2013年4月30日火曜日

ビンボー草の天ぷら



ともだちんちでごちそうになった。
目の前には巨大な甘エビ、スモークサーモン、お刺身、生ハム、ステーキ、ありとあらゆる高級食材がならぶ。そこに畑でとったハルジオン(通称=ビンボー草)の天ぷら。金持ちとビンボーが合体した美しい食卓であった。

年頃の娘さんが二人。うまそうにほおばる。
この二人はわかいうちからすでにこんな食材に囲まれている。彼らの未来はどこを目指すのであろうか。

やまんばたちの時代は、親の時代よりもモノがあったとはいえ、まだ「何かが足りない」飢餓感があった。もっと豊かな暮らし、もっと進んだ科学。。。
それに突き動かされて今まできた。
だけど彼らを見ていると、いったいどこへいきたがるのだろうかという疑問がわいてくる。どこを見てもすべてがある。いつも目の前には豊かな食材。世界中の食材。
これを維持することだろうか。
もっともっと進んだ食事?
工場で生産される科学的な野菜?

物質の豊かさの追求を、彼らもまた追いかけるのであろうか。
そうだろうか。

生ハムやステーキを普通に食べて、もっともっと何かいい食材ってさがすだろうか。それをやりつづけるのは、私ら古い人種なんじゃないか?

彼らは「物質のよさはわかったわよ。で?それが?」って思っているように見える。
物質文明をどこか冷めた目で見ているように見えた。

彼らはきっとそれを越えた「何か」を求めていくんだろう。

やまんばはそう感じた。

2013年4月27日土曜日

トマト苗定植〜



ここんとこ畑で草むしり&苗定植。
今年は種取りしたトマトがなんとかそれっぽく苗になってくれたんで、木村さん流に横寝かし植え。
トマト4種。そのうち2種は交配種。ムリヤリタネとった。はたしてどーなることか。人気のトマト、アイコは全く芽がでず。完全ターミネーター種なのか。

固定種のナスとピーマンはちっこいちっこい苗。やっぱり肥料がないせいなのか、それとも温度のせいなのか。どっちにしても、なんとか一個でもいいから実がついてくれて、今年はナスとピーマンのタネが取りてえ~~~。(レベル低過ぎ?)

ジャガイモは先日のどど冷えで、霜が降りて順調だった葉が真っ黒に。だけど下から新しい芽がではじめてくれている。やっぱ自然は強いなあ。

今日絹さやがとれた。甘くてうまかったなあ。これからスナップエンドウがたのしみ。

インゲンとエダマメの芽がではじめた。かなりおそい。やっとここにきて暖かくなったってことだろうな。
小麦の穂がつきはじめた。これが夏野菜の定植の目安となるらしい。季節がぐんぐんと変わっていくなあ。

2013年4月25日木曜日

みどりがきれいだあーっ!





みっ。。。。みどりがきれーだあー!

お山がぐんぐん変化している。
冬の茶色いお山に、山桜がちょんちょんと色を添えて、お山が笑い出したころから、日々色が変わってきた。今はたとえようのない、いろんな種類の緑色になっている。黄色みの強い若草色から、青みの強い緑色まで。

ああ、なんて表現したらいいんだろう。すべてが生きている。とても絵に描けるような色じゃない。

やまんばはねえ、緑色だけは絵の具にのらない気がする。自然が放つみどりいろと、絵で描いた緑色はぜんぜんちがう。なんか、こう、内側から放っているような、今で言うネオンカラー(?)のような色をしているのだ。それは本当に内側から出ているのだろう。これからおおきくなるぞっ!ていうエネルギーのようなものがあふれているのだろう。
ああすてき。こころがおろおろどきどきわくわく、、、なんていったらいーのか。。。
飛び跳ねたくなるような色なのだ!
これが、いわゆるキ印になっちゃう人たちの心境なのだろうか。

やまんばは買い物の帰り、お山の樹々を見ながらあほうのように口をあんぐり開けて歩く。時々へらへら笑う。
とおりすがりのおっさんが、恐ろしいものでも見たかのような顔をする。

この時期の山はほんとうにうつくしい。
みなさんも疲れた心を癒しに、みどりに会いに行こう!


絵:「新宿で85年、本を売るということ」MF新書表紙イラスト
我らが大好きな紀伊国屋書店の歴史を綴った本!やまんばもNYでずいぶーーーん、おせわになりました!精神的にチョーきつかった頃、どれだけ紀伊国屋で救われたことか。

2013年4月22日月曜日

撃沈やまんば



近所で楽しくのんべして帰ってくると、ダンナはもう寝ていた。
心が罪悪感でちくちくする。
やばい。怒ってるかな。早く帰るって言っちゃったのに。なんと心が弱い。。。意志力のないヤツ。。。

ふとんにもぐりこんでも罪悪感はうごく。
いけない。こうしなきゃいけなかったんだ。ああ、わしってばか。もうこんりんざい酒はヤメだ!とおおさわぎ。あげくに自分の全否定にまで発展する。寝ても覚めても罪悪感と自己嫌悪のオンパレード。それがきつくなると、今度は言い訳の正当化が始まる。気が狂いそーになる。
一体誰にやっているのだ!?

やまんばはおもいだした。
むかーしむかし。あるところに遊び好きのやんちゃな女の子がいた。あっちこっちと飛びあそんでは、家に帰るのが日の暮れ。決められた時間にいつも遅れる。するととーちゃんが玄関に仁王立ちして待っているのだ。どやされること山のごとし。その度「ごめんなさあ~い!」と本気であやまるのだが、次の日になると、けろっと忘れている。そんなもんだから、まいど玄関でどやされたのだ。

やまんばは、そのときの経験から「遊び歩くとどやされる」という法則をインプットした。厳密に言うと、「遊ぶ」→「時間に遅れる」→「おこられる」という法則。

遊ぶとどやされる。しかしゆいいつ、どやされることを免れるルールが「時間厳守」である。しかし根っからの快楽主義がやっぱりそれを守れない。だから守らなかったわしがイケナイのだあ~~~っ!あの時守ってさえいればあ~!と、おおさわぎする。

さて、問題は時間厳守だろうか。酒飲むことだろうか。
どっちでもない。
その法則によって「心が罪悪感を感じ、正当化しようとし、おおさわぎすること」なのだ。

いったい自分の正当化は誰にやっているのか。父親か?母親か?それとも自分にか?

誰にやったところで何も解決しない。
酒を飲むのをやめるか、時間を厳守することで解決するじゃないか。いーや。それは一つの法則に対する解決でしかない。他にごまんとある個人的な法則のいちいちに対処して、そして「いつかは理想的な人格者~!」になれるのだろうか。

近所に精神病院がある。患者さんがよく道を歩いている。彼らの顔を見ると、心の中が不安やおびえや罪悪感やいろんな意識によって満たされているのが分る。心の中で自分の法則に対して対処しようと必死だ。だが満たされない。その怯えが彼らの雰囲気を作っている。だけど、彼らとやまんばはどこが違うのだ?やまんばも同じように自分でつくった法則に対処しようとしていつも失敗ばかりする!

やまんばは小さい時つくった自分の法則に、ばばあになったいまでも振り回されているのだ。いまでもその法則は、効き目があると信じて疑わないのだ。

それに効き目があるのだろうか。
じつは、もうない。
もう期限切れの腐ったチーズだ。チーズは腐ってもうまい。(←かんけーないやろ)

人はあらゆる法則をもっている。これにひたすら苦しめられる。
小さい時身につけた法則はすべて期限切れだ。いい大人になって使う必要はないのだ。すでにこの世の「ふるまい」を身につけたからだ。

だがその法則をもっていることに気がつかないで無意識にそれを使っている限り、ずっと心は苦しめられている。なぜ?

いつも同じようなことで苦しんでない?
自分のいたらなさに嫌気がささない?
それは小さい時、親に言われた言葉が「まだ効果がある」と信じて疑わないからじゃないか。

「おまえはあきっぽい」といわれなかった?
「だからだめなんだ」といわれなかった?
「おまえはのろまだ」といわれなかった?
お兄ちゃんと比べられなかったか?そしてつねに誰かと自分を比べて
「やっぱりおれはだめなんだ」と、ふと考えてない?
それをしていて苦しくはない?

やまんばは、あの夜気がついた。
「これ、ずっとやってる。。。。」
友だちのウチでも「早く帰んないと。。。」といってる。失礼なやつだ。
そういいながら長居する(もっと失礼だ)。んで、家に帰って自己嫌悪する。(ちょー失礼じゃないかー!ごめんよー!)
これを繰り返している。
きみ、ばかじゃないの。

小さい時親に言われたことを、ばばあになってもずっともってやっている自分にちょーーーーーはずかしくなった。夜中に一人で顔が真っ赤になった。自分の恥ずかしさをどこへもっていっていーのかわからなくなった。

朝、あやまった。
「きのうはおそくなってごめん。怒った?」
ダンナは、なんで?という顔をしていた。
彼はぜんぜん気にしてない。
全く効き目のない「法則」で、おおさわぎしてばたばたしていたのだ。
やまんばの完全一人芝居であった。撃沈。

こーやって自分で積み上げたかべを、ひとつひとつ自分で崩していく日々である。

君はやまんばが笑えるか。(人にふるな)

2013年4月20日土曜日

偽善者やまんば



「ニラさん救出~、シュンキクさん救出~」
春になるにつれて草がどんどん成長してくる。寒い冬をサバイバルしてきたうちのちっこい野菜たちは、今度はカラスノエンドウやハルジオンなどに場所を提供しはじめた。
なんとエンリョ深い野菜たちであろうか。
やまんばは、野草のいきおいに押されて小さくなっている野菜たちを救出する。

しかしよう考えたら、ニラさんもシュンキクさんも、救出とか救済といいながら、おっきくさせて結局食っちまうではないか。
なんという偽善なのだ。

これではヘンデルを牢屋に閉じ込めて、大きく太らせて食おうとした魔女と同じじゃねえか。

「おお、まだこの子は太らないねえ。。。」
と、魔女は言った。
「おお、シュンキクを救済してあげるよ。早く大きくな~れ。」
と、やまんばは言った。
どっちもけっきょく食おうとしている。

けっきょくのところ、ニンゲンの行為は、自分のためだ。
「おふくろさんよ~、おふくろさん。。おまえもいつかは~、よ~の~なかの、傘になれよとおしえてくれた~、あなたの、あなたの、し、ん、じ、つ~。わすれは、しな~い~」
という美しい歌があったが、これだって自分のためじゃなかろうか。
確かに人のためにはなる。だがそれを見て嬉しく思うのは自分である。

じゃあ人のためにやっちゃいけねえのかよ。
と、「これがだめなら、あっちにする」という、どっちかにつきたがる心の習慣が言う。

そのどっちでもない、それに気がついていることのようだ。

やまんばは「選択」をしている。
ハルジオンではなく、シュンキクを選んで、ハルジオンを制する。どっちも殺していることに変わりはない。それを殺して腹に入れるのだ。
畑だって、やまんばの欲だ。山はむかしからすでにそこにあったのに、やまんばが踏み込んで「これを食いたいのだあ~」と、山にはないタネを持ち込んで、強制的に植えて育てるのだ。
だれのために?もちろんやまんばのためだ。

美しい前提なんかありゃしない。やまんばのためにやる。そこで選択された野菜を人にあげて喜ぶのもやまんばのためだ。人の傘になってよろこぶのもやまんばのためだ。仕事だってやまんばのためにやる。

植物はそれをすべて受け入れている。なあんにも言わずに(ホントは言ってるかもしれんが)、やまんばのするがままにさせている。
これほど偉大な存在はあるだろうか。ひょっとしたら植物は神かもしれん。

畑に立つと、畑の植物が全員こっちを見ているような気がする。だけどそこには怒りや悲しみや、およそニンゲン存在がもつ小さな感情のレベルではない、そんなものを越えた何かとてつもない「意識」のようなものを感じる。

やまんばはただそれに気がつき、自分の行為に気がつき、自分の心に気づいていることを促されている。

2013年4月15日月曜日

土は草で出来ている?



土は植物で出来ている?

土は岩石で出来ていて、いろんな微生物がたまりにたまったり、植物の根が岩を砕いてりして、1センチの厚さができるまでに、100年かかるのだそうだ。

ところがウチの畑では、草や野菜の残さを一カ所に積み上げておくと、1、2年で15センチくらいの厚さの土ができる。5年前ここの畑を開拓した時に出た、クズ、篠竹、雑草、樹々。すべて刈って積み上げ、1mの高さの塀になってたところが、4年で平らになって、厚い土の層に変わった。
草を生やす方法で野菜を作っている人はこれを知っているはずだ。草を生やさないやり方のほうは、少量の草ではその実感がないとおもう。

これはほんものの土なのだろうか。きっとにせものの土だ。
そうでないと学者さんにわるい。

そのにせものの(?)土の上に植物は育ち、大きくなり、分解してまたにせものの土になる。それを栄養にしてまた新たな植物がそだち、それを食べてミミズは生きる、イノシシも生きる、やまんばも生きる。肉食獣だって、食われる動物も、やっぱり植物を食べる。
みんな植物を食べておおきくなる。
そしてみんな土に帰る。
植物が先か、土が先か。一体どっちが先なんかい?(ニワトリが先か卵が先かみたいな話だな)

どっちにしてもすべてが無機物に帰っていくんだな。
土から生まれて、土に帰っていく。

じゃあ土がすべての生き物の材料なら、その材料を調合して生き物は作れるんだろうか。土をいっぱい集めてだんごにして、種を作れるんだろうか。

いったい何が生き物をこの世に出現させるんだろうか。

それをさぐるためにニンゲンは物質を素粒子まで分解した。分解して分解して、手で分解できなくなると、分子同士をぶつけ合って分解する。それでもまだ気がすまなくて、巨大な装置を街いっぱいに作って、地下でちっこい素粒子同士をぶつけて、もっとちっこいものを見つけようとする。ここまでくるともう見えないから、今度はその「足跡」をみつけてよろこんでいる。

だけど肝心の、それらがくっつき合って出来るメカニズムはちいともみつからない。「ヒッグス粒子」って名前はもうつけてあるんだけど。

小さくなればなるほど、ものすごいエネルギーによって引き合っている。それが核爆発にも利用された。

ニンゲンはみえないものを恐ろしがっている。分解したら見えると思った。だけどもっとわからなくなった。


素粒子は不思議な動きをする。
粒子のようになったり、波のようになったり。これは物質であり、かつ物質でないということを現している。
さてそれを「見る」と、粒子のうごきをする。見てないと波になる。つまり、見ると物質になって、見てないと物質じゃなくなる。


と、いうことは、土は物質であり、物質でない。
ほよ?

ほんでもって、その土からすべてのものが生まれてくる。
なんじゃあー、そりゃあああーっ!!


絵:「新幹線をつくる」MF新書表紙イラスト
 世界一の技術が作り上げる脅威の世界!美しい流線型の車体は熟練工の手作業でつくられている。日本人よ、もっと自分を誇れ〜!なのだ。


2013年4月13日土曜日

心はどちらかにつきたがる



ことばには、二極分化されるものがある。
寒い暖かい。長い短い。明るい暗い。重い軽い。遅い速い。低い高いなど。

その言葉に、ひそかに人はそれぞれに「いい、悪い」という判断をしのばせている。
心はその言葉を聞くたびに「これはわるいこと」とか「いいこと」というおもいと一緒に、小さな感情をわき上がらせる。

「今日は寒いわねえ」と言うと、
「カラダ暖かくしなきゃ」とおもう。
「これ、寸法が短いわ」といわれると
「長くなきゃいけなかったんだ」とおもう。
「あいつ暗いよね」と誰かが言うと
「やっぱ性格は明るくなきゃ」とおもう。
「あ、体重が重くなった」と思うと
「げ、軽くしないとやばい」とビビる。
「遅いわねえ」といわれると、
「はやくしなきゃ」とあせる。


「体重が重い」という事実がある。その「重い」は、何かの比較によって生まれる。
「寸法が短い」と言う。その「短い」は何かとの比較によって生まれる。
「部屋が暗い」と言う。「暗い」は何かとの比較によって生まれる。

ただ比較によって「重い」という事実があるだけなのに、思考は即座に「軽くしなきゃ!」と思い始める。それは重い=わるい、というアイディアが盛り込まれているからだ。べつに重い=いいこと、となってもいいし、遅い=いいこと、となってもいいじゃないか。
だけどたいていは、なんだか「悪い」という方向に落ち着いている。

これはことばの内容うんぬんというよりも、どうも「いいこと」と「わるいこと」に分類することに重点が置かれているようだ。
ほんでもってその「悪い」ということに、わしらはそーとー翻弄されている。(もちろん「イケナイ」もそうだ)

なにかについて「わるいこと」といわれると、そくざに反対のことをしようとしないか?
なにかについて「いいこと」とおそわると、その反対のことをする人を非難しないか?

心は「いいこと」でも「わるいこと」でもない、中間にはいたがらない。
善悪のどちらかにつきたがる。


2013年4月9日火曜日

プラス思考はマイナス思考と綱引きをしている



ポジティブに生きましょう。
前向きに考えましょう。
幸せだーって感じましょう。
とゆープラス思考方法論がある。

ひねくれ者のやまんばは、これは塩を入れ過ぎた味付けに、砂糖を入れてごまかすようなもんだとおもう。もともと塩辛くて食えないところに、さらに甘さが混ざって、ものすごい味になるようなきがする。
そーゆーときは、まず塩をぬかんでどーする。

「ポジティブに生きなきゃ」という発想には、ポジティブじゃない考え方がある。前向きに考えましょうってえのも、前提に後ろ向きな考えがあるはずだ。

もともと後ろに引っ張ろうとするきもちがあるのに、前向きに(つまり反対方向に)引っ張ってみても、運動会の綱引きみたいなもんで、もんのすごーいエネルギーのわりには、ちょいとどっちかに進んで、
「ぱんぱんぱあ~ん!赤組のかちい~!」
ってなるだけじゃん。
どんだけ労力使うよ。

世にいろんな方法論があるのに、いまだに人類があんまり幸せそーじゃない。
方法論にまちがいでもあるのか?

方法論を生み出した人々には、その方法論を導きだすまでのあいだに「心の仕組み」を理解する過程がある。方法論はその途中に生まれたものだろうと思う。

ところが「おれはこれをやって成功したんだから、きみもそれで出来るはず!」と言う。困っている人も何か完璧な方法論がないか?と探しているものだから、
「おお!これは!」と飛びつくのだ。
んで、日々綱引きで疲れる(笑)。

だけど肝心なのは、その方法論ではなく、それを見つけた人が「そこに行き着くまで」なんじゃないだろうか。

塩辛い食いもんは、砂糖でごまかすんじゃなくて、塩をぬく。
塩を抜いたら、いくらでも味付けが可能になる。いくらでも幸せになる。いくらでも前向きになる。

いや、そもそも不幸なおもいがあるから幸せを求めるのだ。不幸なおもいがなくなれば、幸せを求めることもしなくなる。後ろ向きなおもいがなくなれば、前向きになどという発想もなくなる。ネガティブな考えがなくなれば、ポジティブな考えも求めなくなる。

なぜ心はなぜネガティブになったり、不幸になったり、うしろむきになるのか。という心の仕組みを理解することじゃないだろうか。

なぜ心はつねになにかをもとめる?なぜそれが必要なのだ?
必要なものが存在すると、それが「ない」というおもいも出てくる。

あって当たり前だというアイディアはどこから来たのだ?生まれた時からもっていたのか?ほんとか?誰かにそれが必要だと言われたのではなかったか?
世の中はその必要なモノだらけで、気がつくと自分にはそれがないモノだらけで、だから不幸で、後ろ向きで、ネガティブなんじゃないのか。

複雑にからみあって、がんがんに固むすびになってしまったひもを、少しずつほどいていけば風通しもよくなる。いつのまにか方法論を求める必要もなくなる。誰かの方法論をもらってこなくてもよくなる。

ネガティブもポジティブもなくなる。
プラス思考もマイナス思考もなくなる。
運動会の綱引きは出番がなくなる。

それをヌーソロジーでは、対化の等化というらしい。(ほんまにや?)


2013年4月6日土曜日

マンガ「恐怖!やまんばのビーム光線」



畑では不思議なことがおこる。

やまんばがしゅーちゅーして種をまく。

精魂込めて、しゅーちゅーする。

ひたすらしゅーちゅーする。

だが、どんなにしゅーちゅーしても、じぇんじぇんおっきくなんない。

なのに、しらんかおしてる(と、ゆーか、忘れてる)野菜のほうは、なぜかしらないあいだにたくましく育っている。



これってさあ、なんか言ってない?

わしの視線がイケナイの?



2013年4月4日木曜日

マンガ「心のかべ」


意識の進化っちゅーても、なんのこっちゃ?

人にやさしくしろってことかい?
いんや。ほんとは、みーんなやさしい。
だからわざわざスローガンにかかげることはない。

やっぱ自分の心の中をみることなんだな。
その心の中に、現代の溢れるようなありとあらゆる問題の根本原因がひそんでいる。
ところがこれをさぐるってとーってもむずかしい。

なんでや?
どーも、自分の心の中を見る事が、おっとろしーことのようなのだ。
なんでおっとろしーのか。

自分の中を探ろうとすると、何かが目の前に立ちはだかっていて、それがさまたげているんじゃなかろうか。
それは「善悪のかべ」というもんだ。罪悪感のかべともいえる。これが自分を探ることに抵抗している。












それはみるからになんこーふらくで、カミソリの刃一枚とおさないインカの壁のごとくみえる。
だがよく見ると、わしらが生まれてからこのかた作りあげてきた、ありとあらゆる善悪の法則が積み重なってできたものだ。

ちりがみに対する「いいこととわるいこと」、
テストに対する「いいこととわるいこと」
ケッコンに対する「いいこととわるいこと」。。。。
その価値観でできあがったかべなのだ。



自分の中を見るというのは、自分の価値としているもの、何を悪いと思って、何をいいと思っているのか。それを見る行為だ。

いい悪いは当たり前の基準だろうが!
と、おもうだろうけど、そもそもみんないいわるいがおなじ基準なら、夫婦がケンカするだろうか。親子でも価値観の違いで血肉の争いが起こるではないか。
だから善悪の価値観は、完全に超個人の価値観なのだ。

すると小さなことにこだわりがあったり、ああ、こんなことが悪いと思っていたんだ、、、と気がつき始める。



簡単にそれに気がついて「なあんだ」とおもうものもあれば、ものすごい奥が深くてなかなか取り出せないものもある。




だけどいくつか取り除くと、その壁の向こうになにかがあるらしい。。。



そうやって、一個一個とりのぞいていくうち。。

あるとき崩壊点に達して。。。





一気にかべが崩れ落ちる!!




かべの向こうには、まだ知らぬ本当の自分がいるのだ。

さあ旅に出よう!
ひとりひとりに本当はそなわっている天才への道だ!
それが意識の進化なのだ。


2013年4月3日水曜日

地球は変わろうとしている



地球は変わっていきそうな気がする。

そんなかんじしない?
お天気も急に暑くなったり、寒くなったり。世界のあちこちで、ある日突然地面に大きな穴があく。空から蜘蛛が降ってきたり、オタマジャクシが降ってくる。海の海底深く住んでいる生物たちが、波打ち際にいっぱい打ち上げられる。世界の火山は噴火が多発している。地震も多くなっている。

それをニンゲンのカルマとみる人もいる。だとすればどーすればいいのか。なにもしようがない。せいぜいゴミの仕分けをするくらい。でもそんなもんで、火山の噴火を止めたり、地震を止めたり、地面に穴があくのを止められない。

日本もTPP「交渉」参加した。これで日本の医療のあり方も、あのアメリカ、金持ちしか恩恵を受けられない、一般庶民にとっては悲惨な状況に変わってゆくだろう。

皮肉なことに、これからの人間社会は、今のニンゲンの考え方自体を変えざるを得ない方向に進んでいる。
そしてこの天変地異だ。
ニュースはことあるごとに、観測史上発の。。。といい、100年に一度の。。。という。
地面は揺れ続け、太陽は容赦ない。かとおもうと北国の人もびっくりするほど雪が降る。杉は砂嵐のごとく花粉を生産する。
自然が過激になっていく。地球上に生きるニンゲン種をあざ笑うかのように、ますます過激になっていく。

動物たちは事の次第をもう分っているのかもしれない。植物たちは、もうとおに知っているのかもしれない。鉱物界も押し黙って、ことの成り行きを見守っているのかもしれない。

どこかで人類文明の崩壊を待ち望む人は、その後のことを考えたことがあるか。今の福島の人たちの気持ちを考えたことあるか。セーフがどんだけのろまか見ただろ?きっと広島長崎のときも、セーフはちっとも動かなかったに違いない。
生き残ってしまえば、それからあとがたいへんなのだ。備蓄をしたってたかがしれている。備蓄をすればするほど心が大きくなるのだろうか。きっと強烈な血肉の争いになる。きれいごとじゃすまされなくなる。

ひょっとしたら今までが、自然が安定していためずらしい時期だったのかもしれない。いつも地面は揺れて雨風の激しいのが普通だったのかもしれない。
たぶん私たちの意識が変わらないといけないのだろう。物質の素粒子は意識と連動している。

この愛すべきクソ人類に進化というものがあるとすれば、それは物質的文明の進化などではなく(もうそれは終わっている)、意識の進化なのだ。そのことを今の地上の変動は教えてくれている気がする。


絵:「縮む世界でどう生き延びるか?」MF新書表紙イラスト
  お待たせしました!ベストセラー『働かないアリに意義がある』の著者長谷川英祐氏の第二弾!これからの人類の生きる道は!?



2013年4月2日火曜日

「努力する=人に認められる」



整形を繰り返す女性を番組で見た。普通の女の子が、整形を重ねるうちにどんどんきれいに、そしてサイボーグのようになっていく。ちょーかっこいい。映画「未来世紀ブラジル」を生でやってくれている。
 
巨乳にする手術を受けながら、あえぐように「せんせい、あたし、きれい。。。?きれい。。?」という。ほとんどエクスタシーのごとく。
んで、術後、じぶんのおっぱいをみながら、「もっとおおきくする。。」という。
はたからみたら「アンタ、ちとおかしいんちゃうか」ともおもう。

彼女はどこにむかっているのか。
もっときれいになること?きれいになって人にみとめてもらいたい?
いんや。努力している自分を認めて欲しいのだ。

彼女の言葉に「努力」という言葉が頻繁に出てきた。彼女は努力して美しくなったと言う。だからみんなも努力して欲しいと。

さて、努力するためには、努力する理由がある。
彼女はまず自分の顔を否定したのだ。「この顔はイケナイ」「こんなもの、世に送り出してはいけない。人様のご迷惑になる」
だから整形という努力をしてきれいになり、人様にご迷惑をおかけしないようにする。

努力するといいことがある。
人に「アーラきれいになったわね」と言ってもらえる。世の中に受け入れられたと思う。この瞬間の感激はかなり大きくインプットされる。

すると、「努力する=人々に受け入れられる」
という法則が彼女の中でできあがる。
となると、「努力しない=人々に受け入れられない」
という、もう一方の法則も出来上がる。
コインの裏表。表裏一体なのだ。

なので彼女はえんえんと、努力し続けないといけないのだ。そうでないと人に認めてもらえない。それは自分が消滅してしまうほどの恐ろしいことなのだ。だから努力をやめられない。彼女にとって「努力=整形」なのだから。

だが整形も度を過ぎると崩れてくるはずだ。マイケルジャクソンのように。そのころは、もうはたはあきれる次元にいるのだろう。だけど認められるためには努力しないといけないので、崩れたものをまた治すという「努力」をくりかえすことになる。

彼女を笑えるだろうか。
わたしゃ笑えない。

みんな努力をしている。努力をして人々に認められたがっている。それは小さいとき「おまえはそのままではいけない」といわれたからだ。自分という存在を否定するところから始まった。
それは彼女が「この顔はイケナイ」と思ったのとどこが違うのだ?

わたしたちは、精神的に人に依存している。
自分という存在を、人に認められることで存在できると信じている。となると、つねに人の目を気にして生きることになる。モノの基準をどこかの誰かにあわせて生きるのだ。
だれに?
そのままで、誰の基準にもあわせず、あるがままでなぜ存在できない?

彼女は一生「これでいいわ」と思うことはないだろう。

そして私たちも人に精神を明け渡している限り、一生「これでいいわ」と思うことはないだろう。