罪悪感。
自分が罪悪感を持っていると知ることは、結構きつい。
私は人生の初めの頃から自分に罪悪感があることを知っていたが、
実際それを解体させていくことは大変だ。
でも長年自分の闇を見続けていたおかげで、
自分の残酷性は平気で見ることができる(こらあー!)。
ところが、まさか自分に罪悪感があるなんて、
みじんも感じていなかった人にとっては、
自分の中にある罪悪感を見つけることは、相当ショックなようだ。
コースは自分の内側を見ることを推奨する。
それは自分の中にある闇を見ることにつながっている。
元々この世界を作り出したのは他ならぬ、その罪悪感がゆえだからだ。
それを見て、それに意味がないことを知らない限り、
この世界から解放されることはない。
だからそこは絶対避けて通れない。
これがきつい時期なのだ。
ところがその自分が隠し持っていた罪悪感に気がつき始めると、
今度はそれに取り込まれることになってしまう。
自分がどれほど残酷であるか。
息するように人や自分を攻撃しまくり、
とんでもない恐れの中で暮らしているかがわかってくるからだ。
最初は自我の声は自分の声だった。
自分が自分に話していると思っている。
そしてその声は自分の味方だと信じて疑わない。
しかし形而上学を学び始めると、これが自分ではないことを知る。
その声はただ私を脅すだけのものだと気がつき始める。
そして自我の声がはっきりと聞き分けられるようになってくると、
自我の声は大声になってくる。
つまりその声により敏感になってくるのだ。
地獄だ。
延々と続く自我の叫び声に「もうやめてくれえ~!」となる。
だがここに救いがある。
自分は聞いている側だということ。
それまでは自分の声だと思っていたが、自分は聞いている側だったこと。
誰が聞いているのか。
自分の本当のアイデンティティを忘れた神の子が聞いている。
自我に丸め込まれた神の子が聞いている。
つまり残酷性を持った存在ではないということ。
そしてもう一つ、聞くことのできる声がある。
それはあまりにもかすかだけれど、
それが本当の自分のアイデンティティからの声。
忘れちゃっているから、
そしてこの世界に没頭しようと思っているから、
聞こえないふりをしているだけなのだ。
その声を聞こうとする意欲。
それが導いてくれる。
迷った時は聞く。
苦しい時は聞く。
恐れている時は聞く。
あなたの見方を教えてください。
あなたにはこの世界はどう見えるのですか?
その答えが聞こえなくても、
見えかたがわからなくてもいい。
その時自我の側に立っていない。
本当の自分のアイデンティティを思い出そうとしている神の子がそこにいる。
聖霊はそこにいる。
光はそこにある。
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