2020年7月18日土曜日

「にっ」と笑う




私の頭の中に聞こえるあらゆる声をずっとみていると、自我がいかに私を脅してきているか、いかに都合のいいように言い換えて、矛盾を見せないようにしているかを知ります。

そういう自我の巧みな技に
「なるほど。こういうふうに自我にそそのかされて、私はこの世界をその視点から見ているのか。
なるほど。こういうふうに置き換えて、しらっと自分を被害者としてみて、嘆いているのか。」
などとわかってくるのです。

自我が仕組んでくるトリックに「すごい!」と感心して、
それを嬉々としてハレルヤさんに報告。
「それはニューエイジ 。そこで止まっていてはいけない」
「え?」
彼はあっさりと私の自我の分析発表を退けました。

ケン・ワプニック氏の講義にもそれははっきりと書いてありました。
自我を分析すれば確かに面白いが、それはどこかに到達しつつあるという幻想を抱かせつつも、私をどこへも到達させないように仕組まれていると。
コースは、頭脳に焦点を定めたものではない。知的に高度なレベルで書かれているので、理解するには頭が働かなくてはいけないが、それを超えていく心へと導かれていることに気づかなければいけない。
自我をいじくっている自分に気がついた。これをやっていてもどこにもいけない。

自我というものは実在していないのですが、それを真正面から見て、明るみに出さないことには、ずっとそれを温存することになります。明るみに出すだけでも心に抵抗があり、訓練を要しますが、厄介にも気をつけなければいけないのは、その自我狩りにいつの間にか夢中になってしまうこと。
ミイラ取りがミイラになる。それさえも自我の巧みな罠でした。

それを気づかせてくれたハレルヤさんに感謝しています。
コースは自学自習を前提としているけれど、いつの間にか自分で好きなところだけをチョイスして好きなように解釈するという自分流のやり方になってしまう恐れがあります。
彼には前にも私が徹底的に罪悪感を探っていって袋小路に陥った時、新たな視点を与えてくれました。



私たちは沈黙を恐れます。
沈黙の中に神の想念が入り込んでくることを恐れている。
だからそこへ自分の考えを入れ込んで、神の想念を聞かないことにするのです。
「私が考えて、私がしているんだから、あんた(神)は黙ってて!」と。

神の想念とはなんだろう?自我まみれの、自分流の考えの中でいる私たちにとっては何もわからない。
それは私たちの本質、自己、源、愛。

黙して大騒ぎする自我の声を通り越し、胸の奥にある静けさに到達します。
そこには音のしない平安が。じっと耳をすませると、ジーンとした何か振動のようなものがあります。

そこで私は「にっ」と笑います。
ドクタースランプのアラレちゃんのあの笑顔。
トトロに出てくる猫バスが笑うあの顔。(なんで全部アニメなのだ?)
とたんに喜びが噴き出してくる。待ってましたとばかりに嬉しくなってきます。

何のきっかけもない。ケーキもない。素敵なものが目の前にあるわけでもない。
何の条件も満たさないのに、喜びはやってくる。

喜びは、元々そこにあったのでした。

私たちの本質は喜び。その喜びを私は、苦しみや悲しみや絶望に置き換えていたのでした。
目の前で展開するかのように見えるものにいちいち判断をし、それを見て一喜一憂していたのでした。


雨が続く日々。

未来の憂いも過去の後悔もなく、

ただ雨の音を聞き、
雨に踊る小さな葉っぱたちを眺め、

心は喜びの雨に浸ります。



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