五十肩、その後2。
肉体に向かって「あんたなんかにパワーをあげない!」
そういってふて寝してから、手のしびれが消えた。
明け方、呆然とする。
そこ?
。。。。
こりゃ、いける!
そっか、この手で行けばいいんだ!とうきうきしはじめる。
夜、寝床で痛みを感じると、「あんたなんかにパワーを渡さない!」
と、言ってみる。
。。。
変化なし。何度やっても何一つ変わらなかった。
そのとき、自分がこの肉体にたいしていろんな観念があることに気がついた。
やっかいなカラダ。痛みで手におえないカラダ。ちっともコントロールの出来ないカラダ。うっとおしいカラダ。気に入らないカラダ。。。
ああ、これらの観念があったんだ。
これを赦していこう。。。。
「私はこのカラダをやっかいで手におえないカラダだと思っています。
けれどもそれは単なる勘違い。本当はこのカラダには、何も起こっていない。
ゆえにこの思いを赦します。
神さま。あなたにこの思いを捧げます。どうか取り消して下さい。」
奇跡講座で使われる道具「赦し」を、あってるかどうかはわからないけれど、見よう見まねでやってみた。
一個一個の観念をそうやって丁寧に取り消してもらっていった。
すると痛みがどんどん和らいでいった。
痛みとひとことで言っても、いろんな症状があるが、私の場合は、それをイメージで見る所があるらしい。職業柄なのだろうか。
最初のころは痛みは、大きくてごつごつした岩の塊のようなものに見えていた。それが身体を動かしてストレッチしていくうちに、やわらかい流動的な砂の塊のように見え始める。
ある時は小石の集合したものになったり、和紙をくちゃ!っと丸めたようなものに見えたり、痛みはどんどんビジュアル的に変化をしていた。
そしてその「赦し」の作業ののち、痛みはほのかなものになり、ビジュアルは角アールの白い長方形が二つみえていた。
人の感覚とは不思議なものである。
また、言葉について痛みを通して面白いことを知った。
あるとき、痛んでいる肩に手をあてて「痛いなあ~。。。」
と心でいいながら、
「これ、痛いという言葉を発さないとどうなるんだろうか?」
とおもった。
痛みが始まる時、「い。。。。」と、痛いという言葉を止めてみる。
肩に意識を持っていく。
「どんなかんじ?」
すると、ぐにゅ~~~っと、なにかが肩の中で動いているのがわかる。そのぐにゅ~っと動いているものは、腕に移動し、手の先に移動した。
そのままカラダを「観て」いると、右手にもぐにゅ~~が起こり、足先にも感じていた。
それを感じている間、私には何の不快感もない。ただ、からだの中で起こる何かの反応だけを感じていたのだ。
ためしに「痛い。。」と言ってみると、とたんにそれが痛みに変わった。
「なにこれ!?」
言葉がもつ影響に愕然とした。
私たちはほとんど言葉による自動反応で、ものごとに反応している。痛いという言葉は、あの「ぐにゅ~」が起こった瞬間に発せられていた。
この仕組みをわかったところで、「あ!わかったー!」といって、その自動反応をすぐ落とせるものではないことは、その後の私の反応で痛いほど知ることになる。
この話しはまたおいおいに。
この話しはまたおいおいに。
五十肩。
こやつは肉体を通して、ありとあらゆることを私に教えてくれる。
0 件のコメント:
コメントを投稿