2019年8月10日土曜日

ドラマにハマる


今の庭の様子。左、ズッキーニの葉っぱ、右奥、サトイモの葉っぱ


無料配信のドラマをよく見る。
「おっさんずラブ」は最高だった。

ドラマはその時代のムードを象徴しているといえるが、ほんとのところはその時代のムードを作っているんじゃないか?

マスメディアは時代の価値観を誘導する。それは意図的なのか、それともこの世界が無意識にそれを求めているがゆえに作らされているのか、それはわからないけど。

しかしドラマは人々の今の価値観に大きく影響を与えているのはたしかだ。


「おっさんずラブ」がここまでヒットしたのも、性別に関する偏見がだんだんなくなって来ているのが背景にある。

そんな中、最近でてくるのが空気を読まないキャラ。
「凪のおいとま」ももともと空気を読み過ぎる主人公が彼氏の言葉にショックを受けて過呼吸になり、それまでのすべての生活を捨てると言う、私的にはめっちゃハマる内容のドラマ。そこに出てくる空気読まないキャラもなかなかおもしろい。


突出しているキャラは、「ヘブン?ご苦楽レストラン」というドラマの中にいる。
その中に出てくる川合君というかわいいキャラがいい。

まったく空気を読まない。仕事もまったく出来ない。すべてがダメダメなのに、本人はまったく気にしない。ただただ幸せを感じている、世界一の幸せ野郎なのだ。この幸せ野郎はなぜか憎めない。まわりを勝手に幸せにしていく。
まわりの役柄が通常の私たちの反応。しかし川合君は逸脱している。
そんなキャラがじっさいこの世にいたら、たぶん普通の人とは思われないだろう。

それでもこのキャラがこの世界を変えていくんじゃないかとおもわせてくれる。もちろんそれを受けとめる伊賀君がいてこそなりたつのだが。
この世に布石を打った人々はだれもが逸脱していた。つぎつぎと常識を覆していくのだ。




んで今日も暑い。目の前の庭は植物全盛期だ。
「ウ。。。草刈りしないと。。。野菜も草に埋もれる。。。。」
心がうずく。

川合君ならこのうちの庭を見てどういうだろう。
「わあ~~!草がいっぱい!た~のし~なあ~!」
きっとでかいサトイモの葉っぱを見ておどろき、
オクラの花に「きれいだなあ~」と感動することだろう。

凡庸な私は問題点を見つけるのが得意だ。
ズッキーニ、育ってないとか、キュウリが出来てないとか、出来ていることよりも、出来てないことにフォーカスし悩む。しかしそこにあるのは不幸な気持ちだけだ。
わざわざそれを選ぶこたあないのに、やっぱりそっちを無意識に選んで心をうずかせる。
これこそ、自我のワナにガッつりハマってる。

一方川合君は、すてきなものを見つけるのが得意。
感動するものを見つけて大喜びする。

どっちを選択するかは、私しだい。






2019年8月7日水曜日

そのままにしておきなさい



畑のフェンスがすこし崩れていた。

このままにしていたら、そのうちイノシシが入ってくるだろうなあ。。。
ジャングル状態になった畑で、そっと心の中で聞く。
「どう、、すればいい、、、?」

即座に答えが返って来た。
「そのままにしておきなさい」

「え?そのままに?けど、、、あのままじゃ絶対イノシシがあ。。。。」

これ、自分で言ってない?
ウン。きっとめんどくさいから自分で自分に答えたんだ。。。
でも、そのまんまにした。


そしてきのう。
畑に行って、なにかが大きく変化しているのに気づく。
フェンスが破られている!

畑は巨大な穴ぼこだらけ、あんなにあったサトイモは、跡形もなく掘り返され、見事に消えていた。そこら中掘り返され、たくさん実っていたであろうミョウガも消えていた。キクイモのエリアはそこだけ台風が来たみたいに踏み倒され荒れ狂っていた。
みごとなイノシシたちの破壊力にグーの根もでない。



だが心はなぜか静かだった。
キュウリの支柱も倒され、砂まみれになっているキュウリを収穫しながら、心は穏やかだった。

なぜだろう。
こうなってくれることをどこかで望んでいた気がする。。。

この畑は山に接している。近所の畑よりももっとも山に近い場所に、人間のエリアとしてフェンスという境界線を作ったことに、わたしはどこかで抵抗を感じていた。

猿が来て、タヌキが来て、ハクビシンが来て、猫が来て、そしてイノシシが来る。
フェンスを作ることは、ここに城壁を建てるようなもんだ。
ここは人間さまのエリア、その他はお前たち野生のエリアと。
だがしかしそれをあざ笑うかのように野菜は猿に襲われる。年々ひどくなる。今とられない野菜は鷹の爪ぐらいなもんだ。

今回フェンスが壊され、畑をイノシシに壊滅的にやられたことで、畑に風が通った。
そんな気持ちになったのだ。
まるで風通しの悪い、締め切ったカビ臭い部屋に、爽やかな風が入ったように。

ここは山に還すべきだろうか。。。
おもいがよぎる。
ここが畑になったいきさつ、それにまつわるいろんな出来事、それぞれの思い。
なんといろんな過去を作ったものだ。


それと同時に、人間と自然とのかかわりもまた教えられている。
慣行農法、有機農法、無肥料栽培、不耕機栽培、自然農法と、だんだん自然に近い農法に移行しながら、
そもそも栽培するとはどういうことなのか。
自然とはなんなのか。
人間とはなんなのか。
生命とはなんなのか。
そんなところまで突きつめられる。
この畑を通して、たくさんの葛藤をあじわった。


ぼうせんと畑のすがたをおもいおこしていると、

「人間の視点に立たない。」

心に声が聞こえた。



2019年8月6日火曜日

カメのように





「いつ電話がかかってくる?こっちから電話しようか」
「だいじょうぶ。彼は絶対ほっといたりしない。そのうちかかってくるよ」

知り合いの業者さんから電話が来ないままだ。
自分では何も決めないでおこうと決めたものの、暑い毎日の中で、何もことが運ばないことにだんだん不安になってくる。



ずっと「自分で」この世界を乗り越えて来たと思っていた。だからなんでも「自分で」解決しなければいけないと思ってがんばって来た。

しかしだんだん「自分」ではどうしようもないものがある、と言うこともわかって来た。それは自分でなんとかして来れなかった膨大な量の挫折の日々が教えてくれている。

そしてついに、じつは「自分で」なんかやってこなかった、なにひとつ動かしてなかったんだ。。。。と言うことに気づきつつある今。
すべてを手放して、起こるままにすると言うことが意識的になりはじめている。



たとえばNYのピーターからスケッチの返事が来ないことへのいらだち。自分のいたらなさをなげき、反省し、どうにかして事を進めようと、あの手この手で挑んで来た。
しかしその虚しさに気がつき、今はそのままにしておくことができるようになった。

どこかで自分のせいでアートディレクターが苦心しているという思いにさいなまれ続けていた罪の意識。それが自分を苦しめていたのだった。

ある時、「ああ、これは私のせいではなかったんだ。。」とふとおもった。
その時から待てるようになった。果報は寝て待て。これは神の言葉だ。



こんどは神さまは次のレッスンをくれた。
クーラー壊れてからだを意識するというやつ!
からだのピンチは死と直結する。

パソコン開くと「熱中症」「死亡」というワードが目に入ってくる。
ますます恐怖のズンドコに。(それをゆうなら、どん底)
「こっ、、、このままだと死ぬ。。。!」
心がいかにからだに影響を与えているのか、自分の身体の変化に教えられる。
待つと言うことが出来なくなるのだ。

だから冒頭のダンナへの質問。
「ねえねえ、いつ?」




ピーターへのメールでもそうだ。
何をどうやっても動かないものは動かない。ただほっておくしかない。
でもどうしてもバタバタするのは、心の保険/安心が欲しいのだ。
なんかやっているほうが、何もしないよりもマシ的な(気休めだけど笑)。
どのみち、汗かいてヒーヒーバタバタやっているだけで、起こるときは起こる。動く時に動く。


私たちはウサギとカメみたいだ。
私はいつもウサギをやっていたのかもしれない。
ゆっくりと静かに進んでいけば、余分な体力も使わないまま、まっすぐゴールに着くだけなんじゃないか?



今朝、ピーターから返事が。

Hi Tsukushi,
They love the sketch, Please finish the cover with the following changes…..

数個の小さな変更があるのみで、ゴーサインがでた。



じぶんの人生を信じる。
たったこれだけのことが私たちにはできない。

私はカメの心になれるか。




追伸:これを書いたあと、コーヒーを飲んでいたら電話があった。
「今日クーラーが届いたら、夕方そっちにつけにいくよ。早い方がいいでしょ?」

果報は寝て待て。
(あ、コーヒー飲んで待て、か)





2019年8月4日日曜日

クーラーが壊れた



クーラーが突然動かなくなった。

「室外機のファンが回ってないよ」
外を見に行ったダンナが言う。
あー。こりゃ完全にアウトだな。
メーカーに電話。ちっともつながらない。一日待って電話。やっぱりつながらない。

ここにきて15年。毎年の夏をさほどクーラーを使わず過ごして来た。
使っても暑い午後の2、3時間だけ。日が傾くと消していたぐらいの必要性。暖房など使ったこともない。寒過ぎて効かないから。

その程度の関係性だったのに、いざ壊れて使えないとなると、がぜん苦しくなってくる。
どんだけ気分に左右されているんや私?
いつでも使えるからあ~んしんっ♥という保険をもらっていた、自分自身のそのあんちょこな精神にもハラが立つ。



やっとメーカーと電話がつながると、今度はあまりの修理の混みようでスケジュールが組めないから、営業所から直接電話させますと言う。ところがまたかかって来ない。ジリジリと暑い中電話を待つ。結局その日は電話がなく、翌日の午後電話がかかって来た。

しかしよろこぶのもつかの間、修理は5日後。それも時間もわからないと言う。
「ちなみにおいくらぐらいかかります。。?」
おそるおそる聞く。
「はい。。。少なく見積もって、5万円はかかるかと。。。」
「!」
ですよね~~。。。
とりあえずお願いして電話を切る。

ジリジリと責めてくる暑さに耐えられなくなる。今までどれだけ耐えていたんだ、私?
5日間この暑さ、耐えられるのか!?



心がどれだけからだに影響を与えているのか、手に取るようにわかる。
あるとおもっていたものがない。そう思ったとたん恐怖が襲いかかる。
怖れが全身に広がって、それまでの平安は跡形もなく消える。
こういう状況を意識的に与えられているのか。



すこし日が傾きかけた頃、さんぽに出かける。山の中は涼しい。川に手をつけてその冷たさを味わう。さっきまでの暑さが一気に消える。靴を脱いで足をつけた。この世が別世界に見える。川のせせらぎ、ヒグラシの声。山の声はなんて大きいのだ。大音響の中で自分というからだを忘れる。
からだを忘れた私に平安が戻る。山の懐にいだかれて、私も山も区別がつかなくなる。

明るいうちに夕飯を食べ、暗くなるまま電気をつけずに過ごす。山の稜線がくっきり現れはじめる。小さな星が見えた。開け放した窓からやわらかな風が川から遠慮しがちに上がってくる。弱にした扇風機が小さなリズムを刻む。
静かな心は暑さを忘れていた。



怖れは平安を消す。からだを意識し、熱を意識し、この世界が一気に存在感を増す。
心はここから早く逃れたい一心で必死で策を練る。未来の安心を買おうとする。

その後修理はキャンセル、知り合いに頼んで新しいのを買うことに。しかしそれもまだ未定だ。

心がいかに未来の安心を欲しがるのか見えてくる。
「いつ電話が来る?」
そう思うたびに、からだを感じ、かすかな怖れが起こり、暑さがやってくる。
このメカニズムをはっきり見ておこう。

今、午前9時27分。
今日はどんな一日になるのか。

自分では何も決めないでおこう。



2019年7月23日火曜日

あるシーンを思いだす



コースは実践だ。
日々、自分の中にある罪の意識に気がつき、それを表に出し、ゆるす。



きのうバイト先で、一緒に商品を作っているAさんに、上から注意がなされた。彼女担当の商品が、八時までにすべて並んでいなかったのだ。
二度お客さんにうながされ、あわてて作るようすを見ていた上司が、部下を使い、直接彼女に言わず、遠回しに私に言って来た。

理由はわかっていた。最初にすべての商品を小出しにせず、ひとつひとつの商品を一気に作って出していたからだ。その方が終るのが早い。しかしそのため限られた時間内に出来てない商品が増える。

そのことを彼女に伝えたら、猛烈に怒り出した。
「言いたいことがあるなら、直接私に言いなさいよ!直接言わないやつって、だいっきらい!」
とがめられたと思った彼女は、その内容よりも、上司の行為に対して攻撃をする。
直接言えないことに対して怒っているのだから、直接上司に訴えればいいのに、それもしない。
「直接言えば?」とも言えなかった。言えばますます怒りが爆発するのは目に見えていた。

過去に陰口を叩かれて、辛い思いをしていたことがあるのだろう。その記憶が彼女に舞い戻っているのを見た。
怒りの中に埋没している彼女をとなりでびんびんに感じながら、自分の中に怖れが膨らむのを感じていた。

「言わなければ良かったのか?」
私のせいで上司との関係を悪化させてしまった。。。
上司から言われたとは言わず、私の言葉として、
「商品すこしずつ出してね」と言えばよかったのか?

いつもの癖が出始めた。
私がまちがっていたのだ。私が悪かったのだ。
私があの時、上司が言ったと言わなければ、こんな事にならなかったのに。。。と。

上司の言いぶんに、何の問題もない。当然そのことに触れてくるだろう。
いつかは言われることが今日出ただけだ。
それがどうして今日なのか?
これは私のレッスンだ。
いったいなにを見せようとしているのか。

そのうち「あたしはここに執着はないからね」
と、すぐ辞めることだって出来ると、暗に振ってくる。
追い討ちをかけるように、彼女に今辞められたら、私が仕事出ずっぱりになるという怖れも起こりはじめる。

私のせいで人が険悪になる、、、。私のせいで、、、。
居心地の悪い、不快な感覚の中で、何も言えないまま忙しく仕事をこなす。
こんなときは、無理に空気を変えようとする必要はない。ただそのままにしておこう。。。
彼女は悪くない、上司も悪くない。。。。

いったい何を私に気づかせようとしているのだ?

ふとあることが思い浮かんだ。
「私たちがいつもケンカするのは、つくし、あんたのせいだからね!」
小学生の時、両親のケンカのあと母が私に言った言葉だ。
あの時、私が原因でいつもケンカをすると知らされた時、ショックだった。

あの時から、私は自分のせいで悪い事が起こると思い続けていたのだ。
悪いことが起こればすべて私のせいだと、この50年間思い続けていた。
この癖はずっと治らないと思っていた。どうやっても。。。

あのシーンがよみがえった。
ああ、今のこのできごとはそれを解体するために起こっている。。。!


母がそう私に言ったのは、彼女の罪の意識がそういわせただけなのだ。苦しさのあまり、誰かにその原因をおわせたかっただけなのだ。彼女は何も悪くない。そしてその原因を作ったかに見える私も悪くない。誰のせいでもない。

商品を作りながら、私はあのシーンを思いだし、それをゆるした。
母をゆるし、自分をゆるし、そして、Aさんをゆるし、部下をゆるし、上司をゆるした。
この一連のものを、私はコースにのっとって聖霊に捧げる。そして聖霊に取り消してもらった。

ゆるすとは、コースがゆいいつの手段として使う独自の方法。

ゆるす。ふしぎな響きだ。

ゆるすは、緩めるという響きに似ている。
固く硬直したものをゆるめ、やわらかくし、解体させていくのだ。
それは肯定、受け入れることに似ている。

分離は敵と味方にわけ、硬直させるが、ゆるしは受け入れる。
あなたと私というものが、対立するものではなく、互いにゆるみ合って融合する。
そうなるイメージが私は好きだ。


ゆるしの訓練は、結果はすぐには起きない。
それは時間とともに忘れた頃気がつくもの。
すべては私たち自我が知るすべはない。

いつのまにか、明るい彼女が戻って来た。
冗談を言い合いながら「おつかれさま~!」と別れた。



2019年7月18日木曜日

ほっこりしたいだけやん その2




どうもそうじゃないかも。。。
っておもいはじめた。

だって、さんざんやってきた。
あいつを変えて、これを変えて、あれも変えて、それも変えて。。。!!!
だけどまったくらちがあかなかった。。。。

そしてその視点は、逆方向に向かいはじめた。

変えようとするから、らちがあかなかったんじゃないか?

あるときから、変えることをやめた。
「。。。。。。。。ほっておこう」

心は騒ぐ。
変えないでどーする!このままでいいのか!?ほっといたら、地獄行きだぞ!

それさえもほっぽっとく。
何の判断もせず、何の解釈もくわえず、
何の正しいも悪いも、何のジャッジもせず。。。

裁いたところで、自分が苦しいだけ。
それは過去さんざんやってきたから証明済み。(いくらでも例はあげられるぞおーっ!)
もうその手にゃ乗らん。

ほっぽっといて、ただながめている。忘れている。
すると、事は勝手に進む。
勝手に動く。
勝手に問題解決されていく。
勝手にいい人になっていく。
勝手に穏やかになっていくじゃないか。。。

なんだこれ?

問題を見つけて、それを解決させるのが、幸せじゃなかったのか?

けれども問題を見つけても、それを問題として見ず、かかわらないことで、勝手に解決されていくのをみはじめた。
それは気が抜けるほどに。

そうしてやっと、何も変える必要なんかなかったんだ。
というところに落ち着いた。

な~んだ。
そんなことのために、どれだけ回り道してきたんだ、私?

けどこれは本を読んだ知識では得られないものだ。
体感として知る。それこそがほんとの知恵になっていくんだろな。




心の中を歩く。
それは正直言って、かなりきつい旅になる。自分の闇と徹底的に向き合わなければいけなくなる。見たくないものをみることをしいられる。心の中はお花畑じゃない。

けどもう一瞬だけの幸せでは物足りなくなったら、どうしようもなくそっちに向かわざるを得なくなった。

その途中途中に、驚きと平安とよろこびを与えられる。それは恩寵のように。
なぜ欠乏感があるのか。
それが消えることがどういうことかが、じょじょに見え始めた。

そしてまた旅を続けるようにとうながされる。
一人で旅をしているのではないのをかんじる。心の旅に向かう時、必ずお供がいる。
そうでなければ向かえない旅なのだもの。



何かをして、幸せになるのではなく、

何をもしなくても、幸せはすぐここにあったのだ。


2019年7月16日火曜日

ほっこりしたいだけやん



幸せとは、何かをすることで、得られるものだと思ってきた。

好きなものを買うことや食べることや、楽しいことをして得られる幸せ。
そして仕事などの、がんばったあとのご褒美として得られる幸せ。

だがそれはつかのま。
あっというまに終る。
その空虚感に無意識が気がついて、その穴を埋めるために、また次の「楽しいこと」をさがす。

小さい時から、そして大人になってからも同じことを繰り返していた。
まさか楽しいことを探すことは、自分の欠乏感から来るとは思っていなかった。

子どもの時はただうれしいからやっていた。
しかし大人になるとカシコク(狡猾に)なる。
正当化(言い訳)が始まる。

これは将来のため。自分のキャリアのため。健康のため。。。
そうやってうまく隠していくうちに、その幸せと言う目的を忘れ、正しさを求めはじめる。
これは正義のため。社会のため。人間としての生き方のため。
正しいことをやると幸せになれるのだ!と。

正しさなんて時代とともに変わる。家とともに変わる。お国によって変わる。ジェンダーによって変わる。
そんな曖昧な測りなのに、どっちが正しいとおおさわぎ。
善と悪ではなく、善と善との戦いだ~!

国同士の正しさの言い争いから、会社の中の言い争いから、友だち同士の言い争いから、ダンナとの正しさの言い争いから、今度は自分の心の中の言い争い(ほんとはこれが一番のおおもとだけど)。


ほんとは幸せになりたいだけやん。
ほっこりしたいだけやん。
ああ~~、なあんだ。。。って、安堵したいだけやん。
ただ心が安心したいだけやん。

じつは幸せは外から得られるものは、一時しのぎ。
そしてそれは苦痛とうらはら。
いくらおいしいものを食べても、食べ続けるのは苦痛。
温泉に入り続けるのはフヤケて苦痛。

なのになぜそれを求めるのか。
心がいつも「なにかがたりない。。。」とおもっているから。
そこを埋めよう埋めようとして、何かをやらざるを得ない衝動がつねに動いている。

楽しいことを達成した瞬間、その「何かが足りない」は消える。
だからホッとするのだ。
そのホッとすることを「ああしあわせ~~」と呼んでいる。

欠乏感の動きが一瞬止まる。
それが幸せ感だとおもっているだけなのだ。

普段私たちは、欠乏なおもいだらけの中にいる。このままではだめだ、このままいったら、どつぼにはまる。なんとかしてここから脱出しなければ!
というほとんど無意識の衝動が起こり続けている。

何かをしようとすることは、なにかを変えようとしている。
今この状態がイヤだ。と言い続けている。

ダンナのその言葉がイヤだ。
あの人のあの態度がイヤだ。
この職場がイヤだ。
この仕事がイヤだ。
この社会がイヤだ。
この国がイヤだ。
この世界がイヤだ。

私たちは気に入らないことを変えることで、幸せが得られるとおもっている。
気に入らないことを、楽しいことをして忘れることで、それが幸せに置き換えられると思っている。


ほんとにそうなのか?



2019年7月14日日曜日

雨の匂いをかぐ



ブログを更新しなくなってしばらくたつ。

ども。やまんばです。

日々の心の発見はあります。
しかし心のきびを描こうとすると、ぐたいてきなもろもろが出てきて、
色々差しさわりがある。

あれに触れるのはまずい、けどそこに触れないと、この部分が表現できない。。。
などなど、あちこっちの制限をかかえながら、言葉を選びながらブログに起こしていくのがめんどっちくなったのであります。


言葉ってとてもおおざっぱです。
悲しいって言葉は、ものすごくざっくりすぎる。
もちろん、楽しいも、腹立つも、おなじぐらいざっくり。
例えるなら、繊細な日本料理を厚手のゴム手袋をはめて調理しているようなもんです。

心はとてつもなく有機的で、激しく、からだの感覚や感情をともないながら、絶えず流動しています。

まったく言葉に表せない自分への否定の衝動、どんなにもがいても、ありとあらゆる手を尽くしても消せないことへの葛藤。
そうかとおもえば、何をするでもないのに、ほのかに漂う至福感。

心はとても豊かです。

それと同時に、いかに私たちが心を見ていなかったかを知ります。
そしてその心自体が、この世の不幸の始まりだったことを。



今、世間は選挙で盛り上がっています。
こうすればいい、ああすればいい、こうあるべきだ、ああするべきだ。。。
そうなれば幸せになれるのだと、声を大にして言います。

けれど、たとえシステムが最高になったとしても、きっと私たちはどこからか、また問題を見つけ出してきて、こうするべきだ、ああするべきだと、声を大にして言うことでしょう。


心ってそういうもん。
いつでもどこからでも問題をつくり出してきて、それさえ解決できれば幸せになれるって、言い続けるマシーンみたいなもんなんだ。

紫色の厚手のゴム手袋をはめて(言葉を使って)、
問題を探し続けるマシーン(探求の衝動)。

そんなおかしなイメージがわいたら、
そこから意識的に離れてみるのも手だ。



ほんとうは何も変えようとしなくて良かった。
ただただ心にふりまわされていただけなのだ。


今そんなところにいます。


雨にぬれる緑の匂いがここちよい高尾のふもとから。



2019年6月4日火曜日

能力主義の呪い




「仕事ができないヤツはダメだ」
そう教わってきた。
とーちゃんに、学校の先生に、仕事の上司に、クライアントに。

いつのまにか、仕事ができることが自分がここにいていいと言う許可をもらえることであり、仕事ができないと言うことは、この世にいる価値なし!!と有罪判決をもらうことと同義語になった。

だから必死で仕事ができる人になろうと努力してきた。
だがしかし。
仕事ができる人になろうとする事じたいが、その大前提に「私は仕事ができないひと」というレッテルを自分に貼ることになろうとは。
ちっちゃい時から、「わたしは仕事ができないひと」というレッテルとともに生きてきたのだとすれば。。。

「よくできましたねえ~~」と、先生にあたまをなでられようと、その一瞬だけ「やった!」とよろこび、次の瞬間、「さて!今度頭なでられるためには。。。」と、次の一手を考える。そうやって58年間生きてきた。

つまりここにいる価値なし!という焦りが、つねに何かをして他人にほめてもらおう、または自分で自分を納得させようとし続けていたと言うことだ。
それが私のフェイスブックに現れている。「いいね!」を欲しがる自分に。

だがこれはきりがない。
延々と、能力主義の呪いにかかったままだ。

畑の成果を見せ、
作品を見せ、
リア充を見せ、
成功例を見せ、
時には失敗例を見せ、、、、

そうやって、誰かに、私ここにいていいだろ!?
ねえ、ほんとにいいよね!?
と、聞きまくっている自分。

ほんとは、畑の成果も虚しい現実。
制作中に作品に対する葛藤の日々。
部屋は汚くても、写真の中だけ美しく見せるしたたかさ。
そういう自分をリアルに感じて、
なおさら自分の無力さにおちいる。
そして出てくる言葉、まったくここにいる価値なし!

できる人、できない人
という明暗がどんどんかけ離れていく。
自分の中で表の顔と裏の顔がはっきりと分裂しはじめる。

そして、その苦しさが頂点に達した時、
「これ、必要?」
とおもった。

能力主義というコインの裏表/できる人できない人。
このコインをずっと握りしめていたんだ、私。

ほんとうは、誰も私の作品が良いことを必要とはしていないし、
畑の成果を必要ともしていないし、
私のリア充を必要ともしてはいない。

私だけが、必要としていた。
それは自分がここにいていいと言われるために。

誰もそこにいてはいけない、とは言ってないのに。
何もしない君は、そこにいてはいけない、とは言ってないのに。


自分で自分に呪いの言葉を浴びせ続けていた。
自分を苦しめていたのは、心の中の言葉だった。

あれがダメだ。これもダメだ。それもダメだ。

それを聞いた私は、そうか!やっぱあれがダメなんだ!なんとかしよう!そしてそれをなんとかしたなら、またみんなに認めてもらえる!

心の声をまに受けて、声の言うまま続けてきた声に、
「それ、ほんとに必要?」
と疑いはじめた。

内側から聞こえてくると思っていた声を、外のものとして聞きはじめた瞬間だった。

否定してくる声が、いかに自分を怯えさせ、焦り、何かをしようという衝動を起こさせていたか。その混乱の中でいかに怖れをつかんでばかりいたか。

自分に条件づけをせず、ただ生きることが、どれだけ楽であったことか。

58年間近く聞いてきたこの声。
そうやすやすと消えてはくれないだろう。


それでも、すこし安堵しているこの頃な私である。



2019年5月28日火曜日

苦労話は通じないと効き目がない



「苦労なんかしてないでしょ」

その言葉にひっかかった。
私が?苦労してないひと?
んなわきゃないやろ。どんだけ苦労してきたと思ってるねん!
心がぶつぶつ言った。

そのとき「苦労は美徳」という観念が私の中にあるのに気がついた。
「苦労は買ってでもするもの」
そういうふうに教えられてきた。

だから人々の会話の中に苦労話が多い。それは苦労話をすることで、
「それは大変だったねえ~。エラかったねえ~」
と言ってもらうことによって、自分の価値を他人にあげてもらおうとする。
承認欲求は、苦労話でも得られる。むしろメインと言えるかもしれない。
「三時間しか寝てない」「一睡もしてない」



ところがその苦労話も、共感できる内容でないと効き目がない。
理解できない内容の苦労話も他人にとっちゃ、
「はあ、そーですか。それはそれは。。。」では自慢のしようがない。


冒頭に苦労なんかしてないでしょと言った人は、いつもへらへらして、アホなことばっかり言う私をみてるからなんだろう。

彼女はいわゆる苦労を絵に書いたようなひと。誰が聞いても誰に言わせても苦労100%のひと。それを自慢にしているのはあきらかだった。わかりやすい苦労話である。

しかし私の苦労は、あんまり共感が持てない苦労話。
グリーンカード取得の苦労、アメリカ生活の苦労、営業の苦労、絵を制作する産みの苦しみの苦労、過去のトラウマの苦労、心の癖の苦労。。。
と書いてみていやになった。

共感が持てない苦労話は、他人に言うに値しない。
苦労話自慢はそれが通用するひとにしか効き目がない。
私と同じ境遇のひとなんか、ひとりもいない。



苦労話は競い合う。
あなたより私の方が苦労が多い。
君より僕の方が苦労が上だ。

三時間睡眠より、一睡も寝てない方がえらいが、
数字で換算されるように比べられる苦労はあんがい少ない。
こっちのほうが上だ!と、互いに無言で競い合っているのがオチだ。

ご近所のおばさんの会話も
「あたしはこうなのよ」
「あら、あたしはこうなのよ」
と、話しの中に何の絡み合いもなく、お互いの一方的な自分の苦労話がつづき、
自分のいいたいことを言い合って、気がすんだらおわる。
そんなかんじなのも、無意識が心の中で競い合っているのかもしれない。




苦労は美徳。
そうおもってきたから、苦労自慢がしたくなる。しかし共感はしてもらえない。
だからつねに他人の共感欲求対してに
「そうだね。苦労したね。大変だったね。えらいね」と言い続けるだけだ。

ほんとに苦労は美徳なのだろうか。

もし私の中に苦労を美徳とおもわなくなったなら、他人の苦労話に何の苦痛も感じなくなるだろう。自分を苦労話で認めさせようとすることもしなくなるだろう。

そして苦労をしなければ、幸せになれないともおもわなくなるだろう。
それだけ私の心の深いところで、苦労はするべきだ、という観念が居座っていることに気づく。

昔、幼いころ手相見のひとが私の手を見て、
「まあ、この子はまだこんなにちっちゃいのに、こんなに苦労の相が出ている。かわいそうに。。。」
と言われたことを思いだす。

そのころから、私は苦労が好きになったのかもしれない。苦労をしてこそ一人前、みたいな。苦悩の血をにじませて、苦悩とともに歩くひと。。。そんなイメージを自分に持たせていたのかもしれない。
悲劇は文学になるぐらい美しく見えるのだから。
(え?ぜんぜんみえないって?)



苦労はしなくても、しあわせになれるんやとおもう。
苦労の土台なしで、しあわせになれるんやとおもう。
うん。だんだんそんな気になってきたぞ。


苦労は美徳と言う観念。
私にはもう必要ないなあ~。



絵:「苦労話」はすればするほど職場がよくなる/MF新書表紙イラスト
本の内容とま逆のことを言ってます。失礼しました。