う~~飲みすぎた~~~、
飲むんじゃなかった~~。
お酒を飲みすぎて、夜苦しむ。
後悔が後から後から出てくる。
飲んだお前が悪い~~。
幾つだと思ってるんだ~~。
ええ歳していまだに酒の調節もできないのか~~~。
飲んで体調が悪いのに、
それにさらに追い討ちをかけるように、
心の中の声が延々と私をバッシングする。
おっと、きたぞ。
これだ。私を惨めな気持ちにさせるのは。
自分を責めて、後悔をさせる考え。
この一連のことが私が罰を自分に与えている行為なのだ。
飲んでしまったことは終わったこと。
具合が悪いのは仕方がない。
何もやりようがない。まあ、せいぜい水を飲むぐらいだ。
だがそれを苦しみに持っていくのは、その思いなのだ。
具合が悪いことはいけないことという考えから始まって、
これぐらいで具合が悪くなるのは、ひょっとしたらどこかが悪いからではないかとか、
もっとひどいことになるのではないかとか、
もう二度とお酒は飲んではいけない!とか、
大体お前が悪いのだ、全面的に悪いのだ!という、
どんどん泥沼に陥れていく、その声、思い、考え。
この一連のことが、私を苦しめている。
もしその声を聞かなかったら、私たちはどれだけ幸せか。
これを知っているから、座禅を組んだり、滝行したり、荒行したり、
あらゆる方法で心の中の声を滅却させようとしてきたのだろう。
私たちはただ自分に罰を与えているだけなのだ。
苦しめ。もっと苦しめと。
お前は罪を犯したのだ。
とんでもないことをしでかしたのだ。
だから罰を与えなければいけないのだ、と。
コースはその声(自我の声)がなぜ生まれたのかを解き明かし、
その声を自我ではないものとともに取り組むことを助けてくれる。
心が静かであることが、安心と安らぎを与えてくれる。
心の中の無音は、
満たされた感覚と幸せがすでにそこにあることを気づかせてくれる。
心の中の爆音に気づくこと。
その爆音とは、絶えず吹き込んでくる自分へのジャッジ。
他人へのジャッジも、実は自分へのジャッジだったのだ。
その声は無である。
その思い、考え、声は、
まったくの無。無意味であった。
無意味な考えが、無意味な世界を作り出し続けている。
その必死でその声を考えているその時、私たちの心は空っぽだ。
考えてなどいない。
同じ状況に、同じ考えという、
同じ反応を繰り返しているだけなのだ。
いくらそのことを考え続けても、そこに何の脱出口もない。
私たちは自分の心の中の声を大事にしすぎる。
その声は自分を決して元気にさせない。
恐れさせ、脅し、焦らせ、萎えさせる。
その声のせいで焦って、何かしてその恐れを消そうと躍起になる。
私はその思いをそっと脇に置く。
その考えを採用しない。
なぜならそれは本当の考えではないのだから。
例えば、ダイヤの指輪をもらって、めっちゃ喜んでいたとする。
大事に扱って、どこかに行く時にははめていく。
しかし実はそのダイヤの指輪が、
ニセモノだったと知ったらどうする?
知ってもいつまでも大事にするだろうか。
「あっそ」と言って、もう使ったりしないのではないだろうか。
おもちゃの指輪は、そっと脇に置く。
絵:コージーミステリー表紙イラスト
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