もうコントロールしなくていいんだ。。。
そう思った時、ふわっと肩の荷が下りた。
人生62年。
思えばどうにかしてこれを変えねば!どうにかしてもっといい方向に向けねば!
と、どうにかしろ人生だった。
それを「起こることが起こっているだけ」とか
「シナリオどおり」とか
「もうすでに終わっていることを再現フィルム見ているだけなのだ」
とか言われても、なんか納得がいかなかった。
起こっている出来事が気に入らないから、それをいじり倒すだけでなく、
そのこれから起こるであろう出来事を回避するために、
「思考が現実を作るなら、ならその思考を変えればいいじゃん!」と、ニューエイジ系もやってきた。
しかし一向に変わる様子もないし、ほとほと疲れ果てた。
やはりこれはスクリーンに映ったただの映像なのだ。
と、ぼーっとスクリーンを見つめる。
そしてある時あるブログに出会う。
「あ。。。」
と、冒頭の心持ちになったのだ。
確かに最近、そのままにしておくことが多くなった。
「ほっとこう」「まあ、収まるところに収まるんだろう」
「これは私にゃできねえ」「ただ観てよっと。。。」
多分、いい悪いの判断をすることが、
だんだん「これ、判断する意味あるの?」という思いに変わってきたからなのだろう。
この世のいい悪いの判断は、
横滑りの判断で、どこにも行き着かない。
どれも同じなんだなと思うようになり始めた。
今日はその判断で良くっても、明日はその判断は間違っている。
絶対的な判断なんかないじゃんかよ~。
それ、もともと判断できるものではなかった、
いや、そもそもこの世とは、まったく理屈の通らない世界なのだと。
例えばトカゲを自転車で引いてしまったとする。(実際引いてしまったんだがね)
すると私たちは何か悪いことでも起こるのではないか?と不吉なことを予想する。
そしてその後悪いことが起こったら、
あーあれはこのことの前触れだったんだ!と言って頭をかかえる。
そして今度こそ悪いことが起こらないように、前触れをいち早く察知して、
その悪いことを回避するのだ!と考える。
こうやって、あらゆることを何かの前兆として見始める。
これは別の言い方をすれば、身構えるということでもある。
(それこそが心を小さくさせているのではないか?)
この世界は突然悪いことが起こってくる恐ろしい世界だから、
それをなんとか回避するためにあの手この手を考える。
ニューエイジ系もまたその一つ。自己啓発もまたその一つ。
これが私のコントロール大作戦だった。
でもトカゲを引いたことは、次の悪いこととは繋がっていないとしたら?
病気をしたことが、何か自分が悪いことをしたことの罰ではなかったとしたら?
その起こっていることを意味づけするのをやめてみたら?
私たちは意味づけすることが好きだ。
その意味づけによって、嫌なことを回避することができる絶対的な方法を探しているのだ。
でもこれが起こったから、こうなったという意味づけが、
これが起こった。
次にこれが起こった。
以上!
だったとしたら。
繋げて考えない。
ここで「シナリオだから」とか
「起こることが起こっているだけ」とか
「すでに撮り終わったフィルムを再現している」ということが俄然迫ってくる。
ただ現れてくるものを、現れてくるままにほっておく。
すでに現れているものは、私が見たいと願ったものを見せてくれているのだ。
であるならば、これを変えることに躍起になる必要があるのか?
だって願ったものを見ているのだから。
そしてそれは、願ったものを変えようが、変えまいが、
どっちに転んでも同じことだと気づいていく。
その現象に何の判断もせず、赦し、消えて行くままに放っておく。
これは私の心から出た、愛おしい結果なのだ。
絵:コージーミステリー表紙イラスト
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