2015年12月26日土曜日

受け取られない荷物



感情はエネルギーだ。
人は感情に、これはいい感情、これは悪い感情、と言うふうにわけた。

「きゃ~楽しい~~」や「ああ、すてき。。」などの感情は、ええなあ~って受け取るけど、
「はらたつ~~」とか「こわい~~」とかの感情は、「こんな感情を出してはいけない」といって、受け取らない。
自分で出しておいて、受け取るエネルギーと受け取らないエネルギーとにわけてしまったのだ。

これは荷物を自分で自分あてに送っておいて、「楽しい荷物」は受け取るけど、「腹立つ荷物」は受け取らないよーなもんだ。

かくして宅急便屋さんは、受け取ってもらえないもんだから、言ったん集荷場に荷物を持っていっては、またあらたに「お届けもので~~す」とやって来る。

いろんなシチュエーションを作って、その荷物が受け取られるまで、えんえんとやって来るのだ。

2015年12月22日火曜日

かなづちくんのお仕事



自分の中に秘密がある。
古代ギリシャのデルフォイの神殿に刻まれていることば「汝自身を知れ」は、そのことを伝えているように思う。

この世の苦しさは、じつは自分の中から生み出されている。
わしらは外の出来事に眼を奪われ、その外の現象を変えようと必死だ。だけどそんなものは何一つ変わらない。変わったとしても、すぐまた同じような現象がやって来る。いったいこれはなんだ?

その元になるのが、自分の心の中にあるものだからだ。
現象は、自分が信じているものがあらわれている。ただそれだけなのだ。

わしは自分の中を見続けるうち、
1:ひょっとしたら、、、と、うすうす感じていたものが、
2:えーー?やっぱり、そう、なのかな。。。
3:ゲ!マジでえ?

とゆーところにいる(どんなところや!)。

内面を見つめるといっても、とても漠然としているし、だいいち、一番やっかいなのが、自我。こいつはたくみに考えをあやつってくる。

「そんな考え、聞いたことないぞ」
「ほらほら、そんなことやってたら、みんなにきらわれるぞ」
「あかんあかん。それ、自分で自分の首しめるだけや」
「非常識にもほどがある」

自我がなんでここまで抵抗するかというと、それが仕事だから。正確に言うとそれが自分の仕事だと思っているから。

自我は、最初この肉体を守る道具としてつけられたオプションのようだ。肉体が崖から飛び出さないように、極端に酷使して、破壊しないように、そんなことのためにつけられたもののようだった。しかしいつのまにか、自我が主導権をにぎってしまった。道具が主導権をにぎったのだ。

わしらはその道具に向かって、「私の人生はどうしたらいい?」「この場合はどうするの?」と聞いているのだ。
それは、かなづちに向かって、自分の人生の答えを教えてもらおうとしているようなもんだ。

かなづちくんは、よろこんで教えてくれるだろう。
「ふんふん。それはね。こーしなさい。あーしなさい。」と。
しかしその内容はいつだって、どこかで聞いたことのある、ひじょーに常識的な言葉だ。

「あー、それね。それをすると、きっと痛い目にあうから、まず、自分を守って小さくして、ガードを固くして、それにのぞみなさい。ああ、それでもその途中で危ない目にあうから、石橋をたたいてたたいてたたいて、渡りなさい。でも、やっぱりそれも危ないから、やめときなさい。」
と、ゆーだろう。

そのかなづちくんの言葉は、説得力がある。そりゃそーだ。世間で言われていることそのものなのだもの。まちがってもオリジナルな考えではない。
ついでにゆーと、かなづちくんには、何も出来ない。ただ聞きかじったことをしゃべるだけである。しゃべる言葉をうのみにするわしらがいる。そしてその言葉に右往左往させられているだけなのだ。

ところが、わしらは、自分の中から出てきた言葉は、自分のものだと思って疑わない。ましてや、自分の中から出てきたものだもの、自分の味方であるはずだと。自分を助けるために、沸いて来る言葉は絶対的なのだ。

ほんとにそお?

わしら、その自分から出て来る言葉にこそ、ふるまわされてるんじゃない?
その言葉をまにうけて、不幸を感じたりしてるんじゃないの?
その言葉があるからこそ、苦しんでいるんじゃないの?

あったかい部屋で、コーヒーを飲んでくつろいでいても、未来の不安や、やっかいなあいつのことで頭がいっぱいになってイヤな気分になってない?
目の前にあるあったかで心地よいものを感じないで、頭の中だけで不幸を感じる。
かなづちくんは、そんなお仕事をやってくれているのだ。

実にありがたい存在だ。
いやみではない。
だって、それって、リアルドラマじゃん。
ジェットコースターに乗って、キャーとか、わーとかいっている、まさにそれを味わわさせてくれる、お楽しみな道具に変身してくれたのだ。

わしは先日びっくりしたんや。
え~~~~っ、これってほんとはおもしろがってんじゃん!って。

なんか話がドンドンヘチの方へずれていったなあ~。まあえいか。

結局、自作自演やっとるんやなて、実感したんよ。あほかいなーーーーーっ!って。
恐怖ってどんなん?
不安ってどんなかんじ?
嫉妬ってどんなの?
怒りってどんなふうに感じるもんなの?へえ~、からだにくるんや!
とかね。
リアルに感じる。
そしてネガティブなものほど、めっちゃ、リアルに感じるんや!

その時、自分が、ぎゅっと凝縮するのを感じる。カチカチに固まるのを感じる。そこにはっきりと、自分と他人と言う分裂が起こるのを感じる!
超物質の世界に入るのを感じる!
めっちゃリアルや~~~。

反対にポジティブは、ゆるくなる。
しあわせ~。は~、とけていく~。
ついでに他人も自分もいっしょくた~~~~。
ってならん?
どっちかとゆーと、漠然とする。リアル感がないw。

そうやねん。
ポジティブもネガティブもどっちもいいわるいじゃない。
その両方を味わいにここにいる。自作自演を楽しみにここにいる。

自分で自分に不安や恐怖を味わわさせてくれるかなづちくんに、感謝状をだす。

今まで楽しませてくれてありがとう!愛してるよ。


絵:「小石の遊び」素材/和紙、洋紙、その他


2015年12月13日日曜日

気がつけば、コゲラ側に立っていた



「ギーッ、ギーッ」
聞き慣れた声が庭にやって来た。あの声を聞くと、反射的にある出来事を思いだす。

5、6年前、ウチの庭の梅の木に、小さな丸い穴をあけてコゲラが巣を作った。それほど大きくもない梅の木に、穴をあけられて、私はそのせいで木が倒れるんじゃないかとはらはらしたものだ。
だが毎日巣穴に出たり入ったりしているコゲラの行動に見入ってしまい、いつかあの穴から出てくるであろうヒナたちの姿を想像しては楽しんだ。

巣作りもいつのまにか終わって、子育ての時期に入ったらしい。コゲラがじっと巣にこもったり、穴から顔だけ出してお日様に当たる姿がほほえましかった。やがて、きいきいとかすかな声が聞こえはじめた。コゲラのヒナの声だ。親コゲラは、いつにもよりひんぱんに巣出入りする。ヒナたちのエサの調達に忙しいようだった。

ある日の事、いつもの梅の木に違う風景が目に入った。それは梅の木にまとわりついたもう一本の白っぽい枝だった。よく見れば、その枝は巣穴からあらわれている。
いや。巣穴からあらわれているのではなく、巣穴に頭をつっこんだヘビの姿だった。

私は全身が凍りついた。あわててダンナを呼ぶ。
早く!早くあのヘビを巣穴から引っ張り出して!

体長70センチ以上はある大きなヘビをダンナはぐっとつかんで持ち上げた。その瞬間、ずるずるっとヘビは彼の手からはなれ、あっというまに、その全身を穴の中につっこんだ。
「え?」
ダンナと私は、あっけにとられた。あの小さな巣穴に、ヘビは全身をねじ込んだのだ。

「ギーーッ、ギーーーーーーッ、ギーーーーーーーッ!」

親コゲラは、それからずっと梅の木のまわりで旋回しながらはげしく鳴き続けた。



今聞こえるコゲラの声は、そのときのものではない。けれどもその時の私の感情が自動的に呼び起こされる。ヘビがヒナをすべて食べつくしているそのあいだ、自分は何も出来ず、ただ鳴き続けるしかない親コゲラのかなしみ。いつのまにか自分の姿を重ねていたのかも知れない。

自然界は人間の視点から見ると、時に残酷に映る。
だがそれはコゲラ側の視点だ。ヘビにとってはエサを食べていたら、いきなり自分の体をだれかにつかまれたのだ。反射的に身を守って当然だ。ヘビにしたら食事中にいい迷惑だったのだ。私の視点はいつのまにか、コゲラ側の視点に立っていたのだ。

人間はいつもどこかの位置に立って、物事を判断する。それに一喜一憂するものだ。それがあるからこそ、物語が出来、共感し、心を震わせる。

だがもうひとつ別の視点に立つ。それはどちらにも立たないと言う視点。
そこからは全く別の世界が見えて来る。

あれからコゲラの巣穴はだんだん小さくなっていった。まるで過去の出来事がなかったかのように。自然界はいつまでもそこにとどまろうとする人間の心を置き去りに、ひたひたと変化を続けていく。


写真は梅の木の根元。真ん中あたりに小さな穴が見える。




2015年12月1日火曜日

嵯峨美ビジュアルデザイン9期展


写真提供/前野節氏

先日、嵯峨美ビジュアルデザインのクラスメートたちと、大阪で卒業後初めてグループ展を開いた。

わしは東京なので作品のデータを、指先ひとつでポンと送り、向こうで出力してもらい、展示までしてもらうという、おんぶにだっこな参加だった。
勝手な参加者であるにもかかわらず、文句もいわず(ホントは言ってたかも知れんが)忙しく動いてくれたみんなに、感謝申し上げる。

LINE仲間が現地で写真や動画で実況中継をしてくれ、そこで何が起っているのかが手に取るよーにわかり、なんだか自分もそこに参加しているよーな、とーーっても楽しい展覧会であった。
おもしろい時代じゃのう~。

わしは今回、一点この展覧会のための制作させてもらった。
タイトルは「木神」と書いて、「きしん」と読ませた。

5月の展覧会以降、植物と人間が合体したようなものを制作している。10年間紙を使った制作をやめていたが、ふたたび紙を使うことによって、臨場感を立体性を感じる作品にした。

今回のグループ展では、データ作品を選んだ。どうせなら、ドドーンとでかくしたいとおもい、けっこう力を入れてつくった。

だがしかし、実際足を運んでいないので、どういう状況、どういう反応があるのかサッパリわからない。そんな中、友人が一枚の写真を送ってくれた。

同期のなつかしい友だちが、わしの作品の前でたたずんでいる写真。
この写真に、胸がぐっとあつくなったのだ。
彼女はじっと見てくれたのか、それとも一瞬見て通り過ぎたのか、それはわからない。でもわしの絵に対峙している瞬間をとらえている気がした。

その瞬間を見るために、作家は作品を外に向かって作っているのかも知れない。
それは、その作品をつくった作家との対話ではなく、一人の作家から出てきた、一個の独立した存在との対話を見る瞬間。。。




依頼仕事からはなれた、自分の内面から出て来る作品は、何一ついいわけが出来ない。恐ろしい反面、挑戦でもある。


絵:「木神/きしん」



2015年11月9日月曜日

きのう講演会にはじめて行った



きのう「ノンジュアリティの夜明け」と言う講演会に行ってきた。
やまんばがそれ系(?)の講演会に行くのは、はじめてである。

数々のあやしー本を読みあさって来たが、講演会とゆーものに、一度も行ったことがない。
ずいぶん昔、一度だけ古神道の教えの方のところに行って、「これぼったくりやな」と感じて以来、直接会いにいくよりも、ユーチューブや著書だけでじゅうぶんであるとおもっていたから。

久しぶりにのぞいてみたあるブログに書かれてあった講演会のおしらせ。
「今日からチケット販売です。今日から一週間のあいだでのふりこみなら半額です」とゆー、お得感に乗せられて、その場で申し込む。

きのうの講演会の話では、一晩で完売だったそうだ。前の方に座っていたやまんばが後ろを振り返ると、かなり広い会場の席はすべて埋まっていた。
この思想への感心がどれだけすごいかうかがえる。

4、50代の女性がほとんど。みんなこぎれいなかっこうをしたステキな女性ばかりだった。一見そんなきれいなかっこうをされて、なにを悩むことがおあり?ってなかんじなのだが、みんな心の中は葛藤で満ちあふれているのだ。そしてこの苦悩をなんとかしたいと思っている。


ノンジュアリティ、つまり、二つではないの意、日本語にして「非二元」は、こりゃまたとてつもなく、むずかしー思想だ。
観察するものと、観察されるものは、二つには分かれていない、という意味だ。
はあ~~~~?????

ここでその説明をするのは無理だ。
だがこれはとても古くて新しい思想だ。
心の時代と言われてずいぶんたつ。心の正体やこの世の道理をいぶかしがって、苦しんで、探求し続けて、もうこれ以上探求しても同じことの繰り返しだ。。。と気がついて、そしてその先に行き着くところだ。少なくともやまんばはそう感じた。
そしてそれは、小さい頃知っていたことだった。
ものすごいいきおいで、子どもの頃感じていたものに引き戻される。
「ここだったのかー!」という驚きと直感。

子どもの頃にはすでに知っていたものに、別の考えをみにまとい、そしてまたその上に、みにまとい、みにまとい、みにまとい、やがて恐怖の塊になっていった大人の自分。苦しみは、その身にまとったもののおかげだった。そしてそれを一つづつはがしていく。はがしていくうちに、隙間があらわれはじめ、その隙間からのぞきはじめたものは、子どもの頃に知っていたものだった。

なんという壮大なゲームをしているのだろう。
最初からひとつだったものを二つにわけ、その分離の苦しみから逃れるために、ありとあらゆる探求をする。そのおかげで、文化が生まれ、宗教も生まれ、ありとあらゆるものが生まれて来たのだ。

これを「愛」というのだとしたら、もう、わしらのあたまで解釈できるものではない。

またそんな話を書いてみたいと思う。

ブログの内容がドンドン変わって来たね。
ま、いっかー。

2015年11月7日土曜日

スローガンはいらない



やまんばは、自然のすがたでできる野菜作りをやりたいとおもっている。

それを自然農や自然栽培や無肥料無農薬栽培とかいう。
そして石けんなし生活もしている。

どっちも、できるだけ自然な姿を生かしたいと持っているんだな。野菜と言う植物も、ニンゲンと言う大自然の体も。

でも、それが正しいと言う気はないんだ。

理屈で考えたら、シャンプーリンスを海に流すのはよくないとか、体に悪影響を及ぼすからよくないとかいうこともできる。でもそれを言ってやめさせることとは、ちと違う気がするんだな。

野菜作りも、農薬がダメだからとか、有機肥料は体によくないから、だから自然栽培なんだっていうのとも、ちとちがうんだな。

人はどうしても自分がやっていることが正しいって思いたがる。
農薬より有機肥料。有機肥料より無肥料。だからそれが正しい!と。
やまんばも初めのうちはそう思ってた。だけどそう思えば思うほど、生きづらくなってくるし、心はかたくなっていく。

でもそれって、せっかくの自然の神秘が消えちゃう気がするんだ。
自然って、ニンゲンがおしはかれるレベルにいない気がするんだな。全く違う世界を生きている。だからどうがんばったって、ニンゲンさまのおつむじゃわかりきれないとおもうんだ。

石けんやシャンプーだってそうだ。自然を破壊するからダメだ。リンスはおかあさんの子宮にたまるからダメだ。だからそれをやめる石けんなし生活は正しい!というのもちがうとおもうんだな。

これはスローガンをかかげてやるもんではないとおもう。運動にすることでもないとおもう。運動にすれば、必ずいざこざがおこる。派閥も出来る。最初のピュアな気持ちがゆがみはじめる。それは宗教だって同じじゃないか。

根源的なことだからこそ、とても見えずらく、繊細なんだ。概念的なうたい文句を必要としないところなんだと思うんだ。

ただ一人一人がじんわりと、それがだんだん好きになっていく。
それでいいとおもうんだ。

やまんばはそれが好きだからやっている。
ただそれだけなのだ。



2015年11月5日木曜日

自分で作ったりっぱな牢獄



毎日、いろんな出来事や発見があって、書ききれないよ~ん。

言葉って難しいよね。
こう書けば、こう解釈されるだろーなーとか、ああ書けば、どんなふうに解釈されるんだろーってなことぶつぶつ考えたら、
「。。。。」ってなっちゃって、なんも書けんくなった(笑)。


と言いつつ、書いてみよう〜。

自分のあたまの中に浮かぶ考えって、自分が考えてるっておもうよね。だから自分に悪いようには言うはずがない!この考えは私の味方だ!って、鵜呑みにするよね。
でもそれってほんとだろうか。


おもしろいのは、自分のあたまの中に浮かぶ言葉に注目すると、ほとんど同じ事柄しかいってないことに気がつき、それはほぼ100%が、ネガティブで、自分を小さくすることしか言わないってこと。

あれしたい、これしたいっていう言葉をめくると、その下には「こうしなきゃ、あとでイヤな思いをする」とか「ろくな事にならない」って言う、いわば、転ばぬ先の杖みたいなことばかりを考えてるんだな。

それは、ほんとうにじぶんが「やりたい!」っておもうこととは、ま反対のものだったんだ。
ほんとうにやりたい!っておもうことって、「どうして?」ってきくと、
「わかんない。ただ、むしょうにそれがやりたいんだよな~」
っていう、ちっとも説得力のないもんなんだ。w

そころが、転ばぬ先の杖は、色々説得力がある。
もし、それをしないと、まずいことがおこる。だからそれをするのだ!ってね。それって、ものすごーい説得力あるでしょ。
そのあたまの声を聞き、
「そうだ!そうしなければいけないのだ!」
と、その言葉の通りに突き進むんだな。
んで、ドンドン深みにはまっていくんだ。

そこに解決できるもんはないんだな。。。って、気がついた。いくら転ばぬ先の杖で、対処しても、せいぜい牢獄の壁の色を塗り替えるぐらいなんだ。
「あら。ピンク色になって、明るくなったわ」って。


やまんばは自分のあたまの中に沸いてくる言葉に注目したんだ。そしてそれを「ふ~ん」と受け流しはじめた。「ああ、またいってら~」って。

だんだん、だんだん、なにかが変化する。
これまでマジに受け止めて、深刻になっていた事柄が、どうでもよくなってくる。そしてぐちゃぐちゃに絡み合っていた糸が、ゆっくりとほどけはじめ、
「あ~~~、こんなことで。。。、
あ~~~~、だから、あんなふうに苦しんでいたんだ。。。」
って、理解がおこる。

まだまだ下の方にたまっているだろうなって言うものにも気がつく。
ありとあらゆる事柄、たとえば、絵の表現に関しても、日々の生活の習慣に関しても、それはそれは、まあ、りっぱなくらい自分の牢獄に閉じ込められていることに驚く。
りっぱに、頑丈に作りあげてきた牢獄。

そこから出る鍵は、すぐここにあったんだなあ~って、おもうんだ。

絵:じぇんじぇんかんけーないけど、歴史上の人物の暴言の数々をまとめた面白い本です。その表紙を制作〜。

2015年10月11日日曜日

天狗がちょろまかした



先日、つじつまの合わないことがおこった。
と、ゆーと、なんだかとんでもないことが起こったみたいやな。
いやいやなんてーことないんやけど、でもよー考えたら、不思議やねん。

かごに入れた時は、5つだったものが、かごから出す時には、4つになっていたのだ。

は?
なんですか?それは。

どっかに落としたかと探したり、もともと入れてなかったのだと、いろんなことを確認したが、どこにもない。あたまの中で、入れた時の記憶を辿っても、確かに5つ入れた。しかしほんの1分移動しただけで、1個減っていたのだ。

これを友だちにゆーと、
「天狗だ!」とか
「いじわる好きな神さんが食ったのだ」とか、遊んでくれる(笑)。
確かにここは高尾だよ。天狗のすみかの、た・か・お。
だから天狗がちょろまかしたってのかい!セコい天狗やのお~。


私たちは、この世はつじつまが合う世界だと信じて疑わない。
1+1=2な世界なのだ。
だがほんとだろうか。数学も突き詰めていけば、1+1=2ではないらしい。
わしは方程式が好きだった。なぜかとゆーと、ひとつの法則で解くと、完全に答えが1つ出てくるからだ。
それって、ある意味、安心感がない?
はあ~っ、解けた!すっきり~っ!って。

けど、この世はそーはいかのしおからだっちょのふんどし。
つじつまのあわないことだらけ。

だからだろうか。人々はひたすら探求する。完全なるしあわせを求めて、完全なる安心感を求めて、法則を探す。
あそこの法則がすごい!と聞けば、行ってその先生にお伺いを立て、あの農法さえ使えば、完璧だ!とあちこちの農法にふんそーする。
あれさえ使えば、完璧に儲かる。あの方法さえ身につければ、完璧な作品しか生み出さない。あの宗教の教えに入れば、完璧なしあわせが手に入る。。。。

だが実際は、そんなもんどこにもない。探求し続けて、明け暮れて、見つけられなくて、あっちの法則、こっちの法則へと転々と移動するのがオチじゃなかったか。
事実、やまんばだって、自然農、自然農法、たんじゅん農法、自然栽培、。。。と転々として来た。どっかにバッチリあう農法があるはずだ!と。でも結局、外になんかみつからなかった。



んで、最初の話。
このじじつに、やまんばはリンゴから手をはなせばリンゴは地面に向かって落ちる、とゆーほどの、あたり前の法則の、崩壊の断片を見た気がしたんだ。
これは、なにかを教えてないか。。。?と。

リンゴはほんとは手をはなしても地面に落ちないのかも知れない。5はときどき、4になったりするのかもしれない。
もし1+1が、数字上では2なのに、実際にリンゴを数えてみたら、3個になってたり、8個になってたりしてたら、この世の数学は変わっているだろう。

そうなったら、とてもじゃないが、人は安心できない。
8時までに出社しなければいけないのに、時間が逆行してたらどーなる!?もしくは、8時の次が、11時だったらどーする!?

いや、そもそもこの世がそんな状態だったら、今の数学も時計もないだろう。そしてそもそも、そこに安心感などもたないだろう。
「時間にあわせる?なにそれ?」
「お金?ああ、減ったり、増えたりするもんよ」

絶対的な法則がある!とおもっているのは、
「絶対的な法則があってくれなくちゃ困る!」
とゆー、心理状態が生み出した、「おとぎばなし」だったりしてね(笑)。


ちゃんちゃん。

(って、どこに落としたんだよ!)

絵」「大天狗」オリジナル


2015年10月6日火曜日

やまんばの白髪





54歳のやまんばは、口紅はおろか、化粧品一個ももってない。石けん使わないので、顔がパサつかないから、化粧水も、クリームももってない。
石けんなし生活の髪は染めてもない。まるっきしの、天然そのまんま。

このごろ友だちが、髪を染めるのが面倒になったといっていた。染めるって、けっこう面倒なようだ。

先日もしばらく会っていなかった同い年の女性が、あたまが真っ白になっているのを見てビックリした。彼女、あんなに白髪があったんだ。ずっと染めていたのだ。しらなかったなあ~。
その日はどこかのお葬式の帰りだったようだったが、喪服姿に8割白髪。すっぴんに、うっすら紅を引いただけの彼女は、どこか色っぽかった。

人は「べき」にずっととらわれて生きているんだけど、特に年がいってくると、女の人はけっこう不自由だなあ~とおもう。

化粧はするべき。
髪は染めるべき。
料理はするべき。
やせるべき。
ジムには行くべき。
健康管理はするべき。
体にいいものを食べるべき。
習い事はするべき。
親の面倒は見るべき。
子どもの面倒は見るべき。
家の掃除はするべき。
洗濯はするべき。
電気はこまめに消すべき。
ゴミはできるだけ少なくするべき。
ご近所さんとは波風立てないようにするべき。
みんなが見て「正しい」ことをするべき。

近所のおばちゃんとはなしをしても、あれをしなきゃ、これをしなきゃ、と言う話でもりあがる。美容院行かなきゃ、病院行かなきゃ、ジムに行かなきゃ、孫の面倒見なきゃ。。。

なんか、強迫観念のように、やまんばに訴えてくる。
まるで、「私、これやっているからいいでしょ?オッケーでしょ?大丈夫でしょ?」って、同意を求められているみたいだ。

もちろん、いいよ。おっけーだよ。
でもねえ。いつまでも人に同意を求めてるってことは、
ずーーーーっと、人の目を気にして生き続けることになるよ。
ずーーーーっと、ありもしない架空のモノサシで、自分をはかり続け、心が落ち着かないまんまなのだよ。

つまり、自分で自分が認められないのだ。自分がこれでいい、と心底思えないからだ。だからつねに外のなにかと比べてオッケーか、オッケーじゃないかをはかり続けるんだ。

それほど、自分で自分を認めることは、相当難しい。
やまんばだって、ここに来てやっとそのことを、はっきりわかり始めたところなんだもん。
とてもじゃないが、
「あら、勝手に出来ちゃった」
なんて自然にいかないんやろな。(笑)


絵:「水仙ちゃん」:越前茶ペットボトルのキャラクター

2015年10月3日土曜日

苦しみの中にくつろいでみる




わたしたちは、「ねばならない」というものにとこかこまれている。

痛いのは取り除かなければならない。
苦しみは取り除かなければならない。

人は苦しいと、それに抵抗する。
人は痛いと、それに抵抗する。

でもそれに抵抗すればするほど、痛みは増す。
苦しみに抵抗すればするほど、苦しみは増す。

なぜ抵抗するのか。
それは、痛いことは悪いことだとしているから。
苦しいことは悪いことだとしているから。

確かに痛いことは、「死」と言う恐怖に結びついているから、カラダは自然と守ろうとする。それは大事なことだ。痛みから来る恐怖がないと、人はアクセル踏みっぱなしで、ドンドン死んでいくだろう。

だが私たちのほとんどは、その瞬間の肉体的恐怖ではなく、過去や未来を想定することによる観念的な恐怖のなかにいることがほとんどではないだろうか。


やまんばは、痛みを感じるとき、痛みの中にくつろいでみる。
この痛みはどんな痛み?
おお、こんなかんじか。おお~、ググ~っとねじれる感じか。
おおおお~~~っ。。。

痛みは抵抗するよりも、受け入れる方が、和らぐのを知る。
そしていつのまにか消えていく。
肉体の中にひそむ叡智を感じる。なぜ痛みを与えているのか。
それさえも、素晴らしい教えなのではないだろうか。


やまんばは苦しさを感じるとき、苦しさの中にくつろいでみる。
この苦しさはどんな苦しさ?
。。。胸になにかがある。
どんなものが?
そう、、ねえ。。しいて言えば、ありとあらゆる色の、いろんなカタチの考えが、バラバラに飛び交っている感じ。。。。
それはどんな色をしている?
それはどんな柄をしている?
そうねえ。そうねえ。これは市松模様で、これは、ゴブラン織りみたいな。。。

そんなふうに感じるものを実況中継しているあいだに、その苦しさは、いつのまにかべつのものを立ち上げてくる。

ああ、こんな観念があるから苦しかったんだ。。。
ああ、そんなものは苦しさを生むだけで、必要なかったものだったんだ。。。

そんな気づきにおどろかされる。

苦しさに抵抗するのではなく、苦しさを素直に味わってみる。
ただそれだけで、なにかがほどけていく。


絵:「witch」オリジナル
美しい魔女を描いてみたかったんだあ〜。




2015年9月29日火曜日

やまんば、ささくれ立つ、の巻。



ちくりと感情が動いた。

あ、この感情はなんだろう。感情の元をたどっていく。ほんの少し前にあったことへの反応だ。
このところ自分の感情に敏感になっている。

だいぶ前から自分の感情を見つめはじめた。
最初はわかりやすい怒りから始まった。私たちはネガティブな感情が自分に現れると、いけないことだと判断して、それを押し殺すようにして来た。その結果、その怒りは、似たような状況下に置かれると、条件反射のように同じ反応を繰り返す。

その仕組みがわかったのは、自分の怒りを受け入れた時からだった。

感情は体に表れてくる。
エネルギーが異動して、手や足に動いていく。その結果なにかをたたいたり、けったりするのだとわかってくる。だがそんなことをしてもあまり意味がない。第一、外に迷惑をかける(笑)。

その異動するエネルギーを味わうのだ。ただ自分と対面するのだ。
どんな感じ?どんなふうにエネルギーがあふれている?
自分で自分に問うてみる。味わってみる。するといろんな変化がおこる。自分のカラダがいかに感情とくっついているのかが良くわかる。

私の場合は、さっきまであったものすごい怒りが瞬間に消えてしまったのだ。

それから私は感情は単なるエネルギーなのだと知る。そこにはいいも悪いもない。起こった出来事に対して、感情の反応が起こったとき、それをじっくり味わうのだ。最初は大づかみな感情だけに気がついていたが、次第に繊細なものへの感情にも気づきはじめた。


そして今、ちくりとした感情をあじわう。
これはなんだろう。
ぎざぎざしたかんじ。
ささくれ立った感じ。
胸の中心ニギュ~っと、黒くてささくれ立った木の束がある感じ。。。

よし。ささくれ立つぞお~。
私は今、おもいっきりささくれだってやるぞ~~~!

そういってしばらくささくれだってみた。(笑)
すると間もなくして、今まで考えてたことのない考えがうかびはじめた。
あ、これ。あ、それも。。。あ、あ、、ああ、そういうことだったのか。。。。
いくつかの考えが浮かび、ぱたぱたぱたとつながりはじめた。
ああ~、そういうことだったのか。。。いま、やっとわかった。。あ~~~、なるほど!

さっき起こった事柄とはまるで関係のない、前に起こった出来事への理解が起こっていた。

感情はプレゼントじゃないかと私は思う。
おこる感情は、自分の中にあるがんじがらめになった信念を解きほぐす役割をしてくれている。ただその感情の中に入る。見つめる。受け取る。ただそれだけで、自分では気がつかなかったことが、あらわれてくる。そして、ほぐそうとしなくて、ただ、自然にほぐれていくのだ。
これをプレゼントといわずしてなんというのだろう。

この世は神秘に満ちている。

絵:マンガ「不安局」の一コマ


2015年9月27日日曜日

やまんば、自分を受け取る。の巻



ある人をほめた。
なんにも返答がない。
あれ?聞こえないのかな?とおもった。
しばらくして質問すると、すぐ答える。聞こえてんじゃん。
それからまたしばらくして、べつのことをほめた。
やっぱり返答がない。
あ、この人ほめられることが苦手なんだと気がついた。

彼女は異様なぐらい仕事が出来る。
すべてを把握して、的確に行動する。根回しも、その場を明るくする方法も知っている。遠くで動いているスタッフが、今どういう状態かを把握して瞬時に動く。まるで彼女のセンサーがひとつの空間全部に張り巡らされているかのようだ。ご主人が「ウチのカミさんのアドヴァイスは的確なんだ。。」と言っていた理由が良くわかる。

だがそんな凄腕の彼女は、彼女自身の能力をまったく認めていないのだ。
その時、自分のことと重なった。
「これは、、、自分だ。。。。」

がくぜんとした。
この感覚は何といったらいいのだろうか。自分の能力も存在も、何一つ受け取ろうとしない彼女は、私そのものだったのだ。。。

それがどんなにこっけいで、残念で、自分自身に対して失礼なことをしているのか、全身で感じて、その場で身震いした。

ふと道を通る人たちを見た。
みんな認めていない顔をしていた。自分自身の能力、自分自身の存在。。。ただこの世に生きていることさえも認められない顔、顔、顔。。。

自分の足りない物を探し、それを埋めようとする。一時埋まった気になっても、また別の足りないものを探す。そうやってえんえんと探し物をしている。満ち足りないなにかを埋めようとずっともがいている。

その彼女もいつも探している。これじゃないなにか。
今もっている素晴らしい宝物をうけとらないで、その宝物をさがしつづけるようなもんだ。
手にしているじゃないか。今、そこに。

もし、もし、彼女が自分の価値に宝に気がついたなら、それに対して大事にあつかったなら、事態はまるで変わるのだ。。。。



おかしなもんで、その自分を受け取ると、自分が消えていく。
ないないと探し続けていると、苦悩する自分が、強烈に存在する。凝縮して、個別化された「自分」が存在する。
その反対に、自分の能力、体験、そのものを受け取ると、ゆるみ、開き、拡張して、「自分」が消えていくのだ。

やまんばは、なんだかおかしくなって、しばらくへらへら笑っていた。

2015年9月20日日曜日

母との会話



「どお?げんき?」
「あんまり元気ない」
電話の向こうの母の声がしんどそう。

「だいじょうぶ?」
「大丈夫やないのに、病院の先生、笑うんよ」
「なんで?」
「きのう病院行って血液検査やらなんやら全部調べてもろうて、そしたら、どこっちゃあ悪い数値も悪いところもないって。」
「けんど、しんどいがやろ?」
「うん、しんどいのに、先生は『どこっちゃあ悪うないき、あなたは、ただ歩くだけでえいがよね』っていうが」
「あはは。やっぱしそこか」
「あたしねえ、歩くだけでえいが。そやから歩かんといかん」
出た。
その言葉、耳にたこが100億個できるばあ、聞いた。


彼女はあまり上手に歩けない。いや、初めは単に歩くのが遅い方なだけだった。だけど、だんだんもっと遅くなり、そして今はやっと歩いている。

その原因をさぐっていたが何もわからず、ついに、小脳が萎縮していると言う「原因」に行き当たった。それは進行性の病いと言われているものだったが、それが「発覚」されてから、何一つ進行しない。相変わらず同じような歩行を続けているだけである。

なので医者もお手上げなのだ。
その脳の萎縮がはたして急激に起きたことなのか、長い時間をかけて起きたことなのか、過去にそれを調べたことがないのでわからない。
だが最近彼女の医者は、
「あなたは40代から歩かなくなってきたから、じょじょに脳が萎縮したのだ」
といっているようだ。それって病気といえるのだろうか。。。
誰でも40年以上ろくに歩かなかったら、その機能は衰える。一週間寝っぱなしなだけでふらふらするもんだ。

「あなたは歩くだけ」
と、あちこちの医者に言われ続けても
「あたしは歩くだけでい~のよ~」
と、嬉しそうに言うだけで、ちっとも外に出て行かない。今回も出て行くわけがない。

「もう、歩かんでえいんちゃう?」
「え?」
「歩きとうないんやろ?」
「うん」
「ほな、歩かんでえいやん」
彼女はぽかんとした。


「歩かんといかん」
という言葉には、歩かなければいけないという義務感が含まれている。
じつはその言葉の下には、もうひとつ言葉がある。
「歩かないと、もう歩けなくなってしまう」
と言う脅し文句がセットになっているのだ。

恐怖の上に成り立っている義務感。
これ、人の行動のありとあらゆることの原動力、モチベーションになっている。
もし、それをやらないと、たいへんなことになってしまう、という恐怖心から来る動機である。

これが人を怖れさせる。ほとんど無意識にその恐怖の中に人々はとり込まれて、ムリヤリ行動している。
寒いかっこうしていたら、風邪を引く。
なまけていたら、仕事が干される。
などなど、山のように出て来る。


義務感はぐっと心を小さくさせる。
これ、やらなければいけない。。。
と、おもったとき、心はどう感じているだろうか。
胸のあたりがぎゅっと凝縮したかんじがしないだろうか。
個としての自分がはっきり意識される瞬間でもある。自分と他人の境界線がはっきりと現れはじめる。

しかしみんなで楽しいことをしているとき、自と他と言う境界線があるだろうか。自分も他人も一緒くたになって楽しんでいるのではないだろうか。

もし彼女が
「あ、今日はいいお天気。散歩しに行こうっかな~」
とおもって外に出るとき、そこに義務感はあるだろうか。

ずっと、こうしなければいけないとおもい続けているからこそ、そう行動できないんじゃないだろうか。

私は歩かないと、歩けなくなる。。。
だから歩かんといかん。。。
だけど今日も歩きにいけなかった。。。
ああ、そうすると、ますます歩けなくなる。。。
いかん、歩かんといかん。。
歩かんと。。。。

そういう言葉が彼女の中で、何度も何度もくりかえしなされていることではないだろうか。
こうしなければいけないとおもうのに、そうできない自分を責め、そしてまたますます出来ない自分を責め続ける。

これが彼女を歩かせない理由なのではないか。

心が人を作るんだなあ〜と、彼女を通して知った。彼女は自分で自分を作りあげているのだ。
それは先日紹介した「あなたという習慣を断つ」と言う本に、まさに書いてあった通りだ。
彼女は自分で自分のわだちを掘り下げているのだ。





きのう書いたブログのように「心に浮かんだ思い」をつかまないで、そのままにしておく、流れるままにしておくことが彼女に出来たなら、何かが変わっていくだろうな。


「頭に浮かぶ?『歩かんといかん』ってことば」
「うかぶうかぶ。四六時中。ずっと言い続けている」
「それ、風やで。」
「風?」
「そう。風。風が流れていることをいちいちつかんだりせんやろ?」
「せんせん」
「それをつかむから、ずっとそのことにとらわれるんよ。浮かんだら、あ~、風が吹いたなって、おもってほっといたら?」

「あ。。。。そっ。。。か。。。。」
いつもとちがう、ちいさな声が、電話の向こうで聞こえた。




2015年9月19日土曜日

自我は自分の手柄にする(笑)



「あたまにうかんだ考えって、コントロールできます?
私たちって、四六時中、ネガティブなこと考えてませんか?
心配や、不安や、怒りや、羨望や。。。
もし、うかぶ考えをコントロールできるんなら、一日中楽しいこと考えたらいいじゃないですか。悪い事が起こっても、全然大丈夫って。
でもできませんよね?
私たちはうかぶ考えのコントロールは出来ないんです」

ある人のユーチューブで、この言葉を聞いたとき、あーーーーーーっ!っておもった。

行動も、考える前にカラダが動き、その0、何秒後かに、考えが起きている、と読んだことがある。自我は、カラダが行動に移す準備をしはじめたあとに「わしが考えておこした!」と言い張るのだ。

これと同じように、ふっとうかんだ考えでさえも、自我は「わしが考えた」と言い張るのだろう。そしてその「わしが考えた」考えに乗っかって、ますます心配したリ、ますます怒ったりするのだ。

自我は現れた現象に乗っかって、楽しんだり怒ったり苦しんだりするようだ。
目の前で起こる現象を見て、「あれはコーダ、それはドーダ」と意見をいい、
耳で聞く音に「ああ~もううるさいなあ~」といい、
食べた昼飯に「まずいソバだな」と文句を言う。

そしてうかんだ考えに
「ああ、それはコーデ、アーで、あのときは、ああするより他なかったんだ」
と、自分を正当化し、相手のせいにし、
次会ったら、あいつにこー言ってやろうと、エアー演説をする。
そうやって、あたまの中は四六時中(主にネガティブなことに)忙しいのだ。

だが、その中に取り込まれなくなることは出来る気がする。

うかんだ考えに、わしらはなにも出来ない。
いや何もする必要はないんではないか。
ただうかんだままにしておく。
ネガティブな考えも、ただうかんできた。それだけなのだ。

私たち何かにつけて意味付けをする。黒いネコが横切ったから不幸なことが起こるとか、不安がよぎると虫の知らせだという。。。。
その意味付けは心をますます不安にさせる。その「問題」を「解決」しようとやっきになる。しばらくはそのことであたまがいっぱいになる。

自我はそうやって自分のストーリーを続けさせているのかも知れない。

夜中に目をさます。
あたまの中にあらゆる不安材料が押し寄せる。
だがやまんばはそのうかんだものに乗っからなかった。
目が覚めると朝になっていた。


2015年9月15日火曜日

親への思い



最近は、起こった感情に対して、それにあらがうことをやめている。

きのうも寝ている最中に、突然親の心配をし始めた。
なんだろう突然。。。
あっちは、今たいへんなんやろうか。。。
これはなんか意味があるのかも知れん。。。
そう思うとよけいにドキドキしはじめた。

あたまの中で、あとからあとから自分が親にしてきたこと、罪悪感が次々と襲ってくる。いや、あれは、あーでこーでしかたがなかったんだ。。。
あれについては、あーでこーで、しかたがなかったんだ。。。
気がつけば言い訳のオンパレード。苦しみはそれにあわせてドンドン増していく。

あ、これ、きりがないや。。。
そう思った私は、その苦しみの中に入った。
親への、いろんなものがごちゃ混ぜになった思いを、ただじーっと感じ続けていた。
感じるって、全身になる。
感じるのはけして心だけではなく、体が感じるのだ。


怒り、悲しみ、嫉妬、心配、苦しさ、そんなネガティブなものを人は避けようとする。
じつはその避けたものは、消えてはくれない。
どうも受け取らない限り、また同じことが起こって来るような仕組みになっているようなのだ。

それは前に何度もくりかえした怒りもそうだった。
一口に怒りといっても、私の場合は段階があったようにおもえる。やって来る怒りが、そのたびにドンドン掘り下がっていく感じがした。

ところが、今度はそれを味わいはじめると言うクセがつきはじめる。人間のし好とは(『思考』と『し好』は似ているかも)やっかいなものである。
いったんパターンを知ると、今度はそれで遊びはじめるのだ(!)だからある程度まで怒りを受け取ったら、そのあとはもう来ても知らんぷりしていると
「あ、およびでないのね。こりゃまた失礼いたしました!」と消えていく。


そんなことがあったので、親に対する苦しみを全身で味わってみる。
ああ、私はどうしようもなく親が好きなのだと知る。恋いこがれてやまないのだ。だがいっしょにいられないことがよけい苦しさを増していく。

しばらく全身で味わっているうちに、これは私だけの苦しさではないのだな。。。とおもいはじめる。
そうなのか。この世に生まれている人々、全員がみな、同じような思いを抱えて生きているのだ。。。とじんわりと感じていた。

怒りもそうだった。
「自分」の怒りを感じ続けるうち、「これ、本当に私の怒り?」とおもいはじめたのだ。そしてこれはこの世の人々の怒りだ。。。と感じた。


親から生まれて、親から引き離された瞬間から、恐怖、いかり、くるしみ、かなしみがうまれる。あの満たされた世界から分離された瞬間から、どうしようもなく、人は一体を求める。分離はすなわち、苦しみを生んでいたのだ。

それは親でさえも、その親からの分離で苦しんでいる。

そう気がついたとき、「私」の苦しみは、個人のものではないのだとおもった。



人生に答えはあるの?



ラインスタンプ作ったら、ラインはじめちゃって、そっちが楽しくって、ちっともこっちを更新してないやまんばです。すいません。

ラインは知っている人たちのとやり取りなので、気兼ねなく書けるけれど、ブログは知らない人も読むので、言葉をどうしても選んで書いてしまう。その不自由さがあるのをラインをやって知った。

けれども、ノリでやり取りしているうちに、大事な部分を一瞬で流していってしまうのも、またラインの弱点でもある。そういう意味では、ブログは自分が考えていることをじっくり表現できるので、自分がなにを考えているかを外から見ることが出来る。

どっちも長所短所があるんだな。


若いときからずっと「人生ってなんだろう」と考え、その答えをさがし、ありとあらゆる本を読みあさったけれど、今になって、その答えなんかないんだなっておもいはじめる。

農薬も肥料も入れない自然な形の畑をやり、その「答え」を探してやっていたけれど、そこにも「答えはない」んだなとおもいはじめている。

そもそも答えがあるはずだ、と考えていたのは、小学校のときから、「質問」と「答え」はセットになっていたからかもしれない。

「なぜ?」と聞かれると必ず答えなければいけなかったし、「なせ?」のあとには、ちゃんと「それはね。」と「答え」が用意されていたからだ。

そして「正解」を求めて人々はうろうろする。
どれが正解?
どこが正しい?
どの人が言ってることが正しい?
どの店で買うのが正解(お得)?
どのやり方が正しい?

「正解」どおりにやらないといけないのは、「まちがった」ら、苦しいからだ。損するし、恥ずかしいし、いたいし、傷つくし、ハラが立つし、心配するからだ。

「正解」は安心をもらえるからだ。

やまんばはその「正解」を求めて苦しんだ。
だけどあるときおもったんだ。
質問への正しい答えは一個しかない。
けれども、まちがった答えは、10個も100個も10000000000個もある!
これ、すごいことじゃない?
たった一個の正解を求めて苦しむことよりも、そのまわりに山ほどあふれている「まちがった」ことを選ぶこと方が、よっぽどあっちもこっちもあるし、楽で自由なんじゃないかと。

なぜ「正解」にこだわったんだろうって、おもった。
正解にこだわるから苦しかったんじゃないかって。

そのまわりにある無限の「まちがった答え」に目を向ければ、どこへどう行こうとまったく自由じゃないかって!

「君は、まったくまちがっている!」
そういわれて、
「わはは、、、、、わははははは~~~~~~っ!」
って、思いっきり楽になったやまんばだった。