2021年5月26日水曜日

誰が一番その絵を楽しみにしている?

 


年明けから展覧会、絵本の制作、アメリカの仕事と立て続けに忙しかったのが、ポンと空いた。


久々に自身の作品を作る。

最近はパソコンではなく、触感を味わえる和紙で。



そして今までとは違う感覚でやろうとしている。


それは恐れないこと。




仕事柄、私の視点がクライアントの目線と重ならない限り、仕事は成り立たない。

だからと言って、実際クライアント目線でできていたのかは定かではない(苦笑)。

それでも37年、常に誰かの目線で絵を作ろうとしてきたので、もうその目線が染み付いてしまった。


自動反応のように、

これはどう見えるか。

バランスが整っているか。

ちゃんと理解してもらえるだろうか。

クライアントが気にいるように、、、。


どこまでいっても誰かの目線なのだ。

自分の喜びからのものではなく、一瞬一瞬、自分の行為を否定し、裁き続けている視点なのだった。


苦しかった。

自分のことは全否定。

誰かわからないものに合わせる視点。。。

一体誰の視点なのだ!?


私たちの中に監視人がいる。

仕事上では、クライアントのためにという名目で。

生活上では、人様に迷惑をかけない、

ちゃんとした人にならなければいけないという名目で。





私たちは追い立てられている。

何かにつねに追い立てられている。


そのもとは、心の中にある。

心の中に浮かんでくる恐れ。

だがそれをよくよく見ていると、根拠がない。

根拠がないものに追い立てられ、恐れ続ける。


根拠?あるよ。

あれでしょ?これでしょ?

いっぱい出てくる。


そのいっぱいある根拠のせいで、ずっとやりくりしてきた。

だけどずっと苦しかった。


そりゃそうだ。

それは自分の否定だったからだ。

自分がここにいてはいけない、自分が自分をなきものにしようとしてきた。


それが心に浮かぶ言葉だった。




だから私は恐れを促す言葉をもう聞かない。

そっちではなく、愛を選ぶ。


和紙を選ぶ。

好きなように。


和紙を切る。

思い浮かぶ形に。


好きなところに置く。

置きたいと思うところへ。




心がふわりとして
いまここにある。

不思議な感覚があふれて来る。




誰が一番その絵を楽しみにしてる?


自分。




2021年5月21日金曜日

神が観る世界

 


書道家さんが、書を書き、それをうちの旦那がビデオで撮る。


彼女は愛を書で表現し、彼が彼女の愛を受け取る。

愛は受け取られて広がり、彼女に返され倍増し、

愛は二人を超えてどんどん広がっていく。


その二人の様子を私はそばで見ていた。

愛の交流はこうやってなされていくんだ。。。

目には見えない親交がそこにあった。




昨日、笙を吹く人がうちに来た。

彼女は自ら筒になって笙を吹く。


笙は光を呼び込む音。

聴こえない音/光が、形のない本来の私たちを呼び寄せる。

見えない彼女と、見えない私たちと、見えない自然が交流する。

愛の親交。ダイナミックなうねり。とてつもない喜び。


こっちがメインだ。。。

これが本当に実在するものだ。。。


神はこれだけを観ている!




肉体の目に見える書も、聴こえる笙の音も、本当のもののきっかけに過ぎない。

神を思い出すための。


そこには優れているもの、優れていないもの、そんな比較はない。

それは裁くことであり、自我の世界のものだ。

それが私を長い間苦しめてきた。

裁かれる恐れの中で生きてきた。


でもそれをしていたのは自分。

自分が恐れを作り出し、その恐れに恐れ続けていただけだった。


だが私には選択ができる。

恐れを作り出したのが私なら、それを退けることができるのも私だ。


私は恐れを選ばない。愛を選ぶ。

神が観ている世界を。





絵:「初夏の庭園」