2017年12月10日日曜日

「わたしの」をとってみる


見えてみるもの、聞こえてくるもの、感触、匂い、味わい、
みんな、外にあるもの。
だから自分じゃない。

でもあたまの中で聞こえてくるもの、
こころの中で感じるいろんな感情、
かなしさ、うれしさ、いかり、いらいら、しっと、
そして考え。

それは自分の中から出て来るから、自分が感じた、
自分が考えたっておもってる。
じつはそれも自分じゃない。
だって、それも「観ている」からね。
観ているってことは、自分じゃないのさ。見えてるからね。


外側のものも、内側のものも、
みんなわたしのことじゃない。
じゃあ「わたし」はどこにいる?

どこ、なんて場所はない。
どこにもいないんかも(笑)。

ただ存在する感じだけがある。


わき上がってくる感情を、自分のものだと思うのをやめてみる。
「わたしのかなしみ」というところの、
「わたしの」をとってみよう。

痛みのあるカラダを、自分のものだと思わずに、
「わたしの痛み」といわず、
「わたしの」をとってみよう。

そこには、ただ「かなしみ」があり、「痛み」があるだけだ。

それを否定もせず、ただそれとともにいよう。


すべてのものは、現れてはやがて消えていく。





2017年12月7日木曜日

自我ちゃん自販機



寒い朝、布団の中で目をさます。

「おきよっかな?まだイヤだなあ。。。
起きる?いや。まだ、もーちょっと。。。
起きる?んーーーーと。。
あ、起きよっと!」

と、ガバッ!と起き上がる。
そのとき、ふと思った。

あれ?これ、「起きよっと!」って、思ったから起きたんかな?
ひょっとしたら、カラダが起きようとしたのを自我が気づいて、
「あ、起きよっと!」って、あとづけで言ったんちゃうか?
ってね。

自我は後だしジャンケンっていわれるけど、こゆこと?

最初にカラダの動きがあって、その後で、さも自分がやったかのよーに、
「わしが起きよーと思ったから、カラダが起きたんじゃ~」
と、いけしゃーしゃーというやつ。
どっかにそんなやついたよなあ。

えーーーー。
マジ?

そーいえば、なんで目をさましたんや?
どーやって目をさますんや?
自我が「自分」だとしたら、どーやって、自我が自分で起きるんや?
それまで自我は意識もなかったはず。。。

きっと自我に言わせれば、「わしが目をさましたんや!」と言うだろう。
けど逆だったら?
カラダが目をさまし、自我が動き出すとしたら、自我が自ら動いて目をさましたわけじゃないやんけ。

カラダが目をさまして、自我が自動的に動き出したんじゃね?受動的に。
まるで自販機が100円入れたとたんに動き出すよーに。

今日も自我ちゃんは、自動的におしゃべりしている。



2017年12月2日土曜日

心の中が暴れている


絶望と葛藤の中にいた。

なんでわたしがこんなことをしなけりゃいけないんだ!?

三十数年間の自分のキャリアがもたらすプライドが、現実と戦い合っている。

ふざけんなよ!

と、その場で投げ捨てることもできるかもしれない。

それをしないのは、勇気がないから?空気読まないといけないから?

だがそこでちゃぶ台をひっくり返すのは、その場でやって気持ちがいいだけのことをやろうとする幼い意識だ。

力づくは、その状況を覆す力がない。
物理的なものをこちらから変えようとしても、その場しのぎなだけで、また同じような状況がやってくる。

この私の中の何かが変わらないと、外の現象は変わらない。



心の中の自我は訴えまくっていた。
それをもう一人の私が聴いている。

もうやめてくれ。
たくさんだ。
イヤだ!こんな状況は耐えられない!
死んだ方がましだ!


「君は今、あばれているのだね。
いいよ。あばれても。」

そう、もう一人の私は言った。

心の中は荒れ狂った。
言いたい放題言いまくった。
ここで書けないようなことも言いまくった。

心はすさまじい嵐の中にいるのに、私の動きはいつもと変わらない動きをしていた。



不思議なことに、カラダは疲れなかった。
それは心の中の思いを、そのまま受けとめていたからだろうか。

人は心の中であふれてくる残酷な思いを、思ってはいけないと封じ込める。
悪いことを考えたら、悪い事が起こるというような、信念があるからだろう。

どっちにしろ、自分のことしか考えてない(笑)。
他人のために封じ込めているわけではないのだ。

そういうもろもろの信念がある故に、人は自分の中からわき上がってくる感情を無意識におさえこむ。
出ようとするものをおさえこむのだから、それなりに力を使う。
いや。かなり力を使っている。

もぐらたたきで、もぐら(感情)がひょっこり顔を出してくるのを、ぽんぽん叩いて封じ込めるが、そのうちいちいち叩くのが面倒になって、その全部を手でずっと押え続けているようなもんか?


私は私の中にある感情を正直にみはじめてから、いろんなことが起こっている。

生まれてからいろんな観念とともに生きて来た。それに気づきはじめると、玉ねぎの皮を剥くように、その観念がはがれはじめる。
と同時に、あらゆる感情に気づきはじめる。それは苦痛でもある。

こんなおもいまでもっていたのか!という、見たくない自分も見る事になる。
そして、自分とはこういう存在と思っていたものまでが、はがれ落ちはじめるからだ。

なじんだ性格、なじんだクセ、なじんだ感情、なじんだ考え。そんなものが崩れはじめると、元に戻ろうとする作用が働くらしい。それをホメオスタシスというらしい。

そういう苦痛の経過を受け取ってもらえる存在がいるのがありがたい。


どこに向かっているのか。
どこにも向かってないのか。
ただ思いだすだけなのか。

なにもわからない。
ただ、このまま進むのをうながされているのはわかる。










2017年11月30日木曜日

夜、裸足で庭に出る


寝る前に、窓を開けて裸足で縁側に座る。

冷たい大地と足の裏がかかわり合って、次第に暖かくなってくる。
夜空を見上げる。雲の切れ間からお椀型の月がのぞく。
目がしだいに慣れて来て、目の前の漆黒の闇がかすかな樹々の姿を映し出す。

私は深呼吸する。そっと目を閉じる。感覚の中に入る。
今どんな感じ?

ほおに当たるかすかな風が冷たい。
足の裏で感じる大地との感覚が、ちりちりする。
と、同時に、手の中もちりちりとしはじめる。
石の上に座ったお尻から背中にかけて、ジーンと冷たい。
でも膝かけの中の足はあったかい。

感情は?
わからない。
不安? いんや。
怒りは? ない。
さびしさは? ないなあ。
かなしみは? ちっとも。

では、しあわせ? う。。。わからん。
じゃあ、不幸せなの? それはない。
じゃあ、今の感情は?
わかんない。。。

何も感じないの?
なにも。。。
ただ、、、しずかなだあ。。。

その後ふとんに入っても、その感覚のままでいる。
この感情はなんだろう。
何も感情がないってことは、幸せなのだろうか。それとも不幸せなのだろうか。
そのどちらでもないのだろうか。

この感情は、何も名付けられない感情は、いったいなんだろうか。

しばらくは布団の中でその感覚のままいた。
そしてゆっくりと無意識に落ちて行った。




絵:「虎の尾」/和紙、水彩、オイルパステル


2017年11月29日水曜日

手応えない感じw


ここんところ、あまり更新できない。

なんかね。
微妙な変化がおこっているんだけど、それを言葉にすると、ウソくさくなっちゃって。
でもあえて言葉にしてみると、

そうか。なんでも、これでいいんだな。
ってかんじかな?

めっちゃ、手応えないってゆうか。。。(笑)



自分の中に次々とわき起こってくる、感情や言葉。

それが自分の中から出てきたものだから、自分が考えたと思いこんで、それに乗っかって来た人生。

そののち、それに振り回されている自分に「ん?」って気がついて、それを今度は観察すると言うことをし始めた。

そうすると、あるパターンがあることに気がつく。
いつも同じ感情や言葉がわき起こっていて、それに心が動揺し、それをなんとかしとうと焦って行動するというパターンに。

それに気がつきはじめると、それを感じる自分と向かい合うことになった。

心はいつもの感じで突っ走ろうとする。
しかし観察する意識が、その突っ走りを100%にしない。どこかでブレーキをかけはじめる。
アクセルとブレーキを同時に踏んでいるかんじ。

キーキーと音をたてて、その場でバクソウする。
いや、時には、そのまま突っ走る。

そういう行ったり来たりが起こりはじめ、混乱する。動揺する。
そしてまた動揺する自分に気がついている自分、それら全部をひっくるめて、駄目だしする自分。

不快の中でもうろうとなる。
そういう時期をしばらく過ごす。

だが、じょじょになにかが変わりはじめた。
じょじょに。かすかに。ゆっくりと。

そして今は、そういう自分に、これでいいんかもしれない。。。とおもいはじめている。

生まれて来て、いっぱいいっぱい身につけて来た観念。
その観念をひとつひとつはがして行く作業は地味だ。
いや、はがしていくのではないなあ。
はがれていく、というほうがあってる。

ラフがうまいこと描けない。どうしよう。時間がない。
焦る自分。いつものように駄目だしする自分。

だが。
前の自分とはちょっと違う。
自我は、ただウソの言葉を発するだけなのだ。
事象は、勝手に起きている。
ことは勝手に進んで行く。

ことが進む過程で、あーでもない、こーでもないと言い続けるのが自我の言葉。
その言葉に乗っかって、「そうだ!時間がないのだ!」と、
そのまま鵜呑みにしておおさわぎをするのもいいし、
「あ、いつもの言葉ね」と、
気にしないで、ほっておくのもいい。
どちらでもいい。
そう思えてくる。
だって、ことは勝手に起こるだけなんだもの。

「自分」が何かしているわけじゃないんだもの。

ね?
なーんも手応えないでしょ?(笑)



2017年11月25日土曜日

ある朝



朝起きた瞬間、感覚の中に、わずかにひゅっと冷たい風が吹いた。

「あ。。。。」

ほんのわずかな瞬間だったが、自分がずっと持ち続けていた緊張、それが起こる瞬間をとらえたのだ。

この感じ。。。ちいさいときからあった。。。

それはこの社会に生まれて来て、一人で生きていかねばならない、一人で頑張らねばならない、という孤独感と、身震いするような緊張感。

どういうわけか、気がついた。

気がついたとき、もうそこにはいないことに気づく。
緊張感を外から見たからだろう。
その中にいると、気づくことはないのだから。



あの緊張感は、ぎゅっと固められるような、突き放されるような、寒い所に放り出されるような感覚。孤独な幼いつくしちゃんは、その吹きすさぶ嵐の中を、ひとり立ち上がって歩いて来たのだ。

非二元的に言うと、これこそが分離の意識なのだろうか。
それまで一体だった母親の胎内からでて、一個の独立した存在としてこの世で動き始めたその孤独感と緊張感。

それから間もなくして、この社会の形を知り、その残酷さと暖かさの両極を観る。
分離した意識は、残酷さの方に重点が置かれた。
この残酷さをどう乗り越えるのか。
この嵐の中でどう生きていこうか。
そう、必死で考えてきたのだ。

そう。まじめに。深刻に。この世をとらえてきたのだ。


だが、その深刻さが、だんだんゆるんできた。
この世は、そんな深刻な場所じゃないんじゃないか。。。そうおもいはじめている。

そんな矢先の、朝のあの感覚だった。




2017年11月22日水曜日

あたまの中の音を聴く



川の音を聴く。
あたまの中の声を聴く。

川の音は聞き流す。
でも頭の中の声は、聞き流せなくて、その声に乗っかる。

なんで?
それは「言葉」だから。
でも言葉も「音」なのにね。

「か、わ」という二つの違う音なのに、
人はその音を聴いて、川をイメージする。
時には靴をイメージするかもしれないが。

どっちも聞こえる。
けどあたまの中の音は、意味をもつ。
川の音には意味がない。
だから意味がある方に気がとられる。

外から「ばかやろう!」と、音が聞こえたら、
そくざにそこに耳を傾ける。

外から「ザーザー!」って、聞こえても、
ん?ておもうけど、
「雨か」といって、それを聞き続けることはしない。

ひとは「ことば」に気を取られる。
頭で鳴っているだけの音に、意味をもたせる。
そこに世界を広げる。

目の前にはパソコンの画面が見ええているだけなのに、
明日のことを思い煩い、
今どこかにいるだれかさんのことをきらっている。

あたまの中で、ただ鳴っているだけなのに。
あたまの中で、浮かんで来ただけなのに。
それが真実のように思えて、その中に入り込む。

川の音は聴かない。
頭の声は聴く。

そうやって、頭の中の声と戯れ続けている私たちがいる。




2017年11月8日水曜日

自我のトリセツ


あったかいお風呂につかる。

カラダを感じる。心臓がばくばくしていてるのを感じる。皮膚がぴりぴりとしているのを感じる。体全体に圧迫を感じる。と同時にちょっぴりの浮遊感。

皮膚とお湯との接触部分をかんじてみる。何かわからないけど、何かが何かに触れている感じはする。。。と、おもっていたら、
「あれ?熱は?あったかいはずなんだけど。。。。」
そこに熱はなかった。
あったかい、さむい、は、観念かのかもしれないとおもった。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とゆーではないか。

んで、感覚の中にいると、感覚って微妙なもんなんやなあ~とおもう。そのわずかななにかに、「熱い」という言葉を付けたとたん、そこに温度が生じる。「寒い」もそうだ。「寒い寒い」って、からだを震わせたら、もっと寒くなる。

私たちはこの微妙な感覚にアレコレ名前をつけた。その名前にいいとか悪いとか判断も付けた。そうやって、たくさんの言葉が私たちに生まれた。

あたまの中で動いているものは、言葉だ。
お風呂につかりながら、今日はああだったと思いだし、にっくきあいつの事を思いだし、明日どうしてやろうと策を練る。
はたまたこれから私はどうなるんだろう。。。と未来を心配する。

今、私はあったかいお風呂につかっているのに、心はここにいない。怒りや不安や嫉妬や焦りや悲しみなどの、不幸の中にいる。
今、そこに不幸があるのか?ない。なのに、心だけが不幸だ。

それが思考のしわざ。
私たちは考えの中に没頭する。
不幸を味わう。


その思考の仕組みを懇切丁寧に解き明かしてくれているブログがある。

自我、つまり思考の塊は、私たちにいろんな影響を与える。人生をドラマチックにするのは自我のおかげだ。

その自我は私たちの一部で、けして悪いものではないが、その取り扱い方をあまり自覚した事がないのではないだろうか。
そもそも学校でそんなものの扱い方を習った覚えはないし、ましてや親に教わった事もない。

思考は自分の中から出て来る事なので、自分が考えたと思うし、その思考は自分の味方だと思っているので、その扱い方などと言うことは考えた事もないのかもしれない。

だけどこれだけ精神的な問題が浮上して来ている今、私たちは自分の中でおこっていることが、いったいなんなのか、調べてみる必要があるように思う。

心の時代と言われてずいぶんたつが、今のところ、その共感だけにスポットが当てられているだけで、その自我がどんな動きをして、どんなふうに人に作用するのかをしらない。

そういうことをわかりやすい言葉で、やさしく教えてくれている。


絵:「バスタブとゴースト」ペーパーバック表紙イラスト




2017年11月6日月曜日

野菜涅槃図

伊藤若冲「野菜涅槃図」

大仏様と涅槃像。

日本では大仏様が座禅を組んで、手を庶民にかざした状態で凛として座っておられる。庶民はその手からでてるであろうパワーをありがたくちょうだいし拝む。

一方、南アジアの方では、あろうことか、大仏様は全身脱落系でのほほーんとしたお顔で寝っ転がっておられる。
そこでも庶民はその様子をありがたくちょうだいし拝む。

このちがいはなんなん?

なんでも、座禅系の仏様は修行中の身、ねっころがっているのは涅槃の境地、つまり悟ったあとのお姿なのだそう。

庶民を救うために修行する仏様を拝むか、涅槃の境地にいっちゃった仏様を拝むかの違いは、これ、民族的な性格があるんかもねー。

南国生まれの南国育ちのわたしとしては、お日さん西西的な、寝っころがった仏様の方が好き。。。
いや、今だからそう思えるのかもな。

それまでは探求、修行、苦悩、努力、達成。。。そういうふうに力込めてがんばってたので、仏様も修行中のお姿のほうが神々しく見えてたな。

けどこのごろ力が抜けて来ていた矢先、ある人からお聞きして、あるブログに出会った。
まさにその名の通り「涅槃の書」
とんでもないブログだった。
教えてくれた方に、感謝感謝です!
興味のある方は、600本あまりある無料の記事を読んでみて下さい。最近のはお金がかかるので、グーーッと下の方、最初のころのから読まれるといいかもしれません。

どこのどなた様が書かれたブログかわからないんだけど、小さいときから疑問に思っていた事が、読み進めるうちに、どんどんあきらかにされていく。
なんだあ。そういうことだったのかあ。

そういう目線でこの世を見ていくと、非二元の大御所が、口すっぱく言ってる言葉が、
「あ、これのこと?」みたいなかんじで理解しはじめる。

やっぱ、うまくいえんなあ。。

ことは勝手に起こってる。
それにアーダコーダいうから苦しい。
目の前に展開する出来事のまんま、受けとめる事にします。

無駄なテイコーはやめます。
鼻ほじって、寝っころがることにします。



絵は、大好きな伊藤若冲の「野菜涅槃図」(京都国立博物館所蔵)。

真ん中のダイコンが涅槃の境地になっている仏様。
一見ふざけた絵みたいだけど、深い。
若冲のお母様が亡くなられた直後に描かれた絵なんだとか。
しかも若冲は八百屋の店主だったとのこと。
きっとお母様はたくさんの人々に見守られて涅槃の境地に行かれたのだろう。
いや。きっと若冲は、その姿に涅槃を見たのだ。


2017年11月4日土曜日

たら幸せ♥


問題が起こる。
不幸な気持ちになる。最悪の気分になる。

心はその問題を解決せねば!とあせる。

心はその問題が解決さえすれば、今の不幸な気持ちは消えて、幸せになれるとおもっている。

そして奮闘する。

そして、、、やがて解決する。

いや、私の場合は、奮闘しなくて、解決した。
静かにしてたら、勝手に解決してた。

どっちでもいいや。

そう。問題が解決する。
すると、一瞬だけ不幸が消える。
ああ、よかった。。と安堵する。
だがそれだけだ。

その問題が解決したあとは、幸せでもなんでもない。ただの日常が続いていくだけだ。
そんな問題はなかったかのように。

そしてまた「問題」は発生する。
それを解決しようと躍起になる。
この問題さえ解決できれば、私は幸せになれるのだ!と。
そして問題はやがて解決する。
それで、幸せになったか。
べつに。

銀行からお金がおろせかなった。あせる。
これからあそこからおろせなかったらどうしよう!
あのお金さえおろせれば、私は幸せだ!と、おもう。
しかし後日簡単におろせた。
で、心は幸せになったか?なってない。
別の通帳にお金を入れる。そこでお金が増えると想像する。心はうれしがる。
で、入れる。
心はうれしがったか?べつに。

このまま行くと、お金が10倍に増えても、増えるまえにうきうきするだけで、実際増えたら、ふつーになるんだろうな。きっと100倍になっても。


とゆーことは、わしは、こうなってくれたら幸せというものは、つかんだとたん、ふつーになっちゃって、いつまでも幸せ感をつかめないじゃないかー。


スーパーでおいしそうなケーキをながめる。
食ったらうまかろうなーとよだれがでる。
でも、たとえばそれを買って、食ってる最中も、
太るかな?とか、
これ、いっぱい保存料入ってるんやろな。
カラダに悪いかな。。?
とか、色々考えちゃってる。
100%、あー幸せ♥とはならない自分に気がつく。


問題が解決したら幸せ♥
お金が入ったら幸せ♥
ケーキ食べたら幸せ♥
すてきなところに行ったら幸せ♥
いい本が手に入ったら幸せ♥

なになにしたら幸せ、という条件付きの幸せが、意味を失っていく。
どれを手にしても幸せがない自分に気がついていく。

人は「幸せ」を感じたいために、問題を探しているんじゃないか?
それを乗り越える幸せ、達成感。ゲットできたぜーというその時の絶頂感。

でもそれもまた過ぎ去り、また新たな幸せ感を求める。

たら幸せ♥は、
本当の幸せじゃないのかもしれない。


絵:「アイドルと病」/MF新書表紙イラスト




2017年11月1日水曜日

へんてこな夢


夢を見た。

高いビルからとうとつにでっぱった半畳ぐらいの小さなスペースに、わしら夫婦は住んでいる。

そのでっぱった先には動物の巣のようなものがあって、そこには3、4匹のけもくじゃらのタヌキみたいな野生の子供が丸くなって寝ている。カラスも鳥もやって来る。ときどきヘビもやって来る。
アオダイショウとマムシがぐっちゃになって、布に絡み付いていて、それをだんなにとってくれるように頼む。
だんなは、ヘビが絡み合った布をぶんぶんふって、落とす。
ヘビたちは宙を舞って下に落ちていく。



目が覚めた。
「へんてこな夢だなあ。。」と、頭をボリボリかく。

布団を畳みながら思う。
あの夢、ぜんぜんつじつまが合わないじゃないか。

だいたい高いビルからあんな小さなスペースが飛び出しているわけがない。
んで、そこに住んでいるはずもない。
そこにタヌキみたいな野生動物の巣があるはずないじゃないか。

それなのに、夢の中に出て来るわしらは、それを「ふしぎ」ともなんともおもってない。つじつまがあわない、ともおもってなくて、トーゼンのように、住んでいて、トーゼンのように、布に絡み付いたヘビをふりはらう。。。



布団を上げながら思う。
わしらは、ここに住んでいる事を何の不思議とも思わずに、住んでいるよね。
つじつまあってるとおもってるよね。
ほんと?

それを夢が冷めた存在から見たら、
「あっはっはあー。おかしなところで住んでたよなあ。なーんであれがつじつまが合ってるって、信じ込んでいたんだろ。いやー。馬鹿げた夢だった」
って、おもってたとしたら。。。(笑)

いやいや。しっかりつじつまあってる。ものを落とせば、下に落ちる。
太陽は東から昇って、西に落ちる。。。うんうん。あってるあってる。
と、つじつまが合う証拠をいっぱい探してくる。

でも、その「つじつま」も、たんに夢の中での「つじつま」だとしたら。。。

うっひゃあーーっ!






2017年10月29日日曜日

あなたはなにもまちがっていない


3日前の夜、小学生だったころの私を思いだしていた。
2、3年生ころの私。

記憶の中の「私」は、母が作ってくれた黄色いワンピースを着て、家の門の前でしゃがんでいた。
その顔は哀しげだ。母に怒られてどうしていいかわからず、家を飛び出したはいいがどこにも行けず、門の前で泣いていた。

動かない写真での顔の記憶はあったが、その姿が動き始めた瞬間、その存在が苦しくなるほど愛おしくなった。

私はそばに寄って、しゃがんでいる幼い私を抱きしめた。

ビックリした顔が見上げた。その顔を覆うようにして、私はグッと抱きしめる。
「だいじょうぶだよ。。。だいじょうぶ。。」
言葉が出て来くる。
「今は辛いかもしれない。けど大人になったあなたはこんなに才能ある存在になったよ。心配しないで。あなたは何も悪くない。あなたは何もまちがっていない。。。」

布団の上で座る私のほおを涙がつたった。

そのとき、幼い頃ふいにやって来る安堵、やさしい雰囲気、温かい愛情のようなものの気配があったのをおもいだした。

それは今、私がこうやって彼女を抱きしめているからではないのか?50年のときを隔てて訪れた、未来の私からのおもいだったのか?

そんな絵物語のような事を考えた。



それから、思いだしては、彼女を抱きしめている。
私を見つけると、向こうからしがみついてくる。見上げてくる心細そうな顔。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ。あなたはなにもまちがっていない」

彼女の体温と私の体温が一緒になる。
いつのまにか彼女は消えている。
ただ、そこにふんわりと漂う空気がある。

過去の彼女を癒す。
過去の自分の哀しみが消えると、
今の自分は変化するのだろうか。

いやいや。そんなことは考えないでおこう。

今はただ、彼女と一緒にいる時間を味わおう。


絵:「COOPけんぽ」表紙イラスト
この作品を作ったときはニューヨークにいた。日本の原風景が恋しくて恋しくてたまらなかったころだ。幼いころの記憶とおもいが合体した作品。

2017年10月25日水曜日

緑色にあえた


洋紙、ファンシーペーパーを使って、絵を制作していた頃、どうしても行き詰まった色があった。

緑色だ。

どの緑色の紙を見ても、山にあるあの緑色じゃない、植物がもつ、あの緑色じゃない。。。と、いつも「うっ。。。。」と、妥協しながら緑の紙を置いていた。

それが和紙を使うようになって、やっと緑色にあえている気がしている。
私が日頃見ているあの、緑色だ。


植物が放つ色は、緑といっても、きっと光とともにある色だ。
生きている色だ。
自らが放つ色だ。
それを紙で再現するのは難しいのかもしれない。しかし和紙を何枚も重ねて、複雑な風合いにしていくうちに、かれらの色に近づいているのを感じる。
奥深い色合いになる喜びを感じる。洋紙はべたっとした色だった。それ以上でもそれ以下でもない色。


そうだ。おもいだした。
もともと美大の授業で、べた塗りがへたくそで、それがコンプレックスになって、塗るのが嫌いになってたんだ。
「あ、最初っからべた塗りされたいいヤツがあるじゃないかこれだー!」
といって、嬉々としてべた塗り洋紙を使ったんじゃなかったかい、おい。

それがいつのまにか、べた塗りキラーイの、最初に戻っただけじゃんw
何だ。もともと「べた塗りへたくそ」でよかったんじゃね?

いんやいんや。
その時代があってこその今なのだ。
嵯峨美のせんせー、ありがとー。(いやみか?)

でも最初の違和感があってこそ、「緑」にこだわった。
緑色とはなんぞや???という、奥深いところにまで意識がおよんだ。

色を塗る。
その上に薄い和紙をかける。
もう一枚別の色かける。
そうやってやるうちに、複雑な色合いになる。ホンモノの色に近づく。
そういう醍醐味が和紙にはある。

今、ちょうど山の緑は別の色に変化しようとしている。
その途中経過が、なんともいえず美しい。
雨にぬれるかれらの世界をただただながめ、目に焼き付ける。

上の絵:「アケボノソウ」/和紙、水彩、色鉛筆
友だちが撮ったアケボノソウの写真がとてもきれいで感化されて作った作品。小さな世界に宇宙があった。

下の絵:「むかご」/和紙、水彩、オイルパステル
庭の桜の木に絡み付いた山芋のつる。

2017年10月18日水曜日

黒い大地に触れて


畑で佇む。

2mの高さになったオクラを引き抜く。
大地を踏みしめる。
クモをそっとフェンスの向こうに追いやる。
大地をほぐす。
黒い土と戯れる。

わたしは、動物を擬人化した絵本が好きではない。
わたしは、植物を擬人化した絵本も好きではない。

わたしは、動物も植物も、人間とはまったく違う世界を生きているとおもう。
心があるのは人間だけだとおもう。
心がない世界は冷たいものか?
いや、むしろ逆だと思う。

かれらは個別の意識を持っていないようにおもえる。
むしろひとつの意識の中でいるようにさえおもえる。
人間の意識を越えた、とてつもない世界にかれらはいるように思える。

畑にひとりいると、そういう感覚の中に入る。
ことばにできないなにかで、満ち足りてくる。

擬人化された動物や植物たちの物語を聞いて、
幼い子供たちが、かれらを人間とおなじだとおもうことに、
どこかしのびなさを感じる。
人間の自我のレベルにおとしめられるような、窮屈さを感じる。

そんなところに、かれらはいない。


絵:「ねこじゃらし」/和紙、水彩、オイルパステル


2017年10月14日土曜日

カラダに乗る


自分の感覚だけに集中するという実験をやった。

自分が今もっているもの、それに触れている感触、触っている温度、ふわふわ、ざらざら、の、手の指に感じている触覚、立っている感じ。
そして胸の内側に何かしらある緊張感、今そこに聞こえている音、、、、、などなどに徹底的に集中してみる。

すると、心の中の「言葉」が消えていた。

いつもは、自分を罵倒する言葉があたまの中でぐるぐると繰り返し鳴り響いていたり、言葉にならない否定的な感覚や衝動が起こり続けていたのに、それがまったく消えていたんだ。

また、その感覚の中にいるとき、人と話しができづらくなった。
感覚と言葉は、違う所にある。そう感じた。

感覚は、今感じている。今にしか感じられないものだ。
しかし言葉は、今にいない。過去とつながっている。時間とつながっている。

自分の心の中で、自己嫌悪や罪悪感や自己否定が渦巻いているとき、それは言葉の渦だった。言葉にならない衝動でさえも、その根底には言葉があった。
そのとき私は今にいない。
今この言葉を書いている今も、今にいない。言葉は今にいさせてはくれない。過去を振り返りながら話しを書く。
だがそれが悪いわけではない。ただそういうもんだと知る。

感覚の中にいたとき、静けさがあった。存在だけがあった。動いている手やカラダは、ただ動き、私はそれに「乗る」。
動きはどんどん速やかになっていった。

心に「痛み」を感じたとき、そこに言葉があった。いつもの否定的な言葉だった。
知らないあいだに、言葉に乗っていたのだ。

「あ、感覚、感覚っと」
また感覚の中に入る。
言葉は消えていった。




最近、カラダに乗る事を覚えた。
私たちは、ほとんど考え事と一緒に動いている。ほんの先のことに向かって、歩いている。ドアのノブひとつ触るにも、そこに意識はない。そのドアの先にあるものに意識がむく。先へ先へと心が向かっている。
つまりほとんど心は今やっていることにないのだ。あれやったら、つぎこれ、みたいな。

わたしはちいさいとき、「のろま」といわれたので、やることなすことが遅いというレッテルを自分に張っている。だからどこか焦って行動をしている。
なので、今、動いているその先をめざさないと、とんでもなく遅くなるという怖れがあった。

しかし今はその考えを変えた。
ドアのノブを回すときは、ドアのノブを回すことに、乗る。
畑に向かうときも、心は畑に行こうとするが、歩くことに乗る。
洗濯物を畳むときは、ただ洗濯物を畳むことに乗る。

畳んだら、あれやって、これやって、、、と考えの中にいたときより、ずっと穏やかになった。
畳むことに注意を払って、畳んだあとは、その次のことが浮かぶ。
そのとき浮かんだことをする。

考えの中にいたときは、どこか苦しかった。ああ、あれもやらなくちゃ、これもまだやってない。。。ああ、やりたくない。。。というおもいで、カラダが重くなった。

ただ今やっていることに乗ると、心もカラダもシンプルになった。
きのうやった実験もその延長線上にあった。

今朝目が覚めたとき、言葉が動き始めた。
「あ、今過去にいるんだな。。」
そう気がついたとき、言葉が消えていった。



絵:絵本「The Drums of Noto Hanto」より