今、畑は草ぼーぼーであるが、ウチの庭も草ぼーぼーである(それ自慢?)。
やまんばは去年育てたグラジオラスの球根を庭の斜面に植える。
庭の木の枝を伐採して積んであるところをほじくりかえす。ぐちゃぐちゃな枝の下には、
な、な、な、なんとゆーことでしょー、スポンジのよーな土が。ほわっほわの、ふわっふわ。
球根を仕込むために深くほる。スコップなんかいらない。手で楽に掘れる。
「これはうまそーな土だなあ。。」
よだれを垂らしながら、球根さんを降ろした。
木が生い茂って草がぼーぼーなところって、土の下は、きっとえたいの知れない恐ろしーもんがうようよしているってゆーイメージない?くねくねする動物や虫やひょっとしたら恐ろしー化けもんが土の下の方にいるような。
でも実際、土の下の方には何もないんだ。
いるのは土の表面に近いところだけ。枯れた落ち葉や、腐った木の枝、カビや苔。その下には、ミミズや、アリや、ヘビや、おけらや、モグラや ネズミなどが忙しそうに、あるいは眠そうにいる。
だけどその下には、漆黒の闇と、し。。。ん。。。とした静けさが広がっているんだ。
だけどその下には、漆黒の闇と、し。。。ん。。。とした静けさが広がっているんだ。
木のはえているところは、でかい木の根が走っているけれど、やまんばの畑の中は、時々根が走っているだけ。もちろん色んな見えない根が走っているだろう。けれども恐ろしいなにかはそこには存在していない。
これはまるで私たちの心のようじゃないか。
心はよく海に例えられる。いつも波立ってるその波は、私たちが意識できる心もよう。ああでもないこうでもないと右往左往するのが波にあたる。現れては消え、消えては現れる忙しい心。これを自我とかエゴと呼ぶ。
だが一歩そこから下に降りれば、静けさがやって来る。その奥には漆黒の闇が広がっている。
それと似てないか?
土も海も同じように表面が忙しい。だけどその下には静けさがある。そしてその中にこそ、計り知れない可能性とエネルギーと叡智がひろがっているのだ。
土も海も同じように表面が忙しい。だけどその下には静けさがある。そしてその中にこそ、計り知れない可能性とエネルギーと叡智がひろがっているのだ。
深く根をおろした木は大きい。漆黒の闇をガッチリとらえて、堂々と息をしている。
わたしたちは巨木に惹かれる。
わたしたちは巨木に惹かれる。
それはきっとその巨木をながめて、自分の奥深くにある漆黒の闇と共鳴させているのだ。
絵:『苔樹』/「まるっとつくし展」より
写真:本宮誠
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