2023年6月29日木曜日

神聖さの連鎖


 

町会のはずれに、ひっそりと神社があった。


二度の放火にあったと聞いてから、なんとなく足が遠のいていた。


しかし町会の歴史を辿る仕事を請け負った手前、

そこを通りすぎるわけにもいかず、ある日立ち寄った。


そこで二人の男女が掃除をしているところに遭遇。


初めはここの神社の関係の方かと思ったがそうではないらしい。

なんでも今年初めの頃にこの神社を知り、

あまりの荒れ果てぶりにちょっとづつ自分たちで掃除を始めたのだという。


それから毎週ここにやってきて、

自分たちのペースで掃除をしては高尾山に登り、

都心に帰っていくというローテーションになっているのだという。


縁もゆかりもない人が、こうやって人知れず綺麗にしていく行為に私は感動してしまった。

ラインを交換し、やりとりが始まった。


やはりその神社の持ち主に承諾を得たほうが、

自分たちも気持ちよく掃除ができるという話になった。

ところがその持ち主は引っ越して今はどこにいるのかわからない。

町会の人に聞いてもわからないという。

ところがひょんなことから連絡先がわかった。


実はそのご家族は、圏央道問題ど真ん中にあったこの町会で、

唯一立ち退きを迫られた、

いわば圏央道を建てるにあたって犠牲を払った一家であったのだ。


生まれ育った家や町から離れなければならない上に、

心ない言葉も浴びせられてきた。その思いはいかばかりであったか。

その方に会いに行く。

どんなふうに会えば良いのだろうと思いあぐねていたが、

そんな思いとは裏腹に、久しぶりにこちらに出向いてくれるというではないか。



奇しくもその犠牲の上に出来上がった橋の下にある町会の会館に、わざわざお越しくださった。

久しぶりに彼に会いたいと、町会の人たちもたくさん集まってくれた。


その日は不安定な天気になる気象予報だったが、

一滴の雨も降らない、いい風が吹き渡る素敵な時間だった。

神社の成り立ちや、その手前にあった大きな旅館のことなど、

色々資料を持ってきてくださり、貴重なお話がたくさん聞けた。

そして気になっていた掃除の件も快く承諾してくださった。



ふと立ち寄った神社で偶然出会った二人。

その二人をきっかけに次々とつながりが連鎖し、

最後は町会の暗い過去のわだかまりも溶かしていく結果になった。


この場所は曖昧なまま通り過ぎるところであったのに、

最後はこのようにクリアになり、町会の全てがピタッと繋がった感があった。




その夜、高揚感が収まらず、寝付けなかった。

この幸せな思いは一体なんなんだろう。


最初に神社でご夫婦の神聖さに触れた。

その神聖さが、次の人の神聖さに延長され、

それが次々に延長され、

最後はただただみんなの心が繋がって喜びがあふれた。


コースはこういうことを言いたかったのか。

人は一人では悟れない。兄弟と一緒に悟るものだと。


みんなが喜び合うこと。それだけが実在する。

喜びは、分離して喜べない。

喜ぶ時、それはひとつになる。

そのひとつになったものだけが真実だ。


闇を見る時、それは実在しないものを見ている。

だけど喜びで見る時、それは神の反映を見ているのだ。


同じ見ているものでも、こっちの心持ちによって、完全に別のものとなる。


罪を見るなら、その偶像はあたかも存在しているように見るだろう。

しかし愛で見るなら、その偶像はあるように見えて、それは実在しないとわかる。

なぜならその時すでにその背後に実在するものを、すでに感知しているからだ。


だから形など重要ではなかった。

繋がっている心だけが重要なのだった。


こんな体験をさせてくれたご夫婦に、心から感謝したい。




絵:「coopけんぽ」表紙イラスト/ぽんぽこたぬき






2023年6月26日月曜日

ミッション「自分を嫌え!」


 

太ってる。痩せない。足が痛い。食べちゃダメ。

クライアントから仕事の直しが来るかもしれない。

部屋が汚い。庭の草がボーボー。。。


絶えずぶつくさ考えている自分。


一体なんなんだ?このぶつくさは。


散々ぶつくさ言って、


だからきらいなの、自分のことが。



私は自分を嫌っている。

自分のことがどれだけ嫌いか。。。


いや。。。ちゃう。。。

なんかちゃうぞ。。。




そうか!

ほんとは、自分を嫌う材料を探していたんだ。。。!



私の心は「自分のことを嫌う理由」をずっと探し続けているんだと気がついた。


ポカンとした。

なんなん?これ。


自分に絶えずイチャモンをつけ続ける、この衝動は何?





嫌いたがっているのは、まさかこれ?


神の子が、神から離れたがっていたわけだから、

一番やりたかったことは、神の子を嫌うこと。


マジ!?


嫌うことは神様への抵抗。

だって神は愛しかない。

愛以外になることって、嫌うことやんか。


 

ということは、私のこの世界でのミッションは、

「私を嫌うこと」だったのだ!


嫌って嫌って嫌い尽くすことだったのだ。


ブスだから嫌い。才能がないから嫌い。醜いから嫌い。

あれも足りないこれも足りないから嫌い。

あれもこれも嫌だから嫌い。

常にそのことしか頭にない。

だって、それが仕事だったんだもん(ぎょえ~~~!)



ということは、

と、と、ということは、よ。


本当は「私大好き!」なのだ。



だって、嫌うってことは、好きってものがないと、嫌えないのだもの。



自我は「自分を嫌え~自分を嫌え~」と、絶えずささやく。

そうでないと、ささやきそこねてたら、

「自分大好き!」にあっという間に戻っちゃうからだ(笑)。


だから自我はひたすら私に、

「お前は罪びとだ」と言いつづけるのだ。


だってうっかりしてたら、

すぐに「神の子」を思い出しちゃうからだ(笑)。



だから自我は働きつづける。

悪魔のささやきを。


ごくろーさん。

その遊びはもう飽きた。

ミッションコンプリート。


おままごとはもうおしまい。





絵:コージーミステリー表紙イラスト









2023年6月24日土曜日

恐れの仮面の下には


 

夜中、母のことを思い出して目が覚めた。


母を施設に入れたことにものすごい罪悪感を感じていた。

起き出して、その思いをじーっと感じていた。

感じながら思った。


施設にご家族を入れた方々は、私のような罪悪感を持っているのだろう。

その罪悪感は消えるのだろうか。

毎年プレゼントを送れば消えるのか?時々会いに行けば消えるのか?


例えばなくなったお母様にいまだに罪悪感を持っておられる人がいる。

あの時ああしておけばよかった。

もっと優しくしておけばよかったと、

今更後悔しても後悔しきれない思いに悩まされていた。


近所に精神病院がある。

ここに入っている患者さんのご家族も、

どんな経緯があってのことかわからないが、

その罪悪感もかなりなものだろう。


そして患者さんご自身の罪悪感たるや、

想像を絶するものがあると思う。



この世は罪悪感で満ちている。

そしてその罪悪感を消すことは、

この世で何かをやって消すことはできなさそうだ。


やってもやっても、その時だけ一瞬気持ちが楽になるだけで、

また「次をやらなければ」という思いがやってくる。

この堂々巡りが延々と続く。



これはもう「やる」ことで解決することではない。


何かをやって心を落ち着けるのは、

よく見ると、自分の心を気持ちよくさせるだけのことだ。


相手への思いやりというよりも、

自分が楽になりたいという思いだ。


その発想の根底にあるのは恐れ。

恐るから、恐れを取り除くために行動する。

そこには何の解決もない。

堂々巡りが続くだけだ。



向けるのは、行動ではなく心だ。

彼女に対する思いだ。


母のことを思い、考え、感じるその時、

そこには恐れの向こうに愛があった。


自我は気づかれないように恐れを吹き込み、行動させようとする。

いつまでも迷い、悩み、ぐるぐると翻弄させるように促す。



しかしその奥にある、母への想い。

その想いは本物だ。

悩み、苦しむのは、その愛がゆえなのだ。


母への愛。兄弟への愛。

それは美しいことじゃないだろうか。

愛しさは、尊いものじゃないだろうか。


私は恐れではなく、罪を見るのではなく、

それを通り越して愛だけを見る。



心の中を占領している恐れの思いを、

そっくりそのまま聖霊に渡す。


まるで顔にくっついていた仮面を外すように、

顔から外して聖霊に渡す。


その下には、母への愛、神への愛が横たわっていた。





2023年6月21日水曜日

おもちゃの指輪

 


う~~飲みすぎた~~~、

飲むんじゃなかった~~。


お酒を飲みすぎて、夜苦しむ。


後悔が後から後から出てくる。

飲んだお前が悪い~~。

幾つだと思ってるんだ~~。

ええ歳していまだに酒の調節もできないのか~~~。


飲んで体調が悪いのに、

それにさらに追い討ちをかけるように、

心の中の声が延々と私をバッシングする。


おっと、きたぞ。

これだ。私を惨めな気持ちにさせるのは。

自分を責めて、後悔をさせる考え。

この一連のことが私が罰を自分に与えている行為なのだ。


飲んでしまったことは終わったこと。

具合が悪いのは仕方がない。

何もやりようがない。まあ、せいぜい水を飲むぐらいだ。


だがそれを苦しみに持っていくのは、その思いなのだ。

具合が悪いことはいけないことという考えから始まって、

これぐらいで具合が悪くなるのは、ひょっとしたらどこかが悪いからではないかとか、

もっとひどいことになるのではないかとか、

もう二度とお酒は飲んではいけない!とか、

大体お前が悪いのだ、全面的に悪いのだ!という、

どんどん泥沼に陥れていく、その声、思い、考え。

この一連のことが、私を苦しめている。




もしその声を聞かなかったら、私たちはどれだけ幸せか。


これを知っているから、座禅を組んだり、滝行したり、荒行したり、

あらゆる方法で心の中の声を滅却させようとしてきたのだろう。




私たちはただ自分に罰を与えているだけなのだ。

苦しめ。もっと苦しめと。


お前は罪を犯したのだ。

とんでもないことをしでかしたのだ。

だから罰を与えなければいけないのだ、と。


コースはその声(自我の声)がなぜ生まれたのかを解き明かし、

その声を自我ではないものとともに取り組むことを助けてくれる。




心が静かであることが、安心と安らぎを与えてくれる。

心の中の無音は、

満たされた感覚と幸せがすでにそこにあることを気づかせてくれる。



心の中の爆音に気づくこと。

その爆音とは、絶えず吹き込んでくる自分へのジャッジ。

他人へのジャッジも、実は自分へのジャッジだったのだ。




その声は無である。

その思い、考え、声は、

まったくの無。無意味であった。


無意味な考えが、無意味な世界を作り出し続けている。

その必死でその声を考えているその時、私たちの心は空っぽだ。

考えてなどいない。


同じ状況に、同じ考えという、

同じ反応を繰り返しているだけなのだ。


いくらそのことを考え続けても、そこに何の脱出口もない。





私たちは自分の心の中の声を大事にしすぎる。

その声は自分を決して元気にさせない。


恐れさせ、脅し、焦らせ、萎えさせる。

その声のせいで焦って、何かしてその恐れを消そうと躍起になる。


私はその思いをそっと脇に置く。

その考えを採用しない。


なぜならそれは本当の考えではないのだから。





例えば、ダイヤの指輪をもらって、めっちゃ喜んでいたとする。

大事に扱って、どこかに行く時にははめていく。


しかし実はそのダイヤの指輪が、

ニセモノだったと知ったらどうする?

知ってもいつまでも大事にするだろうか。


「あっそ」と言って、もう使ったりしないのではないだろうか。


おもちゃの指輪は、そっと脇に置く。





絵:コージーミステリー表紙イラスト