2014年6月30日月曜日

気に入らないもんは変えなきゃいけない?



わしらは、気に入らない事があると変えようとする。

例えば、ダンナが気に入らないと、文句を言ってダンナを変えようとする。
野菜の育ちが悪いと思うと、対策を練って野菜の状況を変えようとする。
他人が気に入らないと、告訴して変えようとする。
社会が気に入らないと、デモをして変えようとする。

自分の外にあるものだけではない。
自分の中にある気に入らないものを見つけると、色んな事を駆使して変えようとする。

この世は自分の鏡だと言う。
自分の心の中がそのまま外に移り込んでいるのである。
気に入らない相手やものを見つけると、出かけていって文句をいったり変えてやろうとするのは、鏡に映った自分の姿が気に入らないと、鏡の表面をこすったり引っ掻いたりぐちゃぐちゃにしたりして、鏡の中を変えようとするよーな行為だ。
そんなアホな事をしても、そもそも写っている自分を変えないと鏡の中はいつまでたっても変わらない。。。

とゆーことで、また自分を変えようとする。
そして自分をひっぺがしたり、こすったりして、また「変える」地獄にはまるのだ。
おもしろいやろ?
これは気に入らないもんは変えなきゃいけないと思っているからだ。

さて、変えることは、消すことやなかったことにすることなんだろうか。

2014年6月28日土曜日

アスファルトから花



やまんばがなんで野菜に肥料いれないってのにこだわるのかっちゅーと、やっぱ原体験からやな。

高知のど田舎にくらしてたときのこと。
幼稚園児だったやまんばは、家の前のアスファルトの道路にピンク色の小さなものを見つけたんだ。なんだろうってしゃがんでみると、それは薄紫色の直径一センチくらいの小さな花だった。まわりには葉っぱもなくて、ただヒョロ~っと長く伸びた茎が10センチ。その上に5、6枚の花びらをつけたかわいい花がちょこんとついていた。

真っ黒いアスファルトの上に、薄紫色の花。この強烈なコントラストにびっくりしたんだ。驚いてまわりを見ると、近くに2、3本同じようにアスファルトから飛び出した花が。

そのとき幼いやまんばは、ものすごく感動したんだ。
車が通ってもペッちゃんこにならないほどの固いアスファルトを、なんでこんな小さくて細っこい花が自分の力で突き破って出て来るんだ?と。
なんて花って強いんだ。なんて植物って力強いんだっておもった。

たぶんそのころからだな。いっつも地面を這いずりまわってたのは。やまんばは地面の上に出て来る色んなものを見つけて夢中になったんだ。
だからいつも母がぼやいていた。
「なんであんたはいつもヒザッコゾウを破いて帰って来るんだろうねえ。。。」
そういいながら、膝あての布のかわりに、アップリケをつけてくれてた。

オトナになってもあの原風景がずっと心の中にあった。NYで自然とかけ離れた生活をしている日々の中、福岡正信さんの『自然に還る』をブックオフで見つけた時のショックはいまでもはっきり覚えている。
「これだ!!!!!」と。

野に咲く花に肥やしは入れたのか?
山になる実には誰が肥料を入れたのだ?


植物はニンゲンが考える範疇にない。
動物もニンゲンが考える範疇にない。
自然はニンゲンが考える範疇にない。
そして、ニンゲンも、ニンゲンが考える範疇ではない。

もっと何か別のものだ。
もっと全然違う世界が広がっているのだ。
私たちは、ただエライ人が言ったことばを鵜呑みにしているだけだ。
私たちは、今は、ただ小さな窓から世界を眺めているだけに過ぎない。

2014年6月24日火曜日

人生の仮説



近所のオヤジとトーキング。

「きょうよお、病院いって来たんだ。どんくらい待たされたと思う?3時間以上だよ!3時間以上!」
「うおー、すごいですねえ。」
と私。
「それがよお。あったまくるんだよな」
「どーしたんですか」
「おれが待ってるとよお、あとから来たヤツがどんどん呼ばれていくんだ」
「うそ~」
「ムカムカ来て、怒鳴りつけてやろうって、ここまで来てたんだ」
と、顎のすぐ下に手を当てる。
「だけどぐっとガマンしてたンんだ。そしたら後ろのオヤジがおれのかわりに思いっきり怒鳴り出してよお。ンで、おれも一緒になって怒ってやったんだ」
「おおお~~、バトル勃発ですねえ~」

「そしたらよお。そいつら予約客だってわけだ。だったら受け付けんとき、最初に言えっちゅうんだよ。今日は予約で込み合ってますから良いですかって!」
「そりゃあそうだ」
「ンでよお。そのときもう2時間待ってたんだ。もうしょーがねえだろ。おれの番号が70番で、そんとき59番あたりだからもうじきだなっておもって、隣のおばさんも予約なしの客で、ふたりで話しながらまってたんだな。隣のおばさんは71番だったんだ」
。。。と、ここまで来てふと間が空く。

「だんだん順番が近づいてよお。。。。ほんで次ぎおれだと思ったら。。。」
「隣のおばさんが呼ばれたんだ!!」
「えっ。。ええ~~~~~っ!」
やまんばもびっくり。

「おばさんもびっくりして、んでおれのこと気の毒がって、『いや、あなたの方が順番は先ですから、そちらがどーぞ』っていうんだけど、『いやいや呼ばれたのはお宅だから、行ってください』ってゆうしかねえじゃないか!」
「まあ、えらいですねえ」
「次だからいいか。。。と思って待ってると。。。またあとから来たヤツをどんどん呼んでいくんだ!おれなんか全然無視しやがってええええ!」
「うわあ~~、すげー」
「どーゆうことだあ!て言ってやったんだあ!そしたらわけの分らんことを言っててちっともわからん。あの受付のネエちゃん、おれのこと意地悪してやろうとおもったにちがいねえ。おれが怒るから、いじめてやろうと思ったんだ!」
へ?
そ、そーゆーことかなあ。。。

ンでやっと呼ばれて診察した時間はたったの5分。
「あ、かゆみ止め出しておきましょう」
で終わった。
病名もなにもなかった。


人は人生において、たくさんの仮説を立てる。
人生とは理不尽である。
人は意地悪をする。
おれは被害者だ。
等々、山のよーに仮説を立てる。
仮説はたくさんの証拠を提出して、はれて立証される。だから人はその仮説に基づいて人生を観察をする。

すると観察する目は、いつも仮説とゆう色眼鏡でこの世界を見るから、とーぜんおれに意地悪する人を捜す、被害者になれる証拠を見つけ出す。たくさんあればあるほど説得力を増す。そしてそれが極まったとき、
「どーだ!だからおれの仮説は正しいのだ!仮説は立証されたのだ!」
と大声を上げられるのだ。


おもしろいのは、人によって視点が違うってことだ。
オヤジはきっと「人は意地悪をするはずだ」という視点で世の中を見ているから、それを見逃さない。無意識にそれを探す。だから必然的にそれが集まって来る。そして仮説は立証される。

しかし、もし人は意地悪をするという仮説をもっていない人がその場の状況にいたら、その受付のお姉ちゃんの言ったことは、まったく違うように解釈したのかもしれないし、じつは納得できる内容だったのかもしれない。
するとその人がその病院を出る時は、起こったできごとをほじくりかえして、あーだこーだと考えてワナワナ震えたりしないのではないか。その病院の事を思い出しもしないのではないか。やまんばにいちいち訴えたりしないのではないか。


引き寄せの法則は、じつは視点の問題だ。その人が人生において「みたいものを見る」。
それがいいことであろうと悪いことであろうと、「信じたものを見る」。ただそれだけのことだ。
だから頭でなりたいイメージをといくら膨らませても、うわっつらだけになる。骨折り損のくたびれ儲け。まずはその人が心底信じているものが何なのかを、自分で徹底的に見ることなのだ。

信じているものを消そうとするんではなくて、信じているものを見つける。正直に自分が何を信じているかに気がついていく。
ただそれだけで、何かが変わりはじめる。


2014年6月22日日曜日

怒りをエネルギーとして「味わう」んだ



自分の内側から出たネガティブな感情は、正当なものだ。自然なものだ。

わしらは怒ったり、怖がったりすることをいけないと思うがゆえに、出たものを否定したり、無視してなかったことにしてやりすごそうとする。
感情はエネルギーだ。そのエネルギーにいいもわるいもない。いいエネルギーは出してもいいけど、悪いエネルギーは出さないと決めたのは誰?
どっちにしたってエネルギーを出さずにためていくと、どこかで爆発することになりかねない。
だから出て来るものは、出してしまおう。

でも人に向かってやると何かと支障がある。
出すってのは、自分自身で味わうってことなんだ。
自分から出てきた感情を、自分自身で味わう。それもカラダ全身で味わう。

落ち着いた場所で腹が立った瞬間をも一度再現してみるのもいい。するとほら、また怒りが込み上げて来る。そこから観察を始める。

どうハラが立つ?
ハラが立つってどんなかんじ?
熱いものを感じる?
それはどこからやってくる?
それは動く?
どう動く?
どこに広がっていく?
ほうほう。そんな感じに広がるのか。
なるほどなるほど。
んで、どうなるの?
感じさせて。
そのエネルギーをもっと私に感じさせて。。。。

するとたいてい怒りはいつのまにか消えてしまう。怒りのエネルギーはだした本人に受け取られると消えていくようだ。エネルギーが吸収されていくのだろうか。これってひょっとしたら「見えない栄養」になってるのかもしれない。



怒りって、たいてい誰かがあなたに何かをやったことに対して出現する。そのとき出た怒りを瞬間怖れるあまり、自分を正当化しようと相手を罵倒する。
しかし言われた側は、相手が「自分が正しい!」と言って来るので、今度は自分が否定されているとおもい、「いんや、こっちが正しい!」という。

これじゃふたりが「こっちが正しい!」「いや、こっちの方が正しい!」といいあってるだけでまったく解決にむかうはずもなく、ふんふんフンガイして、ドアをバタン!と思いっきり閉めてムリヤリ終わりにするだけだ。

そうして時間とともに忘れていき、その出されたエネルギーは消化されないまま心のクローゼットに押し込まれる。ンであるときまた似たよーなことが起こると、よりいっそうフンガイして、バトルが展開する。ンでまたドアをばたんと閉めて。。。。とエンドレスに続く。(場合によっちゃ言うのも恐ろしー展開に発展する。。。?)

よく考えりゃ、相手にぶつけているあいだは、相手だって自分の生存を維持しようとするから歯向かって来るに決まっている。
じゃあ、心で罵倒すればいいのかって話だけど、怒りって、誰かに何かを要求しようとするから怒っているわけで。そんなもんだから心で要求したって伝わらない。そのムダな行為によけいハラが立つもんだ。


じつは怒っているのは、相手の問題じゃないんだ。
内側にある、あらゆる観念が元になっている。感情は観念からやってくる。相手は、まったく問題じゃない。
なので、このさい相手のことは無視。

自分の怒りを単なるエネルギーとして「味わう」んだ。
この行為は自分自身をうけとることになる。自分から出た感情をそのまんまうけとることになる。自分自身をオッケーできる糸口になる。


2014年6月20日金曜日

ネガティブな感情をおさえこむ



ネガティブな感情は突然やってきて、私たちに襲いかかるおそろしーもんだ。
そしてそれは時として自分でもまったくコントロールできなくなるほどにふくれあがりなすすべもなく、ただただそれにおそれおののく小さな子羊のよーになってしまう。

だからネガティブな感情は出してはいけない。
もちろん出させてもいけない。

その対処法は、ほいっと自分の中から出ようとしても、見て見ぬ振りをして、なかったことにする。または他のこと考えたり見たりして、意識を別のところにやる。
そうして知らんあいだに消えてなくなっているので、ほっとする。。。

ってな感じで感情とつきあってるのが、だいたいのわしらのやりかたじゃなかろーか。



ネガティブな感情は、まちがっている。
とゆー概念がわしらをフリーズさせる。

「怒り?ああ、いけないにきまってるでしょ。」
「嫉妬?もちろんだめ!」
「こわがる?オトナになって怖がってちゃー、だめよお。」
「寂しい?んなこと、いわれてもねえ。」

心の中でわき上がって来る感情は、ほとんど瞬時に上のよーな言葉で抑え込まれている。わいて来る感情を、自分で自分に言い聞かせて抑え込んでいるのだ。

はたからみたら、怒りを思い切り出している人もいる。しかしその人でさえ、「怒りはいけないのだ」と心の中で信じている。怒った自分をあとから責める。そして今度はそれを止められなかった自分の怒りをおそろしがる。

わき上がった感情をおそろしがる。
それをコントロールできない自分を責める。

この二重苦が、
「ネガティブな感情はいけないものである」
と、おもわせる。




2014年6月18日水曜日

自分の心を見る



きのうのつづき。
ありのままの自分でいるってことは、ありのままの自分を見るってことだ。

自分という存在を本気で知ろうとすると、結果的にありのままになっていく。

外からこうすればいい、ああすればいいと言う考えをいくらくっつけても、ほんとは意味がない。美しいお面をかぶって生きるようなもんだ。ずっとかぶってられないし、そのうち苦しくなるし、どっちみちはがれ落ちる。

そのお面の下にこそ、ほんとうのうつくしさがある。それは誰に似たものでもない、あなたそのものの美しさだ。
その美しさを自ら輝かせるのは、あなたを知ることからはじまる。


自分の心を知る。
自分の心の動きを見る。
何に反応して怒っているのかを見る。

自分の心の中をじっくりのぞいてみると、同じパターンのものに怒ったり、悲しんだりしているのに気づく。
なんでそれに怒ったり悲しんだりしているのかと探ると、かならず「これはこうあるべきだ」という法則にたどりつく。

私たちが怒ったり、悲しんだりしているそのおおもとは、ある「考え」にもとづいている。

まだ若い頃「これはこうあるべきだ」、「こうではいけない」、と教わったことは、何の疑いももたず、そのまんま受け入れられる。コンピューターに判断基準のソフトをインストールするよーなもんだ。すると自動的にすべてのものごとを、それを基準に判断する。そしてその判断に基づいて、怒ったり、悲しんだりしている。
その判断基準ソフトの内容はそれぞれの家によってもちがうし、歩んできた人生によってもまったくちがう。
まったく超個人的なあなた独自のオリジナルなソフトなのである。

これはこうだ。あれはこうあるべきだ。
そういう考えは、ソフトが立ち上がった状態を気がつかないまま起動させている。その基準に基づいて、そうでないものを怒る。そうでないものを悲しがる。
例えば太っているのはいけないという基準をインストールすると、太っている自分を悲しみ、必死でダイエットをしてもちっとも痩せない自分を怒る。

心は観念(考え)によって動かされる。
感情は、観念によってひきだされてくる。

ということは、感情はいきなりやって来るおそろしーものではないのだ。あなたの人生のどこかでインプットしたソフトでしかない。
それを見つけると、おもしろいことが起こりはじめる。



2014年6月17日火曜日

ありのままの自分でいられるか



ありのままの自分になる。

最近の美しいはやり言葉。

言葉はなんて簡単なのだ。言うのは簡単だ。これを呪文のよーに唱えるのは実に簡単だ。

しかーし!
これを本気で生きるのはチョーむずかしい。

なんでか。あなた、ありのままだよ。ありのままの自分、だよ。
わかる?

腹出てて、シミがある顔の自分、その、ありのまんまの自分でいる。ってことなのよ!
アナのおねーさんのよーな、美しー姿じゃないのよ!
太陽を53回転の、お、ば、さ、ん!

それをそっくりそのまんま、受け止める。
ンで、そのまんまでいる事を認めるってことなのよ!
んまあ、なんておっそろしーことでしょー!

んで、それだけじゃあないんだな。
そりゃ、外に現れたことだけさ。

恐ろしがる自分。動揺する自分。怒る自分。嫉妬する自分。寂しがりな自分。ヒステリーな自分。えげつない自分。コンジョワールな自分。

いわゆる見たくない自分の性格でさえも、そのまんま、ありのまんまでいるってことなわけさ~。げげげげえええええ~~。

それでもあなた、ありのままの自分でいられる?

2014年6月15日日曜日

いつも混んでるお店ががらんがらん。



いつも混んでる近所のラーメン屋さんにいった。
日曜日のお昼時だとゆーのに、待たされる事もなく席に着いた。

食べ終わってびっくり。
お客がわしら以外、だ~れもいない。信じられない。
普段なら込み合って表にもずらっと人が並んでいるはず。

「めずらしくお客さんがいないですね」
と、大胆にも言うやまんば。
「ひょっとしてサッカーのせい?」
と、たたみかける。
「そ。午前中からだ~れもこない」
と、お店の人。
二人して笑った。

ある意味、こわくね?


2014年6月11日水曜日

悶絶ソラマメ



きのうの夕方、みんなにナイショで悶絶ソラマメを一人で10粒ほど食った。
う、う、う、うますぎる。。。口の中でどんどん濃い味がグググッと広がっていく。。。
こんなヒットは久しぶりだ。。。
ソラマメってこんなにうまかったのか。。。

で、これで「食う」のはおしまい。
あとはこれを次世代に引き継ぐべく、種育てに専念させることにする。
(最後はひとりじめかいっ)

んでそのまま晩飯をファミレスに行った。
ハンバーグに添えられていたカリフラワーとブロッコリーが石油の味がした。げげー。これは食いもんではない。。。と思ってしまう。。。
最近いただけないのは、外で食べる野菜に科学的な味を感じることだ。昔は何でも美味しく感じていたのにい。。

畑やってて感じるのは、植物は完全に土そのものでできているとゆーことだ。だから土そのまんまが味に出る。
化学肥料や有機肥料を入れると、それを吸収してその味が入って来るんだと思う。有機のうまさは、うんこやいろんなものの雑味がたっぷり入っているからかもしれない。

やまんばの畑の土は、人為的なものを6年かけてどんどんのけていった。その結果畑の野菜の味はオリジナルの味にちかいんだろうか?(何がオリジナルなのかはよー考えるとわからん)
しかしそれを悶絶するうまさと感じるのは、あくまでも個人の感想なのであります。ほら、最近コマーシャルに出てくるでしょ?「あくまでも個人的な感想です」ってやつ。あれです。


スナップエンドウもそうだったが、最初はこの無肥料の土での過酷な状況に瀕死の状態でガマンしてもらう実ものの野菜も、2、3年ほど育てているうちに、スパルタ畑になじむのか、だんだん「ま、この土でいっかあ~」と、野菜さん側が妥協してくれて、ふつーに育つのである。いやはや、植物の適応能力にはおそれいる。

やまんばは最近、土の中をいじくらなくなった。耕してフッカフカにするとゆーよりは、あえて踏む(笑)。踏まないと、モグラのトンネルだらけなので、野菜が根付かないのに気がついたから(笑)。種植えるでも、苗植えるでも、まずそこを踏む。すでにふわふわなので、フンでもカチカチにならない。んで蒔くところだけちょこっとほぐして、入れて、はいおわり。もう土の中はいじらないことにした。

なんか土の中って、もうニンゲンの考えのハンチューにないよーな気がしている。足の下は、宇宙の神秘なのだ。
窒素がどーの、カリがどーの、リンがどーの、微生物がどーのとゆー、ニンゲンさまが「分析」「分解」したものって、ひょっとしたら幻想かもしれん。。。?などとふとどきにもおもったわけさ。

土さんの世界には、土さんに「はいっ、おまかせ~」って、お任せしてしまったほーが、楽なんじゃないだろかって。
窒素を入れることによって、色んな弊害も同時に生まれている。それを対処療法するうちにますますこんがらがっている。いまだに完璧な農法がないのは、ニンゲンの知恵でははかりしれないなにかがあるからじゃないだろうか。

じゃ元の原因は何だったんだろうかってかんがえるに、ニンゲンさまが「なんとかしたい」って思ったところから来ているんではないかと。。。。

やまんばは色んなことに
「ハイッ、お手上げ~」
って、降参することにしてみたのさ。


絵:「江戸梅/やまんばのねぐら」/『裏高尾の不思議な仲間たち展』より


2014年6月9日月曜日

ぽやぽやする日。



最近、やまんばのまわりがなんだかぽやぽやなのである。

あっちこっちでいちゃいちゃいちゃ。
そんな彼らを見ていると、こっちまでぽやぽやしてくる。(別にダンナととかではない。自分で気分がぽやぽやするのである)

それでそんな彼らの中に音楽家がいて、その彼のいい曲を見つけちゃった日にゃ、なんだかその曲は一日中頭の中で鳴り響いて、
山をみて、
川を見て、
畑の野菜を眺めて、
やまんばは一人ぽやぽやしてしまうのである。
しあわせだなあ。

お山の樹々がそれぞれ風に揺れるだけでうれしいなあ。
庭に植えたブルーサルビアの小さな花芽を見つけてうれしいなあ。
曲の中の雰囲気にインスピレーションもらって、なんだかうれしいなあ。
畑のソラマメを焼いて食べて、そのものすごいうまさに悶絶するのがしあわせだなあ。。。

ってな今日でした。


2014年6月6日金曜日

誰かのマネをしてありのままをヤメるのよ〜っと。



やまんばもそーだが、人ってつねに、誰かに、何かを、教わろーとする。
テレビでも本でも方法論をいっぱい教えてくれる。

どこかに「これあれば完璧!」的な、クスリや、食べ物や、生き方や、農法や、医療や、生活習慣や、教育や、教えや、宗教や、科学や、社会があると考えている。もちろん人それぞれにあったものだから人それぞれ違う。それでその人それぞれにあった「方法論」を探しつづけるのだ。。。。。

さて、やまんばはこれまでの人生、太陽53回転してきて、その完璧的な方法論をみつけたか!?
いまのところない。
これはまだ53回転しかしていないからだとかんがえるなら、79回転してきたハハはもう探し当てたか?
とみるにつけ、どーにもこーにも見つけているフシがない。どっちかっちゅーと、混乱のまっただ中にいるよーにみうけられる。
じゃあ人生150回転くらいすれば見つかるのだろーか。






どの成功本もどの方法論も、じつのところその人にしかできなかったことであり、起こったことじゃなかったか。
二宮金次郎のあの「努力」も、彼にしかできなかったことで、彼にしか起こらなかったことじゃなかったか。
そしてそれだって、ホントにその方法論は、その人が「一生使える方法論」だったんだろうか。。。

なのにそれをマネしろといわれる。自分の人生の歩み方を人まねしろっていわれている。
成功した人はエライから、成功した人のマネさえすれば自分も成功できるって教え込まれた私ら。

これって、アホみたいじゃね?よーかんがえたら、そんなわけないじゃん。素材がまるで違う。ふざけんなよ、センコー。


やまんばもさんざん本を読んできた。畑の方法論もいっぱい読んだ。だけど結局ウチの畑のことはウチの畑の中でしかわからない。他人んちの畑の方法論を聞いたところで、同じようになりようがない。土地も土もその土地に生えている植物も、そしてそれを育てている人も、まるでちがうのだ。
ある方法を見つけて「やった!これだ!」っておもっても、次の年にはそれが崩れる。

つねに変化しつづけるのが宇宙の姿だとしたら、方法論という固定化されたものでやりつづけても、つねに裏切られることになるんではないだろうか。

方法論はない、という視点に立って生きると、その瞬間瞬間を生きるようにならないだろうか。



人は安心や安定願望がある。だから方法論や方程式を求めるのだろう。
「これさえ食べればわたしは大丈夫」とか、
「このやり方さえやっておけば安心だ」
という思いは、つねに変化していく人生を
「不安定だからいけない」とか
「不安定は怖いことだ」
という観念が心の深いところで横たわっているからなんだろうな。


そして「このままではいけない」という思いがそれではない何かを求めている。
「ありのままの~」ってゆう、最近ハヤリの歌は、その心の奥深くにひそんだ自分否定を浮上させて来るいいきっかけになっているのかもしれない。

「ありのままのすがたみせるのよ~」と歌いながら、
成功本を読んで、
「んで、誰かのマネをして、ありのままをヤメるのよ~」
とやっている。



絵:「うんちく北海道」MF新書表紙イラスト
出た〜!うんちくシリーズ北海道!
これは笑える!やまんばの友だちに北海道出身の人がいる。どっかであれ?っておもってたやまんばの知らないところをぐいぐいついてくれるのでおもしろかったよ〜ん。

うんちくさんもグラーク博士のかっこうのマネをしている。しかーし!彼は決して人まねはしない。彼独自の生き方を貫いている。人はそれこそが一番美しい姿なのだ。

2014年6月3日火曜日

畑どおよ



ズッキーニの苗が、ついにウリハおまわりさんに全部食われた。なぜかキュウリは乗り越えた。
芯だけになった小さなズッキーニの苗を眺める。
ちえっ。やっぱりダメ苗だったんかなあ。。。だけどまだ芯がある。完璧に死んでないってことか?

やまんばは芯だけの、なさけな~いズッキーニの苗たちにネットをかける。こんなふうになるんだったら、初めっからネットかけとけば良かった。だけどネットってなんだかテイコーがあるのよね。。。
とかなんとか、ぶつぶついいながらかけてると、ネットの長さが足りない。しょーがないから、かけてる苗とかけてない苗で実験してみる。

一週間たった。
ネットをのぞいてみると小さな葉っぱが出てきてる。しめしめ。まだ生きてるど。で、さぞかしネットのないところはウリハおまわりさんが来てるはず。。。とみると。。
いないではないか。
しかもネットをかけた苗と同じよーに葉っぱが出てるし。しかもおまわりさんいないし。
ネットの意味ないじゃーん。
とゆーわけで、経過は次回のお楽しみ。
(だれもまっとらんわい)


さて、絹さやもスナップエンドウもしこたま食った。
スナップエンドウは初めて種を降ろしたときは、生きてるのか死んでるのかわからないくらいなさけな~い代物だったけど、細々と種取りして4年。今はなり方がすごい。
ここら辺じゃ育てるのがむずかしいらしく、近所の畑の強者どもは育ててない。ちょっとドーダ理論。

イチゴもだんだん増えてきた。
去年買った苗を畑に降ろして、食べたイチゴはわずか。その苗から出たランナーを育てて、今年はイチゴ畑コーナーを作った。ほったらかしにされたランナーたちは、畝間の谷底で実をいっぱいつけて頑張っている。もちろん一切肥料なし。

普通は親苗はウイルスがいるかなんかで、掘り起こして捨てるのだそうだが、欲深~いやまんばは、そのまんま放置。すると苗は3倍ぐらいにでかくなって、わらわらと実をつけている。その子供たちも小さい苗ながら実をつけて頑張っている。
去年は真っ赤に育ったわずかばかりのイチゴはいつも野生のだれかさんに食われて、やまんばとしては戦々恐々としていたが、今年はまったく被害なし。いったいどーなっているのやら。。?

近所のおばちゃんが庭で育てているイチゴを一ヶ月程前に見せてもらったことがある。葉っぱがやけにでかくてびっくりした。やまんばんちのイチゴの葉っぱの3倍ぐらいあって、色も濃い緑色だ。そのおばちゃんがいう。
「このあいだイチゴ2個なったわよ」
2個っすか。。。(きっと直径が20センチくらいあるにちがいない)
「おたくは?」
「はあ、まあ、ぼちぼち。。。」
はいっ、しこたまなってますっ、とは言えなかったぜよ。



他の畑の野菜は葉っぱが濃い濃い緑色で、図体がえらくでかい。だけどでかい図体の割には実が少ないよーなきがするのは、気のせいか?
絹さややソラマメやイチゴの成り方をみてておもう。やまんばんちのは、ちっこくてコンパクトな身体のわりに実がけっこう成る。効率がいい成り方とでもゆーのだろーか。

一般的には身体をうんと太らせれば、実もそれに応じて育つと考えられている。だからせっせと肥料を与える。だけど肥料の効果は、図体のほうがでかくなるってことだったりして。。。。葉ものにはいいけど。

今、ウチのダイコンやアブラナ科の野菜が子孫を残そうと種をつけている。よく見ると、ちっこい苗の方が種をたわわにつけている。

やまんばは三浦ダイコンの一番でかいヤツを種取りしようと取っておいた。でもこのダイコン、種がちっとも育たない。
反対に、枝を大きく広げてブットイ茎に大きな種をしこたまつけているダイコンを引っこ抜いてみれば、わらってしまうぐらいちっこいダイコンの根。
これはどーゆーことかいの。

つまり自分が小さいと、ある種の危機感を感じて、我先に、そしてできるだけ多くの子孫を残そうとするんではないだろうか。前者のでかいダイコンは、余裕ぶちかまして実をつける気がないとか。

ある程度の飢餓感を感じさせておかないと、余裕ブッコイてなまけるんかもしれんな。
肥料たっぷりの畑の野菜は、
「あん?手を伸ばしゃ、いっくらでも食いもんがあるぜよ。」
とちっとも子を作る気がない。

あれ?
これどっかで聞いたことのある構図。。。。