2016年6月19日日曜日

思考のオドシに乗らない(笑)


朝の目覚めがいい。
4時半から5時のあいだに、目はスコンと覚める。

目が覚めたと同時に、思考が動き出す。

前は、将来の不安、体の不安、親の不安、人間関係の不安、しなくちゃいけないこと、出来なくて悔やむこと、そういう思考がどどーっとおそってきて、
「そうだ、そうだ。こんな風にのんびりしている場合ではない。あれも、これも、それもやらなくちゃ。。。」
と、その思考に飲み込まれていた。

そしてだるい体を、
「お、おきなきゃ。。。。。」
と、ムリヤリおこしていたのだ。



思考はほとんどが否定的な考えだ。
「そんなことやっててどうする?」
と、おどしてくる。

おいしいお菓子を食べていても
「ほーら。そんなもの食べてると、太るぞ」
幸せな気分になっていると、
「よろこんでいる場合じゃないぞ」

そういう考えの先には、必ず、4コママンガのような不幸なシーンが待っている。
ヨレヨレになって、行き倒れて、誰にも助けられず、死ぬ私(笑)。

そういうばかばかしい考えが、思考のオドシにはくっついているのに気づいた。
それが私を不幸にし、不安定にし、イライラさせている原因だと。


私たちは、思考は自分のなかからわいて来るから、「自分のもんだ」と信じている。そして、自分のもんだから、それは自分の味方である、と信じてやまない。
だけどじーっと思考を見ていると、どっちかというと自分を不幸にしたり、破壊的なことを言うだけである。
どーみても、味方に思えないフシがある。
どーみても、自分を不幸にしてくれるフシがある。

一説によると、脳は考える力を持っているのではなく、ラジオみたいな受信機だと言う。
私が今とらえた思考は、今ここに漂っている、ありとあらゆる波のひとつにすぎないのかもしれない。


「これ、乗る必要があるのかな。。?」


それから私はその思考に乗っからなくなった。
わいてくる思考の否定的なオドシに気づく、ということを実践していった。

ふとわいてくる瞬間をとらえはじめる。
「あ、今、わいてきたな」と、気づくのだ。

思考はそれを止めようとすると、ますます止まらなくなる。
なので、その声を「聞いてあげる」のだ。
「ふ~ん。それで?」って。
思考から逃げようとすると、追いかけて来るけれど、こっちが追いかけると、思考は消えていく。


すると、朝のめざめがスコンとよくなりはじめた。
あたまの中の否定的な考えの声がどんどん小さくなっていく。
体は全くだるくなく、スッと起きることが出来る。

思考がどれだけ私たちの心や体のエネルギーを浪費しているのか、身をもって知る。


今朝は目覚めた瞬間、わいて来ようとする思考が、なにか否定的なものを探していることに気づいた。
「そこまでして否定的な考えを見つけてきたいんかいっ!」
と、おもわず思考さんにツッコミを入れる(笑)。



私たちは、目に見える現象世界にばかり比重を置いてきた。そこに問題を見つけ、それを解決するのに躍起になった。
自分の不幸は、外の現象のせいである。だからその現象を変えねばならないのだと。だが、そこに限界を見つけたとき、それは何かの合図かもしれない。

今まで外に向けていた眼差しを、くるっと振り返って、内側を観るということへ。








2016年6月16日木曜日

落花生から、芽。


畑の南東の角に進出を始めた篠竹の根っこと格闘していると、土の中からこんなもん出てきた。

これ、落花生。
ここの畝は、例のたぬきどん兄弟のけものみちになっている所。
去年ここに落花生を植えてたのに、育った頃に根こそぎ食っていきやがった。やまんばは一個も食ってない。そのおこぼれがこれなんだろう。

それにしてもあの堅い殻を押し分けて出てくる芽ってすごいなあ。卵もそうなんだけど、外からたたくと堅いのに、内側からだと柔らかいんだろうか。。。。
落花生の殻については、そうとはおもえないが。

種を大地に蒔くとき、一カ所に何粒かおろすのは、その植物がさやにおさまっている数だけ降ろすんじゃないかなあ。
さやの中にぎゅーっとくっついて、お互い芽を出し合いながら、「おい、お前が育てよ」って、その中のひとつだけが大きく育て行く。。。
そんな自然の中の法則でもあるんかな?だって、さやっていつもいくつか入ってるでしょ。


グリーンピースの残さを取り除き、4年ほど前の大豆を入れる。先日試しに突っ込んだら、芽がでてたから。4年前だぜ!?
やはり、無肥料栽培の種は底力があるぜ。

そしてその横に、一本の勝手に育ったダイコンがさやを付けてたれさがっていたので、それもいっしょにつっこんだ。さやから種を出すのがめんどーなので、さやごと。

時期外れだけど、他のアブラナ科の植物がこぼれ種であっちこっちに双葉を出しているので。彼らは好きなときに出て来るさ。


自然はそーやって勝手に芽を出していくのだ。


2016年6月12日日曜日

正直になることのおそれ



自分の内側に聞こえてくる声を聴くと言う思考の観察をしていると、自分がどれだけいろんな感情を持っているのかに気づく。
いかりや、かなしみや、いきどおりや、後悔や、おそれが次々に現れてくるのが見える。

そういう中で、「空気読み過ぎてそれを表現できない」自分を発見する。

私は小さい頃はいじめられっこで、親の肉体的体罰型しつけの両刀使いで育ってきたこともあって、こーみえて、人の目を気にする所がある。
好きなよーに生きてるように見えるやろ?これは長年の経験によるワザや。(どんなワザやねん)

ま、そんなワザがあるかどーかはしらんが、自分の内側にフツフツッとわいてくる感情をそのままにしておいて、
「ここはこんな雰囲気だから、乱さないように同じトーンで行こう」とか
「今はなんか暗い雰囲気だから、明るい空気を入れよう」とか、
それなりに空気読んできたつもりである(あたってるかどーかはおいといて)。

それがじつは、いじめられるのが怖いから、空気読んでたんや。。と気づくことになる。

今ここで正直に自分の心を話したら、みんなはどんなふうに思うだろう。
そしたらあとで陰口たたかれることになって、そしたらあーなって、こーなって。。。
と、どんどん妄想が広がって行く。

そのひとり妄想にぶるぶるっと身をふるわせて、
「いかんいかん。いつもの調子で行こう。。」と、
何事もなかったかのようにふるまっていた自分。。。

それに気がついた以上、もうおなじ道は歩けなくなった。

あらゆることに利点と欠点がある。
空気読むことは、たのしいし、うれしいことだ。なによりみんなとおなじ時間を共有することが出来る。

でも。。。

陰口を叩かれるかも知れない。いじめにあうかもしれない。
だけど、そうなるかどうかなんてだれにもわからない。

自分の心に正直になろう。
自分はこう感じたんだと正直に語ろう。
そこから先は、どうなってもいい。



2016年6月9日木曜日

うすいエンドウとグリーンピースの種



きのう、うすいエンドウとグリーンピースの種をとった。
右側の黄色いザルに入っているのがうすいエンドウで、左側の方がグリーンピース。

去年11月にはじめて植えたお豆さんだ。

おもしろいのは、左がスナップエンドウの種で、右が絹さやの種にそっくりだ。
エンドウ豆の種は、キホン、緑のくしゃくしゃか、黄色のつるっと丸いのかの、どっちかなのかな?

去年、小さい頃母によく作ってもらった、エンドウ豆があんこになったミョウガ餅が食べたい一心で、高知では高級な(?)うすいエンドウの種を購入。
グリーンピースの方は、実はあまり好きじゃないが、近所の畑のおばちゃんからもらったので同時期に蒔いた。

するとどうだ。どーでもよかったグリーンピースの方が、大きなさやを付けてみごとに育っていた。
イヤシさ一心で育てたうすいエンドウの方は、妙に心もとない。なんとか種取りまでこぎつけた感じだ。
やはり、やまんばの「育てよ、このやろう光線」がきつ過ぎたのか。
ま、たぶん、近所の畑で長年種取りされて育ってきたグリーンピースの方が、ここの土地や土と慣れ親しんでいたせいなのだろうけど。



その心もとなくなんとか育ったうすいエンドウをあんこにし、ミョウガの葉っぱで蒸し上げたミョウガ餅を作る。

結果は。。。。(笑)

エンドウ豆のあんこはちと堅く、上新粉と小麦粉で作ったお餅もちと堅く、そしてミョウガの葉っぱでくるんで蒸したわりには、ミョウガの香りもかすか。。。

母が作ってくれてたミョウガ餅にはほど遠いなあ~、などと思いながら、ひとりぼそぼそ食う。

しかし考えてみたら、私が小さい頃食べたものだったから、ほんとうのところは、母のそれも似たような代物だったのかも知れぬ。

だけどあのころは、それを口にした瞬間、天にも昇るような気持ちだったなあ。。。
その感覚が今でも忘れられなくて、こうして手間ひまかけて作ってしまうのだろうな。


そうはいっても、その「理想とするミョウガ餅」をいつか確立させたいものだとおもいながら、今年の11月もこの種を蒔くとしよう。


2016年6月6日月曜日

目が合っちゃった


おとつい、畑で草刈りをしていたら、畝と畝の間に小さな踏みしだかれた道がついているのを見つける。
草が生い茂ると、畝だけでなく、畝間にも草がぼーぼー。なのにそこだけ草がない。寝そべってのぞいてみると、草のトンネルはずーっと東側のフェンスのほうまで続いてた。
けものみちだ。。。

今日も相変わらず草刈りをしていると、「ザザザ」と、草を分ける音がする。立ち上がって音のする方を見ると、草むらから、ザッと、毛もくじゃらな物体が飛び出てきた。茶色いもこもこしたヤツは、一直線に西に向かって走って行く。あっけにとられて見ていると、そのあとからもう一匹が飛び出してきた。
たぬきだ!
二匹は静かに、猛スピードで、大きな太いしっぽをゆらしながら、畑を横切って行った。

きのう見つけたけものみちを通っている。あそこは彼らの通り道なのだ。草を刈り、耕したばかりの畝には、彼らの足跡が点々と着いていた。
ジャガイモを掘り起こし、ダイコンをかじり、ナスの畝をぼっこぼこに掘り起こしていたのは彼らだったのだ。あのつんととんがった鼻で、地面を掘り起こし、芋やミミズを食べているのだろうか。

ぐふふ。いいものみちゃったぜ。
ひとり手を叩いてよろこぶやまんば。


それからしばらくしてけものみちのあたりを草刈りし、立ち上がって腰をなでていると、西の方からさっきの彼らがこっちに向かって走ってくるのがみえた。
「げ!」

一瞬襲われるかと思ったが、そのまま動かないで様子を見た。
タヌキは一直線に私の方にやってきて、足下30センチの所でぴたっと止まった。
人間のにおいを嗅ぎ付けたのか。クンクン鼻を鳴らしている。
やまんばはぴくりとも動かない。
彼はなにごともなかったかのように、私の脇を通り抜けて行った。

それを追いかけて、もう一匹もこっちに走って来た。
二匹目も私の黄色い長靴30センチ先でぴたっと止まる。顔を上げてクンクンと匂いをかぐ。タヌキの目は小さかった。あるかないかほどの小ささで、タヌキの目はあまり利かないのかな?と思わせた。そしてこの彼は、くるっときびすを返して、もと来た方向に走って行った。

プッチプチにまるまる太ったたぬきは、まだ若い兄弟なのか。真っ昼間にこんな所に出て来るなんて無防備もいい所だ。だけどただ走るのが楽しくて、兄弟で追いかけっこをしていたのかもしれない。

先頭を切っていたのはきっと兄ちゃんだ。弟は兄ちゃんのあとを追いかけていた。
兄ちゃんは、いつも走るけものみちに、異物(つまり私)を感じたが、果敢にその場をすり抜ける。
弟は兄ちゃんの無謀さを見て、慎重に難を逃れた。
どこかの人間の兄弟にもそんな構図がありそうだ。


畑はいつもおもわぬ発見をくれる。



2016年6月5日日曜日

なんだかなあ。。。


「見つかったんですって!」
スーパーで、レジ袋にバナナを入れていたら、目の前にいた知らないおばさんに、いきなりいわれた。

「え?な、なにがですか?」
「少年よお。ほら!あの北海道の!さっき速報で流れたのよ!」
私はその事件はほとんどしらない。
「ああ、あの少年ですね。見つかったんですか。それはよかったですね」
「そうなのよ!よかったわ~~!」

ずっと喋り続ける彼女に、どこかでいぶかしいものを感じながら、彼女のおしゃべりを断ち切るようにその場を去った。

夕方、ニュースでその発見された模様が流れる。
「ここがその少年がいた場所です!」
自衛隊の建物の中が映し出され、少年が暖をとっていたマットレスが紹介される。

「ここがその少年が置き去りにされた場所です!ここで少年は置き去りにされて。。。」
そのニュースの様子を見ながら、
「まるで犯罪者扱いだな。。。」
と、思った。

そのうち「置き去りにした」親が映し出される。
「ほんとうにもうしわけありませんでした」
涙ながらに語る父親。彼の悲痛な思いが伝わって来る。



そりゃあさあ、しつけのために、山中に置き去りにするって言うのってどおよっておもう。その前後の可能性は考えなかったのか?という、彼の想像力の欠如は感じる。
だけどその報道の過熱ぶりはどうだろう。
犯罪者じゃないんだから。

あの父親は、たったひとつの自分の行動に、日本国中、いや世界中でレッテルをはられてしまった。
「子供を山中に置き去りにした親」と言うレッテル。
子供のしつけに、ちょっとはコクなことする親もいるだろう。
でもさ。ホントにそこまでひどい親か?彼は。

何百人も動員して捜索をする姿が連日ニュースで流れ、日本国中が少年の無事を願った。
そして結果として元気で無事見つかった。
なによりのことじゃないか。


だけど、彼はこれから苦しいかも知れない。
自分の行動でおこしてしまった一連の騒動。。。

人は誰かを悪者にしたがる。
無事に帰ってきてくれた少年。
ホッとする国民。
そして今度は怒りの矛先を親に向ける。。。
その非難の目線と、自分の中に押し寄せる罪の意識を、彼は乗り越えられるだろうか。。。。
精神、ヤラレるかもな。。。そう思わせるような顔つきだった。

そしてその少年のこれからも、今後の大人の対応にかかっているだろう。
このまま何事もなかったようにまわりが接することがいちばんだとおもうが、この一件を大袈裟に取り扱うような感じで少年に対応していけば、少年もおかしくなってくるかもしれない。
「置き去りにした親」という、世間が貼付けたレッテルを少年が聞きつけたとき、その親に対する思いはどうなっていくのだろう。



起こった出来事を、起こったこととして、そのまま終わりにして行くのではなく、牛のように何度も反芻をして、感情をともないながら、繰り返し心に刻み付けて行くのが、自我の動きだ。そうやって、だんだん心も体もぼろぼろになってしまうことが、今の時代に多く見受けられる。


彼ら親子は、そんな自我にふりまわされることなく、
「なにはともあれ、無事でよかったなあ」
ってすべて終わらせて、
日常に戻っていってほしいなあ~と、せつにおもう。



2016年6月1日水曜日

有機肥料もないのに、ミミズがわんさか。。。。



個展を終えて、遅れていた野良仕事をチンタラ始めた。
もっぱら畝の上にみごとにはえそろった草を刈る作業。

草を刈って、土が出た所をスコップ投入。土をひっくり返すためだ。天地返し。
「ずこっ!」

スコップはみごとに土に入る。なんと柔らかい土なのだ。
すると、茶色い土の表面から、にょろ~~~~~~っと、奇妙なものがあっちこっちから顔を出す。
ミミズだ!それもけっこうでっかい。。。。
スコップ投入にビックリしたミミズさんたちが、あわてて逃げようとしているらしい。

あのね。ミミズってのは、有機肥料に集まるもんなのよ。
ここの畑は、鶏糞、牛糞、豚糞、人糞(?)、まるで入ってない単なる草ぼーぼーの畑なのよ。そこにミミズがわんさかいるはず、ないじゃないのー!
なんで?
ここはひょっとしたら、夜中に、ハクビシンやら、テンやら、サルやら、その他大勢の野生動物が、集結して、みんなでいっせいに大便をして行く野生トイレなのだろーか。。。。

でも糞と言えば、サルがダイコンを食いちらかしたあとに、
「ねえさん、でえこん、うまかったぜ。御代をここにおいとくよ」って、ぷりっと「御代」をおいて行く程度にしか見あたらない。

畑は、やればやるほど、「わからないこと」だらけになる。
それが私を魅了してやまない。

土も、もりもり生えてくる草たちも、こころなしか、何だか、やさしくなってきた。
なんだろう。なんだろう。

アレコレやらなくてはないけない!って思ってた心がだんだんとれて、何でもいーや。って思いはじめてから、何だか畑は戦う場所ではなくなってきている。

ふしぎだなー。

自然って、なんて不思議なんだろう。