2018年12月3日月曜日

幸せの時間



幸せを感じる時間って測ったことある?

別にストップウオッチで細かく測ったわけじゃないけど、案外そんなに長くない。

ドトールで、カプチーノを飲んでるとき。
カプチーノのお供にモンブランを食べるとき。

カプチーノを飲む時間は10分ぐらい。
モンブランはもっと短い。

カプチーノ飲んだ瞬間は、幸せの絶頂だけど、あとはゆっくり下り坂。冷めたカプチーノを飲み干す頃には、最初の幸せ感は10%ぐらいになってる。

そして心は次の幸せを探しはじめてる。
「今日の晩ご飯はなににしようかなあ~?これからイーアスに行って、なんかおいしいもん見つけて来ようかなあ~」
などと、心はすでにここにない。



カフェの窓から外をながめる。
にやにやしている女の子が目の前を歩いていく。きっとこれからある楽しいこと考えてるんだ。

幸せは、それを味わっている瞬間だけじゃない。
そのことを考えるだけで、空想するだけで、うきうきする。

たとえばその子はこれから友だちとゲームをしにいくのかもしれない。
その時間は楽しい。そして、それを考えるだけで楽しい。
行くまでに、そしてそこに行って、幸せを感じる。

だがそれで終る。
終るころには、心はまた次の幸せの予定を立てはじめる。

私たちはこうして、次から次へと幸せな時間を探し求める。
私たちはこれが「この世の幸せ」なのだと信じている。
つねに、「何か」を「して」、何かを得ること。
だからこそ、心は「次なにしよう?」と考えるのだ。




その形の幸せに「なんかへんだ。。。」と思いはじめたのは一年ぐらい前からだった。

幸せになることは、することなのか?
して、して、して、し続けないと、幸せは続かないのか?
ひょっとしたら、幸せは、なにかをして得るものではなく、もうずっと昔に忘れてきてしまった、私たちの何かの記憶のかけらをリフレインしているだけなんじゃないか?と疑問をいだいていた。

そんなとき、突然やってきた幸福感。
なにを「した」わけでもなく、何が理由でもなく、唐突にやって来た、
今までとはちがう感じ方。
目の前に見えているものはまったく一緒なのに、心に広がるとてつもない幸福感。

人はこういうのを啓示とか一瞥体験とかいうのかもしれない。
私にとっては、恩寵とでもいおうか。
だがそれもすっと消える。いつもの見え方に戻った。



こういう体験を後生大事に持ってはいけないだろうなあ。あれはこの世界から目をさますヒントだと思う。ここに魅力を感じて、ここにずっと縛り付けられている私たちに「そこには何もないよ」とうながすビジョンとして与えられたんだ。


それ以来、幸せになろうなろうとしなくなった。楽しいことをしよう、すてきな時間を持とう、そういう要求がだんだん希薄になってくる。そこに重きは置かなくなった。



あえてするとしたら、愉快なことがしたいなあ。
常識を吹っ飛ばすようなこと。
既存の、与えられたよろこびの中で楽しませてもらうのではなく、
オートクチュールなヤツ。
みんなが、「そこかいっ!」って、突っ込んでくれるようなヤツ!

うん。
それだけが、まだ私がここにいる理由かもしれん。