2015年5月30日土曜日

わしはイヌか?



夜中、ふと目が覚める。
いつもは仰向けに寝ているが、左を下にして横に向いた。
どっくんどっくんどっくん。。。
心臓の音が聞こえる。
どっくんどっくん。。。

あれ、宙に浮いている?
ふとんの上で寝ているのはわかっているのに、床の上で寝ているのはわかっているのに、なぜか床もふとんもなく、自分が宙に浮いて横になっているような感覚になる。

すると直接接していないはずの(笑)地面から振動が伝わって来た。
「あ、くる。。。」
ゆれを待っていたが、こない。勘違いかな?とおもっていると、やがてゆさゆさと家が揺れた。茨城県南部が震源だった。

じつはそんなことは度々ある。
来るほんのちょっと前、
「あ、くる。。」
と感知する。

ひょっとしたら地震がおこるとき、何かのインパルスが発せられるのかもしれない。それをとらえているのかもしれん。
わしはイヌか?



そんなことできるんなら、火山の爆発も感知できたらいいのだが。そんなもんはできん。

昨日の口永良部島での噴火のシーンを見ていると、白いちっこいものが噴煙のすぐ近くを通り過ぎて行くのが見えた。ヒコーキにしちゃちっこいし、鳥にしちゃ白い。だいたいそんな危なっかしいところをアホウな鳥でもない限り飛ばない。
やまんばにはUFOにみえちゃって、ワクワクした。

どうも火山の噴火近くにはそんな妖しげなものが出没するとは聞いていたが、日本にも出没した。
なにかね。これは。

やまんばの作り話によると、噴火はUFOがおこしているのだ。(おいおい)
それは地球さんが、
「も、、、ダメ。。。ガマンの限界。。」
と、本来のパワーを爆発させかねないエネルギーを、
「ま、ま、待って、待って。こっちで出して」と、
比較的被害の少ないところで、小さなすかしっぺをさせて、エネルギーの放出を最小限に抑えているんではないかと。実は出現した新たな西ノ島もすかしっぺの放出場所になっているんではないか。「アミ小さな宇宙人」にも似た話があったではないか。現地の方には、お気の毒なのだけれども、今回人的被害が少なかったのも、そんなことさえも考え抜かれているとしたら、宇宙はなんとすごいのだろう。。。


考えたら、そもそも地球さんが人間が住めるよーな温度設定をしてくれていたこと自体が、おおいなる親切だったのではないか?地球さんにとっちゃ爆熱も極寒もヘーキだろうし、自分の身体を維持させるためには色んなことしちゃってもふしぎじゃない。
でも毎年似たような環境をじーっと維持していてくれたのは、恩寵だったのではなかったか。

そういう意味では、これからの人間の考えかたを変えていく時期に入っているのかもしれないなと、しみじみおもうのであった。





2015年5月29日金曜日

畑は禅寺みたいなもんだ






やまんばにとって、畑は禅寺みたいなもんだ。
 
黙々と雑草を刈る。あたまの中で色んな考えがめぐっては消え、またはめぐってはそれをとらえ、一人エアー演説する。
(注:『エアー演説』/特定の人物や出来事に向かって、直接言えないことを心の中で金八先生風に演説をぶっこくこと)

実際黙々となんて草を刈ってない。はた目には黙々だが、心の中はぶつぶつである。

あるとき、いつも同じエアー演説をしているのに気づく。
はて。なんでいつも同じ。。?

その日、中野さんのユーチューブを見た。
「思考、止まんないでしょ?とめる方法知ってる?
人が思考を続けるわけは、自分が感じている感情を見ないためなの。『これはイケナイ感情だ』と思っているから、その自分からあふれて来る感情を見たくないために、思考で忙しくするの。」
と、ゆーよーなことを仰ってた。
なあるほど。

んで、やまんばは、畑でその思考がでて来るきっかけになる人物にどんな感情を抱いているのか、味わってみたんだ。
おお、きたきた。イライラしてる。心配してる。嫉妬してる。不安になってる。。。
おおお、こっ、、これは罪悪感だ!

そのとたん、その罪悪感がなにに対しての罪悪感かわかった。
すると今までぶつぶついってたエアー演説が、その人へのたんなる言い訳だったことに気づく。自分がいかに正しいか、まちがってないかと、目の前にいない相手に向かって、正当化演説をぶっこいていたんだ。

そして相手はなぜそんな態度をとったのか、それはやまんばが今まで解釈していたのとはまったく違う理由からだったこと、そしてそれをやまんばが勝手に勘違いしていたんだってことに気づいた。
それに気づくと、もうその同じことのエアー演説はやって来なくなった。


今日もまたひとつの発見があった。
座っていようが、草を刈っていようが、心の内側を観ることは大事な時間だなあ。


絵:小仏カッパちゃん

2015年5月25日月曜日

自我の声は心の中に吹く風



自分の思考がつねに否定にむいていることに気がつく。

なにかやらなければいけないことがあると、
「めんどうだな。。」
と、やることをおっくうがる。

反対に、なにもやることがないと、
「なにかやらないと。。」
と、心があせって、何かやることを探しはじめる。

だけど一旦やることを見つけてしまうと、とたんに、
「めんどうだな。。。。」
と、やることをおっくうがるのだ。

自我はこうやって、自分をつねにあせらし、おどし、怖がらせ続ける。

私たちはこの自我の動きに、完全に捕まってしまっている。浮かんだ言葉に乗っかって、あせって、おっくうがって、こわがる。

自分の内側から聞こえる声は、自分のものだと思い込む。自分からでて来たから、正しいことを言っているに決まっていると信じて疑わない。

だけどよく聞いていると、その声は矛盾だらけだ。

こうしたほうがいい、というので、そうすると、いや、そうしないほうがいいと、言ってるそばから撤回してくる。
自我はしたたかにかわしてくるので、一見矛盾がないように見える。だがそれも冷酷に観察すると、自分をこけ降ろすことに集約しているのに気づく。

自我の仕事は、自分をこけおろし、おどし、おまえは小さい存在だとつねに言い続けるのが仕事のようだ。

この声に何の意味もないことをずっと言い続けているのが、仏陀やその他多くの賢者たちだ。

座禅や瞑想や内観は、その声を聞き流せ、あるいはとめろ、あるいは観察しろという。
滝行などのきびしい修行も、その声を吹き飛ばせと言ってくる。

ある人が言っていた。
「自我の声は、心の中を吹く風だ。私たちは町に吹く風をいちいち意識して『これはどういう風だ?』と考えたりしないだろう?それと同じだ。ただ風が吹くにまかせる。それはただここにきては流れていく風なのだ」

ある人が言っていた。
「これもまた過ぎ去る」


やまんばも人と出会い会話をしたあとで、ほんの小さな罪悪感がやってくる。
ああいう言い方で良かったんだろうか。気を悪くされたんじゃないだろうか。と。

そのおもいに気がつき、「これもまた過ぎ去るのだ」と意識すると、ものの1分もかからないうちにその気分は消えていることに気がつく。
だがもしそれを掴んで離さなかったなら、その罪悪感はどんどん膨らみ、自分の中で言い訳をし、正当化し、今度は相手を裁きはじめる。そして人を憂い、社会を憂い、未来をも憂いて、はては自分の人生を悲しくしていく。

自我の声は、現れては消えていく風のようなものらしい。
それを爆風にするか、微風にするかは、それをとらえるその人の反応しだいなのだろう。



2015年5月23日土曜日

土の下の静寂



今、畑は草ぼーぼーであるが、ウチの庭も草ぼーぼーである(それ自慢?)。

やまんばは去年育てたグラジオラスの球根を庭の斜面に植える。
庭の木の枝を伐採して積んであるところをほじくりかえす。ぐちゃぐちゃな枝の下には、
な、な、な、なんとゆーことでしょー、スポンジのよーな土が。ほわっほわの、ふわっふわ。

球根を仕込むために深くほる。スコップなんかいらない。手で楽に掘れる。
「これはうまそーな土だなあ。。」
よだれを垂らしながら、球根さんを降ろした。


木が生い茂って草がぼーぼーなところって、土の下は、きっとえたいの知れない恐ろしーもんがうようよしているってゆーイメージない?くねくねする動物や虫やひょっとしたら恐ろしー化けもんが土の下の方にいるような。

でも実際、土の下の方には何もないんだ。
いるのは土の表面に近いところだけ。枯れた落ち葉や、腐った木の枝、カビや苔。その下には、ミミズや、アリや、ヘビや、おけらや、モグラや ネズミなどが忙しそうに、あるいは眠そうにいる。
だけどその下には、漆黒の闇と、し。。。ん。。。とした静けさが広がっているんだ。

木のはえているところは、でかい木の根が走っているけれど、やまんばの畑の中は、時々根が走っているだけ。もちろん色んな見えない根が走っているだろう。けれども恐ろしいなにかはそこには存在していない。




これはまるで私たちの心のようじゃないか。

心はよく海に例えられる。いつも波立ってるその波は、私たちが意識できる心もよう。ああでもないこうでもないと右往左往するのが波にあたる。現れては消え、消えては現れる忙しい心。これを自我とかエゴと呼ぶ。

だが一歩そこから下に降りれば、静けさがやって来る。その奥には漆黒の闇が広がっている。

それと似てないか?
土も海も同じように表面が忙しい。だけどその下には静けさがある。そしてその中にこそ、計り知れない可能性とエネルギーと叡智がひろがっているのだ。


深く根をおろした木は大きい。漆黒の闇をガッチリとらえて、堂々と息をしている。
わたしたちは巨木に惹かれる。
それはきっとその巨木をながめて、自分の奥深くにある漆黒の闇と共鳴させているのだ。


絵:『苔樹』/「まるっとつくし展」より
写真:本宮誠




2015年5月21日木曜日

『古事記のものがたり』




ニューヨーク時代、私は聖地巡りに凝っていた。
アメリカの聖地、日本の聖地。日本に帰れば、
「今度、どこの聖地に行こう~?」
と、それを中心にスケジュールを組んだ。

あるとき出雲からの直行便で那覇に着き、その足で久高島に入った。
そこでふしぎなカップルと知り合う。ひょんなことから、彼らの巡礼にお付き合いさせてもらう事になった。彼らは今の日本の状況を憂いて、この島全体が聖地である久高島で祈りを捧げる日々を過ごされていた。

真夜中、月明かりの中、4人ひたひたと歩く。
風が草木をなでて、カサカサと心地よい音を立てる。

「ここよ」
そういって、一見何もない場所にカップルは座り、お神酒をあげお祈りを捧げはじめる。聞けばそのひとつひとつに昔の古い言い伝えや、だれも知らない歴史が隠れていた。
私たち二人も頭をたれて、私たちなりに祈りを捧げる。

何カ所かめぐったあと、浜に出た。
漆黒の海の上に、ポンとお月様が浮かんでいる。まわりを彩る雲が、幻想的な世界を演出していた。
カップルのひとりが、笛を出した。聞いたことのない音色で笛を吹きはじめる。
とつぜん、まわりの空気が太古のものと重なった。とおいいにしえのときを私は味わった。

その彼らに紹介されたのが、今回本の表紙を手がけさせてもらう事になった『古事記のものがたり』の著者、小林晴明さんと宮崎みどりさんだ。
この本は、ある時インスピレーションによって、書かれたそうだ。今回で18刷目になるというロングセラー本。はや5万冊を売っている。難解な古事記の話を、非常にわかりやすい言葉で、楽しく書いてある。子どもにも読みやすいよう、全漢字にルビがふってある。

彼らは古事記を広く知ってもらおうと、全国で講演会を開いている。今回の展覧会にも何人か、みどりさんたちの講演会におとづれたかたがいらっしゃった。

今回の表紙のお題は、『神生み、国生み』。
イザナギとイザナミが二人で力を合わせて、日本という国を作り上げる様を描いた。
制作中、あることに気がついた。このシーンは、単に日本の国を生むということだけでなく、地球という星を生むということでもあり、また人間の宇宙、そのものを描いているのではないか?と。古事記がもつ物語の底知れない深さを感じたのであった。

イザナギの「ナギ」は「凪」であり、イザナミの「ナミ」は、「波」ではないか?
凪と波とは、「静」と「動」である。それらが回転してひとつになって、物質と言う世界を作り上げる瞬間なのではないかと感じたのだ。

凪が男性で、波が女性というのもおもしろい。
本来女性は動的な存在なのかもしれないとおもうのは、今回植物を描いていて、女性というものはなんてダイナミックな存在なのであろうとつくづく感じたからだ。

とてもおもしろい本です。
こちらから購入できます。少しお試し読みができるようです。ぜひ読んでみてください。

それから、前回までのものから、新しいものへの本の表紙の切り替え中ということで、メールにてお申し込みの方は、
「つくしの絵の表紙で」と、一言お願いします。
すると私の絵の方のニューバージョンが届きます。


絵:「古事記のものがたり」/表紙イラスト






2015年5月19日火曜日

ある実験



展覧会期中、ある実験をしていた。
毎日原宿に出かけるし、人に会う。当然疲れ果てるだろうとおもった。ましてやレセプションになるとたくさんの人々に同時に会うかもしれない。

私はたくさんの人の中に入ると、いろんなおもいがめぐって、その夜は色んな思考であたまがいっぱいになって、なかなか眠れないことが多かった。
初日に疲れ果てたら、あとがつらいなあとおもった。

初日、うれしいことにたくさんの人々が来てくれた。
昔の友だち、今の友だち、みんなと楽しい時間をすごし帰宅。


夜寝る前、ソファに座って、目を閉じる。
あたまの中を、今日起こった出来事の色んなシーンが駆け巡る。。。
それをただじっと見る。
それをただじっと味わう。
それを全身で感じる。

思考が動こうとする。
それもただジッと観察する。
ただ、ただ、そこで、じーっと全身で今日の出来事を味わう。
感じて。。。感じて。。。感じて。。。感じつづける。。。。

思考が止まっている。
なにかを感じているのがわかる。
でもなにを感じているのかわからない。
思考はこれをとらえることができない。
私の中のどこかが、なにかを、なにかしている。それだけはわかる。

カラダが眠りにつこうとしている。
ふとんに入る。
朝までなにも気がつかなかった。

それを毎晩やった。まったく疲れない。ふしぎだった。

この実験は、思考がどれだけエネルギーを消耗するかを教えてくれた。
そして思考は、出来事の消化もできないことをしる。

人は人と会う時、その人の存在を全身で味わっている。
今、この人はどんなおもいを持っているのだろう、
今、私はどんなふうに思われているのだろう、。。。
いいように思われたい、
いい人に思われたい、
不愉快なおもいはさせたくない、
まちがいがないようにしたい。。。
ありとあらゆる想いでいっぱいになり、自分を正当化し、自分を批判し、無意識に人と戦い、自分と戦う。

その膨大な量は、決して思考で解決できないし、思考で収められないことだった。
それをただ味わう。これだけで、なにかがうごき、なにかが収められていく。

私は今まで、考えればなんとかできると思って来た。
でもその考えることが、私に限界を生んでいた。

ブルースリーの名言「Don't think! Feeeeel!」
は、彼はそのことを知っていたのだ。
そしてその無限の可能性を。
それはあの彼の、とんでもない身体能力で証明されている。


2015年5月16日土曜日

展覧会が終わって



展覧会が終わった。
11年ぶりの都心での個展。どうなるのかなあ、人は私のこと覚えてくれているのかなあ、なんておもってたけど、ふたを開けてみれば、とてもたくさんの人が見に来てくれた。



ギャラリーのスタッフの方々もいい感じでフォローしてくれ、しあわせな時間をいただいた。
この場をおかりして、お礼申し上げます。





搬出し終わって、家での後片付けやたまっていた事務的な仕事に追われている。今、部屋の中はいただいた花の香りで充満している。



畑もほっぽらかしているあいだに草がどんどん伸びて今畑はジャングル状態に。地面を這って勝手に広がっているイチゴが、草の影で色を付けはじめた。足の踏み場もないのに、どうやって収穫しようか。


気がつけば、植物に囲まれている私がいた。高尾山の植物、畑の植物。日常の中の植物たちの影響は私にとんでもないインスピレーションを与えてくれていた。それが今回の展覧会の形になったのだ。

来てくれた人々はみんな紙で作った作品をよろこんでくれた。まわりがコンピューターだらけになったせいだろうか、物理的な存在感を求めている感じがした。それは私も同じ。デジタルに振り切った時代だからこそ、反動でアナログに心は惹かれるのだろうか。
それとも私たちはもともとアナログ人間だからだろうか。



見にきてくれた方々みんなから、たくさんのヒントと、勇気と、しあわせをいただきました。
このシリーズ、展開させていこうとおもっています。

ほんとうにありがとうございました。




写真撮影:本宮誠/カメラマン







2015年5月12日火曜日

今、展覧会期中



今は展覧会期中。
毎日、知人が来てくださる。

親しい人、仕事関係の人、久しぶりの人、なつかしい人、そしてはじめての人。
忙しい時間を割いてわざわざ出向いてくださり、そして自分の絵を交えて会話がはずむ。
なんて贅沢な時間なんだろう。

いい空間に私の絵がきちんと飾られる。
仕事でやった作品、今回のために一から作った作品。どっちも私の存在だ。画廊は今私の色で染められている。
私が作り出した空気感の中に、人々がやって来てその空気を呼吸している。私という空間を人々が共有している。
今どんな感じを持っているのだろう?どんな気分を?どんな印象を残したのだろう?
くすぐったいような、うれしいような、ふしぎな気分。

今までの個展で、こんなふうに感じた事はなかった。
結果を出そう。やった意味を形で表さねば。そんな焦りの中でいた気がする。
そんなものは必要なかったな。
今、ここで人々が絵を見てくださっている。それが大成功なのだ。


 


2015年5月8日金曜日

今日から『まるっとつくし展』です!





今日から6日間、『まるっとつくし展』が開催されます。
作家は毎日午後2時より、在廊しております。
ご興味のある方は、ぜひお立ち寄りください。



PATER'S Shop and Gallery
〒150-0001 渋谷区神宮前2-31-18 地図はこちら
TEL.03-3475-4947

2015年5月6日水曜日

「植物に肥料はいらない」



先日、ポール・スミザー氏の講演会を聴いてきた。NHKのプロフェッショナルにも出演した人。
彼の言葉の中でひっきりなしに出てきたのは、「植物に肥料はいらない」だった。
番組の中ではそんな話はしていなかったように思う。やはり番組上言えないことも多いのだろう。

彼はスライド写真を見せながら、おもしろおかしく話す。
山の中に放置された小屋のトタン屋根にケヤキや楓やナラなどの木が育っている写真をみせて、
「ね?ここにだれかがぽーんとトタン屋根の上にハイポネックスをまきましたか?だーれもまいてないでしょ?かれらはそこに落ちた落ち葉や微生物で育って行くんです」

イギリスで庭師として勉強をしてきた彼が日本にやってきた。山に入ってビックリしたと言う。
「イギリスであこがれのギボウシが、日本の山のあっちゃこっちゃにはえている。うわ!これ2000円もする品種。ええ~~っ、これなんか3000円のやつ!と、まあ、おちおち休んでもいられないくらいそこかしこに高級な植物たちであふれてるんです!」

岩のあいだにはえてくる「イギリスの高級品種」をしらべるうちに、彼らはわずかな隙間とわずかな土でしっかり根を広げ大きく育っていることに気がついたそうだ。
それで彼が造る庭は、そんな自然の状態に近いものだ。砕石を敷いた中に苗を入れ、その上にバークチップをまく。それだけで2、3年もすればステキなナチュラルガーデンになっている。

ドイツで150年にわたって植物の実験をしているところがあるそうだ。肥料を入れたところと、肥料なしのところをつくり、その植生を調べているという。肥料が入ると、その場所にはその肥料に合った植物だけが育つ。ところがそこに虫がやって来ると、あっというまに絶滅する。
だが肥料なしの場所は、ありとあらゆる種類の植生になる。もし虫に食われても、一種類だけのことなので、その場所が絶滅することはないという。

肥料を入れると単一化するというのはおもしろい話だ。農家にとっては嬉しい効果だろう。だけどいったん虫に食われると、あっという間に消えていく。だから農薬が必要なのだ。肥料は農薬とセットになっている。お金儲けのためにはいい考えだ。
やまんばの畑にやって来る虫は、弱いと虫が判断したものについているようにみえる。全滅させられることはない。

「庭に咲く大きなギボウシをみて、おばちゃんが聴くんですよ。『まあ立派。何の肥料を入れているんですか?』って。いや、肥料は入れてないんですよ~っていうと、『そうなの?それで肥料はどんなものを?』って。だから、入れてないんですよ~って。するとおばちゃんは向こうの方にいるスタッフにまた聴くんです。『肥料はなにを?』と。どれだけ洗脳されているかってことです。園芸本に書いてある、肥料を一週間に何回とか1ヶ月に何回とか、いーーーーっさい無視してください!」という。

人々が肥料に洗脳されているのはやまんばもわかる。
近所のオヤジが何度も聴く。
「それで?肥料はなに入れてんだ?」
「入れてないって、いったでしょ?」
「ウソコケ。ほんとは入れてるだろ」
「だから入れてないんだってば!」
人が肥料を入れてないことが不安らしい(笑)。



イギリスではその花を語らせたら何時間も語ってしまうくらいオタクが好きな花があるらしい。それがアイリスジャポニカ。よーするにシャガだ。シャガなんてここらにあちこちにはえている。

やまんばの畑の近所の山にうわーっといっぱい咲いていた。日影でもどこでも育つようなので、数本庭にちょうだいする。スコップをつっこんでビックリした。がれきしかない。土らしいものがほとんどないのだ。スコップなんかつっこまなくったってすぐひっこぬけるくらい。そんな環境でもぐんぐん勢力を伸ばしている。ポールが言ったとおりだ。
植物の底知れぬ力強さを教えられる。


2015年5月1日金曜日

味わうと、次のステージがやって来る



展覧会の絵の制作は今日で終わった。

これであとは、額入れ、ネームプレート作り、ご挨拶文、レセプション用の食材の調達などの細かい作業にとりかかる。
そうこうするうちにニューヨークからも新たに仕事が入った。のんびりしてらんない。

なので今年は野菜の苗作りは放棄。どっかで苗を買ってきてつっこむことにする。

畑は絹さやができはじめた。スナップエンドウもだんだん膨らんできている。レセプションに間に合えば、オープニングに来ていただいた人にふるまえるかな?



きのうがっかりすることがあった。ちょっとしょんぼり。
だけどこれも何かの学びとおもう。なのでそのしょんぼり感を味わうことにした。

最近のやまんばのマイブーム。
辛い感情を味わう。

人は嬉しい感情は味わうが、ネガティブな方の感情は、味わわない。拒絶する、なかったことにする。
それはとても失礼な話じゃないかとおもった。
こっちは受け取るけどあっちは受け取らないというえこひいきをすると、いつも決まってその拒絶した感情が同じような状況でやって来るのだ。
ということは、味わえよと言われているのだな。

だからそのしょんぼりの辛かった感情をじっくり味わったんだ。
すると心の中に、ありとあらゆる感情や、シーンや、なんとも言えない雰囲気や、言葉に表せないいろんなモノが胸や頭やカラダにあふれてきて、なんじゃこりゃ?ってな気分になる。だけどそれも気にせず、そのまんまあじわったんだ。

そのあとのことは覚えていない。だけどその晩見た夢は、そのしょんぼりを別な視点で見られるヒントをいっぱいくれた。

こっちが、それを受けて立とうと心を決めると、宇宙は全力でサポートしてくれるらしい。それが夢に現れたんだな。
もう昨日のしょんぼりはどっかに吹っ飛んでしまっていて、その時の感覚は思い出せない。ふしぎだ。
味わうと、消えていくのだ。
味わうと、次のステージがやって来るのだ。