2019年8月31日土曜日

京都の旅




「京都に行きたい」
めずらしくダンナが言った。

旅に出なくなって久しい。これまでいろんな国や場所を見て来たが、今住んでいるところが一番になってから、どこにも行かなくなった。
それと同時に、外にあるものに新しいものを見出せなくなったのが大きい。
労力とお金を使って出かけても、そこに新しいものは発見できないのにわざわざ行く必要もない。
そんなふたりであったのに、ダンナのこの一言。これはなんかあると思った。



西日本は大雨予報の中、新幹線で西に向かう。
のぞみが小田原駅でゆっくり停車した。
「ん?これはこだまやったっけ?」

間もなくしてアナウンスが。
「小田原駅の先で停電が発生しました。只今原因を確認中です」
窓の外は大雨。そのうち車内も真っ暗になった。
「車内は停電いたしました。トイレもただ今使えません」
あー。これがテレビでよく見る一晩中新幹線に閉じ込められるヤツか?
ニュースで見るいろんなシーンが頭にひろがる。

これ、ヤバいヤツや。。。

ちょっとびびっているとダンナが耳元で言う。
「何が起っても平気。だって一緒に死ぬほうが楽や。。。」
しっ、、新幹線止まっただけで死ぬんか!?なに縁起でもないことゆうてんねん!

ここでコースを思いだす。
「この世界をゆるそう。。。」
この状態に抵抗をするから苦しい。この状況をまるごと受けとめることにした。

いつ動き出すかもわからないまま時間は過ぎていったが、
30分ほどで車内に電気が付いた。そしてゆっくり動き出した。



京都駅には30分遅れで着いた。ホームにでるとむんっと蒸し暑い。さすが京都の夏。山陰本線で太秦駅に向かう。目的は広隆寺の弥勒菩薩を見ること。
思ったほど雨は降っていなかった。
太秦は美大時代、毎朝バイトで通っていた場所。親にナイショでもうひとつの学校に通うための資金稼ぎ。まだあの喫茶店あるんかなあ。

広隆寺の弥勒菩薩を見るのは今回で二度目。
一回目もダンナと見た。
そしたら同じ美大寮に住んでいた友だちに、その夜ベトナム料理食べながら言われる。
「つくし、あたしと一緒に見たやん!」
「へ?そやったっけ」

人の記憶とはいい加減なもんである。
おそらく最初の印象は「あ、教科書と一緒や」ぐらいであったのだろう。そういううすーい印象は記憶に残らないもんだ。
『記憶にございません』は、ある意味正しい使い方だ。何しか記憶に残ってないだけなのだから。(ほんとはどうかしらんが)

私の記憶、第一回目は、その美しさにみとれた。
前はもっと近くで見られたはずだ。触れるぐらいの位置にあった。その時はその柔和な美しさを間近で感じられた。おそらく指が折られたのはそのせいなのだろう。今は祭壇の上に祭られて、遠くの方に大事におかれている。

記憶第二回目。
薄暗い建物のなかで、真正面からみる。すこーしからだが左に傾いて、そっとほほに手を寄せうっすら微笑んでいる。最近太って来たせいか、弥勒菩薩の細い胴体が気になる。あんなに細かったんだ。。。

弥勒菩薩は56億7000万年後に現れ、人々を救済されるという。すこし傾いたお顔は人々を救うために思索されているという。
じっと眺めていると、未来が明るく見えた。目の前の弥勒菩薩さまは未来を憂いているわけではない、むしろよろこんでおられた。たとえ彼のまわりに激しくゆれる世界が繰り広げられようとも、彼が立つその場所は台風の目のように、静かで神聖だ。その目は現れてくる現象の世界など目にもしてなかった。知覚の世界、見えるものなどないことを知っておられた。


私はその静けさに触れていた。
以前は、その「作品」を見ていた。表現するものとして、その像がどんなふうに表現されているかを見ていたように思う。今はちがう。その現れの向こう側を見ていた。
作品とは本来そう言うものなのかもしれない。

二日後に見た南禅寺のお庭もまたそんなことを教えてくれていた。
庭を前に佇み、心に現れてくる形、思い、感情、それをこの目の前の風景を通してみる。己の姿を見る。それは日々の忙しさの中ではけして見られない。
そう言うものを提示してくる日本の美とはなんと奥深いものか。

そして私たちのために旅を演出してくれた人々も美しい人々だった。

二泊三日の旅は、なんとぜいたくな時間だっただろう。


何か、言葉にならない新しいものを見た気がした。




2019年8月20日火曜日

もったいないから。。。。



先日バイト先で、ふとある言葉が浮かんだ。

「もったいないから食べちゃった」

「なんやったっけ、これ?」

まわりに聞くも、
「うん。なんかあったあった!」
というだけで、その前後がわからない。

わこうどから年寄りにいたるまで(年寄りは私と同い年)聞いて回ったが、若い子はクエスチョンマーク。どうも、私ら世代が記憶に残る言葉なのだ。

「。。。なんか、『うんこ』からんでない?」
年寄りの一人が言った。

「あ!やっぱり!?私もなんかその辺がにおう気が。。。」と私。
「なんかさあー。オバアさんが畑でウンコしたんちゃう?」と彼女。
「あ!そんなかんじそんなかんじ!」

そのうちメロディーが何となく出て来る。
「ばあさん畑でうんこして~。。。♪」一人が歌う。
「で?」と私。
「もったいないから食べちゃった~♪」
「ぎゃーーーーっ!やっぱ、そこ!?そこ!?」
年寄り三人組が盛り上がる。わこうどたちは横でシラケて見ている。

「ねえねえ、どっから来た歌やろう~?」
「ドリフじゃない?」
「う~~ん。。。もっと古かったような~。。。」
「やっぱ、ググらないと」
「そうやね。かえってからググるわー」

バイトが終わり、更衣室で着替えている時考えた。
うんこ、紙で拭くよねえ~。。。。
「あ!」

着替えてバタバタでてくる私。
「わかったわかった!!」
「え?え?おもいだした???」
「ばあさん畑でウンコして~
か~みがないから、手で拭いて~
もったいないから食べちゃった~~♪」

「きゃーーーっ!それやそれや~~っ!」
はからずも食品関係のお店で、大声で歌ってしまった。

さて。家に帰り着いてググる。

どこがばあさんや。どこが畑や。

正解は
「みっちゃんみちみち、うんこたれて~
か~みがないから、手で拭いて~
もったいないから食べちゃった~♪」でした!

しかもそれはドリフの時代どころではない。1800年代半ばまでさかのぼる古い古いわらべ歌であった。
古いがゆえにか、場所によって言葉が変わる。
うんこたれて~は
ばばこいて~とか、
クソばって~とか
クソひって~とか、(高知はクソひってやった気がする。もっと記憶を辿れば、
最後は「おばあが泣き泣きかきに来た~」と言うバージョンもあったような。。。)

もったいないから食べちゃった~は、
なめちゃったとか
ぺろぺろぺろぺろなめちゃった~
とかバージョンがあるらしい。
どっちかというと、食べちゃった系は関西に多いような。。w

しかもこのわらべ歌、国文学者林望氏によれば、「天下の傑作」とまで絶賛されている!

この歌のすごさは、紙がないから手で拭いてからのまさかの展開。
「そこ!?そこにいくかーーっ!」
という想像を超える展開に、心がロックオンされてしまうのだ。

だから衝撃的な言葉だけが記憶に残る。
「もったいないから食べちゃった。。。って。これ、なんだっけ?」と(笑)。



奇しくも今朝方、
「つくちゃんパンツにうんこたれて~♪」の夢を見た私。
なぜか花嫁姿の母に、なぜか座布団の上で、私の落とし物を洗ってもらっていた。
あいわらず私の夢は支離滅裂。

お下品な話、たいへん失礼いたしました。



2019年8月10日土曜日

ドラマにハマる


今の庭の様子。左、ズッキーニの葉っぱ、右奥、サトイモの葉っぱ


無料配信のドラマをよく見る。
「おっさんずラブ」は最高だった。

ドラマはその時代のムードを象徴しているといえるが、ほんとのところはその時代のムードを作っているんじゃないか?

マスメディアは時代の価値観を誘導する。それは意図的なのか、それともこの世界が無意識にそれを求めているがゆえに作らされているのか、それはわからないけど。

しかしドラマは人々の今の価値観に大きく影響を与えているのはたしかだ。


「おっさんずラブ」がここまでヒットしたのも、性別に関する偏見がだんだんなくなって来ているのが背景にある。

そんな中、最近でてくるのが空気を読まないキャラ。
「凪のおいとま」ももともと空気を読み過ぎる主人公が彼氏の言葉にショックを受けて過呼吸になり、それまでのすべての生活を捨てると言う、私的にはめっちゃハマる内容のドラマ。そこに出てくる空気読まないキャラもなかなかおもしろい。


突出しているキャラは、「ヘブン?ご苦楽レストラン」というドラマの中にいる。
その中に出てくる川合君というかわいいキャラがいい。

まったく空気を読まない。仕事もまったく出来ない。すべてがダメダメなのに、本人はまったく気にしない。ただただ幸せを感じている、世界一の幸せ野郎なのだ。この幸せ野郎はなぜか憎めない。まわりを勝手に幸せにしていく。
まわりの役柄が通常の私たちの反応。しかし川合君は逸脱している。
そんなキャラがじっさいこの世にいたら、たぶん普通の人とは思われないだろう。

それでもこのキャラがこの世界を変えていくんじゃないかとおもわせてくれる。もちろんそれを受けとめる伊賀君がいてこそなりたつのだが。
この世に布石を打った人々はだれもが逸脱していた。つぎつぎと常識を覆していくのだ。




んで今日も暑い。目の前の庭は植物全盛期だ。
「ウ。。。草刈りしないと。。。野菜も草に埋もれる。。。。」
心がうずく。

川合君ならこのうちの庭を見てどういうだろう。
「わあ~~!草がいっぱい!た~のし~なあ~!」
きっとでかいサトイモの葉っぱを見ておどろき、
オクラの花に「きれいだなあ~」と感動することだろう。

凡庸な私は問題点を見つけるのが得意だ。
ズッキーニ、育ってないとか、キュウリが出来てないとか、出来ていることよりも、出来てないことにフォーカスし悩む。しかしそこにあるのは不幸な気持ちだけだ。
わざわざそれを選ぶこたあないのに、やっぱりそっちを無意識に選んで心をうずかせる。
これこそ、自我のワナにガッつりハマってる。

一方川合君は、すてきなものを見つけるのが得意。
感動するものを見つけて大喜びする。

どっちを選択するかは、私しだい。



2019年8月7日水曜日

そのままにしておきなさい



畑のフェンスがすこし崩れていた。

このままにしていたら、そのうちイノシシが入ってくるだろうなあ。。。
ジャングル状態になった畑で、そっと心の中で聞く。
「どう、、すればいい、、、?」

即座に答えが返って来た。
「そのままにしておきなさい」

「え?そのままに?けど、、、あのままじゃ絶対イノシシがあ。。。。」

これ、自分で言ってない?
ウン。きっとめんどくさいから自分で自分に答えたんだ。。。
でも、そのまんまにした。


そしてきのう。
畑に行って、なにかが大きく変化しているのに気づく。
フェンスが破られている!

畑は巨大な穴ぼこだらけ、あんなにあったサトイモは、跡形もなく掘り返され、見事に消えていた。そこら中掘り返され、たくさん実っていたであろうミョウガも消えていた。キクイモのエリアはそこだけ台風が来たみたいに踏み倒され荒れ狂っていた。
みごとなイノシシたちの破壊力にグーの根もでない。



だが心はなぜか静かだった。
キュウリの支柱も倒され、砂まみれになっているキュウリを収穫しながら、心は穏やかだった。

なぜだろう。
こうなってくれることをどこかで望んでいた気がする。。。

この畑は山に接している。近所の畑よりももっとも山に近い場所に、人間のエリアとしてフェンスという境界線を作ったことに、わたしはどこかで抵抗を感じていた。

猿が来て、タヌキが来て、ハクビシンが来て、猫が来て、そしてイノシシが来る。
フェンスを作ることは、ここに城壁を建てるようなもんだ。
ここは人間さまのエリア、その他はお前たち野生のエリアと。
だがしかしそれをあざ笑うかのように野菜は猿に襲われる。年々ひどくなる。今とられない野菜は鷹の爪ぐらいなもんだ。

今回フェンスが壊され、畑をイノシシに壊滅的にやられたことで、畑に風が通った。
そんな気持ちになったのだ。
まるで風通しの悪い、締め切ったカビ臭い部屋に、爽やかな風が入ったように。

ここは山に還すべきだろうか。。。
おもいがよぎる。
ここが畑になったいきさつ、それにまつわるいろんな出来事、それぞれの思い。
なんといろんな過去を作ったものだ。


それと同時に、人間と自然とのかかわりもまた教えられている。
慣行農法、有機農法、無肥料栽培、不耕機栽培、自然農法と、だんだん自然に近い農法に移行しながら、
そもそも栽培するとはどういうことなのか。
自然とはなんなのか。
人間とはなんなのか。
生命とはなんなのか。
そんなところまで突きつめられる。
この畑を通して、たくさんの葛藤をあじわった。


ぼうせんと畑のすがたをおもいおこしていると、

「人間の視点に立たない。」

心に声が聞こえた。



2019年8月6日火曜日

カメのように





「いつ電話がかかってくる?こっちから電話しようか」
「だいじょうぶ。彼は絶対ほっといたりしない。そのうちかかってくるよ」

知り合いの業者さんから電話が来ないままだ。
自分では何も決めないでおこうと決めたものの、暑い毎日の中で、何もことが運ばないことにだんだん不安になってくる。



ずっと「自分で」この世界を乗り越えて来たと思っていた。だからなんでも「自分で」解決しなければいけないと思ってがんばって来た。

しかしだんだん「自分」ではどうしようもないものがある、と言うこともわかって来た。それは自分でなんとかして来れなかった膨大な量の挫折の日々が教えてくれている。

そしてついに、じつは「自分で」なんかやってこなかった、なにひとつ動かしてなかったんだ。。。。と言うことに気づきつつある今。
すべてを手放して、起こるままにすると言うことが意識的になりはじめている。



たとえばNYのピーターからスケッチの返事が来ないことへのいらだち。自分のいたらなさをなげき、反省し、どうにかして事を進めようと、あの手この手で挑んで来た。
しかしその虚しさに気がつき、今はそのままにしておくことができるようになった。

どこかで自分のせいでアートディレクターが苦心しているという思いにさいなまれ続けていた罪の意識。それが自分を苦しめていたのだった。

ある時、「ああ、これは私のせいではなかったんだ。。」とふとおもった。
その時から待てるようになった。果報は寝て待て。これは神の言葉だ。



こんどは神さまは次のレッスンをくれた。
クーラー壊れてからだを意識するというやつ!
からだのピンチは死と直結する。

パソコン開くと「熱中症」「死亡」というワードが目に入ってくる。
ますます恐怖のズンドコに。(それをゆうなら、どん底)
「こっ、、、このままだと死ぬ。。。!」
心がいかにからだに影響を与えているのか、自分の身体の変化に教えられる。
待つと言うことが出来なくなるのだ。

だから冒頭のダンナへの質問。
「ねえねえ、いつ?」




ピーターへのメールでもそうだ。
何をどうやっても動かないものは動かない。ただほっておくしかない。
でもどうしてもバタバタするのは、心の保険/安心が欲しいのだ。
なんかやっているほうが、何もしないよりもマシ的な(気休めだけど笑)。
どのみち、汗かいてヒーヒーバタバタやっているだけで、起こるときは起こる。動く時に動く。


私たちはウサギとカメみたいだ。
私はいつもウサギをやっていたのかもしれない。
ゆっくりと静かに進んでいけば、余分な体力も使わないまま、まっすぐゴールに着くだけなんじゃないか?



今朝、ピーターから返事が。

Hi Tsukushi,
They love the sketch, Please finish the cover with the following changes…..

数個の小さな変更があるのみで、ゴーサインがでた。



じぶんの人生を信じる。
たったこれだけのことが私たちにはできない。

私はカメの心になれるか。




追伸:これを書いたあと、コーヒーを飲んでいたら電話があった。
「今日クーラーが届いたら、夕方そっちにつけにいくよ。早い方がいいでしょ?」

果報は寝て待て。
(あ、コーヒー飲んで待て、か)





2019年8月4日日曜日

クーラーが壊れた



クーラーが突然動かなくなった。

「室外機のファンが回ってないよ」
外を見に行ったダンナが言う。
あー。こりゃ完全にアウトだな。
メーカーに電話。ちっともつながらない。一日待って電話。やっぱりつながらない。

ここにきて15年。毎年の夏をさほどクーラーを使わず過ごして来た。
使っても暑い午後の2、3時間だけ。日が傾くと消していたぐらいの必要性。暖房など使ったこともない。寒過ぎて効かないから。

その程度の関係性だったのに、いざ壊れて使えないとなると、がぜん苦しくなってくる。
どんだけ気分に左右されているんや私?
いつでも使えるからあ~んしんっ♥という保険をもらっていた、自分自身のそのあんちょこな精神にもハラが立つ。



やっとメーカーと電話がつながると、今度はあまりの修理の混みようでスケジュールが組めないから、営業所から直接電話させますと言う。ところがまたかかって来ない。ジリジリと暑い中電話を待つ。結局その日は電話がなく、翌日の午後電話がかかって来た。

しかしよろこぶのもつかの間、修理は5日後。それも時間もわからないと言う。
「ちなみにおいくらぐらいかかります。。?」
おそるおそる聞く。
「はい。。。少なく見積もって、5万円はかかるかと。。。」
「!」
ですよね~~。。。
とりあえずお願いして電話を切る。

ジリジリと責めてくる暑さに耐えられなくなる。今までどれだけ耐えていたんだ、私?
5日間この暑さ、耐えられるのか!?



心がどれだけからだに影響を与えているのか、手に取るようにわかる。
あるとおもっていたものがない。そう思ったとたん恐怖が襲いかかる。
怖れが全身に広がって、それまでの平安は跡形もなく消える。
こういう状況を意識的に与えられているのか。



すこし日が傾きかけた頃、さんぽに出かける。山の中は涼しい。川に手をつけてその冷たさを味わう。さっきまでの暑さが一気に消える。靴を脱いで足をつけた。この世が別世界に見える。川のせせらぎ、ヒグラシの声。山の声はなんて大きいのだ。大音響の中で自分というからだを忘れる。
からだを忘れた私に平安が戻る。山の懐にいだかれて、私も山も区別がつかなくなる。

明るいうちに夕飯を食べ、暗くなるまま電気をつけずに過ごす。山の稜線がくっきり現れはじめる。小さな星が見えた。開け放した窓からやわらかな風が川から遠慮しがちに上がってくる。弱にした扇風機が小さなリズムを刻む。
静かな心は暑さを忘れていた。



怖れは平安を消す。からだを意識し、熱を意識し、この世界が一気に存在感を増す。
心はここから早く逃れたい一心で必死で策を練る。未来の安心を買おうとする。

その後修理はキャンセル、知り合いに頼んで新しいのを買うことに。しかしそれもまだ未定だ。

心がいかに未来の安心を欲しがるのか見えてくる。
「いつ電話が来る?」
そう思うたびに、からだを感じ、かすかな怖れが起こり、暑さがやってくる。
このメカニズムをはっきり見ておこう。

今、午前9時27分。
今日はどんな一日になるのか。

自分では何も決めないでおこう。