2019年10月1日火曜日

別の見方



畑にお別れをしたあと、心もとないままさんぽにでる。

圏央道が高尾山の懐に風穴を開けた橋の下で座る。


「終ったなあ~。。。やっぱさびしいなあ~。。。」
意気消沈している私の心に、ふいにFBでもらったコメントがよみがえる。
そこには「決断おめでとう!」と書いてあった。

「畑やめた決断、おめでとうかあ~。。。。
ってか『おめでとう』ってなんやねん!」
と、ひとりツッコミを入れる。


畑をやめる決断をした私に、エールを送ってくれた彼女は、日頃ものすごい緊張を強いられる仕事の中で、数多くの決断をしてきた人だ。自分の決断がまちがえば、億単位のお金の損失をまねく。。。。

私の決断は一銭も動かん。次元が違う。
なのにじめじめくよくよ、あと髪引かれていた。その結果ダンナにぎっくり腰させちゃって、あわててやめた根性なしだ。



「おめでとうかあ~」
畑をやめると、たいていは、お疲れさまとか、さびしいねえ、などの共感をもらう。その言葉にホッとさせられたり、安堵したり。
だけどおめでとうは、良かったね!というニュアンスがこもっている。やめたことはすてきなことだ!という前向きな考えが入っている。



その時おもった。
あ!これだ!
彼女の言葉は次元を越えていた。
ぽーん!と、別次元の視点を与えてくれたんだ。
ほんとは彼女はそこまでの意図があったわけではなかったのかもしれないが、私に大きな転換をくれた。



「そうだ!これだ!今までにない視点、今まで考えもつかなかった別の考えがあるんだ!」
橋の下で急に元気になった。胸のあたりからボワン!と大きなものが膨らんだ。



別の視点?
そうそう。まったく別の視点だ。
それは日頃私たちが普通に考える判断、解釈。それとは真反対のものだ。過去を探してもでて来ない、未知のアイディアだ。

自我がいつも私たちに投げかける、悲しげなネガティブなアイデアではなく、聖霊がもつ豊かなアイディアだ。



「そうだ!そうなんだ!この畑をやめたことは、きっと別の視点でみれる!やったあ~!」
じゃあ、別な視点はなんなのか?といわれれば、「はて?」となる。
ちっとも解決はしてない。なのになぜかその「別の視点」をはじめて意識した私は天下を取ったような気分になった。

そしてこれが、奇跡の意味だったことをのちに知る。
自我の視点ではなく、聖霊の視点をもつ。いや、持とうと意志すること。別の視点をもちたいと願うこと。このこと自体が奇跡だったのだ。





ここで母の背骨事件をおもいだす。
彼女は背骨が木っ端みじんになった時、泣くわけでもなく、ただ一言こうおもった。
「あ。粉々に砕けた背骨は、私のからだの中に今あるがよね。ほいたら、集めりゃええだけやんか」

このアイディアは自我の視点ではぜったい思いつかない。自我だと、ああしてこうしてこうやって、、、、ああ、一生車いす。。。というアイディアしか浮かばない。
まちがっても「集めりゃええがよね」とはおもわない。

あの時、彼女は別の視点をもらったのだ。
原因と結果とは、原因、つまり心がつくる。
原因になる心が自我の視点ではなければ、結果も自我の視点の世界にはない。


彼女がそれを意識的にやったのではない。たまたまそうアイディアが浮かんだのだ。
その理由はわからない。でもきっとそれは偶然ではないのだろう。彼女のバックボーンがそううながしたのだ。





起こるできごとは、どうしようもなく起こる。
それを偶然だとはおもわなくなった。その人にとって必要だから起こるのだ。
そしてその時、その出来事をどう解釈、どう判断するかによって、その先がちがってくる。

すべては心にかかっている。
今まで通りの解釈や判断で抵抗してもいいだろう。だけどきついことであればあるほど、それは何かを教えようとしている。今まで通りに抵抗をすれば、一時は楽かもしれないが、やがて同じようなことが起こって、最終的にそれに向かわざるを得なくなる。


私は畑をやめたことに、判断をしないことにする。今の私は自我でしか考えられない。
なぜなら自我は混乱しか生まないことを知りはじめたから。

判断は起こる。それが私たちの習慣だから。
だけどその判断が何か窮屈なものであったなら、それは採用しないほうがいいかもしれない。

別の見方をしたい。
ただそれを願う。






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