町会のはずれに、ひっそりと神社があった。
二度の放火にあったと聞いてから、なんとなく足が遠のいていた。
しかし町会の歴史を辿る仕事を請け負った手前、
そこを通りすぎるわけにもいかず、ある日立ち寄った。
そこで二人の男女が掃除をしているところに遭遇。
初めはここの神社の関係の方かと思ったがそうではないらしい。
なんでも今年初めの頃にこの神社を知り、
あまりの荒れ果てぶりにちょっとづつ自分たちで掃除を始めたのだという。
それから毎週ここにやってきて、
自分たちのペースで掃除をしては高尾山に登り、
都心に帰っていくというローテーションになっているのだという。
縁もゆかりもない人が、こうやって人知れず綺麗にしていく行為に私は感動してしまった。
ラインを交換し、やりとりが始まった。
やはりその神社の持ち主に承諾を得たほうが、
自分たちも気持ちよく掃除ができるという話になった。
ところがその持ち主は引っ越して今はどこにいるのかわからない。
町会の人に聞いてもわからないという。
ところがひょんなことから連絡先がわかった。
実はそのご家族は、圏央道問題ど真ん中にあったこの町会で、
唯一立ち退きを迫られた、
いわば圏央道を建てるにあたって犠牲を払った一家であったのだ。
生まれ育った家や町から離れなければならない上に、
心ない言葉も浴びせられてきた。その思いはいかばかりであったか。
その方に会いに行く。
どんなふうに会えば良いのだろうと思いあぐねていたが、
そんな思いとは裏腹に、久しぶりにこちらに出向いてくれるというではないか。
奇しくもその犠牲の上に出来上がった橋の下にある町会の会館に、わざわざお越しくださった。
久しぶりに彼に会いたいと、町会の人たちもたくさん集まってくれた。
その日は不安定な天気になる気象予報だったが、
一滴の雨も降らない、いい風が吹き渡る素敵な時間だった。
神社の成り立ちや、その手前にあった大きな旅館のことなど、
色々資料を持ってきてくださり、貴重なお話がたくさん聞けた。
そして気になっていた掃除の件も快く承諾してくださった。
ふと立ち寄った神社で偶然出会った二人。
その二人をきっかけに次々とつながりが連鎖し、
最後は町会の暗い過去のわだかまりも溶かしていく結果になった。
この場所は曖昧なまま通り過ぎるところであったのに、
最後はこのようにクリアになり、町会の全てがピタッと繋がった感があった。
その夜、高揚感が収まらず、寝付けなかった。
この幸せな思いは一体なんなんだろう。
最初に神社でご夫婦の神聖さに触れた。
その神聖さが、次の人の神聖さに延長され、
それが次々に延長され、
最後はただただみんなの心が繋がって喜びがあふれた。
コースはこういうことを言いたかったのか。
人は一人では悟れない。兄弟と一緒に悟るものだと。
みんなが喜び合うこと。それだけが実在する。
喜びは、分離して喜べない。
喜ぶ時、それはひとつになる。
そのひとつになったものだけが真実だ。
闇を見る時、それは実在しないものを見ている。
だけど喜びで見る時、それは神の反映を見ているのだ。
同じ見ているものでも、こっちの心持ちによって、完全に別のものとなる。
罪を見るなら、その偶像はあたかも存在しているように見るだろう。
しかし愛で見るなら、その偶像はあるように見えて、それは実在しないとわかる。
なぜならその時すでにその背後に実在するものを、すでに感知しているからだ。
だから形など重要ではなかった。
繋がっている心だけが重要なのだった。
こんな体験をさせてくれたご夫婦に、心から感謝したい。
絵:「coopけんぽ」表紙イラスト/ぽんぽこたぬき
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