2018年6月20日水曜日

京都の旅 フィナーレ


約束の時間に一時間も早くついてしまった。

鴨川と高野川が合流する三角州、鴨川デルタでぼーっとする。霧雨の降る朝は誰もいない。靴を脱いで裸足になる。旅の疲れが地面にスーッと抜けていく。

対岸を通勤の自転車がときどき走っていく。37年前、私はここにいた。紫野にある織ネームの会社のデザイン室に自転車で通っていたことを思いだした。その時は川を眺めたり、自然を味わったりする余裕などなかった。はじめての社会人。この社会についていくことに必死だった。



京都の旅のフィナーレは、ある女性と会うことだった。

彼女とは高尾の山で知り合った。物語りはここでは語りきれない。
彼女の笑顔、彼女の涙、彼女の性格、彼女のファッション、彼女の才能、彼女の仕草、そして彼女の感性。強烈な印象を私の心に残して、高尾山のふもとから筑波山のふもとへ、そして筑波山から京都は比叡山のふもとへと、花から花へ渡る蝶のように渡っていった。

英国でイングリッシュガーデンを学び、高尾で日本の大自然に溶け込んで、独自の感性を磨いて来た彼女。その感性は、今京都という土地にどんなふうに反応するのか、どんなふうにメタモルフォーゼさせていくのか、一人の目撃者として覗いてみたかった。

待ち合わせ場所はかつて私が住んでいた場所、出町柳。
これも不思議な縁だ。ある日彼女がフェイスブックに載せた、見覚えのある商店街の写真に目を見張った。どうして彼女がここにいる?
彼女は今出町柳から出る叡電の駅、比叡山のふもとに住んでいた。

「よっ!」
「よっ!」
まるで先週も会ってたかのように、あいさつしあうふたり。
すこし緊張するような、どこか照れくさいような、へんな感じ。
高尾で会う時は、寝起きのまんまのような格好だったのに、白いシャツを着た彼女は大人びてみえた。これから仕事に行くという彼女と、旅の途中の私。どちらもよそ行きの格好で会うぎこちなさ。

「あ!なつかしい!ここあったあった!」
「ここは?」
「あー。これはなかったなあ。。。」
出町柳の商店街の中で、お互いの共通項を確認し合う。かつて知っていた場所の私と、今知っている場所の彼女。過去と今が融合し合う瞬間。

その足で、たよりない記憶を辿りながらかつて私が住んでいたアパートへ。そしてあの当時の面影そのままに残っていたアパートに、すこしショックを感じていた。
どこか変わっていてほしかったのだろうか。どういうふうに?
走馬灯のように記憶がめぐる。
あれは、、、あのとき、、、そうして、、、、こうだった。
過去を消したい自分がいたのか。それともいつまでもそこにたゆたよっていたい自分がいるのか。過去の自分と今の自分が噛み合ないジレンマにとまどっていた。



「京都は今、小さな映画館がいっぱい出来てるんだよ」
商店街の中にある映画館の一階のカフェで、彼女は今の京都を話してくれた。
先日、高知で似たような小さな映画館を見つけた事を思いだした。華やかなハリウッド映画とはちがう、地味で奥深い作品が今の若い人たちにじょじょに浸透して来ているようだ。
「ここの二階が映画館。そして三階で、若い人たちに映画作りを教えてるんだって!」

不思議な感じがした。なぜならその前夜、美大の恩師から最近の若者の映画作りの話を聞いたばかり。しかもまったく正反対の意味で。

ある大学に、太秦の映画村の中を使わせてもらえる、至れり尽くせりの映画部という学科が出来たそうだ。ところが学生たちはちっとも映画作りに興味を持たない。昔気質の映画人の教え方に、いとも簡単に逃げ出すのだと言う。

じつは私の元ダンナがその大学出身で、映画作りをしていた。太秦の映画村で映画を作れる学科ができたなどというはなしを聞いたら、ぶっ飛ぶだろうなあ。あのころはなけなしの金で必死に八ミリを回していたのだから。

嬉々として映画を作ろうとしている若者と、やる気のない若者。これはいったいなんだ?

今は簡単に動画が作れる時代。やろうとおもえばスマホでも。ここにきて、フィルム仕込みのスポコン系のやり方では時代遅れということか。
いやいやそういうことではなく、撮ること、編集すること、そして完璧さや畳み掛ける説得力を求めるよりも、そこに現れてくる内容、表現、ムード。今の人々はそんなものを求めているのかもしれない。

先日、立て続けに見た映画も、なんともいえない静けさのようなものが漂っていた。昔は退屈な日常を活気出させるような映画が求められていた。でも今の人々は、あまりにも忙しい日常に、ほんのすこし、ゆっくりと流れる時間や、心が落ち着く静けさの中にいたい、そんな風に感じているのではないか。もしかしたらその時間を味わいに、2時間という映画の禅寺に来るのかもしれない(笑)。
そこに今の人々が求めるヒントが隠されてると感じた。



その後美味しい京都のおばんさいの店でお昼を堪能する。
そして古いジャズ喫茶でチャイを飲む。彼女はもうそこでは常連さんだった。

京都はどこに行っても、どれを見ても極まっている。時代がどんなに変わろうと、京都はいつも京都だ。たとえ観光客にふりまわされようと、それは昔っからのこと。その度ごとにふわふわとゆらゆらと生き抜くしなやかさと強さをもっている。
彼女はもう既にその気質をもっている。


高尾に戻って、彼女と一緒に買った双葉の豆餅で、ひとりビールを飲む。

高尾山から比叡山へ、そっと私の伝言を届けてもらおう。
「たのもしい彼女に乾杯」

雨にぬれた緑がいっそう美しく輝いた。





絵:紙絵/アケボノソウ





2018年6月16日土曜日

京都の旅 その3


恩師の個展会場は、ちょっとわかりづらい所にあった。
コンビニの店員さんに聞いても
「はあ~。よおわからんのやけど~、たぶん~、川沿いに行かはったらええんちゃうかなあ~と、おもいますわ~。。。」
と、あいまいな返事。

それでもなんとか行き着いた。
「待ってたでえ~~~」
と、待ちくたびれ顔の恩師。
「ゴメ~~ん!待たせちゃったあ~~~」


ギャラリーの奥にもうひとつの入り口。中は真っ暗な20畳ばかりの壁面いっぱいに、モノクロの動画が映し出されていた。
「カシャカシャカシャ。。。」
せわしない音が絶えずしている。
「何の音?」

12枚ほど並べられた動画の中をゴキブリが動き回っている。あるひとつの部屋の中をいろんな角度から写した防犯カメラの映像のようだ。

空間の真ん中に四角い箱が台の上に乗っている。上から照明があてられていて、覗くと小さな部屋があった。
カフカの『変身』をイメージしたその部屋は、古い調度品に囲まれたアンティークな小部屋。重厚感があってなかなか雰囲気がある。これは今回の個展のために、美大の私の先輩、ミニチュアドールハウス作家さんに作ってもらった作品。
真ん中にペルシャ絨毯が敷いてあり、その上にこわれたゴキブリ。。。もとい、こわれた虫の形をしたおもちゃが散乱していた。

「せんせー、このゴキブリこわれてるのに、何で映像は動いてるのん?」
「ゴキブリちゃうでー。虫や!虫!ほんまは、リアルタイムで映像流したかったんやけどな。このおもちゃの電池15分しか持たへんねん~。そやから動画は録画!」
と、いきなり種明かしをする正直な恩師。

「よお見てみ。頭んのことろ、だれがおるねん?」
ゴキブリの頭に丸いものがついていて、よく見てみると、私の顔が映ってるではないか!
「ありゃ~!私や~私の顔や!つくしゴキブリが動いてる~~~。うひゃひゃ~!」
ギャラリーの入り口にある防犯カメラが人物の顔を捉えて、それをゴキブリの頭の所に貼付けるというワザをやっていた。

よくもまあ、そんなアホっぽいアイディアが浮かぶもんだと、恩師の遊び心に呆れる。さすが貯犬箱を送りつけて来た人物だけのことはある。



恩師はかつて美大時代に私に写真を教えてくれた先生。
あのころは薄めのサングラスをかけてちょっと長めのヘアースタイルにちょびひげをたくわえた、ひょうひょうとしたドン・ガバチョみたいな風貌だった。私がどんなムチャぶりを言っても、親指と人差し指でヒゲをはさんでしごきながら「ええでえ~~」という。ちっとも怒られた記憶がない。35年後に私の大阪の個展に来てくれた時もその面影は変わっていなかった。


とはいえ、写真家としての恩師の今回の作品は、写真というよりは、遊び心満載のコンセプチュアルアートという感じ。一瞬のウケは狙えるが、それが心に響くかどうかはまた別問題。
今回の恩師の作品展は、正直言うと私にとっては作品としてのインパクトはなかったなあ。先生、ごみんなさい。

その後、あくの強い居酒屋や、おしゃれな立ち飲みバーなどに連れて行ってもらい、楽しい京都の夜は更けていった。
先生、ごちそうさまでした!


絵:紙絵/般若



2018年6月13日水曜日

京都の旅 その2



薄暗い部屋の中に、長谷川等伯と長谷川久蔵の国宝はあった。

パンフレットに絢爛豪華に印刷されているものとはまったくちがう、金箔がその輝きを時の流れとともに変化させていった、私好みのものだった。

それはミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会で見たダヴィンチの「最後の晩餐」を彷彿とさせた。
描かれた当初はさぞかし美しい絵であったろうその壁画は、食堂にあった時代に湿気やすす、馬小屋に使用されたおりの臭気や排泄物、その他洪水や空爆による損傷でひどく風化していったようだ。実際この目で見ると、教科書で見た絵とはまるでちがい、真っ暗でほとんど何の絵かわからないほどだった。
それがなんとも言えない感触をこちら側にあたえ、ずっと見入っていたものだった。


雨のせいか平日のせいか、空間には私ひとり。あの時の感覚を思いだしながら、ゆっくりひとりぜいたくに障壁画を堪能した。
松のうねり、枝のうねり、草の流れ、花の弾け。いろんな楽器がそれぞれのリズムを奏でながら大きなオーケストラの楽曲を聴くように見る。からだが勝手に松のうねりにあわせていく。私は音のない音を聴いていた。



「今、智積院を出た。ここからどう行くの?」
細く長くつながっている京都の知人に連絡をする。久しぶりに電話したのは、出発の前夜だった。
「そこ、東大路通りやろ?タクシーに乗って、まーっすぐ北に上がってもろて」
そんな私を軽々と受け入れてくれる人物。
「突き当たりのコンビニで待っててや」
タクシー代を払い終えて降りると、そこににこにこする彼がいた。
「よおきたね」
「ごめーん。急に勝手なことお願いして」
「かまへんかまへん。こっちはいつでもええで」

東山にある小さな小料理屋さんでハモの天ぷらをご馳走になり、その足ですぐ近くにある京都大学のサロンで、京大生のような顔をしてお茶をした。どう見てもちがうけど。

一見人の良さそうな彼だが、じつは鋭い眼力を持っている。二年前に大阪で個展を開いたとき、私の作品を見た彼に一撃を食らわされた。
「作者の意図が丸見えや」

あの言葉で、はじめて私のイラストレーターとしての職業の短所が、外側から意識化された。クライアントの要望が大前提の仕事。同じ絵を描くといっても、最初にクライアントありきのイラストレーターと、内側からわき上がるものをつむいでいく絵描きとはまるで出発点がちがう。
クライアントの要望の全体像を最初に頭に描いて、それを目標に描くイラストの仕事。30年間培われた、クライアントの要望ありきの絵描きは、その染み付いた習慣をそう簡単に落とせそうにない。

彼もまたその昔写植をやり、今はデザイナーである。彼の表現は小さな豆本を作ること。活版印刷や製本など、一からすべて自分で作る。その世界にうとい私は彼の世界感をどう見ていいかわからない。しかし活版印刷独自の肌触りやノスタルジックな空気感がなんともいえない。言葉の内容と手に取った豆本の触感が一緒くたに手の中で表現されている。彼の「作品」を手でちょくせつ触るその恐ろしさとはかなさに、おっかなびっくりになる。

「これがなかなか外せへんのや」
コーヒーをすすりながらいう。

目が細いせいか、いつも笑っているように見える。にこにこしながら、その眼の奥に物事をするどく読み解くワザを秘めている。
ぱっと見、白い口ひげを生やしてめがねをかけた初老の彼は、京大の教授にみえないこともない。老子の道徳経の講義でも開いていそうな風貌だ。いやむしろ、現代の老子?

クライアントありきの世界は、彼もまた同じ。私の表現上の葛藤は、彼の中では重々承知のうえでのことだった。その上でひょうひょうと自分の表現を生きる。クセを外せない自分。葛藤もまた好し。それもまた表現。

彼のにこにこはすごみになり、言葉にならない言葉を私に伝えてきた。



絵:紙絵/樹


2018年6月10日日曜日

京都の旅 その1



久しぶりの京都は雨が迎えてくれた。
京都駅から206系の市バスに乗って、長谷川等伯の国宝の障壁画を見に智積院に向かう。

込み合う車内で、肌が独特の感覚をとらえていた。

「発車します。。。」
バスの中で運転手さんの小さな声が聞こえる。バスはゆっくりとうごきだした。渋滞する車のあいだをくねくねとヘビのように蛇行しながら走るバスはすぐ大通りの信号で止まった。
「信号待ちです。。。」

そぼ降る雨の中を、観光客や地元の人々が入り交じって横断歩道を歩く。京都独特の風景。信号はなかなか変わらない。
「発車します。。」

やっと発車したかと思うと、すぐまた信号。
「信号待ちです。。」


一番前に座っていた私は、このゆっくりとした時間の流れにとまどいつつも、心はうきうきしはじめた。
ああ、こうだった、こうだった。あの時の京都と、時間の流れはちっとも変わっていない。



39年前、私はこの土地にいた。
高知の田舎を脱出してはじめてうつり住んだところは、日本の文化の頂点ともいえる京都だった。
はじめての人々、はじめての方言、はじめての空気感。太陽ギラギラパッカーンとした高知とはまるで正反対。じっとりねっとりした空気の中に、洗練の美がそこかしこにひそむ。
あれは誰々はんが作らはったお庭。
あれは誰々はんが作らはった茶の道。
あれは誰々はんが描かはった国宝。
あれは誰々はんが見つけはったお茶碗。
あれは誰々はんが作らせたお寺。。。。
道を歩くと、辻ごとにいわれのあるものにぶちあたる。

田舎もんまるだしの青二才が、そんな濃厚な歴史に乗っかれるはずもない。しかもあろうことか美大生のくせに親にナイショで音楽に走り、巨大な京都の文化にひるみまくって素通りして来た4年半だった。

そして今大人に、、、いや初老にひっかかってる私は、京都をえらそげにも余裕を持ってみていた。京都は修学旅行で来て消化できる所ではない。大人になってこそ味わえる場所だ。(じゃ、どこに修学旅行に行くのだ?)


まあそんなことはさておき、今回の旅は、ある日アマゾンからえたいの知れないものが送りつけられて来てから始まっていた。

「これ、なに?」
開けると、小さな箱の上にビーグル犬のような犬が乗っかっている。箱の横には英語で「CHOKEN-BAKO」とかかれている。
「ちょ、ちょけんばこお?」

送り主はアマゾン。そりゃわかっちょる!だからいったいだれやねん!
送り主の所に小さくケータイ番号を見つける。
この数字の並び。どっかに記憶あるぞ。。。
ケータイの電話番号登録ですぐわかった。美大時代の恩師のケータイ番号だった。

「おれの個展に来いよ」
「センセー、金ないよー」
「なら貯金して来い!」
と、SNSでやりとりしたのは、言葉の上でのお遊びじゃなかったのか。。。

恩師のレベルの高いジョークに少々辟易するも、これは卒業後も数々のご面倒をおかけした恩師への恩義をお返しする絶好のチャンス!とおもいたった。

「よし!今から100円づつためると、一年後の今ごろは、三万数千円貯まっているはず!これで京都にいくどーー!」

その日からそのワン公、いや恩師の名前をもじって、「みーちゃん」に毎日100円玉のエサを与えることにした。

みーちゃんの足元にはエサ箱がある。そこにコインを入れると、みーちゃんは首を下げ、がつがつとエサ(コイン)をむさぼるかのように、ブンブンと首を上下左右に激しくふりまわす。それにあっけにとられてみているあいだに、エサ箱はほんの少し傾き、コインは足元にある箱の中に消えていくという寸法だ。
横に書かれた「CHOKEN-BAKO」という文字も、CHOKIN-BAKOのつづりを間違えたものではなく、貯犬箱というなかなか粋なダジャレだったのだ。
やるじゃん。みーちゃん。

とかなんとかいいながら、さすがに50過ぎの大人は子供のよーにずっと無邪気になれるはずもなく、毎回のみーちゃんのはげしいエサのかぶりつきに飽きてしまい、みーちゃんはいつのまにかほこりをかぶってしまっていた。

そうこうするうちに、恩師の個展が近づき、みーちゃんの乗っかっている箱をあけてみた。
貯まっていたエサは、8127円。これじゃ名古屋までもいけない。行くのやめようか。それとも夜行バスで。。。?

その頃ちょうど父の告別式や49日の法要などで行ったり来たりの真っ最中。夜行バスに乗る気力もない。恩師の「貯金をして、、、」という期待には答えられないが、大人なわたしはさっさと足りない分を足して新幹線にぴょんと乗ったのであった。


京都の旅はつづく。。。




絵:紙絵/むかご


2018年6月6日水曜日

父の遺産



四十九日の法要のあと、父の遺産の全貌があきらかになってきた。

財産と言えば聞こえはいいが、父と義母が住んでいる小さな家と、二つの銀行にいくつかの通帳があっただけ。
おそらく異動のたびに銀行マンに頼まれて、口座を開いていたのだろう。同じ銀行でいくつもの支店の通帳をもっていた。預金通帳にも小さな額をちょこちょこ入れて、すこしつづためて来た形跡があった。

公務員とはいえ、しがない地方公務員。出世欲も金銭欲もなかった父。保険も一番最低の簡保に入っていた。見事に父の等身大の財産が残されていた。

それをみて父らしいなあとおもった。
好きな酒を好きな友人と飲む。ささやかな彼の人生がそこにあらわれていた。

保険と言えば、死亡時に何千万円、何億円という金額をかける時代。そんな時代にはめもくれず、「おれはそんなもんには入らん」といったそうな。
「ひょっとしたら。。?」
と、いらぬ知恵が一瞬よぎった私がはずかしい。


いつのまにか私たちは大きなお金を欲しがるようになった。
それは家という大きな買い物をだれもがする時代になったからかもしれない。建て売りの出来上がった既製品を、服や家具を買うような感覚で一気に買う。人生で一番大きな買い物だ。

だけどほんのちょっと昔までは、家と言うとすでに出来上がった既製品を買うというものではなく、すこしまとまったお金が出来ると、あそこを増やし、あそこを直ししながらじょじょに建てていく人々の暮らしがあったそうな。昔知り合った棟梁からそんなはなしを聞いた。
それはまさに人の背丈にあった生き方だったのではないか。

そしてやっとローンも払い終えたかと思うと、今度は老後の心配だ。
何歳までにはいくら必要だ、こんだけもってないと悲惨なことになる、などとメディアは消費者をあおる。老後は?病院は?はてはなにかあったときのために!
いったいどれだけもっていれば心が休まるのだろうか。

しかし考えてみると、人類始まって以来、ここまで必死に老後に備えていた時代はあっただろうか。ついこの間までその日暮らしってのが庶民の生活だったんじゃなかったっけ?
あれは落語だけの話?

また父は警察官でもあったため、人間が何を動機に犯罪を犯すか、いやほど見て来たにちがいない。その一番の動機はお金。
お金がいかに人を惑わし、狂わせ、奈落に突き落とすかという暴力の現実をみてきたのだ。実際父も金持ちと貧乏という極端な変化を体験する家庭に育って、心身ともにふりまわされてきた。

大きな単位のお金が動く時代。それはけして人の背丈には合っていない額。いないが故にそこに不自然なものが浮かび上がる。世帯主が亡くなると、親子や兄弟が血みどろの争いを起こしはじめる。

「ないほうが幸せ」
莫大な財産を残した父親を亡くした友人が語った言葉は重かった。


父は私を決して浮き足立たせてはくれなかった。
それは父の生きて来た知恵だ。

『おまえの足で生きろよ』
そうメッセージをくれている気がした。

少しずつためていたとーちゃんのお金。
だいじに使わせてもらうよ。



2018年5月26日土曜日

優柔不断とやさしさと。



紺地に水玉模様のほっかむりをした初老のおばさんが野良仕事をしている。

薄緑色のエンドウのサヤをプチプチちぎりながら、彼女の心はちがう所にあった。

「何でわたしはこんなに薄情なんだ」
「何でこんなにうそつきなんだ」
「何でこんなに優柔不断なんだ。。。」

彼女は人とのやり取りの中で、いつも二つの意見を持っていた。
ひとつはその場の流れを乱さない意見。
もうひとつはまったくちがう視点からの意見。
そして選択されるのは、たいてい流れを乱さないほう。

すると彼女はそんな自分にちくりと針を刺す。
「このうそつき」
自分をのろいながら、会話の川にながされていく。
たまに嘘つきな自分に嫌気がさして、ちがう意見をなげてみる。
すると川の流れは急にぎこちなくなり、それまでの空気が変わってしまう。

「あ、やっちまった。。。」彼女はあせる。ドキドキしながら、また川がいつものように流れはじめるのを固唾を飲んで待つ。
そんな自分にもいやけがさしていた。

「これ、どっちも苦しいじゃないか」
ふいにエンドウをちぎっていた手が止まる。

空気を読んだ意見をいう自分を否定し、正直な意見を言う自分を後悔し、あげくにつねに二つの意見を持つ自分の優柔不断さをのろう。
何を選択しようとも否定していた。

その時、今まで考えたこともなかった言葉が出た。
「あ。わたしは、やさしいんだ。。。」

ちがう意見を持つのに人に合わせる意見を言う自分。それは優柔不断から来ているのではなく、ひとえに人を思う心から来ていた。そのことに気がついた瞬間、胸のあたりがふわっと軽くなった。


手にした白い粉が吹いたエンドウのむこうに、過去の出来事がみえた。

高校時代、門限は8時と決まっていた。
厳格な父の決めごとは死守すべきものだったが、ある時友人の恋愛相談をうけて、門限を30分おくれてしまった。

玄関で仁王立ちした父の顔は真っ暗で何もみえなかった。言い訳は聞き入れてはもらえない。間髪入れず鉄拳が飛んで来た。岩のようなげんこつを顔面に食らって、コンクリートの地面に吹っ飛んだ。

その夜、湯船につかりながら泣いた。
父が怖くて泣いたのではない。友だちを裏切ったことと、自分の力不足に泣いたのだ。
友人の恋は切実なものだった。泣いて訴える彼女を振り切って帰って来た自分。友人よりも父に殴られることを怖れた自分。結局どっちも失敗に終ってしまった現実。自身のふがいなさになさけなく、そして今も苦しんでいるであろう友人の心の痛手を思うと、涙が止まらなかった。
今思えば、それは友人を思うやさしい気持ちからの苦しみだった。


「わたしは今まで自分を冷たい人間だとばかり思っていた。。。」
目の前に草だらけの畑が広がる。この農法は草を刈り続ける。彼女は草を刈りながら、草にわびをし続けていた。
「ごめんよ。ごめんよ。でもあなたたちのおかげでおいしい野菜が食べられる。わたしはなんて勝手なんだ。おいしい野菜を食べたいが故に、あなたたちを育て、そして刈る。人間てなんて勝手なんだろうね。。。」
自分の勝手さをのろいながらも、この農法がやめられない。そういう自分をまたのろう。

でもそれに気づいていることもまた、草を思うやさしさからきているのではないか。

実際、彼女ははたから見たらやさしいひとではないのかもしれない。人の意見は千差万別。だけど大事なのは、彼女が自分をやさしいのだと自分自身を肯定したこと。

わたしはやさしい。
そう口にするたびに、心はふわっとなる。

いくつもの意見を同時に持つことは、物事を冷静に見れていることでもある。そしてその選択は吟味して選ばれたものであるのなら、それこそやさしさゆえではないか。
そうおもえた時、いくつもの分裂した意見は、ひとつの大きなものに統合された。

たわわに実ったウスイエンドウが彼女にほほえみかけていた。


2018年5月19日土曜日

落ち込んでるのん?

落ち込んでる、、と思ってたら、
心が静かなだけだった。

人はどっかで、明るい気分のほうがいいっておもってるよなあ。
ほんとはそう決めつけることもないのかもね。

じーっと暗闇にある池の表面を眺めている。
少し風が吹いて、水面がささささと、縮緬のように波打つ。

そこに感情の波を見る。
言葉にならない感情の細かな波。

あれは悲しみの波だ。
あ、あれは怒りの波だ。
今見えたのは、胸をぎゅっとさせるやるせなさ。
あれー嬉しがってる波もある。。。

感情の水面はいつも波立っている。
本当は一個じゃない。
ありとあらゆる感情が一緒くたになって、常に動いているのだ。

それに気がついたとき、
落ちこんでいると思っていた気分は、
ただ静かな感情があっただけだと知る。


2018年5月10日木曜日

親孝行のかたち



「おまえをよろこばせちゃろか」

父がうれしそうに電話をかけて来たのは、父の死の三ヶ月ほど前だった。
「うんうん、よろこんじゃる。何?何?」

年明け、父は退院して家に戻り、その後手厚い訪問看護を受けていた。そのいつも来てくれる看護士さんが、ある日私のこのブログを見つけたのだと言う。
「ウチにある絵を見て、彼女はおまえの絵のファンじゃが、ブログがしょうおもしろいがやと!」(注:しょう=とても/高知弁)

父が私をほめることは滅多にない。理由は「おまえはすぐに調子に乗る」から。
だからその彼がわざわざ私にそんなことをいいに電話をかけて来たのにはおどろいた。うれしそうに何度も同じ話をする彼の笑顔が手に取るようにわかる。

たかがブログでそんなによろこんでくれるなんて。。。
と思った時、はっとした。
あ。これが親孝行だ。


ずっと私は親孝行が出来ていないと思い続けていた。
親孝行とは、親を旅行に連れて行ったり、本を出したり、有名になったりして、
「お父さん、どお!?こんな本を出したよ!」とか「こんなに有名になったよ!」とかいって、
「おお!おまえはすごいなあ~」
というふうに親をよろこばすもんだと。


一度だけ、父との旅行を計画したことがあった。母と離婚したあとの父をよろこばそうと、自分なりのツアーを考えた。まずは鞆の浦の古びた街並と瀬戸内の鯛を堪能し、海の次は山陰の山奥にある奥津温泉にまで足を伸ばし、棟方志功が晩年よく通ったという旅館を用意。私は父とふたり、冒険気分で行く予定だった。

ところが直前になって、別れたばかりの母が「私も行く」と言い出した。
父と私の分だけを用意したお金は、母が参入する事になって足りない。
けっきょく母の分は父に出してもらうという、なんともかっこ悪いことに。これじゃ親孝行にならない。おまけにまさに犬猿の仲まっただ中のふたりのあいだに挟まって、あっちの機嫌、こっちの機嫌と、どっちものご機嫌とりに右往左往する私。

遊覧船に乗ったとき、横に並んだふたりの、互いにそっぽをむいた顔が今でもうかぶ。
そして鯛づくしの豪華な夕食も、母の口にかかっちゃイチコロだった。
「いや。これ冷凍の鯛や。おいしゅうない。。。」
鞆の浦名物の鯛料理にことごとくケチをつける母。一気に気分も盛り下がる。
やっぱり連れてくるんじゃなかった。。。。と後悔すること山のごとし。

しかし最後の奥津温泉での料理は、母を唸らせた。
まず器が良かった。昔ながらの古い本物の漆器を大切に使っていた。その上に美しく盛られた料理のほんとうにおいしいかったこと!目と口のうるさい母は、このすべてに感激する。あとのふたりもツラレて感激する始末。まったくこの一家は、いつまでも母のノリにふりまわされる。
そうはいいながらも、床に入り川からあふれてくるはじめてのカジカの声に耳を傾けながら、母もつれて来て良かったとおもったものだった。

だがこれが父への親孝行になったとは到底思えない。父があの時どんな思いをもっていたのかは今は知るよしもない。

そんないきさつもあり、私は一度も父に親孝行をしていないと思い続けていた。
しかし今、それがひょんなことから親孝行が出来てしまった。
お金もかけない何の努力もしていない、好きなように好きなことを書いているこのブログのおかげで。

なんだ。。。こんなことだったのか。。。
肩から力が抜ける。
彼のうれしそうな声を聞きながら、ああ、これでよかったのだと、心底安堵した。


あとから叔母に聞いた話。
「お兄ちゃんは、つくしちゃんの記事が掲載された高知新聞を、毎月大阪に送ってくれてたんよ。あんたは自慢の娘!」
その昔、毎月シリーズで高知新聞に私の記事が掲載されていた。父はそれを余分に買って、わざわざ親戚に送っていたのだ。

そんなことも知らなかった娘。父の思いと娘の思惑は、どうしてこうもずれるのか。
きっと世の中は、互いの思惑の違いで、心に後悔や罪悪感を抱える親子がいるにちがいない。ほんとうは親孝行なんて大仰な思いを抱える必要もなかったのではないか。
「ただあなたが元気でいてくれるだけでいい」そんな風に親は思っているのかもしれないし、また子は子で、「親がいてくれるだけでいい」そう思っているだけなのかもしれない。


いつのまにか私たちは形で示すのが愛の表現だと思いはじめた。
ほんとうは最初に愛があり、その表現として形にあらわれただけなのに、いつのまにか最初に形ありきになってしまった。形を示さなければそれは愛ではないというまでに。

そうして人は形ばかりにこだわってしまった。逆に言えば、形さえ繕っておけばいいという殺伐としたものにもなりうる可能性もあるのだ。口先だけ、形だけになる世界に。

そしてまたご多分に漏れず、それが私の思っていた親孝行の形であった。厳密に言えばそれは父への侮辱でもあったのだ。
愛はとてもシンプルなものかもしれない。何かをすることによって、そこにいることを許されるのではなく、ただそこにいるだけでいいのだ。

私の場合は、ただ自分が楽しんでやっていることを、人を介して父も楽しんでくれていた。
父は父自身が楽しむというよりは、人がそれを楽しんでくれているのを見て、幸せを感じる人であったように思う。
父の死の間際にそれが知れたのは幸運だった。


あの親孝行の一件から、私は何かが吹っ切れた。父にたいする後ろめたさも後悔も懺悔も消えていた。
親孝行してくれてありがとうと言われたわけでもないのに、父が心底よろこんでいくれていることに気づけた。ひょっとしたらあれが一年前であったなら、私は気づけなかったかもしれない。

ことは自然に起こる。
たとえ大事な人がいなくなったあとでも、ある日ふと気づきが起こる。
それは孝行したい相手が生きていようが死んでいようが、その人にあったベストなタイミングで。

そしてそれこそが、この世が愛に満ちているあかしではないだろうか。





2018年5月3日木曜日

母の煮物



「台所に煮物があるき、お皿に入れて持ってきて。」
私は赤絵の骨董品の小皿を選び、ガスコンロの上に乗っているお鍋のふたを開けた。

「味見してないけど、食べてみて」
大胆に切られた大根とジャガイモがゴツゴツと入っている。その上に大きな鮭の切り身が4枚綺麗に並んでいる。母の言う通り、味付けをしたあとかき回されたり味見をされたあともない。
「え~。これ、大丈夫?味見してからにしてや~」
いささか不安になった私はぼやいた。
「ええから。早う持ってきて」

テレビのある部屋のソファで座っている母に持っていく。
「早う。食べて」

昔はきれい好きだった彼女も、年をおうごとにいろんなことが億劫になってきた。高知に帰るたびに汚くなっていく住まい。汚すぎて触る気にもならない台所。シンクの上を小さなゴキブリが我が物顔でウロウロ。
ただでさえ食欲をそそらない場所で、ヨーグルトがあるから食べろだの、野菜ジュースがあるから飲めだの、あれこれ私に食べさせようとする。
そのあげく、味見もしてない煮物を私に食えと。

「拷問以外の何物でもないな。。」
いやいや食べた。
「あ。美味しい。。。」
「そやろ?」
ニヤッと笑う母。

よく見たら、大根の皮もジャガイモの皮もついたまんま。
「大根の皮ついてんのに、なんでこんなに柔らかいん?前もって茹でたん?」
「なーんもしてない。そのまんまゴンゴン入れて、煮付けて終わりよ。」
大根もジャガイモも鮭も皆それぞれが美味しい。大根から出たであろうちょうどいい甘さと塩加減。思わずおかわりした。

高校卒業後、高知を出て久しい。母の手料理は私の記憶から遠のいていた。それが父の容体悪化のため度々高知に戻ることになって、母と過ごす時間も増えた。彼女もずいぶん体の様子が悪い。複雑な思いを抱えながら帰る日々。
気楽な一人暮らしの彼女は、私が帰ることで何かしら緊張もするだろう。
先日もできるだけ母の手を煩わせないようにと、スーパーで買ってきたお惣菜を持っていった。

お惣菜を一口食べた母が言う。
「もういらん」
「え?食べないの?」
「うん。もうえい。あんた一人で食べて」
せっかく買うてきたのに。。。とブツブツ言いながら食べる私。

「お鍋にある煮物、持ってきて」と母。
台所で鍋のふたを開けると、赤い液体の煮物があった。
「何?この赤いの」
「ケチャップ」
「は?」
またまた変な組み合わせをしたもんだといぶかりながら、小皿に乗せてリビングに持っていく。
「食べて」

皮の付いたままのジャガイモと玉ねぎとくちゃくちゃに固まったままの豚。ケチャップで煮たという怪しげな物体を、半ばやけくそで口に押し込んだ。

絶句する。
これはやばい。
「これも、、ひょっとして味見してないが?」
「うん。朝煮たまんま。食べてもない」
かすかな酸味と和風の味付けが絶妙なコクのある絶品だった。

ついさっきまで美味しいと思って食べていたスーパーのお惣菜が、いきなりゴミにおもえる。
彼女が一口食べていらないと言ったわけだ。
もう一度食べくらべてみる。
まずい。
母の煮物を食べる。
うまい。
この違いは別次元だった。

何がちがうのかすぐにわかった。
「気」だ。
スーパーのお惣菜は、まったく気が入っていない。どんな味付けをされていようと、腑抜けなのだ。しかし彼女のはガツンと気が入っていた。

「味付けは何?」
「ケチャップとみりんとお醤油」
「それだけ?」
「それだけ」
出汁も何も入っていない。豚肉と皮付きジャガイモがコクを出していたのだ。
「これ、同じ方法で私がやったら、絶対腑抜けな味になるよ!」



美味しい食べ物は人を幸せにする。
それは味付けが上手とか、そういうことではなく、カタチではない何かしらのものがそこに入っているからではないだろうか。作る人の気持ちのようなもの。

スーパーのお惣菜がそれを教えてくれた。流れ作業の中で作られる料理には「気」など入れてられないのだ。
このごろ、なんとなくまずいなあと思いながらも、面倒なので買っていたスーパーのお弁当。これが理由だったのか。まるでエサのように感じられる。
しかし気の入った料理は身体に染み通ってくる。これこそが本当に栄養になっていくものじゃないだろうか。

母のアパートから東京に戻るとき、鍋にあったタケノコの煮付けを二、三個ほおばっていった。母にうながされることもなく自ら。
それはまるで中学生が学校に行く前のようだった。

「いってきま~す!」
という言葉が、自然に口から出た。





2018年4月21日土曜日

父の葬儀その3




「つくしの存在がまったくないねえ。。。」
受付を手伝ってくれた、私の高校時代の友人が言った。

その日の葬儀はうち一組だったため、会場も一番大きな場所、祭壇は山好きだった父のために、山を連想させるような豪華な花にした。
故人を偲ぶコーナーには、父が生前に「これを飾ってくれ」とプロジュースしてきた、華々しい数々の表彰状や贈呈の品々、それにまつわる記念写真。私がもって来た若いころの父の写真も大きく引き延ばされ飾られてあったが、そこになにかが欠けていた。

「おかしいなあ、なんか足らん。。。。
あ!ウチのかあちゃんとの写真がないんや!」
私の母との31年間が、ごっそり抜けていたのだ。



数日前の会話。
「とーちゃんの写真、これだけしかないのん?」
「たぶん、一階の押し入れの奥にあるわね。あたしゃあ、見たことないがやけど。。。」
葬儀社の人に10枚のスナップ写真を用意してくださいと言われ、選んでいたときのことだ。あるのは最近の父と義母の写真ばかり。昔の写真はないかと聞いたときの、ちょっとふくみのある義母の答えだった。

一階の事務所をかねた部屋の突き当たりに押し入れがある。その奥を覗くと、うっすらと見覚えのある布ばりの古いアルバムが、隠されるように押し込まれていた。

埃を落とさぬよう4冊のアルバムをゆっくり引き出す。虫に食われた表紙を壊れないよう開くと、そこには初々しい警官姿の父がいた。若い父の姿を見て心がワクワクする。「わりことし(悪ガキ)じゃった」と本人が言う通り、牢屋に入って泣き顔を見せてる写真や、犯罪者がクビに掛けるプレートをかけている写真など、悪ガキっぷりが写っていた。

そして、はっきりと見覚えのあるアルバムを開くと、そこには私の母との結婚式の写真が。
次々に出てくる母とのツーショット。そして私の幼いころの写真。
「あ。これはやばい!」
義母がそこにいるわけでもないのに、あわててぱたんと閉めた。
「これはもって帰ろう。。」
だまって私がもらうことにした。


冒頭の友人の言葉は、そのまま父の人生の事実を伝えていた。
葬儀に出された写真は、父の若い頃、そして義母との生活の写真。そこに私の存在はなかった。両親が離婚したのち、私と一緒に写真を撮ったことはなかったのだから。

人は自分の過去の汚点を隠そうとする。
表彰されたこと、努力したことは美談として伝えられる。それだけを演出したかった父。だけど、自然と彼の寂しさはそこに現れていた。

死が近づいていた頃、父は私に母とどうして離婚したのかを話してくれた。父の視点から見ればそれは正当な理由だった。そして私は母からもその理由を聞いている。
ふたりの離婚の理由は、まったくちがうものだった。

それぞれの立ち場から考えると、どっちも正しい。この世は善と悪との戦いではなく、善と善との戦いだ。私はふたりの内のどちらにもつかない。だって、どちらの思いもわかるのだもの。




人の死は、何かを変容させる。
それを強烈に感じさせてくれたのは母の言葉だった。

母は、幼い私に暴力を振るう父を許せなかった。
「この人とは一生平行線。戦友として生きようと思った」
と常々言ってたように、父との結婚生活は、つらい思い出がつまった31年間だったようだ。

子供ながらにも、このふたりの結婚には無理があるなと感じていた。父もきつかったに違いない。それがいろんな所で噴出していたのだろう。じっさい再婚後の父は穏やかになっていった。それが私にはとてもうれしかった。

告別式までのあいた時間に母のアパートに行く。

「お父さんが逝ったのを聞いてから、ずっと寝れんかった。。。」
あんなに嫌っていたのに、寝られなくなるとはと、すこし驚く。

「今の私があるのは、あのひとのおかげ」
思わず耳を疑った。
「え?!そんなこというの、はじめてやん!」
すこしやつれた顔で微笑む彼女。

「過去の辛かったことあるやろ?昔はそれを思いだすと、辛い感情ばかりがあふれていた。だけど今、そのつらかった過去は、痛みとともにはない。それをそのまんま見ることが出来る。なんちゃあ、つろうない。ただあったかい感じがある。今はお父さんと過ごした幸せな時間しか思いだせない」

父の死を聞いて、彼女の中で何かが動いていた。過去に起こった出来事を拒絶していない彼女がいた。


そしてこう言った。
「お父さんはねえ。この世でふたりの女を幸せにした男!」
ちょっとはずかしそうな顔をした母。
ふたりの女とは、だれでもない、母と、今の奥さんのことだ。


ふたりが離婚した後、私は二つの顔をもたざるをえなかった。
母との顔。そして父との顔。
離婚した夫婦の子供は、片親と会う時、もう片方の親の存在を消しながら会う。まるで「私はあなただけから生まれた子供よ」という、ある意味ムチャな役割を演じるのだ。

私の中にある、母に受け入れられない父の血が、ひそかに分裂を起こしていた。


それが、母のその言葉を聞いたとき、私の中でなにかがはじけた。
内側からなにかわからない大きなエネルギーがぶわっとあふれでた。
私のすべてが受け入れられている感じがしたのだ。
子供のように一瞬大泣きした。
それは分裂していた自分の身体が統合されたような、不思議な感覚だった。

それから母と抱き合って泣いた。
それは悲しみからではなく、何かが溶解した胸が熱くなる涙だった。

死は決して悲しいだけのものではない。言葉では解き明かせない変化をまわりにもたらす。父の死はそのことをはっきりと伝えてくれていた。


最後のお別れの時、父にそっと伝えた。
「とーちゃん。これはかーちゃんからの伝言。
『この世でふたりの女を幸せにした男!』やて。
すごい言葉もろうたね。
とーちゃん、ほんとにありがとう。
そして、おつかれさまでした」

火葬場で父を待ちながら見たすぐ近くの山は緑がムンムンしていた。『山笑ふ』とはまさにこのことだ。

それはまるでとーちゃんが笑っているかのようだった。