過去に何度か嫌な思いをしたところ。それでもどうしても行かなければならないので、自分の心を見ながらそこに向かいます。
ほとんど無意識ですが、人は自分に罪を感じています。
何の罪かはわからないが、何となく、どことなく心が落ち着かない。
探れば「ああ、このことかな?いやひょっとしたらこのことかな?」と、思い当たる節はいくつかある。
罪があるということは、罰を与えなければ、その罪は消えないと信じています。世間的に罰せられなくとも、お天道様は見ている。いつか私はそのお天道様に罰せられるのだと。
嫌なことがあった時、人は「ああ!これか!」と、心のどこかが納得するのです。
私の罪が問われて、罰が与えられた。これで私の罪は帳消しにされるのだ。
どの罪かはわからないが、とにかくこの嫌なことを受け入れることで、私の罪は一つ消えたのだと。
しかししばらくするとまた嫌なことがやってきます。今度はどの罪に。。?
そうやって、何度も嫌な出来事が起こるたびに、罪が帳消しになっていく、、と考えるのかもしれません。
昔の人は言います。「苦労は買ってでもしろ」と。表向きの意味は違いますが、その奥には、別の意味が隠されているのかもしれません。
そしてその一番の刑罰の頂点は、
死ではないでしょうか。
私たちは死ぬことによって、この罪は償われる。
そう信じていてもおかしくはありません。
自殺もまた、自分が自分に与えた刑罰であり、そしてその罰を受け入れることによって、楽になると考えるからなのかもしれません。
電車の中で、自分の中にある恐れを見ながら、私は自分に罰を待ち望んでいることに気がつきました。怖いこと、嫌なことが起こることで、私の罪は帳消しにされると信じているのではないか。。
恐れは不意にやってきます。私はその恐れに乗っかっていました。
「そうだそうだ。早く罪を償って、楽になるのだ。。。」と。
これこそが自我が私に仕掛けてくる罠でした。
私には罪があり、その刑罰を受けねばならないと。
しかしこの世界は幻想ならば、どこに罪があるのでしょうか。
この世界が幻想ならば、どこに罪を犯した私がいるのでしょうか。
私には罪はありません。
だからその罰を受ける必要もないのです。
恐れは、罪を罪として見、そこに罰を与えるためにやってきます。
でもどこに罪があるのでしょうか。あの嫌なことはこの罪を帳消しにするために起こっているに違いないと、思い込んでいるだけなのではないでしょうか。勝手な解釈をして、自分を納得させようとしているだけです。「こんな嫌なことがあるのは、私のせいに違いない」と。
その時、私は恐れは選ぶことができるのだと知りました。
恐れは心の中で不意にやってきて、私を恐れさせますが、それを受け入れる必要はないのです。
恐れを選ぶこともできれば、選ばないこともできるのです。
私は恐れを選ぶことをやめました。
じっとして、静かにその思いを眺めていました。
よく見ればそこに恐れるものは何もなく、私はただ電車の中で揺られているだけだったのです。
恐れは、この世界がある。実在する。と思わせてきます。
自我は恐れを使っていつまでも私をこの世界にとどめさせようとします。
しかし私が本当にいるところは、この目の前に展開している世界ではなく、不変である神の中です。
自我も恐れも、神を畏れるがあまり私が生み出した幻想だったのです。
ということは、私がそれに影響されたいと思えばされるし、影響を与えないと心の底から思えれば、影響を受けない。
私の心は、恐れを選ばず、神を選ぶ。
私の仕事は、今も神の中で安堵している自己を思い出すことでした。
電車の中で、かすかに「にっ」と笑います。
私の中でアラレちゃんが現れました。
中央線の中で揺れに合わせて踊る私の姿が見えましたでしょうか。
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