2012年12月27日木曜日

どうしよう〜



困ったときはそのままにしておけ。

これは自然農の川口さんの言葉だ。この言葉にやまんばは何度も救われた。畑をやっている間に、何度もやって来た難問。サルにくわれる、イノシシにやられる、虫にくわれる、ちっとも育たない野菜、農法をあの手この手を使って変えて四苦八苦し、あげくにどんどんどこへ向かっているのか分らなくなってボーゼンとする。。。

そんなとき、ふと思い出すあの言葉「こまったときはそのままにしておけ」
やまんばは、どーしようもなく「そのまま」にしておいた。
するとそのまんまでことが進行していく。何もなかったかのように、畑は変化していった。そのうちサルはいなくなる、イノシシは来なくなる、虫はくわなくなる、野菜は静かに育ち出す。。。。
やまんばは何かしたのか?なにもしていない。ただ日々やることを淡々とやっていただけだ。あのとき「問題だあ~~~~っ!」っちゅうて、パニクっていた自分があほらしくなる。

なにもしていないのだ。その「問題」にたいして、なにも。。。
これはいったいどーゆーことだ?

人は何か問題を見つけたとき、その何かを解決するために、何かをしようとする。
パニクったとき、
「どうしよう~~~~っ!」って、思わず言葉が出る。

あれは単に感嘆詞のようなもんだとおもっていた。「きゃ~~~~っ!」みたいな。だけどよくその言葉をみてみると、「どう、しよう」といっている。
な?「どうにかしよう」と言っているのだ。

つまり、何か問題が起きたとき、人はその「問題」に対して、何かしようとしている思いが、言葉になって現れているのだ。
何かして、どうにかして、つまり行動を起こして解決しなければいけないと心底思っているのだ。
なんでや?

これ、心が落ち着いていられないからなんではないか?
足が地に着かないというか、お尻に火がついたというか、その場でいても立ってもいられない気分になる。んで、衝動的になにかをしようとするんではないんだろうか。で、その言葉が「どうしよう~~~~っ」

慌てふためいてどーにかこーにかやる。だけどどうやってもうまくいかない。そのうち頭ん中がぐちゃぐちゃになって、ぼーぜんじしつして、へたりこんでほけーっとなったとき、「あ”?」ちゅうて突然いいアイディアが浮かんだりする。


困ったときはそのままにしておけ、は「ありのままでいる」と言うことと同じ意味なんではないか?
「困る」ことは、その状態を「問題」ととらえるから困るのだ。だけどそれが私にとって必要なこととしてやって来ているとするならば、それのどこが問題なんであろうか。その「問題」を解決させるためにあるんだろうか。その「問題」を消すためにあるんだろうか。ならばどうして何もしないのに畑は粛々と進んでいくのだ?何もしないのに「問題」は消えていくのだ?

そもそも「問題」とはほんとうにあったのだろうか。
私たちの視点から、勝手に「問題」だといっているのかもしれない。サルにとってはトウモロコシを食べることは問題ではない。うほうほだ。虫にとって双葉を食べることも問題ではない。野菜が育たないことだって、「今はその状態(畑)で育つ意味ないし~」って言ってるのかもしれない。

私たちはいつもありのままの状態でいられない。なぜなら心はいつも「あれはよくない」「それはまちがっている」と非難や批判でいっぱいになっているからだ。
それを回避するためにあの手この手を使う。だが解決とよんでいるものは「対処療法」でしかないものが多い。そういうものはそのうちどこかにひずみを作っていく。それが今の社会に見え隠れしている。

困ったときはそのままにしておけ。
ありのままでいる。

これ、思考を使うなっていってな~い?
下手な思考休むに似たり。。。ってか?(そのままやがな)

2012年12月25日火曜日

エアー法則全開(危険領域に。。。?)




努力のかいあっていい結果を出せた。
必死で考えたら、いいアイディアが浮かんだ。

これが一般的に言われている「考えればいいことがやってくる」という法則だ。
しかし。やまんばはこの法則に疑問を投げかける。

やまんばは仕事の度にアイディアをひねり出す。ひねってひねってひねりまくって30年。その間に生み出された数々のゴミのようなアイディア山のごとし!(そればっかりやがな)
んで、その結果、晴れて身を結んだアイディア(印刷物になった)と、ボツったアイディアの中に、ある種の法則を見出した。

「ふんんんん~~~むむむ~~~~」
と1週間ぶんのウ○コをひねり出すかのごとく、ムリヤリひねり出したアイディア。

「ふんんんんん~~~~むむむう~~~~~」
とさんざんやったあげく、くたびれて珈琲入れにいったとき、
「。。あ?」と、ふと思いついたアイディア。

どっちが身を結んだでしょーか?
答え。珈琲入れにいったとき。

そーか!、珈琲入れにいきゃいいんだ!
と思ったそこのあなた。君、ばかじゃないの?

わしらはすぐ単純に、考えまくって努力したからいいアイディアが浮かんだ、と思ってしまう。
しかし。。。

アインシュタインは「どーしていいアイディアが浮かぶのはいっつもシャワーの最中なんだ!」と言った。
演出家としても活躍中の玉三郎さんは「いい案は、いつもお風呂の中なのよねえ~」と言った。
偉大な発明は、なぜか風呂とかシャワーを浴びているとき。。。?

これは何を意味するのか。

このときこそ思考が止まった時なのだ。

そう。思考をしている最中は、その問題が存在しているところと同じ土俵の上にたっている。同じ立ち位置にいるとその問題そのものの全体像が見えない。ところがちょいと上から見下ろすと、その土俵全体が見渡せるではないか。そのとき、洞察が瞬時に起る。そこには感情的なものなどない。何が問題で、自分はそれをどう捉えていたのか。そしてそれはどういうふうに事を運ぶといいのかとわかるのだ。
そのとき思考は動いていない。ただそのものを「観る」のだ。(見るのではない)

シャワーを浴びているとき、きもちいいよねえ。お風呂に浸かっているとき、極楽だよねえ~。珈琲入れにいくとき、ゆったりしてるよねえ。
いいアイディアが浮かぶその瞬間はぎりぎりと締め付けるような思考はどこかにいっている。むしろほげーっと、ぼけーっとしているはずだ。
そのときなにかがおこる。

クリシュナムルティはいう。
思考と思考の間に宇宙がある。

私たちは宇宙そのものの中に存在している。それは空ともいう。その空と私たちは常に一体なのだ。しかしそれをわけるのは思考という存在。思考は宇宙と私たちをへだててしまった。自然農法の福岡正信さんはいう。言葉が我々を分別してしまったと。
思考は言葉である。言葉は私たちの思考が生み出したものだ。思考には限界がある。

そのことを仏陀は言っていたのだ。
座禅や瞑想で思考を止めようとするのは、思考にはどうしても超えられない限界があるからなのだ。

(ほーら、エアー法則全開だぜえ~。あぶないあぶない)


絵:MF新書表紙イラスト
 「居酒屋のつまみを劇的に旨くする技術」
 ちょっとそこのオヤジさんそして、オヤジギャルさん、これはおいしい本だぞ〜。ほんのちょっとのやり方で旨くなるんだからあ〜!


2012年12月23日日曜日

思考をあなどるなかれ(エアー法則4)



その「あーでもないこーでもない」「あのやろうこのやろう」的思考は何を生み出すか。

思考は常に思考したがっている。それは思考さんが思考をしてもらわないと、自分が消えちゃってこまるからである。だからなんでもいいからその時にマイブームになったものにしがみつこうとする。

誰かにいらっとしたときなんか、思考さんは大喜びでその思考にとびつく。んでしがみついて考えれば考えるほど、その誰かのことが気になって、欠点ばかりが見えてしまい、誰かさんは欠点だらけに見え、その存在自体がうとましくなる。
これが思考のパターンであることに着目しよう。小さな問題が、それに集中すればするほど大きく育っていくのだ。

実はこれ、自分に対してもまったく同じことをしている。
自分の失敗に気がつく。するとその失敗のことばっかり考えてしまい、後悔と懺悔の気持ちでいっぱいになる。そのまま思考に突入すると、たいてい自分の欠点ばかりが見えてくる。「そういえばあの時もそうだった。この時もそうだった」でてくるでてくる山のような自分の欠点。。。その欠点だらけの自分に嫌気がさし、その存在自体がうとましくなる。

この思考さんのパターンにはまって何がおこっているか。
エネルギーの消耗である。

私たちは「考えるといいことがやってくる」という小さい時からの洗脳のおかげで、常に何か考えていなくてはいけないとおもいこんでいる。思考そのもののリスクを考えない。(そんなもん、教えてもらってないからだ!)
だがその考えによって多大なるエネルギーの消耗をしているのだ。その消耗たるやヒマラヤのごとし!(高尾山よりすごいやろ?)

気がついたらえんえんとそいつのことを考えてないか?
夢にまで出てきてうんざりしないか?
気がついたら自分の心配事を考えていないか?
夢にまで出てきてうなされないか?

考えても答えなどでない。出せると思って考え続けているんだろうが、おあいにく様。そこに答えは見出せない。なぜならそのとき完璧に感情的になっている。冷静であるとは感情的ではないということ。感情的なまま、いいアイディアは出ない。もし出たとしてもそれは後ろ向きな答えでしかない。後ろ向きな答えはいい結果を導き出せない。どっちにしろ心は意気消沈し、多大なエネルギーを消耗し続ける。と、リチャード・カールソンやエックハルト・トールや津留晃一さんは言う。
答えはその先にある。

だけどその前に、どれだけそれに力を注いでいるか気がついていることなのだ。
その心配ごとに一日のうちどれだけ心を注いでいるだろうか。いつか答えが出ると信じてひたすらぐるぐる考え続けていないだろうか。その間どのくらい力を注いでいるかイメージしてみてほしい。その力の注ぐ方向は、骨折り損のくたびれ儲けなのだ。

これが今私らの世界に起っていることのようだ。人々は考え続ける。考えたら何とかなると思い、ゆれうごく感情的な心を引きずりながら、必死で考え続けている。その結果、心も身体も消耗し、疲れ果て、人生をなげき、自暴自棄になる。その先は精神的な病いや肉体的な病いへと、目には見えないはずの思考の成果が、目に見えて現れてくるという現象が起き始める。。。

思考をあなどるなかれ。

2012年12月20日木曜日

エアー法則3



ある日、人とのやり取りでいらっとするとしよう。
その場を離れたあとで、あなたはまたその場面をもう一度思い起こしていないだろうか。
そうすると、だいたい「なんだあのやろう。あんなふうにいいやがって」となる。
そしてまた仕事をしながら同じシーンを思い起こす。
「なんだなんだ、あんな言い方しなくてもいいだろう」と心でいう。
帰りの電車の中で、また同じシーンをくりかえしてイメージしている。
「なんなんだ。あいつは。だいたい最初からあいつは気に入らなかったんだよ。。。」
と、その「あいつ」との出会いのシーンを思い浮かべる。そこで選択されるシーンはたいてい気に入らなかったことだ。思い出せば出すほど、でてくるでてくるあのやろうとの気に入らないやり取り。。。その時点であなたはそのあいての欠点が山のように目の前に立ちふさがっているのを見る。だんだん気が重くなる。だって今回で切れる縁ではないからだ。それはお得意さんだったり、ご近所さんだったり、身内だったり。
切れないと思うと、ますます気が重くなる。今度会う時どんなふうにあえばいいのか。どんなイヤミを言ってやろうか、と。はたまたお得意さんならば、この思いを抱えたままで、なかったことにしながら、惰性で付き合うという選択をする。。。。

さて、ここで問題です。
「あいつ」とのやり取りで、実際にいらっとしたのは何回でしょうか?
答え=1回。

では、頭の中で、バーチャルにいらっとしたのは何回でしょうか?
答え=無限。

思考とはこのようなことに使っている。

実際の出来事は1回だけである。だがあなたの頭の中は、そのシーンを何度も何度もくりかえす。くりかえしては、そのつどはらわたを煮えくりかえして、また思い出す。
なんでや?
どうも思考とは、思考をしてないと気が済まないところがあるらしく、常に思考をしたがる。なぜなら、思考していないと思考そのものが消えてなくなるからである(笑)。だから「思考」は人間の頭に思考させ続けているようなのだ。

これを心理的に解釈すると、誰かが自分に何かをいった瞬間、何かを「言われた」と思う。つまり意見された、非難されたと思うのだ。
非難=自分がまちがっている、といわれていると思い、自己防御にスイッチが入る。自己正当化がはじまるのである。なのでそこはほれ、「思考」さんが自己主張のためにつかう大好きな「ああじゃないこうじゃない」論がえんえんと続くわけだ。

はて、それをえんえんとやって何か利点があるのだろうか。
「あるある。俺が正しいと主張できる!」
他は?
「え?他ってなんや?。。ああ。あいつがまちがってるってわかる!」
そりゃ、さっきの話と同じ論点じゃないか。じゃ、自分が正しいって分るって利点だな。
「そうそう。」
それだけ。
「え?ああ。。まあ。。それだけ。。」

じゃ、欠点は?
「欠点?そんなもんない!」
時間は?それを考えているあいだのロスはないの?
「まあ、そりゃ、多少はある」
多少?それを考えている時間があれば、もっと他のこと、仕事のこととか今度の商品の売り方とか、そんなアイディア出しのことに使えたかもしれんじゃない。
「こっ、、この考えだって仕事上のことだ!」
ああ、その「あいつ」はお得意さんだったのね。
「げ」

で、それを考えて、いい仕事上のアイディアが浮かんだ?
「う。浮かぶわけないだろ。むしろ気がめげた」
気がめげるようなこと考えてたの。
「だってしょーがねえだろ!あいつが悪いんでい!」
ああ、そうだった。あいつが悪いってことが証明されたんだったね。
「あたぼうよう」(いつのまに江戸っ子に?)
で、欠点は?他には?
「ない」
ほんとに?
「ないったら、ない!」
仕事したくなくなったんじゃない?
「おう。それよ、それ」
次のしごとんとき、どーするの?
「あー。。。。やだな。うん。あいたくねえ。でも仕事しないとおまんまくえねえしな」
やる気なくなるねえ。
「うん。。。」
あいたくはないし、だけどあわないと仕事になんないし。いやんなっちゃうねえ。
「はあー。。。いやんなっちゃうねえ。。」
欠点ってこれじゃね?
「あ”。。」

やまんばんちの前に川が流れていて、そこによくカモが泳いでいる。カモは時々縄張り争いをする。一羽が水辺に漂っていると、空から別のカモがやって来て、ぎゃーぎゃーと大声を張り上げて相手を突っつく。突っつかれた方もぎゃーぎゃー反撃する。2、3秒ぎゃーぎゃー言い合って、さっとお互いが身をひく。そのあとはなにごともなかったかのようにそっぽ向いてその場を泳ぎさる。
その姿を見てやまんばは腕組みをして「はあ~。生きるワザだなこりゃ。」と感心する。

カモさんは、あとくされないのだ。
もし彼らが人間の思考を持っていたらどうなるか。

「あのやろう。あそこまで俺の頭を突っつくこたあねえだろう。だいたい、ここは俺の縄張りでもあるんだ。最初にここを見つけたのは俺なんでい。今度会ったら、おもいっくそとっちめてやる!」
「あんちくしょう。前にも俺があそこは俺の縄張りだっていってやったのに、まだいやがった。なのに反撃してきやがって、俺の大事な羽毛が2、3本とれちまったじゃねえか。今度会ったらただじゃ済まさねえ。」

その後二羽のカモはずーーーーっと、心で文句をいいつづけました。だんだんイライラが大きくなり、その思考を止めることもしらず、そのうち身体が弱り、心労のために空飛ぶ元気もなくなりましたとさ。おしまい。

ああ、人間的思考を持たなくて良かったねえ、カモさん。

2012年12月17日月曜日

エアー法則2



やーな気分になった瞬間のことをとらえてみよう。

「お山がきれい」まではいい気分だった。
そのあとす~っと冷たい風が吹いた。身体がぶるっと震えた。この瞬間「震える=身体に危険信号」という動物的反応がおこった。たぶん脳の真ん中あたりのは虫類の脳が反応したと思える。そくざに「寒い」という言葉が前頭葉に浮かんだ。その後はその寒いから連想されるやーなことを芋づる方式に引っぱりあげてくるわけだ。

「寒い」という言葉からポジティブな連想を起こす人はあまりいない。どっちかっちゅーと、やーなものを思い起こすはずだ。ポジティブな連想をする人はこのばあい「涼しい」という言葉を発するだろう。

つまり「寒い」という言葉が思い浮かんだ瞬間から、ネガティブな思考にシフトしはじめているのだ。このとき、この瞬間の移行に気がつけば、その思考が「ガン」にまで到達することはなかった。

否定的な思考の先には、明快な答えは決して見出せないとリチャード・カールソンはいう。思考の先には混乱しかない、とクリシュナムルティはいう。そして思考を止めるために仏教は座禅を組み、滝に打たれる。インドで変な格好をしてヨガのポーズをするのも、実は身体に意識を持っていかせ、よけいな思考を止めるためなんではないか。
思考っていったいなんなのだ?

やまんばは自分の思考を追いかけてみた。
人は思考を「する」が、その思考を「追いかける」ということをあまりしない。思考をするのは思考の上に乗っかることだ。波乗りサーフィンのようなものだな。
追いかけるのは、思考がどこへ向かうのかを外から観察すること。サーフボードには乗らない。

するとでるわでるわ、ネガティブの嵐!頭に浮かぶことの90%は、何かしらのネガティブな、否定的な思考だったのだ。

ふつうは自分の思考を追いかけるという習慣がないため、自分がどういう種類の思考をしているか気がつかない。だがあらためてよく観察すると、「腰が痛い」とか「ああ、明日もまた満員電車だ」とか「あたしはこのままでいいんだろうか。。」とか「まったく政治家は。。。」などとつぶやいている。

これらの言葉の後ろに、否定的なものを見出せるだろうか。はい。そのとおり。すでにネガティブという名の洞窟の入り口に立って、洞窟の中をのぞいておるわけです。
するとそこから先は、ますますネガティブなアイディアが浮かび、どんどんエスカレートし、投げやりになり、「ふっ、人生なんてそんなもんよ」と冷笑して(大人ぶって)、やーな気分に落ち着いて一件落着(笑)。

さて、この思考の一連のコースは、人にとって必要なもんなんだろうか。
カールソンがいう「否定的な思考に明快な解決法は見出せない」はほんとうだろうか。やまんばは自分の否定的な思考にくっついてそっと様子を見守った。すると。。。。
どこまでいっても、いいアイディアはみいだせなかった。むしろどんどんドつぼにはまっていって、それでも追いかけて見守っていると、死にたい気分にまでなった。
なんやこれ?

いやいやちがうだろう。思考して、思考して、思考したからこーんな素晴らしい文明が起ったんだ。たしかにそうだ。やまんばだけが、ひとりで否定的な思考からどつぼにはまったんだ。そうにきまっている。思考ってスンバらしい道具なのだ!

しかし思考には、もうひとつ別の面がある。
思考することがすべて「正しい行為」と思いすぎるのは危険なようなのだ。

2012年12月14日金曜日

エアー法則



量子力学っちゅうのんがあるんだから、思考力学っちゅうのんもあっていいとおもう。(どーゆー理屈や)

やまんばはね、つらつらかんがえるうちに、ある法則に気がついた。これを『エアー法則』とよぼう。

わしらはうまれてきてから「考える」ことが、とお~ってもりっぱなことだと教わってきた。だから考えさえすれば、きっといいことがおこる。考えを練りに練ったら立派な大人になれる、そうおもってきたわけだ。

ところがだ。この考える=思考ちゅうもんは、いい方向に向けばいいことにもなるけど、まずい方向に向けば、とことんまずくなるっちゅー、どっちへでも転がる性質を持っているようなのだ。
そんなんあたりまえやっておもうやろ?ところがそのあたりまえなことを、今までだーれも指摘して来なかったから、そのまずい方向に向かって進んでいってることに気がつきもしなかったのだ。

最近流行ってる言葉「見えないからこわい」ってのも言い得て妙なんだけど、自分で考えていることってみえないでしょ?見えないから、どっちに進んでいるかも気がつかないわけだ。
リンゴは手からはなすと下に落ちる。こりゃ重力があるから下へ落ちるのだって知ってる。だけど思考はそんなふうに上から下へ落ちるような明快な見え方しないから、わけわかんない。

うつな人が多いのも、不幸な気分になるのも、「人生って苦しいもんよ」と思うのも、ケツをボリボリかくダンナの仕草が気に入らないのも、単にその思考がもつ独特の力学を知らなかっただけなのだ。そこにはある種の法則がある。


人間は常に考えている。
その思考の中にはだいたい二つのパターンがある。いい気分の思考と、やーな気分の思考。やまんばのいい気分の思考は「ああ~、いいお天気だなあ」とか「お山がきれいだなあ~」とかだ。んで、実はいい気分はこの一瞬だけで、その後すぐに目についたものや、ふと頭に浮かんだものに思考が滑っていく。

「おお、寒い。早く家に入らないと風邪を引く」
すると今度は「風邪を引く」に思考が引っかかって、「風邪は万病のもと」という言葉が出てくる。今度は「万病」に引っかかって、「成人病」が出てくる。こうなると必然的にいきつくのは、ガンだ。(がーん)

このように一個のキーワードが出てくると、それに関連するものが、芋づる式に引き出されてくるのだ。これを芋づる方式と呼ぼう。
思考はこのようにいつも何かにしがみついて言葉遊びをしている。なぜなら思考自体が「言葉」でできているからだ。
その言葉には、それぞれ「感情」がくっついている。
ガン=こわい
風邪=やっかい
寒い=いやだ
ね?

だから思考をすればすなわち言葉が出てきて、言葉が出てくれば、すなわち感情が生み出されるというパターン が、お金を入れれば缶コーヒーが出てくる自販機のように、自動的に起っているようなのだ。これは瞬時に行なわれるので、思考している本人は気がつかない。
最初はお山がきれい~といい気分だったのが、一瞬「風邪」というキーワードが思いついた後は、次々と連鎖反応が起って、あっというまにやーな気分になっている。
これが思考力学だ。手放したリンゴが地球の真ん中目指して吸い込まれるように。

リンゴは手放したら落ちるから、手放さないことができる。それは手放したら落ちることを「知っている」からだ。
思考は常にえんえんと考え続け、ほおっておいたら、いくらでもやーな気分になり続けることが出来るのだ。その法則を知っていれば、やーな気分をやめることだってできる。

わしらは考えたらいいことが起ると漠然と信じている。それはなんとなくそういうもんだとおもっているからだ。だけどもうそろそろその思考というものをコントロールすることを知る時期なんではないだろうか。だってあまりにこの世はやーな気分で満たされているんだもの。それはたんに思考という奴の利用の仕方を知らなかっただけなのだ。馬はうまく乗りこなして乗馬になる。自動車は運転技術を身につけてこそ、自動車を乗りこなせるのだ。(運転下手なやまんばがそれを言うか?)

つづく(の予定)

2012年12月12日水曜日

押し入れに注ぎ込むエネルギー(いらんやろー)


寒いです。けさの外気温は-3℃でした。
これもきっと地球温暖化のせいなのでしょう。
二酸化炭素25%削減って世界に断言していたおじさんは、とっとと引退してしまいました。まだ順調に25%削減に向けてがんばっておられるのでしょうか。
10年後に原発をなくすと断言されると、ちゃんと10年後になくなるんでしょうか。その10年後に総理になった人が「そんなもんはしらん」といったら、なかったことになるんでしょうか。
やまんばにはちいーっともわかりません。

マイブームのダンシャリは細々と進んでおります。
先日仕事関係の道具を処分した。そう、紙です!
知人に作ってもらった紙入れ(りっぱな桜の木でできた大きな紙入れ)の中身はすっからかんに!さすがにもう手に入らないチベットの紙は保存した。おもいが満載のスケッチブック、過去にあった多くの人々の名刺。。。全て自分を形作ってきた品々。全てポイだ!。。。。っとおもったけど、そこんところはちゃんと選択。んで、一番の執着のアイディアブックはドッカンと残った。(ダンシャリじゃないじゃん)

やっている間に気がついた。押し入れに詰め込んでいるものに、私はエネルギーを注ぎ込んでいたのだな。まるで倒れてくるゴミの山を両手で押さえて倒れないようにしているかのように。

どこかで「これを清算してしまいたい」欲求と、「いやいやもったいないのだ」という罪悪感がひしめきあって、どっちにもエネルギーを注ぎ込んでいたのだ。押し入れの中がすっきりすると、その使っていたエネルギーを使わなくなる。エネルギーが自分に帰ってくる。

押し入れをあけるたびに「ああ汚い」というおもいがつねによぎり、
「いつかきれいにしなきゃ。今?いや今は忙しくってダメだ。いつかもっと余裕のある時に」
とかなんとか自分に言い訳をしている。
それは、ほとんど無意識に押し入れをあけるたびに、紙入れの引き出しをあけるたびに、冷蔵庫を開けるたびに「ああ、汚い」というため息に似たものと一緒にやってくる。「気にしている」わけだ。気にしている。つまりあけるたびにエネルギーを使ってるのだ。イヤイヤどこかで視線の先に押し入れがちらっとでも入ったりしたりしても無意識にそこにエネルギーを注ぎ込んでいるのだ。

じゃこれが、押し入れをあけるたびに、冷蔵庫を開けるたびに、きれいだったらどうだろうか。「ああ、きれい」と思うのは最初の時だけ。その後はきれいなのがあたりまえになって、何も考えないだろう。気にもしていない。
それがエネルギーをそれに注ぎ込むことがなくなるときだ。

ダンシャリは過去との決別、そして未来への不安との決別へといざなう。つまるところ、物質的に捨てているうちに、自分の習慣のクセに気がつき、それとも決別をしているような気がする。

2012年12月7日金曜日

溜め込んだ過去は押し入れの中で芽を出すのか



ダンシャリで考える。
やまんばは過去のものをいっぱい持っている。過去よく着ていた服とか、過去よく使っていた食器とか、過去よく読んだ本とか。だが今のやまんばは、もうその服は着なかったり、その食器は使わなかったり、その本はもう読まなかったりする。
ダンシャリの著者さんはいう。
この歴史はじまって以来、人類がこれほど個人がモノを持った時代はあっただろうかと。なるほど。お江戸のお殿さんでさえ持っていなかったものをわしら現代人は持っている(金銀財宝は別にして)。で、一般庶民は着た切りすずめだった。

その長い歴史のモノへのあこがれが(執着心といおうか)、まさに満たされた時代が今なんではなかろうか。大昔はそもそもモノがないので、備蓄という事ができなかった。あるときにはここぞとばかりためこむことが、生死を左右する大事な行為であった。その記憶がやまんばにはあるようだ。ためこんでためこんでためこんで、押し入れの中に詰め込めるだけ詰め込んでぴしゃりとふすまを閉め、その前でお茶を飲んでほっこりしている。でもよく考えたらこれは便秘ではないのか?

ダンシャリアンは言う。モノは循環させないとヘドロになる。
リスは自分でとってきたドングリを土の中に隠す。だが隠した本人がどこだったか忘れる。やがて土に埋もれたドングリは芽を出す。そうやって自然界は循環をしている。
やまんばが溜め込んだドングリは、押し入れの中でやがて芽を出すのだろうか。男おいどんのサルマタケのように。
で。。。出ない。出ても食いたくない。

そうなのだ。やまんばが溜め込んだ過去のモノは決して自然循環しないのだ。畑は自然循環している。やまんばのからだも自然循環している(ありがたいことに)。だがやまんばの過去は自然循環しないのだ!こりゃー自分でやらんといかんのだ。

少なくとも日本人は過去にこーんなに物持ちになった経験がない。だから今までの方法論のままに、「あった時に溜め込む」という手法を使う。一度オイルショックを味わった人ならなおさらのこと。それが今飽和状態になっているんではなかろうか。今わしらが学ぶのは、捨てる方法論ではなかろうか。捨てると書くと「もったいないお化け」に襲われそーだが、じゃあ、循環させるっちゅーのんはどうだ?

ダンシャリアンはいう。
川の下流にながすと。
一見「何だ。上から目線じゃん」っておもってしまうが、これは自然の摂理だ。雨は上から降ってきて、山に落ちる。山から土の中を通って川に行く。川から海に流れてやがてその水は雲に変わって、また山に雨を落とすのだ。

江戸っ子は「宵越しの金は持たねえ」というが、あれはいきがっていると思われているけれど、どうもまた別の考えがあるようだ。お金は一所に留まらさせてはいけないという考えがあったようだ。今はものすごい量のお金があるので、どこぞの誰かがしこたま貯め込んでも体勢に影響はない。しかしもしこれが、ある村に10万円しかなかったとしよう。するとそのお金は誰かが溜め込むと、他の誰かが困るのだ。だから「宵越しの金は持たねえ」。さっさと次の人に流していくのだ。


さっきやまんばの本が出て行った。
過去に思い入れをした本ばかりだ。じつはいわゆる循環、つまり図書館への寄付や古本屋に渡すという事をしなかった。どう循環させるか迷いに迷った。彼らをモノとしてあつかいたくなかった。
彼らはやまんばの心の図書館に寄贈された。


絵:「10分あれば書店に行きなさい」MF新書表紙イラスト
まさに、本屋さんは宝の山!
思い出すなあ、高知の大橋通り近くの大好きな本屋さん。地下一階にあって、天井高く本がぎっしり。床も壁もぜんぶ木で作られて、オイルステンのにおいがあたりをみたして、歩くとギシギシ音がするあの本屋さん。。。今はもう昔のものがたり。。。

2012年12月4日火曜日

おもひでのゴミと未来の保険のゴミ



友だちにソファをもらった。
もらったら、そこだけゴージャスになっちゃって、まわりの状態がただのゴミに見えてきた。急に捨てたくなっちゃって、きゅうきょ断捨離の本を買う。一気に読んでマスターし(ほんまかいな)、ボンボンものを捨てはじめた。

しかしやまんばは「捨てられない種族」だった。
一個モノを見つけては
「ああ~、あんときはこーだった」
「ああ、これもあったのよねえ~。こんときはこーだった。。」
とおもひでにひたることしばし。
やがて「やっぱ、とっとこー」とか「なんかあったときのために」と、捨てられない種族なのだった。
そーやってたまっていった『おもひでのゴミ』と、『未来のための保険のゴミ』は、積もり積もって高尾山のごとし!(低けーよ)

だが。こんかいはちとちげーのだ。
すっ、、、すてるのだあーーーーっ!

捨てるジャンルは色々ある。食品系、生活系、仕事系、ほんでもって溢れる本の山。問題は本だ。。。
あやしげーなスピ系の本、あやしげーな思想の本、あやしげーな歴史本、あやしげーな宗教本。。。たまりにたまって今にも崩れそうな本の山。ああ、あたしはこれに支えられてきたのねん。ああ、これらに妄想をかきたてられてきたのねん。。。。
いやいやおもひでにふけっているばあいではない。ダンシャリ目線で本棚をずらっと見渡してみる。
がくぜんとする。
捨てる本をピックアップというよりも、取っておきたい本だけをピックアップした方がはるかに速い。。。。
なんてこったい。今までだいじにとっておいたではないか。阿佐ヶ谷からNYに引っ越すときも処分して、そんでもって、NYからこっちに戻ってくる時にも処分していった中の、厳選に源泉を重ねたはずの本であったのに。。。

未来のための保険はもういらないんであろうか。やまんばには未来がないんであろうか。
ああ、だれかあたしをとめて。。。