苦しみの淵に落ちて行った時、私はそこに世界の苦しみを見た。
すべての人が、私とまったく同じ苦しみを抱えている。
そうわかった時、ひとつであるという意味の、ほんの少しさわりが見えた。
それからあまり人が怖くなくなった。
それでも人に怒鳴られたら怖い。
でも昔ほどは恐れなくなった。
近所に何かと意見をいうオヤジがいる。
彼もまた、恐れている。
自分の存在意義を必死で見つけようとしている。
「俺、ここにいていいよね?大丈夫だよね?。。。本当に?。。いて、本当にいい?」
彼の心が懇願している。
私たちは常に「何かをして」ここにいていい理由を見つけようとする。
しかしそれこそが恐れを増幅させている。
もっと何かをやって、もっとどうにかして、、、、、!
その叫びは、「俺を愛してくれ!」という心の叫びだ。
愛されていない。
愛される価値もない。
そう思うがゆえに、何かをやって愛してもらおうとする。
ただそこにいるだけじゃ、愛されないと信じている。
生まれた時は、ただそこにいるだけで、愛されていたというのに。
一体いつからこんなことになったのだろう。
苦しみは物心つく頃にすでに始まっている。
私たちは苦しむためにここにいると言っても過言ではない。
いや。そもそもそれがあるからここにいるのだ。
「いいよ。いていいんだよ。もちろんだよ」
オヤジの懇願に愛おしさを感じる。
心でそっと寄り添う。
私もそうやって生きてきた。
苦しさを紛らわせるために、自分の価値を認めてもらうために、必死だった。
でもそれにはキリがない。
果てしない苦悩への、果てしない解決を続けていくのか。
もうそれをやめるのか。
私は後者を選ぶ。
オヤジは私の一部。
オヤジの手をとって一緒に歩こう。
絵:MF新書表紙イラスちょ
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