~~~っ!」といった。

お母さんとやまんばはおもわず笑った。
「なるほど!そうやって君は生まれてきたんだね!」
「うん!」

彼はそこからリビングに入らず、またもとのコースをたどって、隣の部屋のふすまを開けて帰って来た。
やまんばが「おかえり~」というと、
「おとうちゃんじゃないよお」といった。
「おかえり~」は、お父ちゃんにいう言葉なのだろう。だからボクは「おとうちゃん」じゃないのだ。なかなか厳密だ。

そして「○○ちゃんといっしょにきたんだよ」という。妹のことだ。
これにはちょっとびっくりした。つまり二人で申し合わせてここに来たと言っている。自分が生まれて来たと言う、自分だけの話ではなく、もっと立体的に関係性を持った話をしてくれているのだ。

この一緒に来たと言う言葉に私たちは矛盾を感じる。「いっしょにきた」とはどういうことだ?妹は2歳違いではないか。
だがこの3次元の世界では時間が存在するけれど、あっちでは時間というものがないので、「いっしょ」でも「2年後」でも同じことなのだ。

それから彼は何か吹っ切れたように、わけの分らないことをし始めた。

フランス語のような調子の歌を大声で歌って、曲芸師のようなうごきをしたり、かとおもうと、いきなり「せん吉さん。。。。」といいながら、女性のようなシナを作ってやまんばの膝にしがみつくではないか。

あっちの世界を思い出したことで、彼の過去世が断片的に出たのだろうか?
せん吉さんとはだれやねん?

この世は見えないことであふれている。見えているのはほんの小さなかけらの世界だ。そのかけらの世界にずっとフォーカスし続けているのがだんだん窮屈になってきた。子供たちは知っている。大人が小さなものにフォーカスしていることも、自分たちはホントはもっと大きな世界に住んでいることも。

子供は決して未熟な生き物ではない。カラダは幼いかもしれないが、心や意識は完全に成熟している。
真剣に話せば真剣に答えてくれる。そして答えられないことは、ちゃんとはぐらかすのだ。
子供は全身全霊でこの世を生きている。

2014年4月1日火曜日

クシャミとあくび




うちの犬のユタは、かつて悪さをして怒られると、そのでっかい口をこれ以上大きく開けられないくらい大きく開けてあくびをした。
そのゴーマンな態度に飼い主としてはフンガイしたもんだが、彼は彼なりに怒られるとゆー不快さをあくびをすることで、気分を変えていたんだろうと思う。

なぜあくびをするのか。
ここだけの話、花粉症の人は(いや、きっとやまんばだけなのだろう)ちょっとその場を退屈するとクシャミをする。ほんのすこーし不快になるとクシャミをする。
ユタは怒られるとあくびをする。
やまんばは不快になるとクシャミをする。

あくびは大きく息を吸い込む。クシャミは大きく息を吐き出す。
両者は大きくちがうようだが、よく観察すると、あくびのあとは息を大きく吐き出しているし、クシャミの前は大きく息を吸い込む。
どっちも大きく息をしているとゆーことだ。

つまり不快になると大きく息をするという、生理現象を生んでいるのだ。

なんじゃこりゃ?

よく考えると、怒られたときって、息が浅くないかい?イヤ~な気分のときって、息が浅くないかい?え?意識してない?あ、そっか。じゃ、今度イヤ~な気分になったとき、息を観察してみよう。

深呼吸しているときって、あまり考え事してなくない?
深呼吸しているときは、深呼吸に集中しているからね。無意識に深呼吸してないってことだ。
だけど落ち着いていて、心がここにあるとき、まわりの景色や空気感や匂いに心おどるとき、息は深いんじゃないだろうか。

反対に、アレコレ心配したり、アレコレ策を練ったりと、心が外に向けて忙しいときは息が浅い。

やまんばはアレルギー体質で花粉症だったけど、よく考えると息が浅かったような気がする。だって、花粉が飛び散る空気をおもいっきり吸いたくないじゃん。だから、こそこそびくびく息してたんだな。

だけど最近、おもいっきり深呼吸するよーにしているんだ。すると花粉症の不快な症状が消えていくじゃないか。
なんでだろうと思ってたんだけど、これって、ユタのあくびと一緒だったんじゃないかな。

イヌは自然な生理現象をうまく利用できるけど、人間は頭で考えてしまう。花粉がいっぱい飛んでいる空気をおもいっきり吸ってはイケナイのだ!と考えて、深呼吸しない代わりに、あの手この手を使って、結局わけわかんなくなって、しっちゃかめっちゃかになっているんではないか。
だから切羽詰まったとき、クシャミとゆー方法で、なんとかからだを調整しようとしているんではないか。


浅い息は、外のものを取り込まないようにしている。いわば小さく固まった状態だ。流れが滞った川は水がよどむよーに、息の浅いカラダは外ものを拒絶して、自と他をわけ隔てるんじゃないだろうか。

反対に深い息は、内と外を絶えず交換して、きれいな空気をいただき、そして外に解き放つ。川の流れのように透き通っている。
自と他は区別がなくなり、一体となってこの世界に存在する。

そのとき花粉はダメだとか、外のものは恐怖の対象であるという観念はない。
皮膚も呼吸をしている。鼻と口だけではない。息を大きく吸うとき、きっと全身の皮膚も一緒に呼吸している。深く息を吸うとき、全身で新鮮な空気を取り込もうではないか。そして全身から放出する。

私たちは個別化されていない。
一見、個別化されているように見えるけど、ほんとうはそう見えるように『訓練』がされてきたからだ。それはまだ幼かった頃、そのように見るように教えられてきたからだ。
「これが物質とゆーもので、この世界の中で遊びましょ」
と教えられてきた「部分」だけをみているからだ。

だけど事実は、
私が息を吐けば、目の前のパソコンがそれを吸い込み、そのパソコンが息をはけば、机がそれを取り込む。

すべては大きなうねりの交換なのだ。
常に変化し続ける、ダイナミックなエネルギーの躍動なのだ。
私たちはひとつだ。どことも離れていない。
あなたの目の前のすべての風景が、あなたの世界そのものなのだ。

みなのもの、大きくあくびをするのだあああああ~~~~!
(そこ?)