2019年10月30日水曜日

自我の誘惑


「あいつはぜったいゆるせない」
彼女の怒りは頂点にたっする。

話しはその怒りをきっかけに、女性のエゴについて、男社会について、この社会の不条理についてと、どんどん発展していく。

彼女は正義感が強い。正しいことと、まちがっていることがはっきりと別れている。その割に仕事に失敗が多い。それはあまりに正しいまちがっていると言うことに固執するからなのだろうか。




つい最近まで、私はつねに自分がまちがっているかもしれないということにこだわってきた。
まちがいを犯す自分を恐れていた。
その恐怖におびえて50年以上過ごして来たのだが、それが自我の誘導であったのを知る。

私の中に住む自我は、私に「まちがい」を吹き込んでいたのだ。
それは私がこの世界に怖れおののくための手段だった。



恐れが、この世界を維持している。
自我の目的は、この世界を問題あるものとして維持することにあった。なぜなら自我は恐れと一体だからだ。自我は恐れがないとその存在を維持できない。

だから私たちの心にその恐れを吹き込む。
私には「お前はまちがっている。。。」と、ささやく。

そのささやきを聞いた私は、
「あっ!やばい!またなにかやってしまった!」
と、あわてて問題を見つけ、それを解決するのに躍起になる。
じつはそれがこの世界を維持させる武器だったのだ。


私はそのささやきを信じ、その「まちがい」を見つけることに魅了された。
いつのまにか、私はその自分のまちがいを「見たがっていた」のだ。。。!

つねに探し続ける自分のまちがい。あそこにもここにもある。探せば探すだけある。それは無限なまでに。その魅力にとりつかれていた。

「あれ。。?あほちゃう?わたし。。。。」
もう、見たくないとおもった。
もう金輪際、こんな馬鹿げたゲーム、やりたくない!とおもった。

だから聖霊に捧げた。
もういりません。この考え。あなたに捧げます。取り消してください!



それからそのクセは徐々に消えはじめた。消えれば消えるほど、軽くなった。
それでも段階があるのだろう、ちょっと楽になっては、またもとに戻る。相変わらず自分のまちがいを探す自分に気づく。

50年間ついてまわった癖は、そう簡単には取れないようだ。
深いわだちがある道路から、平らな道路にタイヤを移行させる、または右利きを左利きに変えるぐらいの難儀さがある。
それでももうこれは必要ない。この魅力はもう魅力じゃない。
気がついてはそれをやめ、気がついてはそれをほおっておく。




冒頭の彼女は、怒りを抱えている。怒りは恐れから来る防衛。彼女もまた恐れの中にいる。自分の中に恐れがあると、人はそれに耐えられない。その恐れはどうにかしてなくさないといけない。
その恐れに対抗するには、怒りという防衛手段をとった。
彼女は怒りを外に向けることによって、恐れを防衛している。



私は恐れを自分のまちがいを正すことによって回避できるとおもって来た。
彼女は自分の中にある恐れを、他人を責めて攻撃することによって回避できるとおもっている。

彼女もまた、彼女の中に住む自我のささやきを聞いている。
「ほら。またまちがいを犯すヤツがいるぜ。攻撃しろ」と。
そうやって延々と消えるはずのない戦いを挑んでいる。


その姿を見るということは、その意識は私にもあるのかもしれない。
だから彼女を見ているのだろう。
きっと自我の私はそれが見たいのだ。


自我の誘惑がちょろちょろと頭をもたげる。
「この世界は残酷だぜ。。。」と。
だがそれには乗らない。


心は、ただその場をゆるしていくことだけに捧げた。






2019年10月21日月曜日

自我の立ち位置から離れる




わたしたちは、
気に入らないものがあると、それを変えようとする。
わたしもそうやってきた。

これをなんとか変えて、、、
あいつをなんとか変えて、、、
未来をよくするために、今のこれをなんとか変えて、、、、と。
悪戦苦闘、七転八倒、それなりにがんばっちゃって来た。



そのやり方を変えた。

いくら外を変えようとしたって、いっとき変わったかに見えるが、もとサヤだったし、
ほとんどが、やってもやってもやってもやっても何も変わらなかったからだ。
特に人!じぇんじぇん変わらない(笑)。



今ぐらいの年になって気がついて来たのもいいのかもしれない。
だって、体力がないんだもの。無理できない。
その一種のあきらめが、功を奏したともいえる。
力つきた。


そのおかげで、じっとしてられるようになった。
あきらめたら、奇跡のコース/奇跡講座/奇跡の道が言うことに、
じっと耳を傾けられるようになった。



心の中をみていると、恐れを呼び起こす言葉に出くわす。
「ああなったらどうする?」
自我は、恐れを運んでくる。

「ああ、そうだ。ああなったらどうしよう?」
「でしょ?だから、こうしなさい」
「ああ、わかった!そうする!」
と、しっかり言いくるめられて来た。


恐れを基盤にした行動は、その先に混乱が待っている。
いっとき良さげな結果に見えるのがくせ者。
それに長い間振り回されて来た。

いくら外を変えようとしたって、変わらなかったのは、
その自我の答えを聞いているからだった。



最初にアイディアがある。
これはダメだというアイディア。
その「悪い」というアイディアは、誰が出したのか。
自我の声だ。
自我は恐れを呼び起こす天才だ。
私たちはその声にまんまとひっかかる。



コースは、自我ではなく聖霊を選べと言う。

聖霊とは、なにかわからないけれど、
私たちが本質にもどるためにあたえられたなにかであり、
そしてそれは私たち自身かもしれない。
そこんところ、私にはわからないけれど、とても心強いなにかだ。


心が何かに引っかかった時、私は聖霊に訊ねる。
「聖霊さん、これはいったいどういうことだろう。
私に何を気づかせようとしている?
私はあなたの洞察力/心眼で、この出来事を見たい。
あなただったら、これをどう見るのですか?」


出来事が起こると、わたしはこれまで、今まで通りに反応し、おそれ、
これをとりのぞくように、何かの行動を起こして来た。

だがそれに意味がないことをだんだん知りはじめた。
どう行動したって、どのみち、混乱しかないと。

Aという行動か、Bという行動か、どちらを選ぼうといい。
AもBも自我の世界。
どっちを選ぼうと大した違いはない。
AにもBにも立たないところ、聖霊の視点に立とうとする試み。


聖霊の視点に立ちたいという、ほんの少し意欲をもつ。


すると、すぐではないかもしれないが、ふとなにかがやってくる。

それは心に浮かぶアイディアであったり、
ネットでよんだ言葉であったり、
映画のワンシーンであったり。

それが自我ではなく、聖霊からのものだとわかるのは、
そこに恐れがないから。
そして今まで考えもしなかったこと。

そのとき心がちがうところにいる。


自我の立ち位置から離れる。


まさか、自我以外に別の視点があるとは思いもよらなかった。
その一瞬のちがう視点が、次々に洞察を生み、絡んだ糸がほぐれはじめる。さっきまでの恐れが跡形もなく消える。


何も変える必要はなかった。
ただ心が変わればいいだけだった。
もちろん、行動した方がいいときは、さっとするほうがいい。
出来事は、その心を変えるためのチャンスとして与えられている。
心を変えるには、けして自我では変えられない。
自我の視点では、到底考えもつかない聖霊の心眼なのだ。



非二元でよく言われている、この世は映画のスクリーンに映った映像。
そこをいくら変えようとしても無駄だといわれるのはそういうことだった。
私が小さい時、この世界がハリボテに見えたのはそういうことかもしれない。

だが、私はまだこのハリボテの世界の中にいる。


自分にとって、深くなじんだ自我の世界を、
徐々に手放せていけたらいいな。


絵/ミステリー表紙  Tart of Darkness

2019年10月12日土曜日

なにものでもないもの




ずっとずっと、何かになろうとし続けていた。

優れた才能を持った人物に、いい人間に、すてきな人に、頭のいい人に、親孝行ものに、きれいずきに、迷惑かけない人に、、、、。

ずっとずっとずっと、このままではなく、つねに何かになろうとし続けた。
それは四六時中そうだった。仕事をしていても、遅くならないように、早く早くと自分を追い立てて、絵も、こんな絵じゃダメだ、こんなアイディアじゃダメだ、と言い続けた。
家のことも、こんな汚い家じゃダメだ、こんな味付けじゃダメだ、こんな私じゃダメだと言い続けた。

心を深く深く見れば見るほど、自分がどれだけ自分を罰して責めていたぶり続けていたかが、どんどんあきらかになっていった。

言葉にならないほど責め立てることが、私を苦しめているとわかっているのに、まったくやめられない私にも気づいた。
やめようともがいてももがいてもそれをやめられない自分を、また責め立てた。

こんな自分を殺したくなった。
しかし殺しても、この苦しさは消えないことも知っていた。

そんな苦しみの中でも、日々の心の訓練のおかげですこしずつ穏やかさが見えていた。そのかすかな光にすがりながら、少しずつプロセスが動いているのを感じていた。



さんぽをしていた。
土手を見ながらある思いが湧く。
「もう、ならなくていい。ならなくていいのだ」

その言葉を心が聞いた時、はっとした。

そうだ。
なろうとするから苦しかったのだ!
だって、自分ではないものになろうとしていたから。くるしいに決まってる。
なれるはずのないものになろうとして、苦しまないわけがない。

なろうとする行為は、まるで目の前にある目に見えない何かをつかもうつかもうと、、、そう、空気をつかもうとしているかのようだった。

その何かをつかめば、「それ」になれるとおもい、必死でなろうとしていたのだ。



もうならない。
土手を見ながらそう呟いた。

じゃあ、なんになる?
なににも。

なににもならない。



目の前にあるはずのものは、自分の外にあった。そこにあるとおもっていた架空の希望や願いを求めることは、自分の外にあるものになることだったのだ。自分のものでない何かをつかんで、それを自分の中にいれようとしていたのだ。
なんだ。そんなことだったのか。。。

なににもならないでいいとすれば、いったいなにになるのだ?
いや。なるのではなく、なにものでもないものであればいい。
なにものでもないものとは?

わからない。
どんな形か、どんなものか、どんな才能かも、
いったいそこになにがあるのかわからない。
だけど、ここにいる感覚だけはある。
いる、というのか、ある、というのか。。。。

ほんとうはこことは、、、
こことは場所なのか、考えなのか、、、それさえもわからない。


自分のからだのほんの先にあるとおもっていたもの、まるで馬の前につるしたニンジンのようだけど、それを手に入れるのをやめて、内側を広げていく。

外へ外へと伸ばしていた手を、内へ内へと方向転換するのだ。外にむいていた手の平を、こっちに向けて、肋骨を広げるようなしぐさで内へ内へと入っていく。


それが何を示しているのかまったくわからない。無色透明で形もない。
それなのに、そこに無限の喜びを感じる。
「私」がどんどん大きくなっていく。
内へ内へと水をかき回すようにを手を動かしていけば行くほど、無限の水の輪っかが自分の後ろに広がっていく。

まるで今まで外へ外へと求めて、外にパワーを与えていたものを、逆向きに自分に戻しているかのようだ。戻せば戻すほど、無色透明な、我/われが広がっていく。
からだがからだの姿を消しはじめる。


ふしぎだ。
外のものになろうとしていたときは、からだが輪郭を持ってはっきりとあったのに、内に戻れば戻るほど、物質的なからだはリアル感を失っていく。
それなのに、ここにあることをはっきりと感じるのだ。

ここにあるものが中心となっている。
すべての土台をここに置けばいいのだった。
すべての源をここに置けばいいのだった。
すべてはここから始まったのだ。

いったいなにになろうとしていたのか。すべてはここにあったというのに。

心を、、、
心をどんどん広げていこう。
どこまでも、きりがないほどに。

山道を歩きながらそれをあたためた。
さっきまでの重苦しさはどこかに消えていた。


道の途中でお兄さんが何やら大事そうに草木を眺めている。
近くまで来て挨拶しようとしたら、ふいにこっちを向いた。
その時の彼の顔と言ったら。
あそこまで飛び上がってビックリする人を見たのは久しぶりだ。

「あはは。びっくりさせちゃったねえ~。ごめんよ~」
ふたりのあいだに暖かさが広がった。

その時いっしゅん山の視線を感じた。




絵/サトイモ

2019年10月3日木曜日

一人芝居


責任。

どんなにそのことばに囚われていたんだろう。。。


人に映画を勧めるのは、おもしろいものを勧めなければいけないという責任。

ブログを書く時、誰も傷つけないように書かなければいけない責任。
誰も怒らせないようにしなければいけない責任。
誰にも迷惑かけないようにしなければいけない責任。
そしておもしろいとおもわせるものを書かなければいけない責任。

仕事では、クライアントの期待を上回る仕事をしなければいけない責任。
アイディア、デッサン、申し分のないものを出さなければいけない責任。

料理はおいしいものを作らねばならない責任。
バランスよく料理を作らなければいけない責任。

部屋はきれいにしとかないといけない責任。

責任、責任、責任。。。。。

だれに?だれのための責任?



だれかにここにいていいと、言われるために。
自分がここにいていいと、認められるために。



だれに?
具体的に、だれもそう言ってないよ。
あんたが責任取ってないから、ここにいちゃだめ!なんて。。


自分のため。。?

そうだ。自分のためだ。
それは自分が攻撃をされないために、防御のための防衛策だ。
責任を果たしていると、だれにも攻撃されない。
攻撃されないための「責任」という名の防衛策。

いじめられていたころのことを思いだす。
そうだ。いじめられないためだ。
後ろ指刺されないためだ。

だが。
だれから身を守るのだ?
今、だれが私を攻撃している?


私だ。
私の心だ。


私が私を攻撃しているのだ。
いじめるのは、後ろ指さすのは、攻撃を仕掛けるのは、
わたしだ!

私という名の自我だ。
自分が自分に攻撃を仕掛けて、くるしんでいる。


自分の中の妄想で、人がさも自分に攻撃を仕掛けているかのようにおもい、
怒りとおそれの中で暴走している。




すべて、一人でやっていることだ。
一人の中に何人も役者を設定して、その役者に悪者を演じてもらう。
その悪者と戦うことで、自分を正当化する、そしてここにいていいのだと認めてもらう。
他人と言う名の自分に。

そしてまた、あらたな悪者が現れて。。。。



もうやめよう。
まったくきりがない。

攻撃しているのは自分だと知る。
ではこの攻撃をやめればいいのだ。

そんなこと言ったって、お尻叩かないとのらくらしてたら、
ろくな人生にならないじゃない!


いったい誰が言ってる?
私の自我がそう叫んでいるだけだ。


もうこのお芝居はやめよう。

ひとり狂気の世界。





2019年10月1日火曜日

別の見方



畑にお別れをしたあと、心もとないままさんぽにでる。

圏央道が高尾山の懐に風穴を開けた橋の下で座る。


「終ったなあ~。。。やっぱさびしいなあ~。。。」
意気消沈している私の心に、ふいにFBでもらったコメントがよみがえる。
そこには「決断おめでとう!」と書いてあった。

「畑やめた決断、おめでとうかあ~。。。。
ってか『おめでとう』ってなんやねん!」
と、ひとりツッコミを入れる。


畑をやめる決断をした私に、エールを送ってくれた彼女は、日頃ものすごい緊張を強いられる仕事の中で、数多くの決断をしてきた人だ。自分の決断がまちがえば、億単位のお金の損失をまねく。。。。

私の決断は一銭も動かん。次元が違う。
なのにじめじめくよくよ、あと髪引かれていた。その結果ダンナにぎっくり腰させちゃって、あわててやめた根性なしだ。



「おめでとうかあ~」
畑をやめると、たいていは、お疲れさまとか、さびしいねえ、などの共感をもらう。その言葉にホッとさせられたり、安堵したり。
だけどおめでとうは、良かったね!というニュアンスがこもっている。やめたことはすてきなことだ!という前向きな考えが入っている。



その時おもった。
あ!これだ!
彼女の言葉は次元を越えていた。
ぽーん!と、別次元の視点を与えてくれたんだ。
ほんとは彼女はそこまでの意図があったわけではなかったのかもしれないが、私に大きな転換をくれた。



「そうだ!これだ!今までにない視点、今まで考えもつかなかった別の考えがあるんだ!」
橋の下で急に元気になった。胸のあたりからボワン!と大きなものが膨らんだ。



別の視点?
そうそう。まったく別の視点だ。
それは日頃私たちが普通に考える判断、解釈。それとは真反対のものだ。過去を探してもでて来ない、未知のアイディアだ。

自我がいつも私たちに投げかける、悲しげなネガティブなアイデアではなく、聖霊がもつ豊かなアイディアだ。



「そうだ!そうなんだ!この畑をやめたことは、きっと別の視点でみれる!やったあ~!」
じゃあ、別な視点はなんなのか?といわれれば、「はて?」となる。
ちっとも解決はしてない。なのになぜかその「別の視点」をはじめて意識した私は天下を取ったような気分になった。

そしてこれが、奇跡の意味だったことをのちに知る。
自我の視点ではなく、聖霊の視点をもつ。いや、持とうと意志すること。別の視点をもちたいと願うこと。このこと自体が奇跡だったのだ。





ここで母の背骨事件をおもいだす。
彼女は背骨が木っ端みじんになった時、泣くわけでもなく、ただ一言こうおもった。
「あ。粉々に砕けた背骨は、私のからだの中に今あるがよね。ほいたら、集めりゃええだけやんか」

このアイディアは自我の視点ではぜったい思いつかない。自我だと、ああしてこうしてこうやって、、、、ああ、一生車いす。。。というアイディアしか浮かばない。
まちがっても「集めりゃええがよね」とはおもわない。

あの時、彼女は別の視点をもらったのだ。
原因と結果とは、原因、つまり心がつくる。
原因になる心が自我の視点ではなければ、結果も自我の視点の世界にはない。


彼女がそれを意識的にやったのではない。たまたまそうアイディアが浮かんだのだ。
その理由はわからない。でもきっとそれは偶然ではないのだろう。彼女のバックボーンがそううながしたのだ。





起こるできごとは、どうしようもなく起こる。
それを偶然だとはおもわなくなった。その人にとって必要だから起こるのだ。
そしてその時、その出来事をどう解釈、どう判断するかによって、その先がちがってくる。

すべては心にかかっている。
今まで通りの解釈や判断で抵抗してもいいだろう。だけどきついことであればあるほど、それは何かを教えようとしている。今まで通りに抵抗をすれば、一時は楽かもしれないが、やがて同じようなことが起こって、最終的にそれに向かわざるを得なくなる。


私は畑をやめたことに、判断をしないことにする。今の私は自我でしか考えられない。
なぜなら自我は混乱しか生まないことを知りはじめたから。

判断は起こる。それが私たちの習慣だから。
だけどその判断が何か窮屈なものであったなら、それは採用しないほうがいいかもしれない。

別の見方をしたい。
ただそれを願う。