2019年9月9日月曜日

あらしの夜に



昨晩台風の風の音が怖くて、寝られなかった。
こりゃ、高知県人。こんな台風の風の音で、なにビクビクしてる!
と、頭でいくら説得しようったって無理だー。

怖れの中で、怖れを消せない。
悶々とする中で、怖れをきらうのではなく、怖れってどんな感じ?と味わうことにした。
きらうって、怖れを受け取らないことだ。
どんな感じかと味わうとは、自分が怖れていることを受け取ることになる。


そっとからだの感覚に耳を澄ます。
胸のあたりがなにやらモワモワするあるイメージが出てきた。
それはぱりぱりと軽いものが割れて行くイメージ。たとえて言うならレタスの芯が割れているかんじ。そのレタスの芯が胸のあたりでぱりぱりと割れている。
恐怖ってこんなかんじなんだ。。。

そのなんとも言えない感じを味わいながらも、その最中風の音にビクビクと囚われていない自分がいた。
しばらくすると、悲しみが出てきた。恐怖なのに悲しみ?怒りも交じっている。レタスの芯のパリパリのあとに、何か別のものが見え始める。

何かが胸に突き刺さっている。太さ十センチ角のアルミの棒のようなものが、斜め上から私の胸の中に突き刺さって、背中に抜けていた。

こんなものが私の胸に刺さっていたのか。。。

ふと小さい時に起きた事件を思いだした。
飼っていた子犬のコロが死んだときのことだ。
「ああ、まだ私の中にあれが残っていたんだ。。。」

まだ小さかったコロをだいて、友だちの家に遊びにいったときのこと。コロはまだ繋がれていなかった。その子の家の庭でちょうどいいカゴを見つけた。コロの上にひっくり返して檻のようにして乗せておいた。

ひとしきり友だちと遊んで家に帰るろうとするとコロがいない。やっと見つけたコロは庭の脇を流れていた水路の中で溺れ死んでいた。コロは軽いカゴを押しながら水路に向かったようだ。
自分の不注意でコロが死んでしまった。あの時カゴをかぶせなかったら、コロは死んでいなかったにちがいない。
泣きじゃくりながら浴衣に包んだ濡れたコロの亡がらを父といっしょに海に捨てにいった。
あのときの悲しみと恐怖、それに自分への怒りが入り交じったものが、アルミの角棒として私のむねに突き刺さっていた。



「もう、これは私には必要ない。。。聖霊さんに取り消してもらおう」
あふれてくる思いをそっと胸から取り出して、見えはしないが、たしかにそこにいるであろう聖霊にそれを差し出した。

私たちは通常自我の中で考えている。自我は自我で消せない。
自我の土俵にはいない存在にそれをゆだねるのだ。


それからしばらくして心が静かになった。胸にあったアルミの棒は消えていた。

私の怖れは、自分が何かまちがったことをしているんではないかおもっていること。
その元になっているのがコロの事件。私のまちがいで、ひとつの命を落とさせてしまうかもしれないという究極の恐怖だ。

だから台風の嵐は、私が見落としたもので、何かが壊れる、誰かに迷惑をかける、そんな事になるんではないかという恐怖だったのだ。
だからいつも「雨戸はだいじょうぶ?玄関に置いてある傘立ては?あれは?これは?」と、心が右往左往してしまうのだった。


少し前とはまるでちがう静かになった心は、
ただ風の音を聴いていた。



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