2014年8月30日土曜日

「だいっきらい!」をオトナはどーする?



「○○ちゃんなんて、だいっきらいだあーっ!」
って、子供っていうよね。
で、ひとしきり大泣きしたあとで、ケロッとまたそのだいっきらいなはずの○○ちゃんと遊んでいる。
子供は人を好きだったりきらいだったりする。

それって、オトナになったら消えるんだろうか。
同僚に「○○さんなんて、だいっきらいですっ!」
って、面と向かっていったら、ドン引きされちゃって、しかもその場で大泣きしちゃったら、
「どこかおかしいんじゃないか?」とおもわれちゃう。

とゆーことは、オトナになったら、
好きは好きのままで、きらいはきらいのままでいるんだろうか。ぱっちりと分かれたままで、その好ききらいの感情は動かないままなんだろうか。

そじゃないよね。オトナになってもコロコロ変わる。特に一番身近な人に対しては。

だけど、だいっきらい!なんて大人になったらいえなくなるんだよね。許されなくなるんだよね。ほんとはだいっきらいでも、にこにこして。


子供時代はそのだいっきらいっ!という感情をそのままストレートに出せるので、後に残らない。だけどオトナになると、その感情をストレートに出せないから、ずっとあとにまで引きずる。

うちの家の前の川にやって来るカモは、自分の縄張りに他のカモがいると、ガーガー鳴いてケチらす。んでそのあとは何ごともなかったかのように自然体だ。
だけどそのガーガーをやらないでいたら、きっと「あのやろう。おれ様の縄張りに入りやがって。。。どうやってとっちめてやろう。。。」なんてぐじぐじ考えるのかもしれない。

オトナとして出せないというルールがあるんなら、それをどーやってだそうか。



やまんばの方法。
そんな自分を愛するのだ!

「○○がだいっきらいな私を愛する!」
と宣言する。

バカみたい?そや!バカみたいや!だけどこれが効くのに気がついた。

まず、自分が○○をきらっているということを、自覚しているということ、
そしてそのきらっているということを「愛する」ことで、受け入れている。

冒頭の子供は、何気ないことをしているように見えるが、非常に理にかなったことをしている。

「○○ちゃんなんてだいっきらいだ!」
という自分から出た感情を自覚し、
そして口に出して自分でその感情を受けとっているのだ。
泣いてその感情を消化し、すべて終わらすという過程をふんでいる。
だからまた遊べる。カモとおなじ。

オトナは、罪悪感が走る。
人を嫌いな感情が起こると、瞬時に「きらってはいけない」という判断がおこる。だからほとんど無意識にその感情を出さないように押し込める。その感情をブツブツと根に持つ。そしてまたやって来るかもしれないその感情におそれおののく。

だからその感情を受け入れる。愛すると宣言することによって。

「だいっきらい!」と思った瞬間、
「だめだ!」というのと、
「愛する!」というのでは、胸の奥がちがう感覚をもつ。

「だめだ!」と、胸がぎゅっと締まってくる感じがして苦しくなる。自分が固まるような、カラダがこわばるような息苦しい感じ。

でも「愛する!」といってみると、胸の奥がふにゃっとするような、ほどけるような、どっか笑いがこみ上げてくるような、カラダがこわばるのとはちがう、緩んでくるし、あったかくなる感じがする。

きのうブログで書いた、前者のジャンルのこともそうだ。
怖がっている自分を愛する!というのだ。

「今、私はお金がないことを怖がっていることを愛する!」
「すごく悲しい自分を愛する!」
「嫉妬に狂っている私を愛する!」と。
ネガティブなおもいを抱く自分をはっきりと自覚し、受け止める。

これはどんな自分でも自分を愛することができるかってことなのだ。どんなに意地汚い自分でもそのまんま自分で受け止められるかどうか。
あるがまま、とはどんな自分でもそのまんまでいられるか、受け止めているかということだった。。。


やってて思ったのは、やまんばは、ほんとーーーーーーに、意地悪で、意地汚くて、根性が悪くて、人に冷たい、自分勝手な考えをもっているってことだ。それはどこかで知っていたが、「愛する」といいまくったおかげで、その闇の部分がどんどん見え始めている。

朝方、自分のイヤな部分を見て、それも愛する、これも愛するっていちいち言ってると、バケツをひっくり返した様に、いっぱいスンゲー闇の部分が出てきたんだ。呆れるくらい。そこまでひどい?ってくらい。
多分もっと知る(笑)。それがおもしろい。

ジャッジしない自分がいる。

ただ言葉で受け入れただけなのに。。。




2014年8月29日金曜日

ウルトラマンのポッチの奥



わしらは自分から自然とわきおこってくる感情をいちいち二分化する。

怒り=出してはいけないこと
怖れ=感じてはいけないこと
嫉妬=やってはいけないこと
悲しみ=外に見せてはいけないこと
とか、
うれしさ=感じていいこと
ほっとする=味わっていいこと
感謝=とってもいいこと
可笑しい=表現していいこと
など。

後者のジャンルは出たものをありがたくちょうだいする。うんと味わう。
しかし前者のジャンルは出たものを味わわない。
むしろなかった事にする、見なかったフリをする、押し入れにつっこむ、くしゃくしゃ丸めてゴミ箱にポイする、などとゆーふーに邪険な扱いをする。

この手のジャンルは、こーゆー風に扱うのがフツーだとおもっているそこの君。君は人生の醍醐味をか、な、り味わい損なっているのだ。

なんでそこに気がつかなかったんだろう。もっと早く知ってれば、もっと楽しめたのにい!

ま、しょーがない。前者の方は、生まれた時からずっと「それはいけないこと」っていわれ続けていたんだから、そりゃーよいこのやまんばは、いわれた通りにやるもんだ。

だけど自然と自分から出てくるものを受け取ったり拒絶したりする。。。これでいいの?


やまんばはある日、自分から出たとんでもない怒りに翻弄される。
なかった事にしたり、見なかったフリをしたり、押し入れにつっこんだり、誰かのせいにしたり、自分を正当化してみたり。ありとあらゆる事をやってみたけど、もうにっちもさっちもいかなくなったんだ。
それで腹をくくった。
ええイ、もうどうにでもなれ!じゃあ、この怒りとやらを味わってヤローじゃないの!

おもいっきりカラダ全身で味わってみた。これでもかってくらい自分から出る怒りをあおってあおって、あおりまくったんだ。
すると、ある時点でいきなり怒りが「シュンッ!」って消えたんだ
あまりの変化にびっくりした。その後、いくらあおっても怒りは出なかったんだ。

そこで、怒りってなんなんだろう。感情ってなんなんだろうって、色々調べはじめた。
すると感情ってモノは、ネガティブでもポジティブでもなく、エネルギーの強烈な運動なのだとなんとなくわかってきた。

だがそれを私らは「人に迷惑かけるから」という意味で二分化した。これはいけないこと、これはいいこと、と。
これは勝手に前者が悪で、後者が善のように勘違いしている。じつは「人に迷惑」が前提の、表に出していいものと、表に出してはいけないものという意味だったのだ。

なので、人に迷惑をかけないで感情を味わう事ができるのかって話だ。
できる



ずっとその感情を見なかったフリをしてきたのだ。
その感情が起こるとマシーンのよーに同じ反応をしてしまうだろう。しかし怒った瞬間、怖がった瞬間、その自分の感情が生まれた瞬間に気がついていることからすべてが始まる。
次の瞬間、「いけないっ!」って頭が反応するだろう。それにも気がついている事だ。

そしてとりあえず、何かをやっている最中なら、手を止めてしまおう。
そしてじっとその感情をみつめてみるのだ。意識は胸の奥に。ちょうどウルトラマンの赤いポッチの奥の方。。。その奥に意識を向ける。そしてその怒りを全身で味わおうと決めるのだ。

感情はカラダを通して起こっている。エネルギーだもの。みるみるうちにそのエネルギーの場所がぐい~んと移動するのを感じるだろう。
みつめて、みつめて、かんじて、かんじて、、、、。

そのとき頭が静かになっていることに気づくかもしれない。頭はだれかさんの悪口をいい、自分を正当化する。だけどウルトラマンのポッチの奥に意識を向けていると、そんな考えはやがて消えていく。

この静かな時間が今の私たちにはいる。スマホもテレビもネットも見ない、ただ自分の心の中を見る時間。。。

いいとか悪いとか、何の判断も起こらないポッチの奥。そこは私たちの宇宙の入り口。すべての答えを解く入り口。汝自身を知る扉。答えは外にはない。自分を深く掘り下げることで知りはじめる。怒りはどこから来るのか、恐怖はどこから来るのか、悲しみは。。。

自分の中の怒りを受け取ろう。
自分の中の恐怖を受け取ろう。
自分の中のすべてのネガティブな考えを受け取ろう。
そこから自分の『素』の姿が見え始める。メイドイン社会ではない、メイドイン地球の自分。

感情はいわば自分が生んだ子供。
その子供を受け入れてあげてちょ。




2014年8月24日日曜日

ホントの自分ってなんよ?



ある映画を見た。
なにやってもだめで、上司にはペコペコする、お先真っ暗な人生をただ生きている主人公。その主人公がある日、知らないおじさんから、
「君は偉大な人物の息子だ。」と言われる。

「君はその彼の偉大な血を引き継いでいるのだ。その能力を発揮したまえ。」
といわれて、
「え~、そんなのありえねー」
と疑っていたが、そのお父さんの莫大な遺産が自分の銀行口座に振り込まれているのを知って、いきなりその気になる。その瞬間から主人公は人が変わったよーになって、上司をおもいっきり罵倒し、会社を飛び出す。

それからそのおじさんに与えられるきょーれつな訓練を耐え忍び、ついにおとーさんに勝るとも劣らぬ能力を身につける。
ところがその後、そのおとーさんは、ホントのおとーさんではなく、「敵」とされていた人がホントのおとーさんだったことを知る。
するとまた同じよーに「ホントのおとーさん」をおっかけて、主人公は新たなおとーさんを目指すのだ。

これはアクション映画のようだが、みかたによっちゃあコメディにみえる。

あるビンボーな家に育った男の子が、ある日知らないおじさんに、
「君は西の国の果てにある王国の王子だ。戦があってその難を逃れるために君はこの辺境の地に隠された。さあ、王子よ。ほんとうの姿に戻りなさい」
と言われて、その気になっちゃうシンデレラ物語のよーなもんだ。

だけどその後、コロコロと
「いや、君はほんとうは敵国の王子だ」とか
「いやじつは、アンロドメダ星雲のウチュー人だ」とかいわれて、
そのつどぱたぱたとその性格を変えていく。。。
と、するなら、、、

おいっ、君に自分はないのか?

と、つっこみたくなるではないか。

やまんばも学校でいじめられて、
「ああ、わたしはほんとうはこんな人生を送る人じゃなかったらどんなにいいか。。」
と、シンデレラ姫を自分に当てはめてうるうるしたもんだ。


だけどほんとうはどうなんだろう。
ほんとうの自分っているんだろうか。

私たちは過去の記憶で自分はこれこれこういう性格でこういうニンゲンだと思い込んでいる。
しかしある日とつぜん知らないおじさんに「きみは○○だ」といわれて、もしそれがものすごーく信憑性をもっていたとするなら、その映画の主人公のよーに、その気になっちゃはないか?
するとこれこれこーゆー性格だったはずの「自分」は、いきなり消えてなくなるってことだ。
過去はいとも簡単に、あーらよっと消えてなくなるってことだ。

ある多重人格の人が、その人格を変えた瞬間、目の色が変わるって話を読んだことがある。わしらは過去の記憶にもとづいて「自分」ってものを「確定」しているだけなんではないか?その過去は、いかようにでも取り外しがきいて、ひょっとしたら取り付けも簡単だったりして。。。

「あれ?あたしってこんな性格もってたんだ」って気がつくことってない?
それまでこういうニンゲンだと思ってたことが、「なんだ、そうでもなかったみたい」って気がついたときって、何か新たな自分を見つけてワクッとしない?

わしらは個人個人もっている過去の一部だけをとらえてこれが自分だと思い込んでいる可能性がある。だけどあなたの過去はその「一部」だけじゃないのだ。もっと多くの過去をもっている。その過去のどの部分を選ぶかで性格は変わってくる。

「あたしは人にきらわれるタイプなの」
と思っている人もその過去にみんなと和気あいあいとやっていたこともあるはずだ。どの自分の過去を選択するかで自分の性格や人生を自分できめているだけなのだ。

ほんとはどんな性格にもどんな人物にもいかようにでも「選択」できるとしたら。それは何も「知らないおじさん」にある日とつぜん告白されなくても、自分で変えられるとしたら。

ほんとうは、わしらは、誰でもなく、なんにでも変化できる存在だったりしてね。
あとはどの「自分」になるかを選ぶだけだったりして。




2014年8月21日木曜日

想定外の世界に突入



先日、ありとあらゆることが予定通りにならないことであふれちゃったんだ。

友だちと会う約束が、前日になってダブルブッキングしてたのをしる。あわててスケジュール組み直したら、友だちに色々あってその日はキャンセル。
じゃあもうひとりの方を呼ぼうと思ったんだけど、雨だったからヤメた。
そしたらきゅうに仕事の打ち合わせが入った。
ああ、すごいタイミング!とおもって、ダンナに車を出してもらおうとすると、今度は車がまったく動かない!ひえ~。
でもそのころには雨もやみはじめ、ちゃりんこをぶっとばして打ち合わせに向かう。セーフ!
ほっとしたのもつかのま、車が完全におシャカになったのを知り、仕事のあいまに新しい車に契約。
タイトな仕事を乗りこなし、無事ラフを送ったら、3本の仕事のうち2本がキャンセルになった(笑)。なんじゃこりゃ~。


人ってさあ、予測してたこととじぇんじぇんちがうことが起こったら、
「それっ、ちがーう!」
って、怒るよねえ。んで、思ってたこととちがってる事実を、思っている方に進路変更しようと躍起になるよねえ。でもこれがちいとも思ってるとおりに向かわないんで、ますますイーライラするよねえ。

でも今回はあまりに色んなことが想定外過ぎて、笑ってしまうのであった。
「おお、これはなにかがうごいているぞお~」
と、抵抗したり進路変更するのを手放して、ことの成り行きをただ見守ることにしてみたんだ。



きのうリスケした友だちが遊びにきた。
ブルーベリー摘みにいこうって予定だったんだけど、すごい暑さに熱中症を心配する友だち。あまり身体の調子がよくない彼女なんで、やまんばは待ってる間「まあ、今回は、どっちでもいいや」とおもってた。

ところが待てど暮らせど彼女は来ない。高速が渋滞していたらしい。ウチに来たのが2時半。遅いお昼を食べて、3時前。
「ところでブルーベリーどーする?」とやまんば。
「いくいく!」とのこと。
閉館までにあと1時間しかない。あわてて農園に向かう。そこは山の中にあるブルーベリー農園。ついた頃は雷がゴロゴロ言ってた。降るかな~と危惧しながらも降らず。熱中症の心配もどこへやら。曇り空で涼しく蚊もまったくいない、快適なブルーベリー摘みができた。
たわわに実ったブルーベリーが甘かったなあ。
帰り道はさっきのゴロゴロとはうってかわって、すっかり晴れ渡っていた。


これってどおよ。
思惑通りにいかないと人はあくせくするが、ほんとうは、なるようになっていくんではないだろうか。
目の前のことをこれじゃなーい!って思うかもしれないけど、そのおこる出来事をそのまんま受け止めていくだけでいーんじゃないだろうか。

ほんとは、あせろうがのんびりしていようが、結果的にちゃんとうまいことなっていくんじゃないだろうか。だったらあせってエネルギー使いまくる必要がどこにあるというのか。

車買って、2本の仕事のキャンセルは痛かったけど、それもまたやまんばの頭では考えつかないことのために起こっているんじゃないだろうか。

想定外はその人の可能性への扉だ。そのまま開けて進んでいけばいいのだ。きっと。


2014年8月18日月曜日

これからはクールスッピンだよ!



石けんなし生活は、ブログに書く気にもならないほど、あたり前田のクラッカーになってしまった。

石けんなし生活が始まった頃、お乳の分泌物がTシャツにつく、という現象があったが、そんなものとっくになくなってしまった。真っ白のTシャツ着ても、この真夏で汗かきまくりであってさえもじぇんじぇんつかない。
 
それになんちゅーか、気がついたのは、あまり暑さ寒さをびんかんに感じ過ぎなくなっていることがあるかなあ。今年も夏バテはしてないし。気温の変化を抵抗なくそのまんま受け止めている感じ。


きのう電車を待っていると、向かいのホームで60代の女性たちが、みんなウチワや扇で顔をあおいでいるのを見た。顔が熱そうだ。先日出かけた老人ホームでの盆踊りでも、一緒に踊ったきれいどころさんたちが、みんなウチワで顔をあおいでいたのをみる。

やまんばは野良仕事では顔に汗はかくけど、ふだんはあまり顔に汗はかかない。きれいどころさんのよーに、吹き出すまで汗をかいてもいない。

これってさあ、しらんけど、お化粧のせいってない?
ファンデーションって、石油?富士フィルムが化粧品作るぐらいだから、ビニールとかプラスチックで作ってたりしてね。
んでそれを顔にぬるってことは、顔にビニールを貼付けているのとあんまりかわりないんでないだろか。それじゃさぞかし暑いだろうなあ。お化粧をしなければいけない女性は気の毒だとおもう。
女に化粧しなければいけないなんてセクハラじゃね?男も化粧して顔に汗かいてみろってんだ。

やまんばは野良仕事にくのでも、銀座にいくのでもすっぴんのまま。だいたい化粧品をひとつももっていない。化粧水もクリームもなんにももっていない。それでも別に顔がコゲることなく、シミも増えていない。じんわりあふれる汗は天然の化粧水。保湿効果を高めてくれるし、紫外線にさらされることもなさそうだ。
むしろむかし石けんで顔洗ってた時の方が、すぐコゲた。

クールビズが定着しているんだから、クールスッピンも定着していーんじゃないだろか。

口紅ひとつピってつけて、アイラインピピッって引いたら、それだけでキレイに見えるじゃん。しみソバカスなんて、かわいいことの象徴!

夏はクールスッピンだよ、これからは!

2014年8月16日土曜日

感情の津波は全身で受け止める




朝、4時半頃目が覚めた。
とつぜん恐怖におそわれる。
それはものすごい恐怖だった。いったい何の恐怖なのだ!

それは、、、
庭の木や草がぼーぼーで手におえない。大家さんに怒られる!と言うとてつもない恐怖だった。(うわ、ちっけー)
やまんばは恐怖でいっぱいになり、全身に汗をかきはじめる。

やばいやばい。こわいこわい。
ああ、こわがってはいけない。こんなことをこわがっているなんて。。いつもえらそーなこといってるやつが、こんなことでこわがっているなんて。。。なんてニンゲンとして失格なのだ。。。

おもえばおもうほどあせる。消そうとすれば消そうとするほどふくれあがる恐怖。さっきまで涼しげだったからだが全身汗まみれになる。。。

そのとき、「ひょっとしてわたしは今、これを楽しんでいるんじゃないか。。。?」とおもった。
「え?ひょっとして恐怖はワクワクとほとんど同じなんじゃないか?」
「え?ひょっとして、庭の木や草がぼーぼーなのは、わたしはどこかで植物の偉大さを知りたいと思っていたことの現れじゃないか?」と。

そうなのだ。
畑で植物のダイナミックさ、エネルギッシュさ、強さをあたしに見せてちょうだい!っておもってた。それがそのまんまあらわれているのではないか。でもせっかくそれを表現してくれているのに、頭が「草が嫌いな大家さんに怒られる」といってストップをかけているのだ。

植物の強さが見たいといいながら、その強さを目の当たりにすると、ダメダメ、それじゃ怒られる、と言っている。。。これって相反することを同時に求めていない????

じゃあ怒られるってことを消せばいいのか?

いんや。そう簡単にはいかない。うかんだもの、そう消せやしないもん。見なかったフリなんてもうできない。

感じるんだ!
そう。その相反する矛盾する考えで知っちゃかめっちゃかになっている頭を、そのまんま受け止めるのだ。

やまんばは大の字になって、その焦り、その恐怖、自分への怒り、ありとあらゆるごちゃ混ぜになってそこに存在している感情の大津波を全身で受け止めた。
心で、カラダで、感じて、味わってみた。

不思議な感覚の中にいた。
植物の、大地の、生き物の、躍動のような、すごいエネルギーを感じている自分がいた。ほんとはコトバにならない。わからない。だけど何かもう自分も消えているような。。。。

気がついたら7時前になっていた。

やまんばにとって問題はもう頭なんかで解決できない。ただ感じて受け止めるだけで、何かがメタモルフォーゼしていく。

この世の問題は次元の違う動きで変化がおこるのじゃないだろうか。

同じ土俵の上では、つまり頭で浮かんだ問題を、同じ頭の中では「解決」はできなくて、ただその場しのぎ的なもんじゃないだろうか。
今朝の恐怖はとても頭で解決できるものではなかった。

あ、今ちっこいって、笑っただろー、こらあ。


2014年8月14日木曜日

今年の夏野菜さんざん



今年の夏野菜はさんざんだ。
キュウリ、ズッキーニ、ししとう、オクラ、ジャガイモ、ピーマン、トウモロコシ、ゴーヤ、まるでとれない。わはは~。

キュウリは、さいしょとれていたが、水不足のせいなのか、あっというまにかれはじめ、実はつかなくなった。

ズッキーニは図体はでかくなっていって、雄花が咲き始めたが、雌花がまったくさかず、やっとこのごろ少しだけ咲いたかと思うと、うまく受粉できず実は枯れていく。

八丈オクラは、いつもなら背丈が2メートル近くなってたわわに実をつけるはずが、その背丈、30センチにもみたない。実もなかなかつかない。

ジャガイモは、近所のオヤジのアイディアを採用して、土寄せをせずにすむように深植えしてみたが、実は一個の種芋に、一個しかつかなかった。

トウモロコシも背丈が低い。50センチにもならない。その根元に、かろうじて小さな実が地面すれすれについている。すごい。こんなトウモロコシみたことない。考えてみれば、それでも実をつけようと頑張ってくれている姿に感動する。

シシトウとピーマンの根元にコンパニオンプランツとしてラッカセイを植えた。豆科の植物は窒素を固定してくれるから、夏野菜にはもってこいのはずだった。しかし今ラッカセイはものすごいいきおいで葉がしげり、しかし花はほとんど咲いていない。これはいわゆるツルボケ?チッ素過多?そしてシシトウもピーマンもほとんど実がならない。わはは~。

ゴーヤも順調に育っていたが、花は咲くのに、かんじんの実がまったくつかない。かろうじて今5センチのちっこいゴーヤがいる。だけどこれが育つかどーかは知らない。

ゆいいつ、トマトが順調だ。毎日まっかなのがいっぱいとれる。乾燥地帯が原産地のトマト。やはり今年は水不足なのだろうか。

ナスは、基本まったくとれないウチの畑にしては、すこ~しづつとれている。


無肥料栽培6年目にして、ほぼ何もとれない状態にまでいたった。メヒシバとイヌコロ草が生い茂る畑でぼーぜんとするやまんばであった。

2014年8月11日月曜日

ちゃうちゃう。チャウチャウちゃう。



自分の中から「否定」がだんだん消えていくと、外からの否定も消えていくのに気がついた。

自分のいたらなさにぶちぶち言う。
テレビに向かってぶちぶち言う。
だれかさんに向かってぶちぶち言う。
ことばにしなくても、なんとな~く心の中でたえず「否定」は生まれている。

否定はいっしゅん自我を活性化する。
「あたし、否定できるぐらいイケてるぜ。」
と、高みに立つことができる。

だけどそれだけである。
そんときフフフンっていい気分になる。でもそれが消えると、またどこかに否定できるものを探す。ネット見て、他人を見て、自分の行為を見て、また否定する。

外への否定は知恵のある自分(とおもいこんでいる)をみつけられるし、自分への否定は、少しでもよくしようと努力している自分を見つけることができる、とおもいこんでいるだけであった。

これは、自我がよろこぶ趣味であった。
ちっとも前に進まないのである。延々と同じことをくりかえしているだけであった。人と自分をくらべて自分をなぐさめたり、けなしたり、悦にいったり、あわてたり。ただそれだけだった。
これって創造的なもんじゃないやんけ。

ところがこのことに気がついて、否定したりぶちぶち文句をいっている自分をみつけはじめる。でてくるわ、でてくるわ。おおっ、ここにも!あっ、あそこにも!すげー否定のオンパレード!

で、今度は自分の否定を監視しはじめる。
「あっ、また否定しちまった!ヤバい!否定をヤメよう。。。」
なんてね。
これって、また元のもくあみ。
否定を、否定しているのだ!
わははは~~~っ!おんなじやんけ!

ちゃうちゃう。チャウチャウちゃう。(古い?)

否定している自分に気がついている。ただそれだけ。
「あ、自分、今否定しているんだな」
と、やった瞬間に気がついている。ただそれだけ。
けっこうむずかしかったりするんだけど、あとでもいい。
「あ、さっきまた否定やってら」ぐらいで。

するとなぜかしらんが、だんだんと自分の中に否定が消えていく。
否定が消えていくと、なぜか知らんが、外からの否定も消えてく。
違いを違いのまんま。そのまんま受け入れてもらえたり、自分でも受け入れられたり。
なんだ。やっぱりこの世はわたしの心で出来上がってんだ。


2014年8月8日金曜日

怖がっちゃいけないというおもいがフタをする



やまんば:「おかあさん、『あたしは歩けん』っておもうちゅうがやろ?」

母:「ちがう。あたしは『あたしは歩けるようになる』っておもいゆうがよ」

やまんば:「それって、もともと歩けないっていうおもいが前提にあるから、歩けるようになるっていってんのじゃない?」

母:「ちがうってば。『あたしは歩けるようになる』って、心の中で呪文みたいにおもいゆうがよ」

やまんば:「。。。。。」

やまんば:「じゃあさ。たとえばよ。あたしが『あたしは歩けるようになる』っておもうとおもう?」

母:「?」

やまんば:「あたしが、『あたしは歩ける!絶対歩けるようになる!』ゆうて心の中で言ゆうとおもう?」

母:「。。。いわんとおもうよねえ。。。」

やまんば:「そやろ?フツーに歩いている人が、わざわざ『あたしは歩ける!歩けるようになる!』っていわんよねえ」

母:「う。。ん。。。いわん。。。」

やまんば:「ね?。。。ってことは?おかあさんは、『あたしは歩けない』って元のところで信じているから、『歩けるようになる』っていう言葉が出るんじゃない?」

母:「そ、、、そんなこと思うてない!あたしは絶対歩けんなんて思うてない!」

やまんば:「。。もうえいわ」

これ、先日の母とやまんばの電話での会話。
人は自分の心の中をどこまで見通すことができるのか。

「おかあさん、素直じゃないよ。ホントのところを言いなさい」
なんて言ったところで、肝心の本人がその心のうちに気がついていない。
彼女は歩けなくなるという恐怖を抱えている。その恐怖は何重にもフタをされていて、本人自身がその恐怖を自覚することがない。

私たちの文明は、いや教育は、「怖がってはいけない」「怒ってはいけない」「しっとしてはいけない」「悲しんではいけない」、そして「楽しんではいけない」などと、およそ自分のうちから出てくる感情的なものにフタをしなければいけないような教えを受けてきた。
つまり『感情』は出てきてあたり前なものを、押さえつけてなかったことにする、という不当な扱いを受けてきたのだ。

それが押え切れないところに来て、どんどん溢れ出しているのが、このところの事件や心の病いにあらわれているんではないかとおもう。私たちは心のメカニズムをテキトーにあしらい過ぎている。

物質は目に見えて明らかなので「えらいこっちゃ」と騒げるが、心のほうは、みえないもんだから「な、なんだかへんなよーなきがするが。。。。ま、えいか」ぐらいにほっぽっとかれている。
なので自分自身の心の中を見るという習慣がないのだ。

むかしはモノがこれほどあふれていなくて、心の中を観る作業は自然と行なわれていたんだと思う。しかし現代はモノにあふれ、ひとりひとりに行き渡った歩く情報ツールが心を自分自身には向かわせず、外の何かに釘付けにさせられることで、より自分を見るチャンスが失われている。

だけどいつでも自分の心に帰ることができる。

怖がっちゃいけないという自分で作った壁は、自分でいともかんたんにはずせる。

そしていつでもその自分の心の中を深く深く掘り下げることができる。それが私たちがもつ能力だ。
がんじがらめになっている自分の観念からの解放へとつながっている。


 
母:「あたし、歩けんっておもいよった。。。」

やまんば:「へ?」

母:「あたしあれから考えた。あたしはほんとは歩けんって思いよったがや。。。って気がついた」

のちの電話での母からの告白だった。


2014年8月6日水曜日

スーパー自分になる!



やまんばはずーーーーーーーーーっと、自分をだれかとくらべ、自分を否定してきた。

あれがいけないこれがいけない。
ああするべき、こうするべき。
いい人とはこうあるべきで、であるなら、これは悪いことだ。

だからわたしはまちがっている。いつもまちがっている。つねにじぶんをみはってないとまちがってしまう。なぜならわたしはつねにまちがいを犯すニンゲンなのだから。。と。

うまれてきたとき、すでにわたしにはいしきがあった。かんじるものやかんがえることがあった。だけどわたしの前には、この世ルールを「すでに知っている先輩」がいて、その先輩に、「この世で生きるにはこういうルールがあるのだ」と教えられる。

「いや、そうじゃないきがする。。。」
といえば、
「ちがう!これはこうなのだ!」
と、おしえられ、試され、比較されてきた。

これは、自分というものをつねに誰かと比べられ、誰かが考えたルールで試され、それによって優劣や順位というありがためいわくな栄誉をもらいうけることになる。

するとやまんばは、自分自身でいることが、まちがったことであり、劣ることであると信じ込んだ。
このインプットは約50年間有効に働いてくれていた。



だけど、これはほんとうの自分を生きることなのか?とおもいはじめる。いやほんとうは、ずっと前から「なんかちがう」とおもっていた。だけどメイドイン教育のたまもので、
「ちがうだろ、常識とはこうなのだ。そこから外れたら、あとは『死』あるのみ」
と、軌道修正(?)をしてきた。そのおかげで大した悪さもせずに生きてこれたことも事実だ。

だけど自分への否定は、しょうじき生きづらくなっている。社会に対しては別に態度を変えるわけではない。いきなりご近所をあわてさせる、わがままやまんばに突入するよーな青二才でもない。
だが日常的にこころのなかにあふれでる「ダメダメ攻撃」に、
「おい、ちょっとまてよ。この攻撃はどっからくるんだ?」
「おい、おい、おい、なんでそこまで自分をいじめる?」とおもいはじめた。

なんで自分を否定しなくちゃいけないんだろう。

「それは自己肯定感が足りないのよ」
「あ、そうか。じゃあ、自分を肯定すればいいんだ!」

しかし。自分を肯定するのは簡単なもんじゃなかった。

自分をそのまんま肯定するとは、とてつもないことだった。




最近、ある人が書いた本を読んだ。
その人はうまれたときから、まったく自分自身を否定されなかった。
カラダがまったく動かない、声も出せない、息もうまくできない。そんな人が、その存在をまったく否定されず、ストレートに自分自身を表現すると、ここまでの人物になるのかという現実を見せてもらった。

やまんばは感動した。口があんぐり開いちゃって、これはとんでもないものをおしえてもらったとおもった。ここにものすごいヒントがある。ニンゲンは自分を否定されないまま生きると、もっとも自分らしいスーパー自分になるのだ。
多分この世の天才と言われる人々は、そういう部分があったはずだ。

やまんばは、今まで自分を否定してきた世界から、自分を肯定する世界へいこうと思う。
もちろんマシーンのように自分を否定する習慣は、そうおいそれとは消えないだろう。
だからまだ肯定世界の入り口のことろにたっているだけだ。

それは自分への否定観念につねに気がついている状態に入ることになるだろう。

だけどまだ知らない自分をきっと見つけはじめるにちがいない。

2014年8月4日月曜日

宇宙と自分だけになる



夜8時頃になると、ベランダにリクライニングの椅子をごそごそ持ち出して、夜空をながめる。

まっくら闇の空間の中に、小さな星々が点々と見える。
むかし高知の室戸にいた頃見た夏の夜空には、くっきりと天の川が見えていたなあ、、、などと思い出しながら、小さな星と星のあいだの真っ暗な空間をながめる。
ちかちか光りながら飛行機が飛んでいる。点滅しないで静かに飛ぶものもある。

そんなものをながめて、1、2時間すごす。ただそれだけ。
それがじつにここちよい。
あたまんなかが色んなことを考えて暴走するのが止まってしまう時間。

いいとかわるいとか、この世のルールにしばられていない時間。

自分ってモノを意識しなくなる時間。

天を見上げてんのか、天を見下ろしてんのか、上下がわからなくなる時間。

自分とカラダとか、自分と他人とかの関係が消えて、
宇宙と自分だけになる。



2014年8月1日金曜日

自分で作ってるううう〜の2



先日のつづき。。。

やまんばはそこから脱出したい。
「これが問題だ!」と見つけたのも自分。
「それは解決しなければいけない!」と躍起になったのも自分。
と、ゆーことは、それはもともと自分から発生したものだ。
であれば、自分でそれを変えられる。

変えるっていうと、すぐ心は「それまでわたしはまちがっていたのだ!」とおもいがち。だけど本当はちがう。

ほんとうの自分とはまったくちがう自分を味わってみようと思っただけなんだ。

そのために、まわりに色んな役者を設定した。
親、ご近所、学校、テレビ、環境、、、その他いっぱい!
その設定の中で、自分ではないモノになれと言われたり、自分にはない考えをもてとうながされたんだ。
それで「うん!わかった!なってみる!」と納得して体験しにきていたんだ。
だから、決して「まちがっていた!」わけではない。すべては了解積み。設定通りに性格を作っただけ。大正解!むしろあなたは正しかった!
よーく考えると、あの親でしょ?あの環境でしょ?ほらトーゼンその性格になるわな。だから大正解~~~。


さて。
今までの自分を変えてみる気分になった人、自分がワンパターンな反応をしているものを見つけてみよう。
たとえば、いつもスーパーで買い物をするたびに
「ゲ。買い過ぎた。お金使い過ぎた。。」
と罪悪感に陥っている人がいるとしよう(そりゃ、あんたやろー)。

単に言葉を発しているだけだと思っているだろうが、じつはこの「お金使い過ぎた」というたんじゅんな言葉の後ろに、
1:自分がもっているお金が減った。
ということは、
2:将来やってくるであろう浮浪者にわしは一歩近づいたのだ。
などの観念が、そのつど襲ってきているのだ。

その観念は、買い物をするたび、わしはホームレスに一歩近づいた、と思いつづけることになる。その人は、買い物をするたびに、「わーい」という気持ちと「ヤバい」という気持ちの両方をつねに保ち続けていることがわかるだろう。

そのムードがその人に形成され続け、
「いつかホームレスになる。。ホームレスになる。。。」とか「いつか借金まみれで自己破産になる、自己破産になる。。。。」と呪文のよーに言い続け、次第にホームレスや自己破産にむかって自ら歩んでいくことになりかねない。


そのワンパターンな反応を意識的に変えるのだ。
買い物をすると、
「おお、わたしは社会貢献をしたのだ。」
とか
「わたしは今、豊かな生活を送ってるなあ~」
などと言ってみるのだ。
人それぞれに好みでいい。だって人はそれぞれちがうんだもの。あなたの嬉しくなるバージョンを作ってみよう。

今まで自動的に反応していただろうから、そう簡単にはその言葉は出て来ないだろう。
「ゲ、また金を。。。。あ、いや、えーと、なんだっけ?。。。あ、そうそう、豊かな生活をしている、だな。あ、そーいや、こんだけのものを買えるお金を持っているってことだあ!」
ってなかんじになってくる。
こんなかんじどお?

「またお金が減った。。」
というときの心の状態と、
「こんだけのものを買えるお金を持ってる」
という心の状態は、なにかがちがうとおもわない?その時にその人から放たれるトーンのようなもの。
前者は何か重たい。だけど後者は軽い。
この一見無責任な軽さは、じつは明るさを呼び込んでくる。

未来がどうなるかは、その人それぞれの運命がになっている。しかしどこかで見聞きした不幸な人の話が、いつのまにか自分にも当てはまるんじゃないかと心配しはじめる。その心配はもっと他の心配を呼び込んで、ことを大きくしていく。これが心の習性のようだ。

だが事実は、あんたの人生は、他のどの人とも似通ってないってこと!

未来は未来さんにまかせよう。
今やれることは、今までの反応をいかにあなたのオリジナルの新バージョンに切り替えていくかってことだな。



畑からの帰り道、
「ああ、ナスがこんだけしか取れない。。。」
と言った直後、
「ああ、そーだった。これは今までのパターン。どれ、変えるとしたらどういう言葉があるかな?」
去年までの状態を思い浮かべてみる。
「あ、そーいや、取れてるじゃないの!前はまったく取れてなかったのに!なあんだ。とれるよーになってきてるんじゃん!わはははは!」
と、意気揚々と畑から帰るやまんばであった。

ちゃんちゃん。