2014年3月28日金曜日

やまんばの寄せ植え




やまんばは寄せ植えってモノを生まれて初めて今朝やってみた。

そんなもんがあるなんてしーらなかった。本屋さんでステキな表紙の写真が目について、ぱらぱらとめくってみたら、目が釘付けになった。

ななななななんてステキな世界だ!
こっこれはなんとゆーものだ?
なになに?寄せ植え?
寄せてえ~あげてえ~の、ブラジャーみたいな名前のジャンルじゃないか。しかもブラジャーみたいに、ぴらぴらチャラチャラしてて!なんてすてきなのうううう~。(そんな趣味あったんかい。最近どーも人格が変わってきつつあるので自分でも戸惑う)

ムラウチホビーでおととい買ってきたお花の苗を、ぴらぴらしたブラジャーみたいに寄せてみたわけさ。
なんと!

ずでぎい~~~~~。(写真にアップできないのがもどかしー)

玄関の階段の所に置いてみた。なんか玄関がゴージャスに見える。庭でふんぞりかえっている雑草まで寄せてみた。踏まれてもへーきな荒くれどもが、おすまししてよそ行きに見えるではないか。なんでや。

黒田さんの寄せ植えは、植物の美しさを心で感じ取っている植え方だ。
やまんばが畑で草ぼーぼーを眺めている時、ハッとするよーな美しい取り合わせにであう瞬間がある。オオイヌノフグリとホトケノザとカラスノエンドウが美しく流れるように絶妙な取り合わせで咲いていたりするのだ。
その、心がうわああああ~~って、感動する瞬間を、いっぱい見てきた人の寄せ方だ。そりゃそーだわな。やまんばがわざわざほめる筋合いではないわな。

今年はなぜかむしょーに鼻が気になる(ちがうだろ)、花が気になる。
食うことの対象でしか考えてなかった植物を、今度は目で食べる(やっぱり食うことかい)目線で見始めている。

植物は私たちにあらゆる豊かさをくれる。お米も、ワインも、チーズも、生ハムも、机も、石油も、み~んな植物からできている。この地球上に植物がいなかったら、私たちの生活はなんて質素だったろう。(とゆーか、生きてない)

今年は庭の梅の木が満開。今も甘酸っぱいまわりにふりまいてくれている。
ああ、植物さん、あじがとーーーーーっ。

2014年3月27日木曜日

わしは太陽を53回転した





人は1年が回って来るたびに、「歳をとる」とおもっている。
だが事実は、地球が太陽のまわりを1回転するだけなのだ。

だけど人は、地球が太陽のまわりを一回転すると、
「ああ、1年歳をとった」と思うのだ。

アメリカのある村に歳をとらない人々がいるらしい。
その理由は、地球が1回転するたびに「自分が歳がいく」とはとらえてないからのようだ。
だから1年がたつたびに、
「また1回転、太陽のまわりを旅した」
というだけなのだ。


おお、これはすなわち、条件づけの別バージョンではないか。

聞くところによると(どこからの情報や)、人のカラダは1000年持つようにできているらしい。だけど多くの思い込みのせいで、今のよーな寿命になったんだとさ。

時々長寿の村なんてあるじゃん。あれだって、その村のなにがしの食べ物を食べているから、とかなんとかいってるけど、ほんとは思い込みだったりしてね。
「長寿の秘訣は何ですか?」
ときくと、即座に、
「のんき」
と答える。

わしらはこれこれを食べて、こーんなに元気に生きとるんじゃ、とはいわない。(聞く側はどっかでスーパー食材を期待してるんだが)
「のんき」とか「くよくよかんがえない」とくる。しかも酒もタバコも思いっきりやってるじじいなんかいたりするのは、なんだか愉快じゃないか。

なんかね。やまんばはすべてのことが、単なる思い込みによって成り立っているよーな気がしてならないんだな。
石けんなんかなくっても生きられるし、肥料なんか入れなくても野菜は育つ。それって何でもかんでもに当てはまってたりしてねーーーー。

ジョーシキは時代によって、すぐにコロッと非ジョーシキになるでしょ。
じゃ、ジョーシキってなにかね?

だからこの村人の太陽を回転して旅をするというバージョンを採用してみようと思うんだ。事実今もわしらはこーして太陽のまわりを回って旅しているんだもん。ああ、なんて壮大な考えだ~、ううう~(一人思いにふける)。

「歳をとる」という考えは、その後ろに、カラダが衰える、思うように動かなくなる、病気になってくるしい思いをする、ボケる、人に迷惑をかける、死ぬ、とゆー、なんだかいただけない思いを一緒に連れてくる。そしてそれは現実をも創造しているんだ。

だけど「太陽のまわりを回転して旅をしている」という考えは、その後ろに壮大な宇宙を感じて、カラダが衰えるとか、病気するとかいうネガティブな思いはまったく連れて来ないではないか。
とゆーことは、意識は宇宙と自分との一体感であり、決して個人的な身体の不調との一体感ではない。

これでは歳のとりようがないではないか!

気がつけば、おお、わしは53回転も太陽のまわりを旅してきたんだなあ。。。
よし。もっともっと旅してやるぞお~!


これからは「あなたおいくつ?」って聞かれたら、
「はい、53回転です」と答えることにしよう。


2014年3月24日月曜日

展覧会「裏高尾の不思議な仲間たち」


久しぶりに展覧会を開きます〜。

ここ高尾にこしてきてからとゆーもの、なんとな〜く脳裏にちょこちょこ見え隠れするへんなイキモノたちを描きます。妄想おばばのやまんばは、頭の中で勝手に物語がシンコーしてしまい、一人ほくそ笑んでおる毎日であります。

そして今回は線画!ついに私の地の部分満開でございます(きゃ〜っ、はずかしーっ)。

じつはもともとこんな世界を描いては、
「こんなものイラストレーターの仕事ではないわい!」
と、押し入れの中にしまい込んで誰に〜もみせないよーにして、しらん顔して過ごしておりました。

しかし日々自分の心の中をのぞき、だんだん自分の世界観を掘り下げていくにしたがって、どーしてもこれを出したくなったわけであります。
どこまで自分にショージキになれるかを追求すると、こーゆー事態になるのですね。
それにこのブログでもじょじょにこの世界を描きはじめているので、自分でもテイコーがなくなったのかもしれません。いやいや、まさにこのブログさまのおかげです。

お近くに来られましたら、ぜひお越し下さい。
作者は毎週日曜日、午前中から2時頃までふじだなさんのおいしいコーヒーを飲んでおります。
みなさまにお会いできるのをたのしみにしております〜。


2014年3月22日土曜日

今年も登場ホケキキョくん!



裏高尾のホープ、ホケキキョくんがついに今年もやってきた!
去年までは地球温暖化のせいか、早々と自慢ののどを披露してくれていたが、今年はなかなか現れなかった。

今朝7時頃、
「ほけきょっ」と誰かが鳴いた。
今年一番のうぐいすの声だ。やまんばは耳を傾ける。
例の「ホケキキョッ!」という独自のトーンはまだない。

しかーし!やまんばにはわかっちゃうのだ。あの独特の鳴き方。ふつーの「ほ~ほけきょ」という歌は、彼にとってはウオーミングアップのよーなもんだ。何度か軽くこなし、声のハリを出すための谷渡り歌「けきょけきょけきょ」は、息継ぎなしの30回連続。ぐぐっとエネルギーの充電だ。

そしてほんの少し音階をあげて、、、、
「ホ~、ホケキキョッ!」
でっ、でたあ~~~っ!
やまんばは部屋の中で小躍りした。

しかし自慢ののどはこれ一回っきり。あとはどっかへさっさと出かけていったようだ。梅の花見にでも行ったか?彼女とデートに出かけたか?
あれは「おう、今年もよろしくな」ってな挨拶だったのか。
あいかわらずマイペースな独自の世界をいくホケキキョくんだった。
今年も楽しませてくれるっかなあ~。

2014年3月19日水曜日

土から生まれて土に帰る





先日蒔いた小松菜の種から双葉が出ていた。
ここんところの暖かさで出たんだな。そろそろ種蒔きの時期かあ。

やまんばはそこらの草ぼーぼーの畝に小さなクワをつっこんで、草を根っこから掘り起こす。草と根っこをとりだすと、下から茶色でさらさらの土が顔を出す。

ふしぎだな~とおもうのは、草も野菜もみ~んな同じ土に帰っていくこと。
オオイヌノフグリも、カラスノエンドウも、トマトも、小松菜も、キュウリも、ダイコンも、トウモロコシも、み~んな、この畑のいつもの土になっていく。無機物から生まれて、いったんは有機物になって、そしてやがて無機物に帰っていく。

やまんばの畑は外から肥料や農薬など、何にも持ち込んでないから、よけいそのことがわかる。

ここから形が現れ、ここで形のないものに帰っていく。
同じ素材から出現するのに、まったく形がちがう。キュウリになったり、ダイコンになったり、カラスノエンドウになったりする。形だけじゃない、色もちがうし、そして味もまるっきりちがう。なのにまた同じ土に帰っていくのだ。
やまんばはここの畑の野菜を食べる。やがて土に帰ると、やっぱりここの畑の土と同じになるのかな。

いったい誰が植物を作ったのだろう。
いったい誰が動物や昆虫を作ったのだろう。
種が先に生まれたのだろうか。
花が先に生まれたのだろうか。
実が先に生まれたのだろうか。

最近読んだ本に、植物はその種類それぞれの意識があるっていってたなあ。オオイヌノフグリはオオイヌノフグリとしての共有する意識の中で、オオイヌノフグリとしての役目を果たすって。
そうじゃなきゃ、同じ土で育つのに、こんなに違いが出るわけがない。

オオイヌノフグリが隣にいるつくしと自分を見比べて、
「おれ、つくしになろうっかなあ~」
とは、おもわないのだ。

キュウリが隣のトマトと自分を見比べて、
「あたし、赤いほうが好き」
とかいって、赤いキュウリになったりしないのだ。

ふしぎだなあ~。
(そんなことを考えるのは暇人なお前ぐらいだ)


絵:『よくわかる単位の事典』MF新書表紙イラスト
これはおもしろい!ありとあらゆる単位をわかりやすく教えてくれている。

コーヒーカップも土に帰るし、コーヒー豆も土に帰るんだよなあ。スプーンも時間はかかるかもしれんがやっぱり土に帰るんだよなあ。。。

2014年3月17日月曜日

建物の記憶



二日間にわたって催された梅祭りが終わった。
やまんばは今年年番だったので、町会のお手伝いをさせてもらった。いつもは二日間のうち、どちらかがお天気が悪かったりしたが、今年は両方ともいいお天気に恵まれ、おおにぎわいだった。
でもそれよりもなによりも、それにかかわった人々が楽しそうにやっているのをみるのがうれしかった。

歴史をひもとくと、色んなことがあったようだ。
ここは昔からの風習や伝統が色濃く残った場所。新しく入ってきた人々との価値観の違いでもめたことなどがずいぶんあったようだ。そこへ来て圏央道の問題。賛成と反対のまっぷたつに割れた町会の人々が、同じ場所に住むことの葛藤はどれだけのものがあったろうか。
そんなことを思うと、今こうしてみんなが和気あいあいと同じ時間を共有することって、なんてすばらしいんだろ。


後片付けが終わって、クラブで反省会と称してみんなでお酒を飲む。いつもは女衆は土間にいるが、畳の部屋で上座も下座もなくみんなでいっしょにすわって飲む。やまんばはここへ来て10年がたつ。ご神事のあとの懇親会の席が好きでいつも顔を出していたが、こんな風に男も女もみんな一緒に同じ席で飲んでいるのをあまり見たことがない。
きのうはみんな盛り上がってて、なんだかすごく楽しい時間をいただいた。


夕闇が迫りクラブを閉めるころ、やまんばはまわりをうろりっとして、建物にお礼を言った。

少しあとになって気づいた。
この建物で、こんなふうにみんなが集まって飲むのは今日が最後だったんだと。
次ぎにくる町会の夏祭りは、新しい会館で行われる。
この木造平屋建ての古い古い建物は、町会のクラブとしてのその長い歴史を終える。

いったいどれくらいの人々が、ここでどんな時間を過ごしてきたんだろうか。楽しいこと、つらいこと、哀しいこと、くやしいこと、数え切れないくらいの無数の思いがしみ込んだ建物。その最後の時間を、この建物はこんな形でみんなに与えてくれたことに気づき、胸の奥にぐっときた。


最後までここで飲んでいようと、ひとり留まってるのんべのオヤジがいた。
彼はこの町会を愛してやまない人物だ。きっと無意識にこの最高の瞬間を名残おしんでいたのだ。それはこの建物に刻まれた無数の思いが、彼をとおして表現されていたのにちがいない。

すべてのものは生きている。
やまんばは最近特にそう感じる。人も木も山も空気も机も建物も、すべてが生きている。意識を持っている。一個の細胞は木になり、建物になり、そこで嗅いだ思いをその記憶の中に刻み付けていく。それは素晴らしいことだ。この建物がやがて解体され、燃えていっても、その細胞は空気になり、風になり、呼吸をする誰かのカラダの一部に変わる。クラブの記憶は誰かの一部になっていくのだ。

そんな瞬間に立ち会えたことに深い感動を覚えた。

2014年3月13日木曜日

一人牢獄から脱出!



自分を解放する。
ってことばあるよねえ。

それってハチャメチャなことする、メイワクな人?
その場の空気読まないYKKな人?

と、おもうでしょー。ちっとちがうんだなー。

自分を否定しないことなんだな。
なんだあ、そんなこと?

そ。そんなこと。

わしらの頭の中に思いっきり、何億個ってゆー、自分を否定している言葉が詰まってんだな。
ああ、そんなんじゃだめだ。
こんなんでもだめだ。
そっちじゃもっとだめだ。
ああ、、もう、あああ、だ、か、らあ!
とかなんとか。

それやめてみるんだ。
ボケとツッコミみたいに、いちいちツッコんでみるんだ。

やまんばなんか、絵を描いてる最中にちょっちゅう言ってる。
ええ?その色?ありえねえだろ。
うそっ、そっち使う?もっとありえねえだろ。
うわー、ひどい。すげーひどい。さいてえ!
とかなんとか。

んでそれを、
ええ?その色?
おう、その色使う。
え?今度はその色?
うん、これ使いたいもん
ありえねえだろ!
いいねえ!

と、こーするんだな。
するってえと、
なんだか不思議ないい色になるんだな。
今まで使ったことない絵になるんだな。

確定申告全然やってない!やばい!おくれる!
いいじゃん。おくれても。

納品が間に合わない。ヤバい!
いいじゃん。間に合わなくても。

朝目が覚めて、
ああ、朝だ。起きなきゃ。嫌だなあ。寝ていたい。
うん。寝ていよう。
え~~?遅刻するじゃん。
遅刻してもいいじゃん。
ええ~~?

これねえ、理屈で考えたらありえないでしょ?
でも何かを解放していくんだな。


わしらは心の中で、その人だけのドラマを思いっきり生きてるんだ。

一見しら~っと何事もないかのよーな顔をしている人々の心の中は、七転八倒ドタバタコメディやりまくってんだな。
これがだめだあれがだめだって言って、この世の法則に合わせるためにびしびし自分にムチ打って生きてるわけよ。
でもね。それがそもそも心の中に『一人牢獄』を作ってんだな。

ヤバい!おくれる!おくれちゃだめだ!
って、心で叫ぶ時、カラダはガチってその瞬間固まる。脳みそも固まる。フリーズしたものって、外からもウチからも何も入って来れないよね。何一つ新しい考えって浮かばないよね。

でも、おくれてもいいじゃん。
って、心が言ったとき、カラダのフリーズはふにゃっと溶ける。
このふにゃっと溶ける瞬間にすっと何かが入ってくる。

私たちの細胞はつねに創造している。一時として留まっていることがない。私の息は吐いた瞬間、空間の中に溶けていき、木の中に入リ、木の細胞になる。細胞や電子は情報の伝達物質だ。息をしながら情報交換をし、創造をし続けている。

フリーズすると、自分だけでなんとかしようとする。生まれてから今までの間に作りあげた、皆それぞれの「オリジナルのルール」の中だけでモノを考えようとする。

それは恐怖から始まった考えだから、恐怖に結びついたものしか浮かばない。トーゼンあまりうれしくないものを呼び込んでくるので、また一人牢獄にはまるのだ。


自分の否定をやめていくと、別の自分が浮上してくる。
それは今まで見たこともない、新たな自分の発見なのだ。


絵:「婚外恋愛」MF新書表紙イラスト
ぐふふ〜〜〜〜〜、『不倫』なんちゅうと、中年オヤジの、後ろ向きの、なんかいやらしーかんじがするけど、これは女性が能動的にする恋愛だ!

やまんばはおもうんだけど、女性は自分を愛したいのよ。その自分を愛せるきっかけを、誰かに認めてもらって、受け取ってもらうことで自分を愛せちゃうんじゃないかなあ〜っておもうんだな。女性にとって恋愛は、自分を思いっきり愛せる瞬間なのよおおお〜。



2014年3月10日月曜日

花粉症の不快を味わう(実況中継する)とどーなるか




さっき、我が家の目の前のスギが花粉を飛ばしました。
ぱっふうう~~~ん。。
花粉舞いおどる今日この頃、いかがおすごしでしょーか。
(いらん情報をくれるな)
やまんばの、め、はな、のどにも春はやってきております。

石けんなし生活で、死ぬほどのくるしさは解消されたものの、まだ不快感は若干残っている。
最近実験を始めた。

夜中に喉のかゆさで目をさます。
とゆーより、知らんあいだに喉をかいているので目をさます。

いかん。かいてはいけない。
と、かかないよーにして、うとうとしているあいだに、またかいている自分に気がつく。

いかん、かかないよーにしなければ、、、と、かくのをガマンしていると、うとうとしているあいだにかきむしって、目をさます。。。

をくりかえしているではないか。

この「かくのをやめる」ってのは、目も同じで、かくと粘膜に傷がつくんで、よけい敏感になり、よけいにかゆくなるというのに気がついたから。
だからかかないよーにしている方が、かゆさは激しくならない。で、できるだけかかないよーにしている。

だが。
寝て無意識状態になっているうちにかいてしまうと、これはコントロールできないではないか。
はたと困ってしまった。

かくとは、かゆさに抵抗しているわけだ。
かゆい→不快→いやだ→とりのぞこう
よーするに、不快をとりのぞきたいわけだ。
抵抗は苦しみを生む。よし、この際無抵抗になって、かゆさを味わってみよう。

おお、皮膚がムズムズする。おお、こんな風に皮膚は反応しているのか。
おお、おお、こんな感じか。おおおおお~~~。。。。

。。。。と感じているとまもなく意識が遠のいて、気がついたら朝になってる。

こりゃなんだ?

目も同じ。昼間に起きているあいだにかゆくなると、じーっとかゆさを味わう。
おお?おお、おお、おおおおおおお。。。。
と、気がついたら、目のかゆさを忘れている。

なんじゃこりゃ?

抵抗が不快を呼んでいるんじゃないか?

これって、受け入れるってこと?自分の身体の変化を抵抗せず、そのまんま受け入れ、
いや、むしろ自分の身体の変化を楽しんじゃう。

お?おお?おおおおおおーーーーっ!って。
ついでに踊っちゃう。


この違いは、おおきい。
何だろうね。
不快を不快と受け取るか、不快を不快と思わず、ただ身体の変化を実況中継する。そのほんの少しの違いは、全然違うベクトルに向かう。
ほんの少しの違いのよーにおもうけど、実はすごい違いだったりしてね。

どおよ?

あなたもぜひおためしあれ。


絵:「東京五輪で日本はどこまで復活するのか」MF新書表紙イラスト
これからの日本を徹底分析した実におもしろい本です。

2014年3月6日木曜日

足りてるものを探せ!



人ってさあ、足りないもんに気が向くよね。
あれ足りない、これ足りないって。
なんでだろうな。

それはきっと、ちっちゃいときから、
「おまえにはまだ足りない!」
と言われ続けてきたからなんだろうね。
だから大人になっても、足りないもんを探すんだ。
政治家も「問題点」を指摘しあうでしょ?あれもちっちゃいときから、「この社会は問題がいっぱいなのだ!それを解決するのが政治家っちゅーもんなんだ!」っちゅーて、政治家のお父さんに言われて育ったからなんだろーね。

人って、なぜか足りないものには集中が持続されるけど、足りてるものには集中しない。
「あん?空気?ああ足りてる足りてる。間に合ってます。」
といって、べつにそれに執着しない。
「え?えんぴつが持てることですか?ああ、持てますよ。なにか?」
「え?お金?ああ、ありますよ。でもあなたにゃあ、あげませんよ」とか。

○○が足りないって、おもうじゃない。
すると、足りないことはいけないことなんだ!って言うおもいから、それをなんとか足りるようにしようとあの手この手をつくす。ものすごい考えて、ものすごーい研究して、ひーひーいいながら、悪戦苦闘する。
だけどちっともその足りないもんは足りてくれない。
「なんでやねーん!わしがこんだけ努力してんのに、世の中はどないなっとんねん!」
と、天に向かっておこるわけだ。

ところが、宇宙はちゃんと法則どおりにやってくれてんだな。
ほら、例の引き寄せの法則。
よーするに、「○○が足りない」というのを現実化してくれ続けているだけなんよ。
「○○がいけない」も同じ。「○○が問題」というのも同じ。
目の前に○○が足りない状態を引き寄せてくれるんだ。

そういう状況になっていくのは、そこに解決の道はないよって教えてくれているようなのだ。
○○が足りないというおもいは、苦しみや怒りや恐怖や悲しみを生み出す。それはどんどんつまれて一カ所に集まり出す。そして取り除こうとすればするほど存在は大きくなって重く、堅くなってくる。そのうち石みたいな状態になって、にっちもさっちもいかなくなる。
そのうち、その苦しみがからだに出たり、心に出たりする。それは内側からのメッセージだったりする。
「ちょと方向を変えてみたら?」って。



足りてるものって、ごまんとある。
足が動く。内臓が動く。心臓が動く。うんちが出る。息ができる。手がキーボードを叩く。雨風がしのげる家がある。風を感じる皮膚がある。熱を感じる肌がある。声が出る。お茶が飲める。。。。ううう~~~、いっぱいあり過ぎて言い切れん。
でもそんなのあたりまえじゃん!っていって、気にとめないでしょ?それが足りてる理由。
もし、○○が足りてたら、気にもとめないでしょ!

足りてるものって、軽い。
いや、正確にいえば、足りてるものに対する心の状態が軽い。
え?鼻がとおる?ええ、すんなりと。で終わり。
だけど鼻がつまると思えば、いきなり重くなる。
このちがいです。
状態が心地いいと軽く、状態が不快だと重い。

不快は意識すればするほど不快全開になる。ひっぺがし、くちゃくちゃに丸め、ポイしようとしても、ますますまとわりついて離れない。ぶんぶん振って取り除こうとするうちにどんどん重くなり、石になる。orz

足りてるものは、心地いいとも思わないほどあたりまえになっているから、わしらはちっとも気がつかないんだ。軽すぎて空気みたいだから、ちっとも気がつかないんだ。そしてころころとクルクルと常に回転しながら変化していくからその速さに気がつかないんだ。

たとえば、ああ、いいお日さま。。。って言ってると、心はそこにとどまっていなくて、ああ、いい風。。。と思う。すると鳥の声が聞こえて、ああ、春が来ているって思い始める。梅の香りが漂って、全身を満たすと、からだがぴりぴりと反応して、皮膚から内臓へと春の準備が始まるのを感じている。
どんどん変化するんだ。一カ所にとどまってないんだ。それはとどまって固まることじゃないんだ。
もし、お日さまが足りない!っておもったら、なんとかしてお日さまに当たろうとする。心はそこにずっととどまって、不満や不快で石にようになっていくだろう。

ベクトルの方向を変える。
足りてるものを探そう。

足りてるものはかろやかで高速だ。いわゆる波動ってやつも高い。それはどんどん広がって大きくなる。
自分がどれだけ奇跡の中に生きているか気がつかせてくれる。そのトーンはうれしさやよろこびを引き寄せ、もっとうれしさやよろこびを作り上げる。

人間が持つ創造のよろこびの醍醐味はほんとうはここにあるんだ。

足りないものを探して、それをどんどん大きくさせて、苦しんで、恐怖の中にとどまっているのも創造の力だ。物質界にいない存在たちには味わえない醍醐味だ。

だけどそれはもう十分味わい尽くしたんじゃないかい?
ああ、お腹いっぱい、もうたくさん。ご馳走さま!って気分じゃないかい?

じゃあ、別の創造をしよう。
それはきっとこれまで見たこともない世界を見せてくれる。



2014年3月5日水曜日

ゼロポイント






夜中、ある夢を見た。
それについて恐怖が走った。
それをはらいのけようともがいた。

引き寄せの法則を使って、まるでそうでないかのようにふるまう。でもそうでないかのようにふるまうとは、イヤな現実があるのだ、ということを「前提」にしているようなもんだから、それをやればやるほど、イヤな方が引き寄せられるのではないかと、新たな恐怖を生む。

やまんばは未来に起こる可能性のあるものに恐怖していたのだ。

今まで知っている方法を使って、ありとあらゆることをやってみる。だけどその恐怖から逃れられない。
そこで、ではその恐怖をとことんまで味わってみようとした。どこまで恐怖に耐えられるか。

すると、、、
恐怖は怒りに変わっていった。
とめどもない自分への怒りに、全身が震え、罪の意識が怒濤のように溢れ出し、ついに自分に向かって「死ね!」とまで言い放った。布団の中で大の字になって、自分に死ねと命令したのだ!

だが。
ちっとも死ねなかった。orz
それだけではない。そこまで言い放ったのに、苦悩はちっともなくならなかった。

なんだ、それ。
これって、自分を殺しても苦悩は消えないってことなのか。。。
そーいえば、自殺してもそのとき持っている苦悩は消えはしないと、セスの本に書いてあったのを思い出した。
つまり自殺では、何も解決されないのだ。むしろ、
「しまったあ!これじゃちっとも解決じゃない!はよ、生まれなおそう!」
って、こっち側に戻って来ようとするらしい。

死にもできない、逃げもできないくるしさの中でじーーーーっと、くるしさを味わっていると。。

ふと、今、何をしている?とおもった。

布団の中。
どんな感じ?
あったかい。
いーねえ。
音は?
静か。
あら、いいじゃない。
ほかには?
わかんない。でも、あったかいし、静か。

そーだ。私、こんなほかほかしたところで、大好きな夜の雨の音を聞きながら、心穏やかに過ごしているじゃないか。

今この瞬間は、まっくらな部屋の中にいる。
今この瞬間の私の世界は、ここちよい音と、暖かさと、快適さだけ。

これがすべてなんじゃないか?手に取れる、私が味わう、ここがすべてなんじゃないか?ここですべてが始まり、広がっていく、これがゼロポイントなんじゃないか?


私は今夜妄想の世界に苦しんでいたんだ。未来起こるかもしれない可能性に怯えて罪悪感を持って、恐怖と怒りで震えていたんだ。
だけど、今、ここは、穏やかで何も起こっていない。

恐怖は、心の中にあっただけなんだ。罪悪感も怒りも、心の中にあっただけなんだ。

未来は今この瞬間に作られる。それはどう動くかということではなく、心の状態だったんだ。

未来は今変えようとするのではなく、心が『今』を感じて生きているかってことだったんだ。

何かをすることではなかったんだ。。。。



セスはいう。『今』の中に膨大な情報がある。その中で見つけろと。
気がつくと眠っていた。





朝、モーニングノートをつけながらおもう。
「今、何を感じている?」
う~ん、わかんない。おだやか。それだけ。

私たちは、今を味わおうとすると、漠然とする。
なぜか、微妙なのだ。

でも過去や未来にフォーカスすると、必ずはっきりとした感情を味わう。怒りや、恐怖や、哀しみや、くるしさなどの。だからフォーカスしやすいとも言える。それは「自分がここにいる」という実感を伴うことでもあるからだ。

だけど、今にフォーカスすると、ほとんど曖昧になってくる。
それはこーゆーことだろうか。
音はドレミファソラシドと8つの音階がある。
たとえば、ド(恐怖)レ(怒り)ミ(哀しみ)。。みたいなわかりやすい感情だとすると、『今』の微妙な感情は、ドとレのあいだにある、たくさんの音なんじゃないだろうか。

自然界はあらゆる音でできている。決して8音階だけじゃない。イスラムの音楽は64音階(だったっけ?)もあるというではないか。

では、感情は怒りや恐怖だけじゃない、まだ私たちが「言葉」におこしてもいない感情があるんではないか?その微妙な世界こそが、今、この瞬間に膨大な情報として詰まっているんではないか?

よくいわれる言葉「人間は限られた狭い世界にしかフォーカスしていない」というのは、まさに8音階の音や感情しか知らないってことで、ほんとうはその間に無限の音や、感情や、色や、物質や、言葉がひそんでいるんじゃないだろうか。

そこにフォーカスすることの一番の方法が、「今にある」ってことなのではないだろうか。
今この瞬間に何を感じて、何を味わって、何を聞いて、何を触覚で感じて、何の匂いをかいで。。。と。

そこから今まで見えなかったものが見えたり、感じたり、聞こえたり、するのかもしれない。庭の木が語りかける声が聞こえるかもしれない。

その時、私が生きている世界が違うものに変わっていくのかもしれない。。。


絵:「うんちく埼玉」MF新書表紙イラスト
  出た!うんちくさんシリーズ。今度は埼玉!相変わらずこだわりが満載です!

2014年3月4日火曜日

不安になりたいとき〜。



不安になる時って、どんな時だろうね。
不安になる時って、じつは一番「自分」を意識させてくれる時じゃないかなあ。

きっと不安じゃない時って、ほわ~んとしてたり、ぼけーっとしてたりして、「自分」ってモノを感じない時なんじゃないかな。
んで、ふと、「自分」を感じたい時に、不安になってみるんじゃないかって、今朝思ったんだな。

わしらはひょっとしたら、不安になるって言うものを、自分がいることを意識する単なる材料にしてるんだったりしてね。

よく自我をなくせ!とか、エゴをなくせ!とか、考えるな、感じるんだ!って、言ってみて、一生懸命ひっぺがしたり、くっつけたりしてごちゃごちゃやってる時があるじゃん。
それって、じつは一番「自分」がここいる!他人がいる!社会と自分と他人は全部別々にいる!って感じて、スリリングで、楽しんでる時じゃないかな。

ンで、そうじゃない時は、いつだって、霞のよーな状態で、ほんげーとしてて、他人だか、自分だか、社会だか、なんだかあれこれ分けられてる感じじゃなくて、ボワ~ンと一体となってる。
それってさあ、よーーーーーーくかんがえりゃ、そもそも意識が自分にないから、「自分」に気がつきもしてないんじゃね?

ほんとはその不安を忘れている時が、すでに悟りの状態だったりしてね。

不安になりたいとき~。
不安になりたいとき~。
「自分」で遊びたいとき~。
「自分」で遊びたいとき~。

2014年3月3日月曜日

人のためって、人に認められるため。





やまんばは、きのう風呂で一人でウケたのさ。

自分のやっていること、ぜ~~~~~んぶ、人のためにやってたってこと!

え?人のため?いーことじゃーん!

いんや、そーゆーいみでなくて、
人に認めてもらうためにやってたんだああああああああってこと!

絵を描くのも、人のため。
なんで?
お金を稼ぐため。家族のため。

だからお金を稼げないものは、仕事じゃない。
だから、純粋に絵を描いちゃいけないのだ。
なんで?
だってそれは、自分のためだけなんだもん!
だから、かきたくっても描いちゃいけないのさ。
自分のためだけに描くって行為は、傲慢で、自分勝手で、わがままな、いけないことだからさ!

なんで?
だって、それは人に認められない行為だからさ。
だから認められるためにこそ描くべきであって、認めてくれないものは描いてはいけないのさ。



やまんばが、なんだかわからんがむしょうに描こうとすると、もう一人が止めに入る。
「こらこら、そんなもの描いてどーするの?あんた、自分のために描いてちゃいけないでしょ。あんたは人に認められるために描いてんだから」
とひたすら言って来るのだ。
それでも無視して描こうとすると、
「ああ、そこそこ。そこだめ。ああ、それもだめ。ぜんぜんなってない。さいてー」
ものすごい勢いで攻撃して来るのだ。

これがどうしてこうなるのかわからなかった。すごく悩んで、いったいなんなんだ、これは!って。
それが、わたしがするすべての行為が、人に認められるためにやっていたんだ。だから自分の内側から出る行為に正当性が認められなくて、自分で自分を止めていたんだ。



でもね。みんなやってんだよ。
みい~んな、人のためにやってる。
それは人が
「あんたはここにいていいよ」
と、認めてくれるとおもってるからなんだよ。

だけどそれは延々と続く。
なぜかっちゅーと、そこに終着点はないから。
いくら100万回、
「いいんだよ、あんたはここにいていいんだよ」
っていわれよーが、だめなんだ。いくら言われても自分で自分に納得できないんだ。くるしさは消えないんだ。一瞬認めてもらって消えても、またしばらくすると、次の許可をもらいたがる。
認めて認めて、ねえ、あたしを認めて!って。

それは人にもらうことじゃないんだ。

それは、自分で、自分に
「わたしはここにいていいんだ」
と、ただここにいることを自分で認めること。

それはまったく、他力本願でなくて、勝手に出て来るもんでもなくて、意識的に能動的に自分で自分にする行為だ。
そこからすべてが始まる。これはすごく大事な行為。
自分で自分を愛することなのだ。

イエスが言った、
「自分を愛するように隣人を愛しなさい」
は、昔の人々に送った言葉だ。今はあの時代とはちがう。あの時代にはあの時代の人々にそれが必要だった。
これを今の人々への言葉に直すと、
「隣人を愛するように、自分を愛しなさい」
なのだ。
私たちは、あまりにも自分を愛せないでいる。
自分を認めるとは、自分を愛することと同じではないか?

そこから自分の人生の『本番』がはじまるんだ。
自分が、ほんとうにまったく自分自身を生きるのだ。



絵:「日本100大企業の系譜」MF新書/表紙イラスト
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