なんかね。
もう全部、自分がそう思い込もうとしてたんじゃないか?と思い始めてます。
「これは怒りです」
「これは不安です」
「これは悲しみです」
という風に、最初に自我が、そう決めて、
それを受け止めた心が「そうか。これが悲しみか」
と真に受けて、そう信じ込んで、それを採用してきた。
そんな気がしてきています。
この世界のことは、自分で解決しなきゃいけないと思ってきました。
そやけど、どこまでいっても絶対的な解決法などないとだんだんわかってきます。
元々は、「これが不安だ」「これが問題だ」
と心のどこかで聞こえた言葉に反応してただけでした。
「そうだそうだ。これが問題だ!」
そして
「なんとかして解決しなきゃ!」
と、行動を起こす画策を練る。
そうやって、この世界に巻き込まれていった自分がいました。
この世界は幻想だって、いくら口で言ってても、いざ「問題」を見つけられたら、
「解決」に向かって突き進む。
これ自体が、この世界は幻想ではなく、実在するものだと、完全に信じているっていう証拠になります。完全に自我の策略に乗っています(笑)。
そういう自分に気がつくことから始まります。
そしてそんな自分をゆるしていくことです。
出発点は心。原因は心。
外はその結果。
結果が目に見えているだけなのでした。
見たことに対する反応は、そのままでいいんでしょうか。それは絶対的でしょうか。
そもそもそれは怒りでしょうか。それに対する反応は、別の反応があるかもしれません。
私たちはことあるごとに、悲しもうとしたり、怖がろうとしたりします。
それがこの世界だからです。
この世界の醍醐味は、恐れを味わうことなのです。お化け屋敷。
自分で作ったお化け屋敷を、自分で怖がり続けているのです。
自分で作ったことを忘れて、延々とそのお化け屋敷の中で、ほんのちょっとの飴のために、日々鞭打って、死ぬまで生きている。
私たちは生まれもしなければ、死にもしない、完全なる自己らしいのです。
私はそれを覚えてはいません。
だけどこの世界の大いなる矛盾には気がついています。子供だましのお化け屋敷に。
真っ暗な闇の中に、時々一瞬チラッと外の光が漏れます。
ほんの小さな穴から漏れる光でさえも、このお化け屋敷のチープなガラクタを、
興ざめするような仕掛けを垣間見せてくれるのです。
その掘っ建て小屋は巨大な光の中にある目に見えないほど極小の、
小さな点のようなもの。
その中で必死になって恐怖や問題をなんとかして解決しようと躍起になっている自分が見えます。
その時、私はそのお化け屋敷の中にはいません。
その姿を一体どこから見ているのでしょうか。
その時の自分はとても静かです。暖かい心でその姿を見守っています。
そのお化け屋敷の夢を見ている私が目を覚ますことを、
じっと待ってくれているのでしょう。
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