2023年9月29日金曜日

行き当たりばったりの人生


 

「で?それからどうなったの!?」


矢継ぎ早に内田氏は聞いてくる。

私はどんどん彼の質問に答えていく。

そもそもどうして高知から京都に行ったのか。京都から東京に出たのか。東京からニューヨークに行ったのか。どうして日本に帰ってきたのか。


「おもしろーい!」

目の前の男子が目を丸くして私の話を逐一聞いてくれる。

「それで?それで?」


そして散々私の過去の出来事を聞いた彼の結論がこれだ。

「つくしさんの人生、今まで全部行き当たりばったりじゃないですか!すごい!」


い、行き当たりばったり、、、?


そーいえば、就職したのも、いつも通る道端で気になっていたオレンジ色の看板を見て、

「うん。あれは絶対デザイン事務所に違いない。京都で就職することにしたら、あそこに行ってみよう」などとなんとなく思っていた。

で、美大を卒業したら東京に行くことにしていたのに、流れで京都に留まることになり、気になっていたそのオレンジ色の看板があるドアをノックする。出てきたのはカメラマン。そこはデザイン事務所じゃなくてカメラマンのスタジオ。でもたまたまそのスタジオの隅っこに机をおかしてもらってたデザイナーと出会う。

「お前、あほちゃうか?まあええわ。これから納品に行くからついておいで」

と行った先の会社の中にあるデザイン室で働くことになる。


その後東京に出てフリーランスでやっていこうと決めて、たまたま用事があって出かけた六本木で電話ボックスに入り、アートディレクター名簿を探す。一番近くにある事務所を見つけて電話をする。

ものすごーく嫌な無愛想な声で、「君、何言っちゃってるの?」

諦めかけてたら、

「まあいいや。作品今持ってるんでしょ?見せに来れば?」

そこからいきなり

「んー。これ、やる?」と言って星座占いのカットの仕事を任せられた。


ニューヨークにイラストレーターとして挑戦しに行こうと決めたのも、頭の中で声がしたからだ。

「ニューヨークに行け」と(笑)。


確かに行き当たりばったりだ。大人がやることじゃない。大人はちゃんと目標を決めて、それに向かってちゃんと計画を立て、着実に進んでいくものだ。私のは褒められたもんじゃない。


「だけどそれがちゃんと形になっていくんです!つくしさんは、その生き様がおもしろい!」


はっきり言って、私の絵はよくわからないらしい(笑)。いや彼は芸術全般に全然疎いようだ。しかし絵が動いている!と言ってくれた。




その夜、何かが私に残った。ほんわかと温かいもの。


彼は私のこれまでの生き方すべてを、つまり行き当たりばったりだろうが、大人的な生き方だろうが、受け取ってくれていたのだ。


今まで生き方そのものを褒められたことはなかった。結果がすべてで、どんな形になることが、どんな賞をもらうことが、どんなお金を得ることが、というそこに現れてくる「カタチ」がすべてモノを言うと思ってきた私だった。

ここにきて、生き方そのものを、結果ではなく、その行程、いや、その存在そのものを受け取られるとは。もちろん、母や旦那には受け取ってもらえていると思うが、こうやってはっきりと目の前で受け取られることの、なんというか、驚きと喜びは言葉で表現できない。


そして受け取られていると感じると同時に、

自分が自分自身を受け取っていってたんだと気づかされた。


目の前の人が、私を拒絶すれば、私も拒絶で反応する。

しかしその反対も同じ。

目の前の人が私をどんどん吸収していくのを見て、私も私自身をどんどん吸収していくのだ。

彼はその助けをしてくれている!


次の日の朝、これまで自分がやってきた作品が違って見えていた。

動いている!なんて明るい絵なんだ!愛に満ちているじゃないか!


それまで過去の自分の作品は、どこか恥ずかしいものを見せているような後ろめたい気持ちがあった。ところが今は、自分で見れば見るほど嬉しくなってくる。

「ああ、この色使いでもって、ここにわざわざこの形にしたところが、グッとくるよなあ」などと。


何が起こっているのだ?




絵:ミステリー表紙イラスト


2023年9月24日日曜日

こわがりたがっている!?


 

ある時は、自分にも人にもなんの罪も見なくて、軽い気分になったり。

ある時は、自分に罪を見て、重い気分になったり。


そんな行ったり来たりが続く日々の中、

昨日は重い気分の日だった。

その数日前までは、とても明るく軽い気分だったのに。


理由はわかっている。その日は何もできなかったから。

絵がうまくかけなくて、気分を変えるためにネフリを見る。

ずっと見続けちゃって罪悪感に陥る(笑)。


私は「何もしていない自分」「何も建設的なことができない自分」に対して罪を見ている。


ただそこにいるだけで「あなたは価値がある」と言われても、正直言ってそうは信じられない。

やっぱ、なんかしてお金を稼ぐようなことをして、

やっぱ、いい作品作るようなことをして、

掃除して、いいことして、

それで「お前はここにいていい」と言われたがっている。


本当に「何もしないでいる自分」にオッケーが出せないのだ。心底貧乏性だ。


ってか、本当に何もしないで平気でいられる人、いるんだろうか。

仕事の合間にちょっと休むだけなら罪悪感は感じないだろうけど、

何日も、何週間も、何年も、何もしないで、ただその中にいることが全く気にならず、

むしろ幸福感の中にいることができる人、いるんだろうか。



ちなみに、一体誰にオッケー出されたがっているのか。神?


ところが、神は私が何をしようと、何もしなくても、

「あなたは最高だ!その存在自体が完璧で美しい!」と言ってくれる。


じゃあ、誰が?

自分だ。。。


自分が自分に延々とダメ出しを出し続けているのだ。



夜、怖がりまくっている自分に気づいて目がさめる。

体の不調、痛さ、老いの影、、、、

これからどうなっていくのだ?このままだんだん衰えて、動けなるのか?


自分の動きのいちいちにダメ出しを続けている自分に気づく。

延々と恐れ続けている自分。。。。



起き上がって座り、自分の内面と話す。


怖がっている。。。

私は今、怖がっている。。。。

私は今、怖がって、、、、

怖がっ、、、り、、?

え?怖がりたい?


そして気づく。


私は怖がりたがっているのだ!


なんで?


ふと、鞭打たれる人が浮かぶ。

鞭打たれるとき、人は怖がる。


イエスはどうだったのか。

磔にされたとき、彼は怖がらなかった。刺されるときさえも彼には恐怖がなかった。

なぜか。

彼には罪の意識がなかったからだ。。!


自分に罪がないと知っている人は、怖がらない。

反対に、自分に罪があると信じている人は、怖がる。



つまり、私が怖がりたがっているのは、自分には罪があると信じているからだ。



「怖がりたがる」というのはどういうことだろう。

怖がる対象としては、体、お金、仕事、人間関係、自分の未来、、、。


「怖がる」ということは、実は自分に罰を与えているのだ。


「怖がる」=「罰を受けている」

この場合、鞭を打たれているわけではないけれど、

妄想によって怖がることで、その罰を受けているとバーチャルしている(笑)



つまり私には罪があるから、怖がるという罰を与えることによって、

ちょっとはその罪が軽減される、、、

などと、こざかしーことを目論んでいるのだ。


(誰に?もちろん架空の、自分が考えついた神に対してだ!)


怖がりたがるとは、罰を受けたがっているとも言える。



ところで、ここで思う。

怖がりたがるとは、怖がっていない自分もいるということじゃないか?

怖がりたがるとは、もともと怖がっていない自分がいるから、「怖がりたがる」のではないか。


さらに、もしもともとこわがるのが私たちの本性ならば、いちいち怖がりたがる必要もない(笑)。



ということはよ。

その前提にあるのは、本当は私たちは怖がっていないということになるんじゃないか?

そしてそれこそが私たちの本性。キリストの心。


コースがいう「私たちに罪がないことは神によって保証されている」ということそのもの。


怖がりたがる、罪を見たがる、罰を受けたがる、、、ということは、


その大大大前提に、

「私たちには罪はない」ということに、論理的に帰結してしまった(笑)。





絵:コージーミステリー表紙イラスト



2023年9月20日水曜日

内田宇宙人との出会い


 

ひょんな事から出会ったある夫婦。


縁もゆかりもない神社をお掃除するそのご夫婦の元へ

「今日は掃除に来ているかなあ~?」と、ひょっこり顔を出す私。


「あ、来てる来てる。ヤッホー!」

と、やってきては別に掃除を手伝うでもなく、私は好きなこと喋って帰っていく。そんなローテーションだった。


ある日、うちに呼んでみようかと思いたち、声をかけた。


うちの旦那の武史と会うのは、展覧会の時の挨拶から2回目。だけど面と向かってはこれがお初。

そこから怒濤の展開が待っていた。


武史が超絶絶不調とわかるや否や、いきなり弾丸トークが始まった。

ご主人、内田氏が占いを専門にやっているのは知っていたが、姓名判断も四柱推命も何もしない。さあ、これから占いやりますね的な前フリもない。武史の存在に直接語りかけていた。


彼がどんなことを考えているか、どう感じているか、どんどん聞き出し、どうしたいのか、自分の内面を自分自身で観られるように光を当てている。

それはまるで眠っている彼の潜在意識に直接光線をババババっと連打し、意識を立ち上がらせようとしているかのようだった。


これがいつもなら、武史の方が「あなたはこういう人で、こうやっていけばもっと良くなる」的なアドバイスをするのがこれまでのパターンだった。なのにどういうことだ?完全に逆転している!

しかも一回りも年下の見ず知らずの人に、あれだけ質問責めにされているのに、逆に前のめりになって聞いているではないか。


これは、、、面白いことが起こっているぞ、、、。


この展開はその日だけでは終わらなかった。

次の日も、その次の日も、ひらめいたことを告げる。

そしてLINEでは内容が伝わりきれないことを察知した彼は、直接出向いて伝えに来た。往復4時間もかけて、一瞬の対話のためにやってくる!

このパッションは一体どこからやってくるのか。


「愛ですよ~」

と、チャラい言葉を言う。


でもその言葉の本質を彼は知っている。本質とは何かを知っている。どこで身につけたのだ?なんで最初っからそれを知っている?謎は深まるばかりだ。

彼のバックボーンが見えない。どこかの宗教の匂いもしない。


彼の姿を私は心眼でこう見ていた。

建物の骨組みだけが見える。そこからたくさんの光線が武史に放たれている。

それは「ほら!武史さん!これですよ!これ!幸せを思い出してください!僕らの本当に持っているものを!」と言う、愛がいっぱいのメッセージを送り続けている。



ある日武史の中の何かが変化した。内田氏はそれをLINE上の言葉で察知する。私が気がつくのはわかる。すぐ近くにいるのだから。しかしたった一言で、彼の何かが変わったことがわかるその触手は一体なんなのだ?


じーっと眺めていた私。

「何がないのかわかったよ~。内田くん、かぶりものがないんだ~」


私たちは常にかぶりものをして、人から防衛するワザを持っている。
つまりどんな職業についてるとか、性別や、年齢や、貯金がいくら持ってるとか持ってないとか、どんな体型とか、どんなお住まいとか、そういうもので自分自身を覆うことで、身を守る「かぶりもの」を身につけた。

しかしその自ら身につけたかぶりもののせいで、自分の本心が見えなくなっている。何をどうすれば幸せになれるのか、もうこんがらがってわからなくなっている。


彼には人の本質しか見えていない。幸せになるためには、そもそも厄介なかぶりものを必要としないのだ。

「そんなもの、必要ないですよ」


私には、彼がこの地球に「本質」を伝えにきている宇宙人に見える。


最近占いからカウンセリングに移行したようだ。

興味のある方は動画をご覧ください。


彼のHPはここ




2023年9月17日日曜日

一瞬心が通う

 


「無茶苦茶じゃないか!あれもこれも、全然違う!無茶苦茶でいいのか?なら無茶苦茶なままで出せばいいじゃないか!俺はもう知らん!」


電話の向こうで長老は怒鳴った。

町会の歴史の聞き取りをしてまとめた原稿のチェックをお願いしたが、それが彼の感想だった。


恐れていたことが起こった。


人から聞いたことがいつも正しいわけじゃない。聞けば聞くほど意見が分かれて来た。私は外から来た人間で、誰の意見が正しいのか、どれが正しいのかわからない。彼の剣幕にも私は傷ついた。


「私も人から聞いた話をまとめたものですから、正しいのかどうかわかりません。間違っているのならご立腹なのはわかります。明日伺いますので、どこがどう間違っているのか、詳しくお聞かせください」


それだけではなかった。他の長老たちからも、あることに関する対立した意見を聞くことになった。

それまで穏やかだった長老が一瞬殺気立った空気を出した。


もうここらで終わりにしたほうがいいのかもしれない。

原稿ができても、これからレイアウト作業が待っている。文字組みや写真やイラストを組み合わせての大変な作業だ。そして印刷となれば費用もかかる。でもその一番だいじな原稿で。。。いったいみんなが納得のいく原稿など作れるのだろうか。

今ならまだ間に合う。。。



いつでもやめていい覚悟で翌日長老の家を訪ねた。

畑作業の後だろうか。風呂上がりのさっぱりした顔で、上半身裸で現れた。最近倉庫の奥に見つけたという古い梅酒を出してくれる。


「昨日はちょっと言い過ぎた」

恥ずかしそうに微笑む。

「いえ。お気持ちはわかります。私も何もわからないので、教えてください」


Vネックのシャツを着ようとするが、汗で張り付いてなかなか着れない。私は手を回して彼の背中に巻きついていたシャツをほぐした。

「ありがとう」

その時、彼を昔から知っている親戚のように感じた。一瞬何かが通った。


そのあとはどこがどう違うのか冷静に話してくれ、和やかな時間が過ぎた。






この世界は結果がすべてという。


例えばこの例を挙げると、印刷物ができて結果が現れたという。

そしてその結果を、いいとか悪いとか言って評価をする。いいと言われて喜び、悪いと言われて悲しむ。

それがこの世界。

そうであるならば、今ここで町会の歴史の作業をやめてしまうことは、惨敗ということになる。挫折というべきか。


だけど私はそうは思わなくなった。

人に会い、人に聞き、質問し、意見が違い、怒られ、傷つき、考えを改め、どう見ればいいか見方を変えて行くチャンスが与えられている。

その時間が一番大切なのではないかと思い始めた。


カタチは結果ではなく、手段なのだ。

町会の歴史をまとめるという手段を通して、自分が何を信じていたのか、何を恐れているのか、その信念があるからこそ、自分が苦しみ、その信念は手放せることを知る。


それは全ての行為に言えることなのだろう。洗濯物をするという行為を通して、自分が何を信じて、何を恐れているかを認識する。


だからこの編纂を続けていこうが、ここで終わりにしようが、それは問題ではない。

この一瞬一瞬の一挙手一投足に意識を向け、自分の恐れを赦し、兄弟の恐れを赦し、受け入れられるか。

私に求められていることはそれだけだ。

カタチの向こう側にあるものだけを掴む。すると目の前のカタチにさえ、愛の反映がみえる。

カタチはどんどん優しくなっていく。


帰り、長老から畑で採ったモロヘイヤと茗荷をもらった。夜それで酢の物を作る。


ネバネバつるつるの、喜びがそこにあった。





絵「COOPけんぽ」表紙イラスト/山辺の道