夜中、母のことを思い出して目が覚めた。
母を施設に入れたことにものすごい罪悪感を感じていた。
起き出して、その思いをじーっと感じていた。
感じながら思った。
施設にご家族を入れた方々は、私のような罪悪感を持っているのだろう。
その罪悪感は消えるのだろうか。
毎年プレゼントを送れば消えるのか?時々会いに行けば消えるのか?
例えばなくなったお母様にいまだに罪悪感を持っておられる人がいる。
あの時ああしておけばよかった。
もっと優しくしておけばよかったと、
今更後悔しても後悔しきれない思いに悩まされていた。
近所に精神病院がある。
ここに入っている患者さんのご家族も、
どんな経緯があってのことかわからないが、
その罪悪感もかなりなものだろう。
そして患者さんご自身の罪悪感たるや、
想像を絶するものがあると思う。
この世は罪悪感で満ちている。
そしてその罪悪感を消すことは、
この世で何かをやって消すことはできなさそうだ。
やってもやっても、その時だけ一瞬気持ちが楽になるだけで、
また「次をやらなければ」という思いがやってくる。
この堂々巡りが延々と続く。
これはもう「やる」ことで解決することではない。
何かをやって心を落ち着けるのは、
よく見ると、自分の心を気持ちよくさせるだけのことだ。
相手への思いやりというよりも、
自分が楽になりたいという思いだ。
その発想の根底にあるのは恐れ。
恐るから、恐れを取り除くために行動する。
そこには何の解決もない。
堂々巡りが続くだけだ。
向けるのは、行動ではなく心だ。
彼女に対する思いだ。
母のことを思い、考え、感じるその時、
そこには恐れの向こうに愛があった。
自我は気づかれないように恐れを吹き込み、行動させようとする。
いつまでも迷い、悩み、ぐるぐると翻弄させるように促す。
しかしその奥にある、母への想い。
その想いは本物だ。
悩み、苦しむのは、その愛がゆえなのだ。
母への愛。兄弟への愛。
それは美しいことじゃないだろうか。
愛しさは、尊いものじゃないだろうか。
私は恐れではなく、罪を見るのではなく、
それを通り越して愛だけを見る。
心の中を占領している恐れの思いを、
そっくりそのまま聖霊に渡す。
まるで顔にくっついていた仮面を外すように、
顔から外して聖霊に渡す。
その下には、母への愛、神への愛が横たわっていた。
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