2017年10月14日土曜日

カラダに乗る


自分の感覚だけに集中するという実験をやった。

自分が今もっているもの、それに触れている感触、触っている温度、ふわふわ、ざらざら、の、手の指に感じている触覚、立っている感じ。
そして胸の内側に何かしらある緊張感、今そこに聞こえている音、、、、、などなどに徹底的に集中してみる。

すると、心の中の「言葉」が消えていた。

いつもは、自分を罵倒する言葉があたまの中でぐるぐると繰り返し鳴り響いていたり、言葉にならない否定的な感覚や衝動が起こり続けていたのに、それがまったく消えていたんだ。

また、その感覚の中にいるとき、人と話しができづらくなった。
感覚と言葉は、違う所にある。そう感じた。

感覚は、今感じている。今にしか感じられないものだ。
しかし言葉は、今にいない。過去とつながっている。時間とつながっている。

自分の心の中で、自己嫌悪や罪悪感や自己否定が渦巻いているとき、それは言葉の渦だった。言葉にならない衝動でさえも、その根底には言葉があった。
そのとき私は今にいない。
今この言葉を書いている今も、今にいない。言葉は今にいさせてはくれない。過去を振り返りながら話しを書く。
だがそれが悪いわけではない。ただそういうもんだと知る。

感覚の中にいたとき、静けさがあった。存在だけがあった。動いている手やカラダは、ただ動き、私はそれに「乗る」。
動きはどんどん速やかになっていった。

心に「痛み」を感じたとき、そこに言葉があった。いつもの否定的な言葉だった。
知らないあいだに、言葉に乗っていたのだ。

「あ、感覚、感覚っと」
また感覚の中に入る。
言葉は消えていった。




最近、カラダに乗る事を覚えた。
私たちは、ほとんど考え事と一緒に動いている。ほんの先のことに向かって、歩いている。ドアのノブひとつ触るにも、そこに意識はない。そのドアの先にあるものに意識がむく。先へ先へと心が向かっている。
つまりほとんど心は今やっていることにないのだ。あれやったら、つぎこれ、みたいな。

わたしはちいさいとき、「のろま」といわれたので、やることなすことが遅いというレッテルを自分に張っている。だからどこか焦って行動をしている。
なので、今、動いているその先をめざさないと、とんでもなく遅くなるという怖れがあった。

しかし今はその考えを変えた。
ドアのノブを回すときは、ドアのノブを回すことに、乗る。
畑に向かうときも、心は畑に行こうとするが、歩くことに乗る。
洗濯物を畳むときは、ただ洗濯物を畳むことに乗る。

畳んだら、あれやって、これやって、、、と考えの中にいたときより、ずっと穏やかになった。
畳むことに注意を払って、畳んだあとは、その次のことが浮かぶ。
そのとき浮かんだことをする。

考えの中にいたときは、どこか苦しかった。ああ、あれもやらなくちゃ、これもまだやってない。。。ああ、やりたくない。。。というおもいで、カラダが重くなった。

ただ今やっていることに乗ると、心もカラダもシンプルになった。
きのうやった実験もその延長線上にあった。

今朝目が覚めたとき、言葉が動き始めた。
「あ、今過去にいるんだな。。」
そう気がついたとき、言葉が消えていった。



絵:絵本「The Drums of Noto Hanto」より

2017年10月12日木曜日

草のおかげ


 サンチェのわきからあっちゃこっちゃ出てくるジャガイモの葉。
ここは春にジャガイモを入れた所。
確か全部掘り起こしたはずなのに、
何で出て来るかなあ〜。

秋になって涼しくなると、猛烈に草刈りをはじめるやまんば。
いや猛烈にしたいわけじゃないけど、夏のあいだに猛烈に生い茂った植物たちをばっさばっさと切っていると、格闘してるみたくなってくるw

しぶといヤブカラシ、トゲがぴちぴち引っかかるカナムグラ、10mぐらい伸びたぶっとい葛たちが、下から生えて来たイネ科の植物やら、名前がわからないやたら種がくっつきまくる、でかい植物たちをおおいつくす。

下から刈り、上に絡まったツルたちをひっぺがし、ばったばったとなぎたおし、おおきな草の塊を作っては、フェンス向こうにぽいぽいほおり投げる。


草を刈ったあと、アブラナ科の種をバラバラとほおり投げた所。
フユナ、水菜、ルッコラ、などが芽を出し始めた。

黒足袋で草を刈ったあとの土を踏む。
足がぐーっと沈み込むほどのやわらかさ。ゴム靴では味わえない感触だ。そしてその足袋の裏を通して、土の豊かさを感じる。
山際の畑は、フェンスの端からどんどん自然に還ろうとする。
日本の自然は、放っておいたらただただ豊かになる一方だ。


人間さまの都合でああなってほしくない、こうなってほしい、という都合でいろんなものを入れるが、それがかえって自然にアンバランスを作っているように思える。そのアンバランスのおかげで、また別のものをくわえなくてはならなくなる。

一方何もしない畑は、勝手に豊かになっていく。
一見、荒れ果てた土地に見える草ぼうぼうの畑だけど、毎年土が豊かになっていくのが足の裏でわかる。草のおかげで、豊かになっていくのだ。


「土作り」とは人間が、「やった気」になれる発想だ。
ほんとは自然が勝手に土を作り、調節している。
いや、「作る」なんてこともしていないのかもしれない。
ただひょうひょうと事が動いているだけ。

そこにちょこざいな考えのやまんばがやって来て、好き勝手に種を入れる。それを自然は、
「ふん。ま、ええか。ほっといてやるか」
ってなぐあいで、あたたかく見てくれているのかもしれぬ。

かれこれ9年目の秋の畑。
だんだん豊かに育ってくれる野菜たちを、たのもしくながめる。





2017年10月11日水曜日

ニラのお礼に赤い箱


「先日のニラのお礼って、お届けもの預かってますよ」
近所のタバコ屋さんから、留守電が入っていた。

「先日のニラのお礼。。。?ニラ。。?はて。。」

やまんばはジーーーーッと考える。
ニラ誰かにあげたっけ?

やっと思いだした。
1年ほど前、タバコ屋さんに宅急便を出しに行ったら、ニラが手に入る所がないか、聞いているご夫婦がいた。

「えー。ここら辺に店は一軒しかないし、しかも今日は休みだし。。ニラ買うなら、駅の南側のスーパーに行くしかないねえ。。。」
「そーだねえ。店って言えば、そのくらいしかないしなあ。。。」と私。

「。。。。あ。。ニラだったら、ウチの畑にあるよ」
と、勝手に生えているニラを思いだす私。
スーパーから買う発想から、畑からもらう発想に転換。

「。。。いる?」
「えっ!いいんですか!?」
「勝手に生えてるだけだけど。。。。」
「ほしいです!」

何でも都心から高尾の山ん中にキャンプに来たんだが、キムチ鍋を作ろうとして、肝心のニラがないのを思いだし、焦ってここまでやって来たのだと言う。
ニラないと、キムチ鍋はできないでしょう!(ほんまかいな)

とゆーことで、2台のクルマで畑まで行く。
運の悪い事に、Uターンできるゆいいつの場所に、なぜかでっかいバイクがどかんと止めてあり、運転下手な私は思わずニラのご主人に狭い場所でのUターンを頼むなさけなさだった。でも、なんとかニラと秋の葉ものをいくらか渡せた。

まさか1年後に、そのお礼をいただくとは思いもしなかった。
律儀なお方やー。

タバコ屋さんも本当にご親切。あのニラの一件を覚えていてくれて、私とそのご夫婦のあいだをちゃんと取り持ってくれる。おまけにわざわざとどけてくれたのだ。



箱を開けると、美味しそうな焼き菓子が入っていた。
今日のおやつに頂きます。

きっと今ごろ、高尾のどこかであのご夫婦はキムチ鍋して楽しんでいるんだろうなあ。

お互い、名前の住んでいる所も知らないあいだがら。でもほんの一瞬心が通い合う。
なんか心がホクホクするね。

ありがとう。




2017年10月9日月曜日

おもひでの「カレーせん」


5時で〜す。
麦汁プッシューッ!

今日は100円ショップで買ってきた、カレーせんがおつまみ。

思いだすなあ。ちっちゃいころ。
風邪で熱だしてたらおかーちゃんが、
「なんか食べたいもんある?」
ってきくから、
「ウン。。。坂の下の駄菓子屋さんのカレー味のおせんべ、たべたい。。。」
「よっしゃ、わかった!」

かーちゃんは、カレー味のお煎餅を買ってきてくれたんだが、
なんと当たりくじを引いて、いつもの倍以上のカレーせんを紙袋いっぱいにして、もって帰って来てくれた。
「おいし〜い。。。」
熱でうなされながら食べたことを思いだす。

あれが忘れられなくて、毎朝「熱でんかな。。。」と、楽しみにするも、
いっこうに風邪も引かず、今にいたる。


2017年10月7日土曜日

期待しないぞ!と、期待するw


期待しないことを学ばされたのは、畑だとおもう。

思うように育たない、育ったかと思えば、野生動物に全部食べられる。
そういう繰り返しの中、はっとさせられることもしばしば。
あれっ、、いつのまにかこんな所でこんなに大きくなって。。いやん♥みたいな。

期待してフンフン鼻ならして頑張って育てても、ちっともおもい通りにならない野菜たち。
なのに期待もしない所で「なんじゃあこりゃあ!」と、雄叫びを上げたくなるよなよろこびをもたらす野菜たち。

この二つを見比べていると、、、、
「そーか。。なるほど。こりゃ、期待しなけりゃいいんだ。そーかそーか。わかったぞ!」
と、畑の真ん中で仁王立ちし、天下を取ったよーな気分になる。

期待する=失敗
期待しない=成功

期待すれば失敗するのだから、期待しなけりゃ成功すると思い込む。
だから、「期待しないぞ。期待しないぞ。野菜にじぇったいに期待しないぞ!」と。

でもこれ、フリ。ほんとはおもいっきり期待してるw

そーゆー心のふらちさは、この世は丸っとお見とーしなのだ。
だからチーットも育たない。

じつはこれは取引。
こうやるから、こうなれという商人的手法。お駄賃上げるから、これやっときなさいみたいな。それは相手をコントロール下におこうとする行為でもある。

そんなちょこざいな人間の行為には、自然界は「ふんっ」と、顔を背ける。

じゃあ、期待しないことをどうやってやればいーのよ!と、ぶち切れるやまんば。

「期待しない」は、「しない」ことをすることじゃない。
「しない」は、する行為をやめることじゃない。
それはただ「落ちる」もんだとおもう。
「手放し」もそうだとおもう。
手放しをするんではなく、かってに手が開いてしまうもんだとおもうんだ。

「手を開いたぞ。どうだ?どうくる?」
と言って、開いたことで、結果を待つことじゃない。


ただ落ちることに取引はない。その先の結果などかんがえもしない。見届けることもない。

そういう心の状態は、意図してできないことでもある。
それはただふいにやってくる。

けれども、それを意識することは出来るように思う。
自分の心の中に、これをすれば、ああなってほしいという取引がないかみる。すこしでもあれば、それをとりのぞくことなく、ただそれに気づく。
それのくりかえし。

畑もそうだけど、日常でも同じ。
日々の自分の行為に取引がないかみる。あっても、ただそれに気づく。おしまい。

何かの結果をつかもうとすると、何かをコントロールしようとする衝動が起こる。
つかんだものを、どうにか気に入るようにしたいと言う衝動。
それに気づく。

そして現象に任せる。
ことは勝手にやってくれる。
勝手に淡々と進んでいく。



私たちのあたまの中だけが、それに抵抗して苦しみを生んでいる。



絵:「コスモス」/coopけんぽ表紙イラスト


2017年10月5日木曜日

畑にコスモスが咲いた


畑にコスモスが咲いた。
イーカゲンな育て方なので、ナスと、キュウリと、コスモスが共存。

右下に見える黄色い花がキュウリの花。



地這いキュウリは、葉っぱの陰に隠れて、よく見ないと見落とす。あっというまに巨大なキュウリになっちゃうので、それは種取り用に黄色くなるまで放置。



ほらね。共存しちゃうと、こんな風にキュウリさんがナスの茎と支柱のあいだに挟まっちゃったまま、無理矢理育つことになる。

植物はよく見てると、だいたい南東の方向に進む。
キュウリの種を降ろした南東の方角にナスがあった。
やっぱりそっちに向かっちゃった。


畑2年目のナス。
種取り用に育つままにしておいたナスが巨大になった。茶色くなるまで置いておいたのを、種取りする。
水の中で白い実から種をほぐし出す。
なんとなーく美味しそうに見えたので、綿のようなナスの実を食べてみた。
う。。。うまい!
りんごのよーな、イチジクのよーな、フルーティで甘い味がした。


無肥料無農薬でナスを育てる関野さんの言葉をおもいだした。
「ナスは無肥料で育てると、りんごの味がします」
まさに!

このナスの種も関野さんところの種。
だんだんウチの無肥料の畑でも育ちはじめてくれている。

植物の縦横無尽さに、また感服いたしました。




2017年10月4日水曜日

さびしさもいいもんだね



秋。

夏の慌ただしさが過ぎ去って、金木犀のかおりが町を満たすころ、私の心は冬へと準備を始める。
心にすこしひんやりと、寂しさの風が吹き抜ける。大好きな金木犀と、寂しさの風。相反する感情が互いにバランスを取りながら、微妙な心を保っている。

寂しさは、心をぎゅーっとさせる。
そのぎゅーっとなる感覚が、心細くさせる。カラダもすこーし寒くなる。心はその不安定な状態からのがれようと、安心を求めて何かしようとする。
カラダをあっためようと、お茶を入れるかもしれないし、暖かい服を羽織るかもしれない。何か楽しい予定を思いだそうとして、心を暖かくさせようとするのかもしれない。

そして今朝、その寂しさの風がグッと吹き寄せた。
なにもしなかった。
心のぎゅーを感じながら、

ああ、寂しさもいいもんだな。。。
はじめてそう思えた。

ずっといやな感情を排除しようとして来た。
それがじょじょに排除ではなくなって来ている。

心の中をのぞくことは怖いことのようにおもえる。だけどじつは怖いことではないことを知る。むしろ興味深い。
この状況のとき、こういう反応と、感情と、無数の言葉を呼び起こすのだなと、自分の中でパターンを見始めるのは、自分の新たな発見だと思わないか?

寂しさもまたいいもんだね。
雨が降って来た。


絵:「山辺の道」


2017年9月29日金曜日

何も期待しない



細かいことや、難しいことはわからんけど、なんとなく、なんとなーくおもえるのは、何も期待しないってこと。

父の手術の結果も、畑の野菜の結果も、起こる出来事の結果も、なーんも期待しないってこと。

こうあってほしい。あああってほしいとおもうことを、そうあってほしがるのでもなく、ただその後に起こったことに任せる。。。というのかなあ。

結果は、ただ勝手に起こる。

けれども人は、その起こる前に、「こうあってほしい」と願う。
「願う」ことは美しいけれど、そうならなかった時に、哀しみを生む。
だから人は、こうあってほしいと願う。

ところが、起こる出来事は二つない。こうあったり、あああったりしない。
ただひとつだけ起こる。

どうあろうと、どう思おうと、ただひとつだけ起こる。

そのことに、手放しになる。

そのとき、自由になる。縦横無尽になる。

期待もしなければ、起こった時に、起こったことに対処する。
前もって考えなければ、そのとき対応する。

シンプルになる。

こころがそこにいる。



父の頑張り


父の3度目のがんの手術のために高知に帰って来た。

注:お食事中の方は、今日の記事はちょいとスルーして下さいまし。

2度目の手術の時に開けたお腹の筋肉がその後あるときパカッと割れて、そこから内臓が飛び出して来ていたのだ。このまま置いておいては皮膚から内臓が飛び出してしまうのと、腹の上にあった4センチほどの癌が皮膚に触れて、痛いらしいので、その応急処置として(にしてはすごい手術のよーに見えるが)緊急にやった。

「どや。すごいやろ」
手術の前日、飛び出したお腹をみせてくれた。
「すげー。これ、なに?」
「ここら辺が癌よ。ほんで、この下が全部内臓よ」
「ウソ!これが内臓??」
動揺する自分の心に気づきながら、でこぼこした父のお腹を触った。固い所が癌だそうだ。
「どーやってへっこますが?」
「癌をとって、両脇に開いた筋肉を引っ張るがよ」
「引っ張れるが!?」
「しらーん。けんど、引っ張れんかったら、人工のなんかを貼付けるらしいが」

癌以外の手術をあわせると、この5年間で4回目の手術。なんとなく慣れて来ているようにも見える。落ち着いた様子には見えるのは、娘へのええかっこしいか?

術後、外科の先生の説明を受ける。
オペ室から出てきたばかりの先生は、ドラマに出てくる格好そのまんまだった。
でかいがっちりした体格の、いかにも外科の先生ってかんじがした。
三日月型の金属のお皿を指さして、
「これが癌。これが痛みの原因。皮膚の下にあったからね。」
目の前には赤い血の滴る美味しそうな肉片が3つ。一見するとホルモン焼きの肉に見えた。
一番大きい肉片をはさみで触りながら、
「これが筋肉の下にあったから筋肉を寄せることができないのでとった。もうひとつは、やはり腸にくっついていたから、腸と一緒にとったがよ。これが腸。ほら、ここにうんこがあるやろ?」
はさみでうんこをぽろっと触る。
「おお!ほんまや!」
覗き込んでた身体が一瞬後ろにそる。
「腸は閉じました。ほんで、ここまでいじると、メッシュを入れるといろいろ合併症が起こるかもしれないので、本人の筋肉だけで、ガッチリ閉じました」

手術中の待ち時間に、病院内の広報誌で、この先生がアーチェリーをやってる記事を読んでいた。弓をぐーっと引っ張ってる写真をおもいだす。彼の「がっちり閉じました」の言葉に信憑性を感じる(笑)。
横で説明を聞いていると彼の存在の暖かさを感じる。にこりともせず、顔はかなり怖いが、なぜか安心感を与える雰囲気が漂っていた。

病室に戻って来た父は、ベッドが揺れるぐらいブルブル震えていた。冷たいオペ室の中で、術中はすっぽんぽんらしい。体温がぐっとさがる。術後直後は34、2度。からだは自らの身体を震わせて、体温を上げようとしているのだ。
電気毛布をかけ足をもみ、どんどん体温が上がってくる。30分ほどで平熱に戻った。

それにしても体中にチューブがある。ヘタに動くとどっかのチューブが外れる。
一部が横にある機械につながっている。
「この数字は何ですか?」
「これは心拍数です。その下が血液中の酸素濃度で、その下が血圧、そして。。。」
と色々教えてくれる。
その他、廃液を出すクダ、点滴のクダ、痛み止めのクダ、血圧を調節するクダ、おしっこのクダ、血を出すクダ、足のマッサージのコード、、、、あとなんだっけ?
もの凄い数のクダがあり、それを調節し、管理し、あっちに移動させ、こっちに配管し直し、なんなくこなす看護士さん。

人体を一カ所切ると、いかにバランスが崩れるか、そしてそれを元に戻すためにどれだけの労力を使うのかを教えてくれる。医療の現場では、この複雑なシステムを、間違いのないように日々こなしている。

ちっちゃいとき、
「大きくなったら、看護婦さんになる~」
などと、ちょっとだけ言ってた自分がおそろしい。
世のため人のためにも、ならんでよかった。

不安定な時期もあったが、だいぶ状態が落ち着いて来た。翌日起き上がった様子を見て、こっちに帰って来た。
電話すると、その後病院内を歩いたようだ。

父は頑張り屋さん。目標に向かって確実にそれをこなしていくタイプ。
何度かの手術のときも、人並み以上に頑張って医者や看護士を驚かせて来た。
今新たな目標をもった。退院すること。
きっと彼のことだから、あっというまに退院することだろう。

さて。
その次の目標は?(笑)



「不屈の人黒田官兵衛」/MF新書表紙イラスト



2017年9月21日木曜日

なにすんねん!2


きのうの怒りについての続き。

数学的に怒りを解消する方法や、言葉で怒りを解消する方法以外にも、別な解決法がある。
スポーツやって気を紛らわせる?友ダチにグチる?飲んで忘れる?
ちゃうがな。


怒っているとき、からだはどう反応しているだろうか。
心の中を見ることが出来たら、今度はからだの中を見てみよう。
あたまの中がぐちゃぐちゃ言ってるのはほっといて、
ソファにでも座ってくつろぎ、からだにフォーカスする。

まず、怒る自分に許可を与えてあげる。
「怒って、ええで

ただじっと座る。怒った感情をそのままに、自分の身体を観察する。
CTスキャンみたいに、頭からスキャニングしていくでもいいし、
胸のあたりを意識してみるでもいい。

不動明王みたいに、体全体が燃えてる感じがする?
みぞおちが重たい?
反対に寒気がする?
足ががくがくする?
胸の所が、ぎゅーっとねじられている感じがする?
なんかいてもたってもいられないような、落ち着かないかんじ?
ワナワナ震える?

あんまりこうやって自分の身体を見るって経験ないとおもわん?せいぜいからだが痛いときぐらいじゃないかな。ほんとはね。これがほんとのじかの体験なんだ。頭はそれにいろんな解釈を与えて、ドラマチックに展開させているだけなんだ。



私がはじめて自分の怒りを見たとき、全身がカアーッと熱くなっているのに気がついた。胸から後頭部を通って、頭を抜けていく熱いエネルギー。

「なんだこりゃ?」と思っていると、そのエネルギーは腕に移動し手の先に向かい、何かを叩きたくなる衝動が起こった。
「ははーん。人はこれで他人を殴るんやな」と納得する。
そして今度は足先に向かってエネルギーが移動。
「ほほー。これで何かをけりたくなるんやな」と納得。

いつのまにか、怒りは怒りを与えた相手に向けられるのを忘れて、自分の中で起こっている壮大なエネルギーの感覚の観察に夢中になっていた。

やがて消えはじめるエネルギーに
「イヤイヤ。もっと怒ってええで」と、催促する。
しかし催促しても、あおっても、再びあの怒りを再現しようとしても、
ピタッ。。。。。。とやんだ怒りは、再び戻って来なかった。

「なんや。怒りって、単なるエネルギーやったんや。。。。。」


私たちは自分の中に起こるあらゆるエネルギーに、名前をつけた。
これは怒り。これは哀しみ。これはよろこび。これは不安。これは恐怖。。。。

それぞれにこれは味わってもいいけど、これは味わってはダメと良い悪いと区別した。
自分の中に自然と現れてくるエネルギー。それをいい、わるいとレッテルをはって、受け取ったり、受け取らなかったりしているのだ。

現れたエネルギーを受け取ると、消化して消えていくようだ。
受け取らないと、ズーーーと居続ける。クローゼットの中にムリヤリしまいこんでも、あるものはある。だから似たような事件が起こって、似たよーな感情がわきおこっちゃうのだ。同じよーなことでいつも怒ってない???

でもこの世の中はうまいことしてくれているもんで、その人にあったタイミングで、ちょうど良い時に、出来事は起こる。だから見れないときは見れないで良いし、怒りをためていることをいけないことだと思わんでよろし。

頭で考えても解決できないものが、からだを感じて、からだの反応を受け取ることによって、今まで気がつかなかったアイディアや、それを起こした原因が、腑に落ちたり見えて来たりする。これがどうしてこうなるのかは、まったくわからない。

そして、こっちの怒りが消えていると、相手の中にも怒りが消えている。どうも同時進行にうごくようなのだ。これがこの世は投影と言われるゆえんなのか。

いくら相手に対する怒りを抑えていても、心で煮えくり返っていたら、相手はいつまでも、こっちの気に入らないことしかしない。
けれども、こっちの中の怒りが完全に抜け落ちると、事態は真反対になる。
そういう体験を何度もするうちに、これはマジかもしれない。。。とおもったしだい。


自分の感じていることや感情を淡々と見てられるか。それをおもしろがれるか。
そんな所にヒントがあるように思える。

長くなりました。
怒りについてを自分なりの考えを書いてみました。

大事なことだから、二度言います。
真に受けないよーに。




2017年9月20日水曜日

なにすんねん!




今日は怒りについてちっくと書きます。

今んところ、私が感じる怒りについてです。
まちがってるかもしれんので、真に受けないよーに。


怒りがおこる理由は、防衛本能やとおもう。
何にもなく、いきなり怒る人は竹中直人ぐらいちゃうか。(それは笑いながら怒る人)

たいていは、誰かに何かを言われたり、されたり、見たりして怒る。何かの出来事に触れて、怒りがわきおこる。
なんで怒るかっちゅーと、その見たものが、その人の何かに触れるからや。

何かとは、言葉。
ある観念があって、それに反するものに抵抗をする。こうであるべきなのに、そうならない誰か、そうなっていない現実、そういうものに反応して抵抗する。
もちょっと掘り下げると、死に直結する感覚が起こるので、死を回避するために、自分の身を守るために起こる反応が怒り。
これが瞬時に起こる。

崖で、自分でこけそーになって怒る人はいない。
崖で突き落とされそーになって、はじめて怒る。「なにすんねん!」


ネガティブな感情は出してはいけないというオキテがわしらの中に根強くあるので、特に怒りなんかは顕著にあるので、なかなか自分の怒りをみようとしない。怒りを見ようとしたとたん、それを止める衝動も起こる。そういうことにも気がついてみよう。

いかに自分に「正直」でいられるか。
それが自分の中を見る必須条件。
そしてそれに心が反応していることにも気がつく。「いけないっ!」とおもっている自分に気がつく。
ほんとは自分の心を見ることに、いけないことなんかない。むしろみていったほーが、「なーんだ。こんなことだったのか」ってなことになる。

「今、怒ってるでしょ」
「いや。そんなことない」
「ほんとに?」
「んー。。怒ってはいないよ。ちょっとイライラしているだけだよ」

イライラも、ムカムカも、むっつりも、不機嫌も、ありえない!も、怒り。
人は自分を守るためにそういう言葉で自分をごまかす。
そういう自分に気がついてみよう。


ためしに他人が怒っている所を観察してみる。
その人は自分の意見を正当化しようとしてないだろうか。いわれている相手もまた自分を正当化しようとして、戦ってないだろうか。
どっちもお互いの意見を主張し合ってケンカしている。
それが見れたら、今度は自分の怒りも見てみるとおもしろい。自分が怒る理由を、口に出して、または心の中で言いまくっているはずだ。

これ、怒って当り前。だって、それぞれ生まれて来た環境、育った環境、親の教え方、生きて来た過去、ぜーーんぶ違うんだもん。同じ環境で育った兄弟でさえケンカする。むしろそっちの方がえぐかったりするんだが。

とゆーことは、これ、言い合ったって、解決の方法がないんだ。どっちかがどっちかに妥協するとゆー消極的な解決法、または足して二で割る算数みたいな方法しかない。
ときには天から降って来たよーな、神的解決法が見つかるときもあるが、まれ(笑)。


長くなりそーなので、この次、別バージョンの解決法、書いてみます。
解決法なのかどーか、わからんが。




2017年9月17日日曜日

「ん?」って思えたら、チャンス到来



人にレッテルをはるとき、それは快感。

「あいつは、ああいうやつだ。。。ふっふっふ。。。」

人にレッテルをはるとき、それは恐怖。

「げ!あのひとったら、ああいうひとなんや!マジ!?こわっ!」

人にレッテルをはるとき、それは不安。

「あのひとは○○なのね。。。。ああ、将来が不安だわ、どうしよう。。。」

レッテルってたいていネガティブ。

ポジティブなレッテル、たとえば、
「あの人ったら、とーってもいいひとなのよね~~うんうん。」
と、毎日考える幸せなお人はあんまりいない。

どっちかっちゅーと、いやーなレッテルをはって、毎日確認する(笑)。

思考は問題定義が大好き。やなヤツ、やなことを思いだしては、いやーな気分になって「問題解決」にいそしむ。
それが思考としてのゆえんだからだ。


政府でもゴシップネタでも何でも、なんか「問題」を見つけてくると、ぶつぶつ言ってる自分っていないだろうか。
「ったくよお。なってねえんだよ、政府は!」とか
「やっぱりな。あの女優、なんかやらかしそーな顔してたんだ」
とか、言ってね?(わしは言っとったw)

そん時の自分って、上から目線。何でも知ってるかのよーな口ぶり。
しかしそこには何の解決法もない。テレビに向かってぶつぶつ言ったって、自分の気分がいい気分になったり、いやーな気分になったりするだけ。

それと似たよーなもん。
だ◎なにレッテルはったら、上から目線になれる。
「あんたのことは何でもまるっとお見とーしよ!」
と、捨て台詞を吐いて(心の中で)、ふんっ!と鼻を鳴らしても、
テレビに向かってぶつぶつ言ってるのと一緒。
気分がムカついたり、勝ち誇ってみたり、もっとイライラしたり、やっぱりいやーな気分で終ってしまう。

なんつーか、ただ不幸な気分が倍増するだけなのじゃ。
それはある意味、生きている実感が得られるよ。
自分と他人がガッチリ分裂して、
自分はここ!相手はあっち!って、ガチ勝負が出来る。
ひゃっほーう!

物語は、いつも不幸からはじまるのじゃ。
問題だらけのだ◎なと暮らす、不幸な私~~。
ドラマちっくを味わうには、最高のシチュエーション!
ジェットコースターに乗って、アップダウンを楽しめる。
それもまたよし。


んが。
耳元で思考がいつもささやく「問題」に、
「ん?」って、気がつけたら、
その時が別の次元へのチャンス到来。

ドラマチックなじぶんの人生に
「そろそろ飽きたなあ~。。」
と、思いはじめたら、チャンス到来。


いつも聞こえてくる「声」を、引いて聞いてみそ。

ひょっとしたら、あんがい似たよーな言葉ばかりしゃべっているかもよw



2017年9月16日土曜日

千社札「ぱっ!」



こないだっから、レッテルはるのをやめてみている。
自分のもそうだけど、人へのレッテルもやめてみた。

だんなへのレッテル、かーちゃんへのレッテル、人へのレッテル。。。
くわー、いっぱいあるわーーー。
お寺や神社にべとべと張ってある千社札みたいなもんや。
あるわあるわ。はり過ぎて、その人が見えなくなるくらい!

千社札は、あれは「おれ、参上!」って意味らしいけど、
レッテルはりは「おまえ、これ!」って意味やな。

んで、その千社札。。。あ、ちがうわ、レッテルはりは、その人の存在感を強くする。

「あいつはああ言うヤツや。。」と、レッテルをはる。
そういう色眼鏡でそいつを見るから、そのように見える。
で、「ああ、やっぱりそうや。。」と、確認する。
そしてまた次も同じようにそれを見て確信し、
さらにそのレッテルはずしりと重く、
びくりともしない不動のものとなる。

最初は紙で張っているレッテルも、だんだん信憑性を帯びてくると、厚紙になり、木になり、レンガになり、鉄板になる。今度はそれをコンクリで固め。。。。
てなかんじ。

じつはその重ーいレッテルも、気のせい。
そのよーにみてるから、そーみえているだけなのじゃ。

相手に与えているレッテルを、「ぱっ」って、消してみる。
親指で人差し指と中指と薬指をおさえといて、いきおいよくはじくように、手をひらく。
「ぱっ!」

そこには相手に対して、なーんも知らない自分がいる。
相手は、何だか軽い存在になってる。それでも視覚の中で動いている。その動く様子に、何の解釈もなくなっている。けどことは勝手に起こっていく。


相手にレッテルをはっていると、重くて存在感があり過ぎで、心の中をいろんな思いがめぐっていたのに、「ぱっ」とときはなつと、軽くなる。相手が視覚の中で何をしようと気にならなくなっている自分に驚く。

なーんだ。
相手の問題じゃなかったんだ。
自分がただ重くしていただけだったんだ。

「ぱっ!」


絵:「ミステリマガジン」扉イラスト

なんでこれを出したかって?
なんとなく。。。w




2017年9月14日木曜日

今日の一枚「ドイツトウヒ」


今日の一枚。
「ドイツトウヒ」

我が家の庭に、年々巨大化する一本の樹があった。
ドイツトウヒ。

アルプスの少女ハイジのお家の後ろにある巨大な樹。あれあれ。
引っ越して来たころは、小さな樹だったのに、12年このうちに住むうちにどんどん成長して、庭全体をおおいつくさんばかりになった。
台風が来て倒れたらえらいこっちゃ。気になってしょうがなかった。

ある日、家に帰ると、庭の様子がちがう。なんだかすっきり。
なんとダンナがあの巨大な樹の枝をことごとく、たった一人で切ったのだ!
さすがに根元までは切れないようで、そのまま放置。

しばらくして、その樹に山芋のツルが登って来た。
命を全うしたドイツトウヒは、今淡い若草色の衣装をまとう。
その姿が美しい。思わず絵にする。

素材/和紙、水彩、色エンピツ、オイルパステル


わしらは背中にいろんなもんを背負い込んでる



私たちは普段、無意識に自分にレッテルをはって生きている。

私はイラストレーター。
私はおんな。
私は日本人。
私は56歳のおばさん。
私は畑をやっている。
私の収入は少ない。
私にはダンナはいるが、子供はいない。
等々。

そのレッテルをいったんはずしたらどーなるのか?
ふとおもいつき、変な実験を開始。
今、ここで、何のレッテルもない私。。。。

。。。。。

。。。。。?

。。。。。。。。。!

なんと。
何が変わった?
何の問題もなくなったのだ。

心配事も、気になる問題も、将来の不安も、誰かにあるうっぷんも、
消えた。。。。。

そのとき感じたんだ。
わしらは、背中にいろんなもんを背負い込んで生きているんだって。

車の助手席に座っているとき、
「私はイラストレーター」と考えなくてもそこに座ってられる。
「私はおんな」と考えなくてもそこに座ってられる。
「私は日本人、56歳のおばさん、畑、収入少ない、ダンナはいるが子供はない。。。」などと考えなくても、私はそこに座ってられる。。。!
なんてえこったい!
座ってられるじゃあないか!

なのに、無意識にレッテル張りが行なわれている。
「ああ、私はイラストレーター。。。なのに、収入が少ない。。。ああ、どうしたらいいの?そうだ。先日出したスケッチの返事が、まだピーターから来てない。。。ああ、直しが来るのか?それとも私のスケッチがひどくって、今ごろ仕事がポシャっているのかもしれない。。。また収入が消える。。。あああ。。。」
などと、車の助手席に座りながら考えるのだ。
これって、考える必要があるのか。
そこで考えて何になる?


人は考えて何かをする、考えたからこそ、いいことができると思っている。だからつねに考えようとする。しかしやまんばは実験した。結果、考えたっていいアイディアなんてほぼ浮かばない。考えのほとんどはネガティブなことばかりだった。ネガティブが浮かぶと、あせる。あせって行動をする。ろくな結果が出ない、を繰り返していた。

そして今車の中。
今ごろ仕事がポシャって。。。。と考える意味がどこにあろうか。むしろそれでどれだけ心の疲れを引き起こしているか。そこに建設的なものなど皆無だ。
それはただ自分をいじめているだけだった。

だから、レッテルをはっている自分に気がつき、それをはずした。。。。

夜寝る前、思いだしてまた実験。
そこにはなーんの問題もない。布団の上で座っていることに、何のレッテルも必要なかった。
ただ、そこにいる。
それだけだった。痛快だった。



朝、パソコンを開けてメールチェックをする。
NYのピーターから直しのメールが来ていた。

またいつものレッテルはりがやってくる。
「ああ、やっぱり直しか。。。私のアイディアが悪かったんだろうか。。。アートディレクターは、私の才能なしにあきれているんだろうか。。。やばい。はやくやらないと。。。!」

「おっと!また同じパターンにはまってらい。
レッテルはり、なしね!」

レッテルはりは、過去をつねに連れてくる。
あのときあれが失敗だった、あれをもししなければああはならなかった。だからあれを繰り返さないようにしないと。過去を振り返って、直していくというのが今までのやりかた。

しかし今はそのやり方に疑問を感じる。もうそれは散々やった。それによって、過去の失敗に引っ張られ、過去を背中に背負い込んで、重たい背中で事を進めていた私がいた。


過去は過去。
今は今。

透明になって、今を生きましょ。