2017年5月27日土曜日

キジバトの死


最初はモグラだった。

キュウリの種を蒔いた畝に、ちょこんとモグラの死骸。
あおむけになってて、かわいかった。ちょんちょんと小さなつめのようなお手手を触った。
畑の外にそっと捨てた。

次は、畑に行く途中のけものみちにリスの死骸。
そーっとそばの木の枝で持ち上げて、けものみち脇に置く。その上に土と葉っぱをかぶせた。まだやわらかかったので、死んで間もなかったんだろう。

そして今日。
畑の一角に鳥の羽根が散乱していた。色からしてキジバトだ。ぐるっとまわりを見渡してもその本体は見当たらなかった。

しかしスナップエンドウを収穫している時にそれはあった。
胸のあたりを大きく開いて、中身はほとんど食べられていた。下の方に黄色い腸があった。私はゴム手袋をして、彼(彼女?)をそっともちあげ、用意した紙袋に体を入れた。

眼はやさしく閉じられていた。
当り前なのかもしれないけれど、苦痛な表情はしていなかった。野生動物はいつも、死に顔が美しい。なぜだろう。それは私たち人間のように、自我がないからだろうか。

散らばった羽根もいっしょにかき集めて、畑の外の川っぷちに穴を掘る。死骸をそっと入れて、土をかけた。


最初はモグラの死骸。次はリス。そしてキジバト。だんだん大きくなる。
このペースでいけば、次は父親か母親の死骸を見る?
心はそんなことを考える。

二元の世界は、これがあったら、こうなる。こう言う現象が起こるってことは、きっとこうなる前兆なのだ。。。。などと、いろんな解釈をする自我がいた。

きっとそうではない。
そいうことではなく、これはわたしがスナップエンドウを収穫していることと、まるで同じことなのだと気づく。

私はスナップエンドウを殺して食べている。野生動物が、モグラやリスやハトを食べるのと、なにが違う?全く同じことをしているのだ。

ハトやリスを殺すことは残酷で、スナップエンドウを殺すことは残酷じゃないって誰が決められるのだろう。
しかしどちらも「残酷」ではない。
それは人間が勝手に「解釈」したことだ。


この自然は、私も、野生動物も、生きているものを殺して、生かされる。
そのことを自覚しながら生きる。
その尊さに心を震わせる。

その自覚こそ、だいじなのかもしれない。




絵:オリジナル絵本「あめがくる」より/水彩画


2017年5月21日日曜日

やりたいこと?



もしお金もあって、時間もあって、家もあって、状況も何も問題なかったら、、、、
なんかしたいことある?

って、アホなこと考えた。

。。。。

じーっとね、じーーーーーっと。

。。。。

「な、なんもないーーっ!」

あせるわたし。
マジ?マジ?なんかやりたいことはないのか?わたし!

と、かんがえると、、、

「うんこ出したい」と心がいった。
(トイレの中で考えてたのよ)

うんこ、出た。
「流したい」
流した。
「トイレットペーパーをとりたい」
トイレットペーパーをもった。
「おしりふきたい」
おしりふいた。
「それを流したい」
流した。

おお!
やりたいこと、やっとるではないか!!


言葉にならない素早さで、「やりたいこと」やっとる自分がいた。
手を洗う。
トイレのドアを閉める。
コーヒーを入れる。
パソコンを打つ。
なんだ、なんだ。やりたいこと、あるじゃーん。それもしっかりやっとるじゃーん。



。。。って、ちょとちがう。
なにがちがう?

時間だ。そうだ。時間という距離だ。
やりたいことやれているのは、ものすごーく今目の前にあることだ。今やりたいことだ。それはばっちりやれている。

だけど私たちが一般的に言う「やりたいこと」とは、もちょっと先のこと。
1年後だったり、5年後だったり、10年後だったりのどっちかっちゅーと、計画に近い。
うんこ出したいことを「計画」する人は、便秘で悩む人ぐらいだ。(やまんばものその昔、随分悩んだ)

私たちは、今ここでやれていることには、眼もくれず、もちょっと先のここにないものを求めている。
うんこふくのは当り前。そんなこと目標になんかしない。もっと「目標」たるなにか。お題目として、かっこいいなにか。そんなものを求めているんだなあ~。


やまんばは、絵を描く時おっくうになる。
それは絵を描こうと思った時、その完成品を妄想するからだ。
ああ、あんな風に描けたらなあ。。
あんな風に描けないといけないぞ。
描くからには、完璧に仕上げなければいけない。。。。
と、自分にどんどんプレッシャーをかけてしまうのだ。

もちょっと先のことを考えれば考えるほど、心がぎゅーっときつくなってくる。
だけど、
「えーっと。まず、パネルを机の上に置く。よし。置いたぞ。次。紙を置く。よし。置いたぞ。水張り用の水を用意する。よし。用意したぞ。」
と、ゆーふーに、そのときその時の、ほんのちょっとした行為だけに心を寄せる。

やまんばのおバカな脳みそは、10分先のことを考えるだけで、萎縮してしまう。だからほんの5秒先のことだけを考える。

畑でもそうだ。
「今日の予定は〜。。」
と、考えると、とたんにやる気をなくす。
だから「畑に行ってから考えよーっと」となる。
だからいっぱい忘れ物をする(笑)。


やりたいこと?

今、やってることー。
(注:こんな大人に育ってはいけません)


絵:「春」/樹シリーズ。和紙、水彩、オイルパステル


2017年5月20日土曜日

黒足袋で野良仕事


炎天下、今日もやまんばは野良仕事。

さすがにブヨなどの虫が増えて来たので、裸足で野良仕事はむずかしい。しかし地下足袋はすべて裏がゴムで出来ているので、アーシングは出来ない。なので裏が木綿の正真正銘の黒足袋を買う。
その名も『八咫烏』。名前が気に入った。で、黒足袋で野良仕事。

今日は雑草に埋もれていたいちごを救出。
いたいた。草葉の陰で赤く色づいているかわいい奴ら。しかし裏返すと、しっかりアリンコに食われている。
草刈りした草を色づきはじめたいちごの下に敷く。いちご農園じゃワラを敷くらしい。やまんばはそこらの草で代用。

アリンコが先か、やまんばが先か。
どっちが先に食う?

キュウリの種を蒔いたのが、約一ヶ月前。うんともすんともでてこない。暑い日があったり、寒い日があったり。その間、水もあげず、からっからに乾いた大地のまんま。
そろそろ新たに蒔き直すか?
ん?でもまてよ。もうちょっと。。。
と言ってるあいだに、ふと見ると、出てきたではないか!
でかした!キュウリ!
あの激しい環境の中、よくぞ芽を出してくれた!



さすがこのスパルタの環境の中、耐えに耐えて、この場所で何年も実をつけてくれたキュウリさん「上高地」!
あんたはえらいっ!



2017年5月19日金曜日

草を刈る


最近、のこぎりグワを新調。よく切れる。
ぼーぼーに生えた草を刈る。ごめんよー。ごめんねーっていいながら。

けっこう広い畑に、今年も元気に草が生える。
あまりの多さに、
「そろそろ草刈り機買うかなあ。。。」
と思ってた矢先だった。

ある日、草刈り機で草を刈られた所に遭遇。
そのときの草たちの無惨な切られ方にショックを受ける。
切り口が、ギザギザで、見るからに無惨。。。

それを見たとき、草刈り機を買うのを断念した。(きついんだけど。。。)

なんかね。
きっと草刈り機で草を刈った人は、その刈った草に対して、何もおもわないんだろうなーっておもった。

だけどやまんばは、這いつくばって草を刈る。
左手で草をにぎって、右手の鎌でざくっと切る。そのときの、なんとも言えない草への想い。ごめんね。あなたを殺しちゃって。。。という痛々しい気持ち。
この想いを大事にしようとおもった。


そうしてやまんばは、今日も草を刈る。
あなたたちのおかげで、美味しい野菜をもらってます。
ありがとう。

2017年5月12日金曜日

あたまの中の店員さんがうるさい


朝早く目が覚め過ぎて、仕事に出かける40分も前に準備が終ってしまった。(これを老人化現象とゆうのか?w)

しかたがないので時間つぶしに瞑想などとゆーものをしてみる。寝てしまうといけないので、タイマーを横に置く。

瞑想といっても、何も考えないとか呼吸法をするとか言うものではなく、ただ直接聞こえてくる音、鳥の声、車の音、犬の鳴き声、電車の音、冷蔵庫の音などを聴く。
ソファに接している太もも、あぐらを組んだ足の上にかかっている毛布。そのくすぐったい感触、そのすべてを感じる。
頭に浮かぶ思考の音にもただ気がつく。
それにともなっておこる感情もそのままに感じる。
今この時に、自分の中で、外で、起こっているすべてのものに、意識を注ぐ。


思考ってすごい。
あることがふと思い浮かび、それに乗らずに見ていると、別の思考が浮かぶ。それも流し見していると、全く別の思考が浮かんでくる。そうやって次から次へ浮かんでくる。

まるで、お店の店員さんが、
「これ。どお?ダメ?じゃ、こっちは?これも気に入らない?じゃじゃ、これなんかどお!?あなたの興味にピッタリよ!」
などと、わたしの目の前に、興味をそそるであろう思考の数々を提供してくるのだ。
とはいっても、いつも自分の頭に浮かんでくるお話だけどね。

これはまるで馴染みの店の店員さんが、私の好みを熟知しているように、
つくし玩具店の店員さんは、私がいつも乗っかってくる話(おもちゃ)をいっぱい知っているのだ。

だが今朝はあえて、乗っかってあげなかった。

ピピピピ。ピピピピ。

タイマーの音で目が覚めた。
気がつけば、おもいっくそ前のめりになって寝てた(笑)。




絵:「心が折れない部下」の育て方/MF新書表紙イラスト


2017年5月10日水曜日

その観念を放置プレー



私たちは、自分が思うもので出来ている。

思うもの。つまり思考。つまり観念。

それがどう言う意味なのかは、頭ではわかっていたが、じょじょに、
「え?マジで?いや。まさか。。。いやいや。やっぱりそーなのか。。。。!」
と、ゆーふーに、自分の中でリアルに気がつきはじめた。

そーすると、自分の中で当り前のよーに考えている常識が、
「いや。ひょっとしたら、これって、ひとつの観念?」
と、ゆーふーに、一個一個を意識するはめに(笑)。



人はほとんど無意識に、自動的にあたまの中で考え事をしている。

「いーや、わたしはなーんにも考えてないよ」という人は置いといて、
「ウン。。。確かに頭の中でつねに考えごとをしているなあ。。。」
と思う人は、その考えている内容に気がついてみるといいと思うよ。

たいてい、ある問題について考えている。
ある特定の人物のことだったり、身体のことだったり、将来のことだったり、お金のことだったり、これからの打ち合わせのことだったり、、、。
いろんな「問題」について、ぶつぶつぶつぶつ考えている。

わたしは、自分の中で考えているものに、いくつかのパターンがあるのに気がついた。ある人物のこと、将来のこと、お金のことだ。この3つがいろんな形に変化しながら、ぶつぶつぶつぶつと、垂れ流し状態で考えていたのだ。それは「つくしのあたまの中のBGM」という名のカセットテープだった。

いや、正確にうと、考えていたんではないな。たんに垂れ流されていただけだ(笑)。
その自動的に流されているテープに気がつくと、からだが、ぞぞぞぞぞお~~~っとして、急に縮こまる。そのBGMには、「罪悪感」とゆーおまけがついてくるからだ。
あの人物、将来、お金にまつわる、ありとあらゆる観念に対する罪の意識だ。

1:ふいにカセットテープの再生ボタンが押される。
2:それを聞いて、罪の意識がもちあがり、
3:からだがぞぞぞお~~っとする。

4:すると今度は、小学校で教わった時のよーに、
「問題」を見つけてしまったので、
「答え」を探さなくてはいけなくなる。

5:かくして、心はあーでもない、こーでもない、と、
ひたすら「答え」を求めて右往左往する。

1~5までの、一連の自動反応が起こっていたのだ。

とゆーことを、ずーーーーーーーーーーーっと、あたまの中でやっていたのだな、と知る。


で、わたしはどうしたか。

1:ふいにカセットテープの再生ボタンが押される。
2:それが鳴っていることに気がつく。
3:罪の意識が持ち上がるの気にがつく。
4:身体が硬直しようとしているのに気がつく。
5:答えを探そうとしている心に気がつく。

感情がかき乱されると、心はなんとかそこから離れようとする。
そのために、言い訳を考える、あいつが悪いといってみる、あれはしかたなかったんだよ、とか正当化してみる、やっぱりわたしがいけないんだ、とかの自己憐憫に陥る。。。そういう膨大な考えで、あたまの中が埋め尽くされることに気がつくことだ。

これは不快だ。いや、実に不快だ(笑)。
しかし、ここで言い訳をしたり、ゲームやったり、テレビ見たり、酒飲んだりして、なかったことにしたところで、このカセットテープは消えない。
それに直面しない限り、そのカセットテープは鳴り続ける。

だから勇気があれば、それに向かい合う。
不快の中にただいる。不快とともにいる。
心配ない。それは必ず消えていく。


不快とともにいると、なぜか別の視点が見えてくる。
今まで気がつかなかった視点だ。
そこで知ることは、外の情報による知識ではない。自らの中にあった叡智だ。

気づきには二つの種類がある。
ひとつは何かに気づいていること。
もうひとつは、「わかる」ことの気づきだ。「ああ。。。これか。。。」という、深い所の理解。言葉以上の何か。


不快は、まさにナウシカの腐海の森の入り口。
入り口は臭気に満ちていて、入るものを拒む。だけどあえてその中に入ると、ナウシカのようにちがう視点を持ちはじめる。
その奥には、人の無限の可能性が隠れている。



不快とともにいると、じょじょに自分の観念に気がつきはじめる。この観念が自分を不幸な気持ちにさせているのかと。そうすると、心の中に浮かぶ観念のひとつひとつが、持っていても意味がないこともわかってくる。

観念がある。
ほう。そういう観念か。
その観念に乗っからない。
ただ、その観念を放置プレー。
とりのぞきもしない。
ただ、みてるだけー。
ウインドウショッピングみたいなもんだな。

「オネエさん、これ、いいですよ。買いませんか?」
「ううん。ただ、みてるだけー。」



絵:「日本人の平均」/MF新書表紙イラスト

2017年5月6日土曜日

答えはあるのか!?


私たちは、答えを求める。

どこかに答えがあるはずだ。
きっとどこかに。

そうやって、ずーっと探しつづけて来たわたし。
だんだん、うすうす、気がつきはじめる。
ひょっとしたら、答えなどないのかも。。。。

いやいや、そんなことはない。
小学校の頃から教わって来たのだ。
答えは必ずある。

しかし大人になって、そう簡単には答えがでないものを知る。
もっと大人になって、もっと答えが出ないものを知る。
しかし、事はもっと重大になって行く。
生死を分ける所まで行く質問に、切羽詰まった答えが要求される!
しかし答えが出ない!!!ああっ!!!


ありとあらゆる本を読む。
ありとあらゆることをやる。
そして、自分の内面にまで探し求めるはめになる。

そして、、、
あれ?
ひょっとしたら、答えなどでるもんでもなかったのかも。。。。

答えとは、「正しい」ものが答えだ。
間違っていては、答えとは言わない。(あたりまえだろ)
しかし「正しい」とはなにか。(あ、うっとおしいところに入りよった)

それは時代によって、時間によって、人によって、民族によって、家族によって、学校によって、システムによって、会社によって、ちがうのだ。とゆーことは、絶対的な「正しい」はどこにもないではないか。



そもそも「自我」に答えなど出せるわけがなかった。
自我は過去にもとづいた既知しか思いだせない。すでに知られている使い古されたもの。
それはその時の答えになったかも知れない。しかしそれはそのとき有効だっただけだ。



けれども私たちは生きている。瞬間瞬間新しい中にいる。それを古いもので解決することの意味のなさったら!


はれ?
答えって、ないのかも。。。

そうおもったとき、心が56キロほど軽くなった(エライ具体的な数字やな)。



絵:「セックス嫌いな若者たち」MF新書表紙イラスト

2017年5月4日木曜日

Tsukushi in the Tree



野良作業ばっかりやってるみたいですが、いちおー絵描きです。

和紙と洋紙で絵を描いてます。
「紙絵」と呼んでます。

GW中、ダンナが動画を作ってくれました。

「樹」のシリーズです。

The Garden in Tsukushi



何年もほったらかしにしてたニラの畝。
根っこがお互いに絡まって、えらいこっちゃになっていた。

スコップで掘り起こして悪戦苦闘する様を、ダンナが動画で撮りよった。

そこに、赤じその種を蒔く。。。と言っても、丁寧に種取りしたものでなく、去年枝だけ切り落として、小屋のすみっこに引っ掛けておいただけのもの。。。w

でっかいビニール袋に枝を入れて、ばんばんはたいてビニール袋の中に種を落とす。
枝も種もいっしょくただ。

それをニラがあった畝にばらまく。なんともおおざっぱな種おろしだ。
ま、やまんばのやることといったら、こんなよーなもんだ。

はてさて。無事赤じそ、芽がでますかね。

2017年5月2日火曜日

気まぐれに、ゴボウを掘る。



毎年同じ所からゴボウのこぼれ種が育つ。
カラスノエンドウのいきおいをもろともせず、でかい葉っぱを茂らせる一角。

ちょうど食べごろなんだけど、ゴボウを掘った人ならわかるだろうけど、地面を垂直に掘り起こすたいへんさ。
スーパーでなにげに売っている70センチくらいのゴボウ、実際掘るとなると、軽く1時間はかかる。

だからやまんばは、ゴボウは掘らないに限る。勝手に育たせておくことにしている(笑)。

ところが、ご近所さんがご親切にも、ゴボウを簡単に収穫できる方法として、10キロの米袋をくれた。これでゴボウを育ててみよと。出来上がった暁には、その米袋をタテに裂き、見事軽々とゴボウをゲットするのだ!

それがこれ。↓


米袋に土をつめ、種を蒔いてみたが、いつの種かわからず、こんな状態w


なわけで、なんとなく勝手に育ったゴボウを掘ってみる気になった。
土は柔らかかったが、途中で飽きた。(ごめん、ゴボウさん)
掘ったのがこれ。↓

二股に分かれていた。実際は、もっと長かったはず(笑)。


その穴がこれ。↓

下に行くほど、柔らかい土であった。


家にもって帰って、きんぴらゴボウに。
奥深い味がしたよ。


器は、江戸中期の骨董。