2018年11月11日日曜日

静けさの中に入る



心の中を観ることをしていくと、どんどん自分の中をほりさげていくことになる。


前はおおざっぱな感情だけが見えていたのに、それを通過すると、より細かい感情に気づき、それも通過すると、ますます微細な感情にまで気がつくようになる。
ほんの一瞬の心の動きのはじまりまでもが感知される。



そのうち、自分が外ものに反応していることに気づきはじめた。

外に見える世界。
人の言葉、人の態度、
畑、庭、山、
外に見える世界に反応している自分。

ネットの文字に反応し、
テレビの映像に反応する自分。

そしてふいに浮かぶ思い、想念、イメージ。
あたまの中も、また外のものだ。



いわゆる「幸せ」も、外からやってくる。
食べて幸せ、聞いて幸せ、見て幸せ、
理解して幸せ、達成して幸せ。。。

だがそれは長くは続かない。
ネガティブな感情も、ポジティブな感情も、長くは続かない。
ネガティブな感情は、追いかければ長く続く。そして肥大化する。
ほっておけばそれはやがて消える。
どっちにしろ、外を見て受けとる反応は、やがて消える。

その仕組みにいささか疲れはじめた。
なぜこうも、反応しなければいけないのか。そこに本当のものはあるのか。

『反応の中に答えはない。。。』

心のどこかでそう聞こえた。



反応から来るものではないなにかがある。
それは外からはけして来ないもののようだ。

見ず、聞かず、外に反応をしない時間をもつ。
心の中の声さえ聞かない。
すーっとまっすぐ自分の中に降りて行く。



静けさがある。
静けさのむこうに何があるのだろうか。
わからない。
ただそこにいることが心地よい。


目の前に見えている世界が、『何の意味もない』
という言葉の意味が、
ちらちらと、わたしをくすぐる。




キクイモが消えた



畑の一角に、ずっと森のようにこんもりと生い茂って勝手に育っていたキクイモ。

収穫の時期が来て、土を掘り起こしてみると、いつもはわらわらと出て来る芋が、今年はこつ然と姿を消した。

昔は背丈ほどあったハルジオンも姿を消した。アカザも消えた。
畑の中で植物たちは変化をつづける。
キクイモもその姿を消そうというのか。

鳥に食べられる豆類は、移動したがっている。風に吹かれて飛んでいく種も移動したがっている。種たちはそれぞれの特徴を生かして、どうにかして移動したがっている。

芋たちは自ら移動しない。だから移動させなくてもいいものだとして、サトイモもそのまま同じ所にうわりっぱなしだった。でもそういえば、新たな所では芋は大きいいが、昔からある場所は、小さくなってきている。かれらもまた何らかの形で移動したがっているのだろうか。

キクイモは同じ所で、かれこれ6年育ってきた。
サトイモもおなじくらいだ。

キクイモはキクイモの、サトイモはサトイモの、それぞれの土の中で飽和状態が起こっているのかもしれない。来年は別の場所に移動させてみよう。

ん?しかし芋はどうやって移動するのかな?
人の手だけ?
え?サル?
ちょいぐいして、ほったらかすのは、そのためか(おいっ!)




2018年11月4日日曜日

過去の清算




ダンナが、今過去の清算をしている。

阿佐ヶ谷時代からニューヨーク時代へ、そして今の高尾時代へと生きてきた片鱗を整理しはじめている。
人間生きていると、いろんなものが増えていく。表現するものは、表現したがゆえに、いや、アイデンティティを確立するために、表現物が増えていく。それにともない、道具もがんがんと増えた。

昔はカメラはフィルムが当り前。今はデジカメが当り前。時代はどんどん変化していく。無用の長物となったでかい引き延ばし機、現像にまつわるもろもろの機材や材料。ありとあらゆるものを、どんどん捨てはじめた。

音楽の機材もおしげもなく捨てていく。そしてずっと大事に持ってきた若い頃に影響を受けたこむずかしい本たちさえも。

彼の中に何かが起こっている。過去で埋め尽くされた心に、新たなものを入れていくスペースでも作ろうと言うのだろうか。

今はヤフオクや、メルカリなどのシステムがある。使わないものを誰かに渡してそれを生活の足しにするでもなく、気持ちいいぐらいばんばん捨てていく。それが彼らしい。

一方の私はと言えば、モノが捨てられない性格。
「ひょっとしたら、いつか使うかも。。。」
と、穴のあいた畑用の手袋、新聞紙、間違えてプリントした紙、お菓子のカンカンまでとっておく。(メルカリに出せるものなどひとつもない!)
「いつか資料になるかも。。。」
と、読みもしない本もずっと本棚に入ったまま場所を占領しつづける。へたに制作などしたら、どんどん作品という名のゴミまで増えて行くではないか!

強烈に整理下手な私の部屋は、いつもわけのわからんものが乱雑につみ上がっている。このまま行ったら、ここは私のせいでゴミ屋敷になるかもしれない。。。



ダンナが一枚のモノクロのベタ焼きを見せてくれた。
大量のベタ焼きを整理しているうちに、なつかしい写真が出てきたのだ。
まだ黒髪が光っている30前後の私が写っていた。自分で言うのもなんだがかわいい(笑)。
こうやって、過去の自分をみては、
「ああ、あのころは若かったなあ~」
なとど、しみじみとおもうのだ。
きっと今の白髪頭の私を写真にとっても、十年後には、
「ああ、あのころは若かったなあ~」
などと、きっとしみじみとおもうのだ。。。!

だがベタ焼きでうつっているあのころの私は、決して自分が今若いとは思っておらず、若さを謳歌するでもなく、もっと若かった自分を思い、今の自分をうれいて、苦悩していたのだ。

それってどうなの?なんか、損こいてね?
ずっとずっと、過去をうらやんで、今をうれいてばかりなのだ。
今を「こうではない」と言い続けて、未来にもっといいものを探そうとし続けているだけなのだ。

約30年前の私が、
「で?今はしあわせかい?」

と、聞いてきている気がした。


2018年10月23日火曜日

野葡萄



信号で待っていると、土手に生えた草に目がいった。
秋がだんだん深まって、植物たちがその姿を変えはじめている。

すこし黄色がかってきたイタドリの緑の葉っぱが、赤い水玉模様を作っていた。あいらしさにおもわず見入る。あっちにもこっちにも。

緑一色から、赤い水玉模様に服装を変えたイタドリの葉っぱたち。モスグリーンの地の色に、レンガ色の大きな水玉模様を大胆にあしらった、ウールのコート。
茎や葉脈が赤く、それがなぜか赤いヒールを思わせる。
まるで芯の強いOLみたい。

その横には季節外れのよもぎが凛と立っている。
青みがかった緑色のスーツを着た中年の紳士のよう。

勝手な妄想の中、じーっと草たちに見とれていると、信号が青に変わっていた。あわてて渡る。


柿の葉っぱなんか、芸術家の極みだ。もうどの葉っぱを手にしていいかわからなくなるほど、最高傑作だらけ。葉っぱの一枚一枚に向かって、その美しさをほめたたえたいぐらい!でもそんなことしてたら、日がくれちゃうね。

いつもこの美しさをぐっと所有したくなる衝動にかられる。
けれども家に持ち帰ったかれらは、ほどなくその美しさを終らせていく。
それもまた潔いかっこよさ。


だからじーっと目に焼き付ける。
あんたらの美しさをどれだけ味わっているやつがいるか、わかってる?
ここにへんな一人の人間がいること、かれらは知っているのかなあ。
まあ、そんなことへともおもわず、かれらはかれら自身がその美しさを謳歌しているのだろう。



今日の作品は先日制作した野葡萄。

わたしの絵の生徒さんが、昔スケッチしたという水彩画の野葡萄の絵を見せてくれた。それがとても強烈な印象を私に残した。
ふしぎなカタチの枝、葉っぱ、カラフルな野葡萄。

私は植物の正しいカタチを描くことが苦手。それはいくら正しく描こうとしても、かれらの調和のとれた美しさにはかなわないのだもの。
だから私は私の印象で、かれらを表現してみたい。
それは今日であったイタドリのOLさんのように。


2018年10月21日日曜日

7才のわたし。



夜寝る前に窓を開けて、真っ暗な山を見る。
「今、どんな感じ?」
心の自分に問うてみる。

胸の奥が、ふるふるとふるえている。
「これは、なに?」
問うても誰も答えない。
ただ、不安なふるふるではない。
たとえていうなら、明日楽しいことがある前の、期待のようななにかのふるふるだ。

「私は今、いったいいくつなんだろう?」
そんな疑問がわいた。
「。。。7才。。。」
心の声にびっくりする。
「え?7才。。?」

今57才のわたしが、たった7才の自分?
50年分はどこへ消えた???

でも考えたら、意識は今でもそのぐらいなのかもしれない。あのころの私と、何ら変わっていない。

じゃあ50年間分の知識や歴史はどこへいった?

知識とは、単なる「社会」という名前がついたゲームのルールを知っているというだけだ。双六や、野球や、サッカーのルールと何ら変わりない。私の歴史とは、そのルールに必要な、ボールやコマを持って、そのルールに沿って生きて来た。そういう歴史だ。

でもまったく変わらない何かが私の中にある。
それは「私」という感覚。
その私は7才なのかもしれないし、なにでもない、なにかなのかもしれない。

暖かな布団の中にもぐりこんでイメージする。

誰でもない7才の私。
過去も未来もない、ただそこにある存在。


絵:天狗舞い






2018年10月19日金曜日

心という車の運転免許



バイト先で知り合う若い女の子たちがおもしろい。

まだ二十歳前後。彼女らの母親は私より若い。そんな彼女たちとしゃべっていると、ある共通項に気がつく。

ウザイ、イラつく、キレル、ウケる、などの感情を表現する機会が多いためか、彼女らは自分が何を感じているのかをつねに気づいているようだ。

そのため、逆に言えば、その自分の感情が大きく心の中を占め、ふりまわされやすくなっている。クローズアップされた自分の感情に気がつくと、それを否定しようとするため、二つの感情をもつことになる。
1。イラつく自分
2。それを否定してイラつく自分。
この二重苦で、自分というものをうっとおしいとまで感じている。

また別の子は、そういう自分をおもしろがっている。
どっちにしろ、自分の中で発令される感情に気がついているのは、時代が変わって来ているからか。



このことはとても面白い現象だと思う。
通常大人の私たちは、自分自身が感情的になっていることにあまり気がついていない。
その感情と自分が一体化してしまうからだ。

本当は、どこかで気がついてはいるが、感情的になってはいけないと言う、根深い道徳観念が、それをおさえこむ。
もしそのことを指摘しようものなら、火のようになって怒る(笑)。



私たちは、外のものを見ることを学んできたが、心の中を見ることをまったく学んで来なかった。
例えていえば、車の運転技術はあるが、心という車の運転免許をもってないようなもんだ。

せいぜい動き出す車の前に立ちはだかり、フンムムム~~~っ!と、力づくでおさえこんで、感情が表に出ないようにするという、原始人のような(原始人さん、失礼)、心の車のコントロールしかしてないのだ。

ギアやブレーキやアクセルがあるように、心にもちゃんと仕組みがある。今こんなにも精神を病む人たちが増えているのだ。その仕組みを真剣に学んでいく時代に入っていると思う。


でもいかんせん、感情について話しをすれば、人はすぐさまぱたっ!と心を閉ざしてしまうぐらい、感情に対してあまりにもアンタッチャブル。
日々の忙しさの中で、感情が動く自分を見ないようにする。
はたまた誰かにグチって、気が晴れたかのように装う。
おさえこんだ感情はいつのまにか、病気や精神的な病いなどの形になって現れてくる。



ほんの少し、意図的に静かな時間を作り、自分の心に聞いてみる。
「今、私、何を感じてる?」と。

その感じているものに抵抗をせず、ただ受け取ってみる。
その感情は、決して悪いことじゃない。
あなたが生きて来たこれまでのいきさつが、
どうしようもなく持たざるを得なくて、持った感情なんだ。
それを肯定する。

いいよ。感じて。
いいよ。怒って。
いいよ。悲しんで。
いいよ。いいよ。いいよ。。。

そのほんの少しの時間が、心の扉を開いていく。
心が溶解していく。


2018年10月18日木曜日

バーチャルしあわせ



「あたし、何だか幸せじゃない。どーやったら幸せになれるんですかー?」
若い女の子が、ちょっとイラ立ちながら私に聞く。

彼女は現役の大学生。今卒論制作の真っ最中。来年にはIT企業に就職も決まっている。顔は超美人。スタイルもセンスもいい。頭も切れるし、まわりの気遣いもうまく、これ以上出来ないぐらい仕事上手だ。

そんな前途有望な彼女が「あたしは幸せじゃない!」と言い放つ。
それを人生下り坂のおばばに聞くかー。
わたしにゃ、あんたがもってるもん一個ももっとらんわー。



私たちはしあわせ探しをする。今ここにないものを探す。
ないものをゲットできたらしあわせになるだろう!と信じて、日夜探し続ける。

おいしいものを食べる、
楽しいことをする、
行きたい所に行く、
すてきな人と出会う、
はたまたすごいグルに出会う。。

ところが、そのしあわせはそう長くは続かない。すてきなパートナーとだって、やっとゴールインしても、今じゃ粗大ゴミあつかい。

これってなに?!
しあわせって、そんなもんなん?

これが二元の世界。「ゲット」すれば「失う」というおまけもついてくる。コインの裏表。



どうもそれは本当のしあわせではないらしい。
そのしあわせの後ろには、必ず失う悲しみやむなしさがあることに気がつくことだ。

かりそめのよろこび。
ひとときだけのたのしみ。
やがて消えるもの。
そして失ったらまた求めるエンドレスの衝動。

欲しがる、ゲットする、失う/忘れる。
また欲しがる、ゲットする、失う/慣れる。
また欲しがる、ゲットする、失う/飽きるw。
また欲しがる。。。

そういう形状のしあわせを、どっかで引いて見ている視点をもちつづけることかもしれない。(あまりうれしかあないかもしれんな。浸れないんでw)





ほんとのそれはある日、唐突に、ふと、ほんの少し、そこはかとなくやってくる。

何の条件づけもなく、なんのきっかけもなく、
目の前のものがキラキラしはじめる。
何かわからないものが、内側からあふれてくる。
ああ、、と、心が膨らんでくる。
自分と他人という境が消えてくる。
それは時に、強烈なエクスタシーにもなり、
これ以上ない静けさにもなる。


条件づけのしあわせは、このしあわせを感じたいがための、
自我の、バーチャルしあわせの試みなのかもしれない。



絵:「Witch」私の好きな魔女。彼女はこの絵の顔によく似ている。



2018年10月16日火曜日

痛み


スナップエンドウやソラマメなどを蒔くために、何日かジャングルになった畑の草刈りをしていたら、また左肩が強烈に痛くなった。やっぱり動かしちゃあいかんのやな。

夜中に何度も痛さで目が覚める。
民間療法の玉ねぎショウガはちみつのお湯割りも効かない。

こうなったら、イメージで行く。
「神の使者」で有名なゲイリーの新しい本「愛は誰も忘れていない」の中に書いてあった彼のからだの痛みの取り方をマネしてみる。


まず左肩に意識を向ける。その左肩の中から光が現れるのをイメージする。
ひ、光が、現れるのを、、、、
ん?現れない。。。

気を取り直して次!
からだの中に光が満たされるのをイメージする。。。
ひ、光が、、、現れるのを、、、、、イメージ、、、、、
できんやないけ!

あたまのイメージでは、からだの中に光が現れて、その光が自分の身体をおおう、、、
はずであった。

撃沈。。。



これでも私、表現者やで。
イメージのひとつもつくり出せんで、どこが表現者やねん!
と、ひとりツッコミを入れる。

んが。
ふんむむむ~~~~~っ。。。!
と、イメージできない苦しさにもがいているうち、そのたびに痛みが消えているのに気がついた。

光は見えないが、そこに意識を向けている間、痛みが消えているのだ。
ま、、、、こんなんで、、、、ええんかいな、、?
と、どっか納得いかないまま、寝てしまう。



明け方、うつらうつらとする中で、あるイメージを見る。
光のカタマリのまわりにこびりついた黒い破片たち。

それは私のからだの部分だった。そのからだの部分たちが、光の中で溶けていく。
その映像を見ながら、
「ああ、、、私の不満やネガティブな意識が、この世界に闇を作っていたんだ。それがカタチになってこの世界を作っているんだ。。。。」
そう教えられた気がした。


起きる前に見るビジョンは真理をついていると私は思っている。
それは自我がああだこうだと、屁理屈を言いはじめる前のものだからだ。


痛みは、私に肉体を意識させる。
「私は肉体だ」と言って聞かせるにはもってこいの症状だ。

と、同時に、痛みがなぜ発生するのかも教えてくれる。
私の中にある、あらゆる不満や罪悪感がそれを生み出してくる。それは攻撃を自分に向けているからだ。たとえ攻撃を他人に向けようと、それは自分に還ってくる。
その痛みを自分で味わうのだ。


きのうの夜もまた、やってみたが、相変わらず光は見えない。
しかし自分の身体が消えていくのに気がついた。

中身が空っぽなだけではない。からだ全部が消えようとしていた。

と同時に痛みも消えて来た。




絵:「ルパンとショームズ」/ミステリマガジン扉イラスト


2018年10月5日金曜日

過去の背負子


「最近やってることはねえ。過去を消すのよ」
「は?どうやって?」
「えーと、、、後ろに続いていると思ってる長ーーーーーい過去の記憶をぷっつんと切るの。そしたらねえ。未来も消えるの!」
「。。。。」

きのうの飲み屋での会話。
飲んでてする会話ではないわな。
いんや。。。飲んでるから出来る会話かな?

私たちは、「自分」というものを過去の記憶によって作りあげている。
私の名前、私の仕事、私の家族、私の出身地、私の友だち、私の趣味、好み、考え、クセ、習慣。。。
そういうものをどこかで携えて生きている。

出来事や名前や肩書きが固形物なら、記憶はノリ。記憶というヤマトノリで、関西ならフエキノリでくっつけて、そのカタマリを背中に背負い込んで生きている。

過去この考え方で生きて来たから、当然その考え方で、未来も進む。
と言うことは、未来はある程度予測できる。過去の延長線上に未来があるからだ。その予測できる未来が気に入らないなら、過去を捨てることだ。

過去を消す、捨てる。
一見難しいけど、過去は今ここにはない。あたまの中の記憶としてあるだけだ。
きのうああしてこうしてあれ食ってあれ飲んで~。。。
思いだそうとすればいっぱい出て来る。
たのしかったなあ~またやろう~とか。

でも目の前にあるのはパソコンと文字。いつもの部屋の中の風景。

過去は重たい。過去を思いだすと思考が動き出す。
ああしてこうしてああなって、ああ、ああすればよかった、こうしておけばよかった。。。。
楽しいことばかりじゃない。心がすこし苦しくなる。
今まではそれが当り前だった。過去を振り返って、反省し、未来に繋げる。人生とはそういうもんで、大人とはそうするもんだと思って来た。

でも過去を今に持ち込まないと、軽くなる。
今?私?誰でもない何かがここにある。

あたまの中だけが騒いでいたんだ。
あたまの中だけが、あれじゃないこれじゃないと、苦悩していただけなんだ。
ことは勝手に起こっている。今も動き続けている。
それに判断を下していたのはあたまだけだった。判断が苦しくさせていたんだ。
過去に居続けたのは、あたまだけだった。

過去がつまった背負子をおろすと、安堵が広がる。
過去がどれだけ重かったのかを知る。

目の前に風景が広がる。
軽やかな何かが存在している。




絵:「主」/紙絵


2018年9月30日日曜日

共感の世界


共感。

この世知辛い世の中、右を向いても左も見ても苦しいことだらけ。日々の生活はつらいことのオンパレード。

そんな心の思いを吐露して共感してくれる友だちのありがたいこと。
つらいね。そうだよね。わかるよ。
そのとき、ああ、つらがっていいんだ、悲しがっていいんだ、ハラ立てていいんだ。。
自分の中から湧き出てくる感情を肯定してくれる存在。心に安堵が広がる。

感情的になってはいけないという段階から、その感情は人として持っていいんだという肯定の認識が生まれる。

共感は安堵し、よろこびが生まれる。
そしてまた同じことが起こると、同じように感情が動き、同じように共感を求める。
感情が動き、それを吐露し、共感され、安堵する。
それが繰り返される。

その繰り返しにふと気がつくとき、あなたはその共感の世界からはなれて見ている。
ぐるぐると回っている洗濯機の中から出て、回っている渦をみている。
そのとき、次の段階へと進む。



なぜ感情が動くのか。なぜここで悲しいと思うのか。なぜこれに怒るのか。
いつもそれに怒っているのが苦しいことを深くのぞいていくと、そこに必ず理由があることを知るだろう。とても個人的なものだ。自分に起こった過去の出来事の重なりで、その感情はわき上がってくるのだから。

その感情の起こりを、他人のせいではなく、自分のこととして観る。
不幸にも偶然出来事が起こり、あいつのせいであなたが怒らされたのではなく、その人はあなたの中にあるものを、表に出させようとして、役者をやってくれているのだと認識することをうながされる。
過去の、いつかどこかで自分の中から拒絶したものを見ていたのだと気がつきはじめる。


たとえば、「こういうことはいけないことだ。」と教えられると、その時からそれはいけないことなのだというルールが生まれる。
「それ、いけないんだよ」
「なんで?」
「だってママがそう言ってたもん」

そのルールめがねで世の中を見ると、なるほどそれはたしかにいけないことだ。それはぜひ正す必要がある。そしていつのまにかそれを正すことが、その人の心の平安をもたらすことのように思いはじめる。
だからそうしない人を怒る、裁く、うまくいかないと泣く。感情がわきだつ。



感情が起こるには理由がある。
最初に言葉がある。
その言葉にのっとって、
からだがぴくりと反応する。
そして感情が動く。
ほぼ同時。

こういう心の中の仕組みをひもといていくと、共感もまた感情の世界だと気がつく。
そこにはそれを解体していく方向性はない。

自分の感情の仕組みを知り、それに向かい、拒絶していたものを受け入れはじめると、正しいまちがっているというルールが、どれだけ人を混乱させ苦しめているのかわかってくる。そのルールを真正面から眺めていると、それは絶対的な価値感でも強固なものでもなくなってくる。
それでもまだ根深い価値観は残っているが、表面的な価値観にふりまわされなくなる。
感情がやって来ても、どこかで引いて見るようになる。
外からの共感は必要としなくなる。




別のよろこびがはじまる。
何かが手に入ってよろこんでいたものが、何もなくてもただうれしい。
安心できるなにかがあるわけでもないのに安堵する。

なんだ。こんなことだったのか。
そっかそっか。
子供のときもっていたものだ。
親からもらうルールめがねをかける前のあの感じ。

ただここにいることが、うれしかったあのころの。



絵:「杉」/紙絵



2018年9月26日水曜日

ビギナーズラック


庭の斜面にダイコン植えた。虫も食わずに元気。


ダイコン引っこ抜かれる。
落花生、食われる。
人参、引っこ抜かれる。
ジャガイモ、食われる。
トウモロコシ、食われる。
きゅうり。。なす。。。さつまいも。。。枝豆。。。

もー。
なに作っても、猿とたぬきに食われるやんけーー!
と、ふてくされていた。

ある日、庭を眺めていた。
「あ。庭には猿こねえし。たぬきもめったにこねえし(たまに来てるんかい!)」

ウチの庭は、はっきり言って畑にはまったくむかない。山に迫っていて、日があたらない。木だらけ。日陰だらけ。草のいきおいが強過ぎる。しかも急な斜面。
土もわけの分らん砂まじりの土。

やまんばは庭のあっちこっちのかたすみに、遊び心でダイコン、人参、落花生の種を蒔いてみた。
なぜか知らんがみんな元気に育っている。同じ時期に畑に撒いたダイコンは枯れ、何度も蒔き直しをしているありさまなのに。


片隅に植えた落花生。葉っぱのいきおいがいい。

小さなすきまに人参



これはいったいどゆこと!?
まったく肥料の入ってない、畑としてはほとんど機能を果たしていない場所に、元気に育つ野菜たち。

やまんばは、頭を抱えた。
そのとき畑でいちばん最初に種を蒔いた時のことを思いだした。あの時の爆発的な野菜たちの育ち方は半端なかった。しばらく放置されていた畑を開拓したので、たまりにたまっていた堆肥があってそうなった、ともいえる。

しかしこの二つの現象に共通点を見つけた。
ビギナーズラックだ。
物事の初心者がもっているとされる幸運のこと。

いやいや。私はすでに畑のビギナーじゃない。

ビギナーとは、すなわち過去がないのだ。
畑の最初の時、私には、畑に対しての過去がなかったのだ。
そして今、庭に対しても、庭に野菜を植えるという過去がなかった。

それは何を意味しているかというと、それにまつわる記憶がないと言うことだ。
ゼロ。ナッシング。
真っ白なあたまで、庭に、畑に、種を蒔いた。
庭と畑の最初の爆発的ないきおいの共通項はそのことだけだ。

ほぼ縁の下にジャガイモ植えた。どーなる???


過去。
最近そのことについてよく考える。
もし私たちに過去の記憶がなかったら、苦しみはない。
あのとき、あんなことされた、あのとき、あんなことしてしまった、
いいことも悪いことも、思いだしては比べ、嘆き、それを元に未来を想定し続ける。
過去の後悔と、未来の望みに翻弄される。

自分にまつわることもそうだ。
私はこんな過去をもっていて、こんな肩書きをもち、こんな性質をして、、、、。
その自分の過去が、自分をふりまわしていることに気づく。
こんな状況になったら、こんな風になってしまう私!そうならないためには、ああやってこうやって!と、そうならないための苦労をする。

ん?まてよ?今そんな状況にあるのか?
まわりを見渡せば、そんな状況にない。あたまがそれをイメージして大騒ぎしているだけだ。

そんなとき、過去を消してみる。
私の背中からずーっと続いていると思っている過去を、ぱき。と切ってみるのだ。

目の前には静かな光景。
いきなり静かになる心。
自分に対するたくさんのレッテルがない。
ゼロ。真空。すべてが止まる。時間がなくなる。


私たちはつねに時間の中にいる。
畑に種を蒔く。芽が出る。大きくなる、という時間がある。
すると次には、大きくしなければいけない、育てなければいけない、という次の観念が動きはじめる。
起きる時間、仕事に行く時間、ノルマをこなす時間、スケジュール、死に行くまでの時間、、、。
その時間の中で翻弄され続ける。

時間が止まる経験をすると、当り前だったはずの時間というものが、すこし苦しく感じはじめた。

ビギナーズラック。過去のない自分。
私はずっと、ビギナーでいられるだろうか。


無肥料栽培の白菜の育苗は全滅w




2018年9月23日日曜日

リアルヒストリーチャンネル(笑)



「きのうねえ。とーちゃんから電話があって、
『わしの金でふたりにおごっちゃれ』って、言われたんで」
「えー。あっちの世界から?
そりゃーかなり電話代高かったやろーなー」

きのう父の葬儀に来れなかった従姉妹ふたりと「つくしのとーちゃんを偲ぶ会」を小さなイタリアンレストランでもよおした。

偶然にも東京の西の果てに住んでいる従姉妹三人。同い年のこの三人は、滅多にあうことはないが、父の死をだしにはじめて三人顔をあわせた。


父についてのかれらの思い出を聞くと、私だけの視点が、かれらの話を通してなにかがぱたぱたと組み立てられ、父が立体的になってくる。そんな時間が好きだ。

そのうち話は自然と父方の家について。
断片的にしかわからない父方の系図。みんな二十歳前後から高知を出て記憶が曖昧。小さい時のおぼろげな記憶を頼って、それぞれの立ち位置から見た視点を語り合う。
三人の中にどんどん父方の構図が現れはじめる。スリリングなリアルヒストリーチャンネル。自分の身体の中の血がそれを味わっているかのようにうねりはじめた。

屋敷に火をつけられた話、
屋敷の中に武具甲冑があった話、
曾祖父は日本中を回っていた山師だった話、
金持ちと貧乏を行ったり来たりした話、
父は祖父の名前をまわりに絶対に口に出来なかった話。。。
これだけでも荒々しい家系であったことは確かだ。

やがて三人がそれぞれ小さい時から父に殴られて育ったことが判明。荒々しい家系にありがちなしつけの仕方だ。みんながみんな同じ待遇にあっていたことを互いが知り、小さなレストランに大きな笑い声が響いた。




過去はそれをじっと見、受け入れ、解消しないかぎりいつも近くにある。
似たような体験がやって来ては、その過去を思いだし、そのつど激しい波に心を震わせる。

それを何度も何度も経験していくうちに、私はそれと面と向かい合わないかぎり、これは消えないと気がつく。

父のせいでこうなったのではない。
私は父の被害者ではない。
私が自分の問題として受け取っていくべき経験だったのだ。



私は意識的に、何度もその時の恐怖と怒りをリアルに再現し、それの中に沈殿した。
それを再体験し、心を味わい、からだに起こる反応に耳を傾け続けた。

ある時は何かを「理解」し、ある時はそれが消え去り、ある時は何も起こらない。それをすることによっての結果など期待できない。そのつど結果はちがっている。

その訓練の中で、じょじょに心の中の言葉が消えはじめた。
言い訳、言い逃れ、正当化する言葉たち。自分の中でいつも大騒ぎしていた言葉たちが、静かになりはじめる。
そしてあるとき過去が、ぷっつりと消えた。

時間は直線的にあるもんだと考えていた。後ろに過去が長ーく線上に存在し、目の前には、かすかに未来の線が続いている。そして今立っている所が現在。そう信じて来たが、今はちがう。

苦しみは過去にある。過去の出来事にしがみつくから苦しかった。
しかし過去はいつでも消える。あたまが過去を呼び戻してくるだけだ。過去の視点を通して今を見ているだけだ。それは本当の今を見てはない。

過去があるあると思い続けていたから、過去はあったのだ。だけどないないと思った所で、それはごまかしでしかない。それが脅威ではないと知るためには、それを見なければ何も変わらない。


三人が同じ境遇であったことを笑い飛ばせたのも、私の過去への思いが消えたからなのだろう。

私はいつのまにか父を赦していた。






2018年9月20日木曜日

一杯のカフェラテ


夕飯をすませると、最近ダンナとふたり散歩する。

二キロ先にコンビニがある。最初はダンナのタバコを買いにいくのについていっただけなのに、食後の散歩がいいかんじなので、だんだん日課に。

高尾は街灯が少ない。すぐ近くに真っ暗な山の稜線を見ながら、いろんなコースを歩く。民家の間、国道沿い、川沿い、そしてなんにもない原っぱ。

時おり栗畑の中から「ブヒッ!」という声と、林の中をあわてて走りさる何ものかの音も聴く。

一瞬ドキッとするが、「ブヒッ!」と声をあげてくれるおかげで、かれらと直接遭遇せずにすむ。人間の存在を感じて、ビックリしてわざわざ雄叫びをあげてくれる。
いつも「ブヒッ!ザワザワザワ!」だ(笑)。



帰り道、コンビニで買った一個のカフェラテを、その原っぱの真ん中に座って、ふたり分け合って飲む。

真っ暗な広い空を眺めながらコーヒータイム。目の前には精神病院の明かり。それがゆいいつの人工的なもの。あの明かりの中には、いろんなドラマがあるのだろう。
しかしそれもどこか夢の世界のよう。

時にはいろいろおしゃべりをして、時にはただじっと黙って。
目の前の猫じゃらしが、病院の明かりを通して透けて見える。
すべてが静かで満たされている。美しい時間。


カフェラテを買いに行く時間帯が、ちょうどカフェラテのマシーンを洗う時間と重なっていたため、何度か買えない日があった。でもいつのまにか従業員の方が私たちが行く時間にあわせてくれていた。そういう心遣いに、胸が熱くなる。

一杯のカフェラテ。
猫じゃらしの手触り。
広い空。
飛行機の点滅。
足の裏の地面の冷たさ。

「私」が広がりはじめる。


絵:紙絵/水引草


2018年9月18日火曜日

樹木希林、かっこいい!



樹木希林、大好き。
あの人が、かっこいなあと思うのは、
自分に起こることを受け入れていく潔さだと思う。

内田裕也との関係は、わたしならさっさと切っちゃうのにっておもうけど、何かしらのふたりの因縁や事情があるんやろね。

それよりかっこいいのは、老いや病気に面と向かって、戦いでなく、受け入れていく姿勢。
私はきっとその部分でひかれている。

そりゃあ、がんが見つかった時点で心は本当に恐怖を感じていたと思う。
だけどそのことに対して、向かい合って、じっと考え、やがて静かに受け入れた彼女。
しかも公然と、『私は全身がん』と公言できる強さをもっている。

今の日本人が、ずいぶん前からどこかへ置いて来た、心の姿勢を彼女はもってる。
「私はそんな大それた人間じゃないのよ。弱い人間よ」
といえる強さ。
ああでもない、こうでもないと、死という現実から逃げようとしない、腹の座ったムードが彼女全体からあふれていた。
それは昔の日本人のような凛としたたたずまい。

彼女の死は、私たちにそんなものを思いださせてくれた出来事なんじゃないかな。


私も今日はバイトが超忙しくて、ヘロヘロになって帰って来た。
アメリカの仕事があるとおもいつつも、あまりの疲れに爆睡する。目が覚めても動けない。疲れと焦りでもんもんとした。

無理矢理起きてパソコンをいじっているうちに、ふと自分があることに抵抗していることに気がついた。
疲れに抵抗していたのだ。

疲れることはいけない。
風邪をひいてはいけない。

私たちは無意識にこういう観念の中で抵抗する。
今まさに、起こっている出来事に、抵抗している自分に気がついたんだ。

抵抗するから苦しい。
疲れでしんどいのに、その疲れに抵抗する自分。疲れてはいけないと思い続ける自分。二重三重のきつさを、自分で作っていることに気がついた。

疲れてもいいんじゃないか?
風邪を引いてもいいんじゃないか?

そんな疲れも受け入れていくと、すっと楽になった。


あるがままを受け入れていく樹木希林さんも、
そんな生き方だったのかな?

若いうちから老け役を徹して来た彼女。
彼女だからこその、老いというテーマをずっと学んでいたのかもしれない。

彼女の生き方は、私たちにいろんなものを教えてくれている。

ありがとう。
そしてほんとにお疲れさまでした。



絵:紙絵/「ススキ」