2013年5月30日木曜日

引き寄せたくもないものを引き寄せる



意識されたものは現象化する。

引き寄せの法則というのがあるが、あれはまんざらウソではない。あれがよかったのは、意識がモノを作り出していることを意識化させてくれたことなのだ。

ある日、Bくんは、Aくんのルーズなところをみつける。
Bくんは、
「え~~、あいつ、そんなところがあったんか。。やだな。。」
とおもう。
すると、そんなことをされるのがいやだから、Bくんは、Aくんの行動が何となく気になり始める。だって、またイヤなことされたらいやだもん。
だから、しらずしらずのあいだに、いつもAくんのことを目で追うようになってくる。
すると案の定、Aくんは、またルーズなことをやった。
「あ~~っ!あいつまたやりやがった!」とおもう。
そのとき、はっきりとBくんの中に、「Aくんはルーズな人」という信念が生まれる。

この世は証明にあふれている。
まず、仮説を立てる。
「Aくんはルーズかもしれない。」
仮説を立てた科学者は、その仮説があっているかどうか、確認をしようと観察を始める。
すると、Aくんはルーズなことをする。
仮説を立てた科学者は、やっぱりそうだ。あいつはルーズなんだ!とおもう。
すると、Aくんは、またまたルーズさを披露してくれる。
こうなると、仮説は確信になる。立証されたわけだ。
結果、Aくんは、ルーズなヤツである。という定説がBくんの中に出来上がる。
するとそこから先はもうそのような目でしか彼を見ないので、彼は一生ルーズを演じてくれるわけだ。
めでたしめでたし。

と、こーゆーふうに、意識されたものは現象化しているのだ。
ところが、
あれほしい~って、意識したものは、じぇんじぇん現象化してくれない。なぜか。

たとえば「Aくんはルーズではない。」と、意識したとする。
これって現象化するとおもう?
ぶっぶー。

BくんはAくんがルーズであるという前提であるからなのだ。そのルーズさがいやだと言うのが基盤になっているのだ。だからそれが顕われる。どこに自分の「信念」があるか、を表現してくれている。

お金持ちになりた~い、というのも、前提に「おれはビンボーだ」という信念があるから、この世の現象としては、「ハイ。ではそのように。」と、ビンボーを現象化してくれているのだ。

この世はすでにエデンの園で、おもったことがちゃんと現象化している。
だがニンゲン種は、まだ自分のおもったことや、確信していることを意識化しきれていないから、
「おれ、こんなことおもってねえよ!」とキレるわけだ。

気に入らないことがあると、それはその人の心の中に、そう言う信念があるからだと、この世はおしえてくれているようだ。

心の中を見させられてるってこわくね?


2013年5月29日水曜日

いけないとおもえばおもうほど、いけないことをする



きちんとしなければいけない。
そうおもえば思うほど、ちきんとできない自分がいる。

人にやさしくあらねばならない。
そうおもえば思うほど、人にやさしくない自分がいる。

まちがってはいけない。
そうおもえば思うほど、まちがいだらけである。

逆説的なのだが、なぜかそうあらねばとおもえばおもうほど、逆の方向に進んでしまう現象が起こっている。

だが、
ちきんとしてなくていいや。
とおもえば、なぜかきちんとしているじぶんがいて、

人にやさしくなくていいや。
とおもえば、なぜか思いやれる余裕ができて、

まちがってもいいや。
っておもえば、自分のまちがいに気がつき、おなじことを二度繰り返さないようになっている。


以前、人に意見をしたことがあった。
一悶着あった後で、ずいぶん後悔をした。あの時ああ言わなければ良かった、いやこうすべきだった、とえんえんと心が騒ぐ。その人も私を避けるようになり、ああ。。嫌われたんだ。。。と、がっくりきた。心はもんもんとし続けた。
さんざんそのおもいにエネルギーを使い果たして、ふと思った。
「嫌われてもいいや」

私はその人がとても好きだったのだ。だから無意識に嫌われることを恐れていたのだ。心は動揺した。そして何度も心の中で言い訳をした。
だけど、いいや。一生嫌われてもいいや。と、心が開き直った。その時カラダが軽くなっているのに気がついた。

それから不思議な現象が起こった。
その人は依然と同じように、わたしに接するようになったのだ。

嫌われてもいいや。
とおもえば、嫌われなくなっていた。



2013年5月28日火曜日

加害者でいいじゃないか




去年ウチの大家さんに、庭が草でぼーぼーなのをとがめられた。
「もう。もう。こんなになって。。。!」
と、ひとり言のようにつぶやきながら、ぶちぶちと草を引きちぎっていた。

ここに一つの法則がある。
庭をきちんと手入れしていることが、正しいことである。
庭の草がぼーぼーなのは、まちがっていることである。

よって、庭を草ぼーぼーにしているわたしは、まちがった人なのである。
判決、有罪!
すると自分を裁き始める。

やばい。ちゃんとしてなかった。ああ、ちゃんと草を抜いていれば、おこられることはなかった。どーしよー。
心はどんどんエスカレートし、家を追い出されたらどーしよー、という恐怖のズンドコに入った。

するとその罪悪感に耐えられなくなったヤツが、反論し始める。

そんなこといったって、どうよこの庭。木だらけじゃないの。こんな面倒くさい庭、職人にしか扱えないわよ!管理しろってえのがムリな話よ。毎日忙しーのよ、あたし。あたしは庭師じゃないっつーの!

すると気の弱い方のあたしが、
だめよー、そんなこといったらー。大家さんに追い出されるわよー。ああ、ちゃんとしとくんだった。ああどーしよー。。。

すると気の強い方のあたしが、
何言ってんのよ。あんた、賃貸滞納したことあんの!?一度もないでしょ。そんな人追い出すはずがないじゃないの!

え~~~、でも、そうはいってもあたしの方が悪いんだし。。。。。

と、えんえんと一人芝居するやまんばがいた。罪悪感のオンパレードである。
しまいにその罪悪感一人芝居に疲れて、ふとあることばがよぎった。

「加害者でいいじゃないか」

被害者という立場は文句をいうがわで、なにもしなくてもいいけど、加害者は悪者である。悪者は裁かれないといけないという法則の中にいる自分に気がついた。
大家さんにとってわたしは、質の悪い店子で、悪者で、加害者である。

だとしたらどうだというのだ?

そのとき肩の荷がおりた感覚になった。

今まで、被害者にはなってはいいけれど、加害者だけはなってはいけないとおもっていた。だけどじっさいは私は今までいろんな人に迷惑をかけて、知らないあいだにいくらでも加害者になっていたはずなのだ。

知らなかったら加害者になってても良かったのか?意識化されたものはそうであってはいけないのか?
それは自分に都合のいい解釈じゃないか。



加害者でいいじゃないか。
なんということばなのだ。
罪悪感の塊であった私にそれはあってはいけないことばだったのだ。だがそれが不意に心の奥に入った。
それは自分で自分の悪い部分を受け入れた瞬間であったのかもしれない。


それから私は庭が草でぼーぼーなのが気にならなくなった。時期が来れば適度に草むしりをする。もう庭を見て罪悪感を感じなくなっている自分をみつけた。


絵:オリジナル「インドでヨガ」



まちがってはいけないの?



人として正しくないことをしてはいけないという倫理観。

これはとっても抽象的な言葉。
だって「正しい」とはあまりにも漠然としていることばだもの。

その正しさは、時代によってコロコロ変わるし、立場によってもコロコロ変わるし、視点によってもコロコロ変わる。そんなコロコロ変わる「正しさ」を、その人の視点の「正しさ」だけで判断している。
人それぞれ違う正しさの中で、それぞれが正しさを主張しあっている。

国会で議論ばかりしているのを見てうんざりしないか?それぞれがそれぞれの主張ばかりで時間が過ぎていくのを見たことないか?あげくに感情論で罵倒しまくる、エリート大学を出て、エリートコースを歩んだ、えら~い政治家さんたちを見て、こいつらがホントに国を動かしてるんかと不思議におもわないか?

そんな遠くの人たちの話はどうでもいいことだった。もっと自分に引き寄せて考えてみよう。

それだけ私たちは自分の正しさに執着している。
正しくなければいけない→正しくないとニンゲンではない→まちがってはいけない
ということは、「そうでない自分が許せない」となる。
二極思考のもっとも重要な欠点がここにある。
まちがっている→まちがっている人を裁く

だから相手に指摘されて「おれまちがっているかも知んない。。」とおもった瞬間、自分を裁く行為が始まる。するとまちがってはいけないというおもいで心が張り裂けそうになって、
「いやいや、ちがう。そうではない。おれは正しいんだ!」
と、もう一方の意識が動き始めるのだ。

もし、まちがってもいいというアイディアがあれば、自分がまちがっている可能性を真正面から観ることが出来る。例えば、人がまちがったことをしているのを見るとき、こちら側は何の感情も入れずに淡々と見ることが出来るように。

たったそれだけのことなのに、私たちにはできない。
自分がまちがっているかもしんない!とおもった瞬間に、感情がびくっと動くのだ。
するとそこから先にいけなくなる。
まちがってはいけないという法則が、壁のように立ちはだかり、それを吟味することをこばむのだ。

これが自分を見ることが出来ない要因になっている。

まちがってていいじゃないか。
失敗していいじゃないか。
ニンゲンはまちがうもんだし、失敗からいろんなことを学ぶ。
そもそもまちがいってなんだ?失敗ってなんだ?

心の部屋の中にぐちゃぐちゃにつみあげられたもののほとんどは、罪悪感というホコリにまみれているだけなのだ。まちがうという罪悪感、失敗という罪悪感。
だけどそれは『事実』ではなく、あなたがそう思っているというだけなのだ。


2013年5月26日日曜日

あんたは悪くない



「おれは悪くない!」
そうです。あなたはなんにも悪くない。
あなたはあなたの生まれ育った環境からその道理を学んで実践しただけのことなので、完全に正しい。
そして相手も、完全に正しい。なぜなら、その相手も生まれ育った環境から道理を学んでそれを実践しているのだから。

どっちも正しい。
正しいことをそれぞれがやっているだけで、それを「おれが正しい」と主張するのがケンカと言う。

ケンカがいつまでも収集つかないのは、自分の正しいことの主張に忙しくて、相手の正しさを見る余裕がないからである。

ほら、ケンカしている二人を第三者がはたからみてると、
「そりゃ、そっちの立場になりゃ、怒るのも無理ないわよねー。だけど、あんたの気持ちもワカランでもない」
と、どっちの立場も見れる。すると、どっちも正しいのがわかる。
中にはどー見てもあんたが悪いってのもあるけど、よーく観察してみると、そのいかにも悪い奴でさえ、そうせざるをえない切羽詰まった何かがある。だからやっぱり彼の立場に立てば、「正しい」のだ。

そう考えると、自分の正しさを主張する必要もなくなってくるんだが、なんでそうなっちまうかと言うと、ここで倫理観が登場する。
小さい頃、とくとくと説かれた「倫理観」である。
人とは正しくなければいけない。
人として間違った行為をしてはいけない。

ニンゲン種は、最初にインプットしたものを疑いもなくそのまんま受け取るようにプログラミングされているらしい。だからおさないころ、じーさんやばーさんや昔話に出てくる倫理観話に完全にヤラレてしまう。人として正しくあらねばならない!と。

なので、相手に「君、間違っているよ」的な指摘を受けると、即座に反応する。「人として間違ってはいけないのだ!」と信じて疑わないから、まちがっているかもしんないの?あたし。。?という恐怖がにょきにょきと海底から現れてくる。その恐怖をふりきるかのように猛反撃が始まるわけだ。

すると相手も「あんたの方こそまちがってるわい」って言い返されたようなもんだから、そりゃあ、またまた反撃するわな。

こーやって、反撃劇場がパンパカパ~ンと幕が切って落とされるわけだ。
その劇場は、当の役者達がぜーぜーいって、疲れ果てて、そのうち「この恨み100年先まで」といったことになるだけだ。

そろそろそこら辺の心の仕組みを理解して、先に進もう。
ようはその倫理観がいろんな考えのじゃまをしている。


でた〜!親ぢの色気!ふしぎ〜な、ものがたりです。

2013年5月23日木曜日

ほったらかしな心



部屋がぐちゃぐちゃだと、ぐちゃぐちゃがもろみえである。
だからきれいにすることが出来る。
だけど、心ん中がぐちゃぐちゃなのは、目に見えない。
だからきれいにすることがない。

ジャンクフードばっかり食べていると、気持ちが悪くなって、それを食べるのをやめたりするけど、心ん中がいつも同じジャンクフードばかり食って気持ちが悪くなっても、ちょっとテレビみてるあいだに気持ちの悪さが消えると、また同じジャンクフードを食い続ける。

心ん中は、わしら現代人にとって「目に見えない」から、ほとんどが「ほったらかし」なのである。
そのほったらかしの心ん中は、ぐちゃぐちゃなので、行為が支離滅裂になる。

外でマザーテレサな人が、ウチではランボーになる。
「あんた何様のつもり!?」ってな人が、ウチでは宮沢賢治になったりする。

何しろ目に見えないもんだから、メンドーなのである。

だけどゆいいつ、目に見えて明らかなことがある。
それは感情である。
ピキッとくる。イラっとする。びくっとする。がくっとする。むかっとくる。おちこむ。
そんな感情的反応である。
これが心の中が、今どうなっているかを教えてくれるヒントなのだ。

こーゆーのは動物的反応だと思われているけれど、じつはほとんどが言葉によって引き起こされている。自己防衛本能が与える感情的反応なんだけど、その自己防衛とは、生き死にのもっと手前の、自己の尊厳を崩壊させられると思い込んだ瞬間の、自己防衛的反応なのだ。(早い話がプライドが傷つくこと)

だれかと口げんかになって、その後まともに事態が収縮することがあるだろうか。オトナな付き合いは、それぞれの感情を抑えることによって収縮しているように見える。だけどそのあと、尾を引かないだろうか?すっかり終わっていたら、後でウジウジそのことを考えたり、カンケーない他の人にあたってみたりするだろうか。

誰かに意見されれば、必ずと言っていいほど反論したくなる。
人格者は「ああ、君の言う通りだ」と納得するだろうけど、凡人は
「おめえに言われたかあねえよ!」となる。

口では言わないよ。おとなだもん。だけど心ん中はそう言ってる。いや、心にも浮上していないかもしれない。底の底の方にまで沈ませている言葉だ。自分じゃ気がついてないけど、なんだかしらんが無性にハラが立つ。だから反論する。
自己を他人から防衛しているのだ。なぜ?自分の存在が脅かされるとおもったからだ。でも他人は君に意見をしているだけだ。別に殺そうとしているわけじゃない。なのに必死で防衛する。

違う違うそうじゃない!そんなふうに考えているわけじゃない!君の方が間違っている。おれは絶対正しい!
心の中はそう叫んでいる。

反論すると、今度は言い出しっぺの相手の方も反論してくる。もちろん相手も自分の意見にチャチャを入れられてカチンと来たんだ。相手も自己防衛を始める。

こうしてえんえんとお互いの自己防衛反論が続いていく。
内容うんぬんはいつのまにかどっかにいっちゃって、たがいの存在レベルなところにまで発展してしまう。何も解決していない。何も終わらせていない。

そうゆうものが、ぐちゃぐちゃと心の部屋の中にほったらかされてつみ上がっている。
それは解決されたり、消化されたり、気づかされたりして消えていないので、いつまでもそこに残り続けている。

ある日、似たような状態がやってきた時、部屋のすみっこで埋もれて寝てたそのゴミ(?)は、いきなり立ち上がって叫ぶのだ。
「おれは悪くない!」


2013年5月22日水曜日

その先へいこう




昨日ニュースをみてた。

誰からいきなり金属バットで殴られた事件、刺される事件、犯人が逃げる途中で交通事故に巻き込まれた事件、飲酒運転で車を何台も巻き込んだ事件、新幹線の中でスプレーまいた事件。。と、いろんなニュースを見た。
みんなその日一日に起こった出来事だ。

昔は計画的犯行というのが犯行の主流だったような気がするが、最近の事件は突発的と言うか、感情的と言うか、誰でもよかったと言うか、そんなどこか「ぷっつん切れました」的な事件が多い。

心に何かとてつもない不安を抱えた状態が極まって、そうさせてるんではないかとおもえてしまう。
犯人の人柄は、
「とてもそんなことをしそうな人でなかった。やさしい温厚な人柄だった」
なんてコメントされることもふえた。
犯罪者とわしらは、ほとんど境界線のない時代に入ったのだ。

やまんばが生まれてから、今のような精神的な問題が、ここまで浮上してきたことがあっただろうか。ちまたではあまり取りざたされていないけど、老婆心ながら、これからはっきりと意識的に精神的なことを言葉に表していかないと、文明は物質的な問題よりも、ニンゲンの心の問題で文明は続いていかなくなる気がする。

わしらは、ふだん目に見えるモノがこの世のほとんどを占めていると信じている。だから目に見えて明らかなものだけを問題解決していけば何とかなると思っている。目に見えるとは、机とか、パソコンとか、お金とかの、物質的なものだけじゃなくて、政治とか経済とか医療とかも含めてのことだ。目に見えてこの問題、あの問題、と提示することが出来るもののことだ。

だけどその問題を考えて考えて考え尽くして、はや2000年。
文明はコロコロ変わって、いわゆるコンビーニエントにもなった。だけど、はたしてそのコンビニエントは幸福とつながっているのか。その幸福は絶対的な不変な永遠に続く幸福か。こんなに突発的な事件が多い世界が幸福なのだろうか。
では問題のひとつ、原発がなくなれば、私たちは幸福になるのか。
きっとやっとのおもいで原発がなくなっても、また次の問題が見つかるのだろう。そうやってまた次の2000年をすごす。。?はたしてこのままこの文明がずるずると2000年続くと思うだろうか。やまんばにはおもえない。

とんでもないものを忘れている気がする。あの問題この問題と外に指さして変えようとしてきたが、わたしたちは一番大事なところを指さすのを忘れてないだろうか。
ここ(胸のとこ)の問題だ。

すべての行動のはじまりは、ここからきている。なのに「ここ」はちっとも顧みられることがない。なぜならそこが一番怖いところだからだ。だからそこにずーっとふたをしてみないようにしてきた。あっちやこっちがわるいから、あたしは不幸なのよ。と言い続けてきた。その結果が「ぷっつん切れました」になる。

道徳観や倫理観は恐怖をうえつける。
ニンゲンはこうでなければいけない。そうしなければお前はニンゲン失格だ。そういわれてきたんじゃないか?
つまり道徳観は、恐怖の上に成り立たされている。だから「ここ」を見れないのだ。

そんな「恐怖による洗脳」の道徳観や倫理観などもう古いのだ。その古い形を持ったままでは、この先の文明はかなしいものになる。。。


その先へいこう。(なんかどっかのCMみたいだな)

ホケキキョとウキペディアは同じ音か?



今、わがホケキキョくんが庭先で大声で鳴いている。でかい声だ。

こやつは行動範囲が極端に広い。(他のうぐいすと比べたことがないのでわからんが)とにかくひとりで違う歌い方なので、どこにいるのかもろバレである。
「あっ、あいつ、こーんなところまで来てやがる!」
と、はるか遠いところでその声を聞くと、悪態つきながらなぜか嬉しくなってしまうのであった。

先日ご近所さんと、彼の話題になった。

「いつも変な鳴き方するうぐいすがいるわよねえ。あたし、あれ聞くたびに、
『ウキベディア』って聞こえちゃうの!」
へっ?ウキペディア?
「あたしはホケキキョって聞こえるけど。。。」と私。
「へえ~、あたしには『ウキペディア』よ!」

それから数日もたたないうちに、やまんばのお耳に変化が。。。

う。。。ウキペディアって聞こえるっ!

いやいや、ホケキキョだろ。あたしの耳にはそー聞こえていたはず。。。
でも、、、ウキペディアって言ってるじゃねえか!

あろうことか、そのときからやまんばには、その声を同時通訳(?)して、
お耳の中で、
『ホ(ウ)ケ(キ)キ(ぺ)キ(ディア)ョ!』
と、聞こえてしまうよーになってしまったのであったのであった!
がーん!

むかし『空耳アワー』っちゅー番組があった。意味の分からんエーゴの歌を、勝手に日本語にして歌ってみたりする変な番組だったが、よーするにあれとおんなじことをやっているんではないだろーか。
「ほーほけきょ」だって友だちにいわせれば、
「おー、どっこいしょ」って聞こえるらしい。

きっとニンゲンは、鳥がだす音をニンゲンの言葉に置き換えて、自分の好き勝手に「そう聞こえ」させているのだろう。
特に日本人はその傾向が強いようにおもわれる。虫の声を歌にしたり、言葉に置き換えたりするではないか。
NYにいたとき、西洋人は虫や鳥の声をそのように捉えてはいなかった。雑音として捉えていたようだった。

日本人のそんな感覚と遊び心は、すてきじゃないか~とおもうのだ。

2013年5月17日金曜日

スナップエンドウがたわわわわ〜



スナップエンドウが採れはじめた。
固定種の種さんがここの畑にやって来て3年目。最初は心もとない感じでひょろひょろだった。やっと取れた種を食べずに次の年蒔いた。すると少し育った。それで、たべつつ、良さげな種をいっぱい取った。

すると3年目の今年は、まあすんごい状態に。スナップエンドウが、たわわわわ~ってなった。
よく見ると絹さやと交配した奴がいる。巨大な絹さやになって、スナップエンドウの横でドーダ!って主張している。交配するとやっぱ巨大になるのかな。

ソラマメも今年初めてとれそうだ。それまで、ちーっともそだたないか、かろうじてそだっても、おもいっくそアブラムシにくわれまくってた。ところが今年はなんか、いーかんじである。このまま育って欲しいもんである。

瓜科のキュウリ、ズッキーニ、かぼちゃも不織布をかけたせいか、ウリハちゃんにやられず、ゆっくりそだっている。

先日、ズッキーニが、一晩ではっぱが真っ黒になっていた。まるで焼けこげたみたいに。その近くに植えたサンマルチアーノの苗もほとんどが真っ黒に。土の下をねずみが這ったんだろうか。そう思って土をさぐったが、なんの変化も見当たらない。たった一晩でこんなに変わるもんだろうか。
しゃあない。「困ったときはそのままにしておけ」だ。
で、ほっとくと、ズッキーニの根元からまた新しい葉っぱが生まれはじめた。サンマルチアーノもほんの少しだけど、小さな葉っぱが覗いている。

植物は本当にすごい。ニンゲンの全く及ばないところで、粛々と生きている。
この畑だって、やまんばは遊ばせてもらっているだけだ。いや、植物に遊ばれているというべきか。

5年目に入って、だんだんやり方がわかってきたと言うか、どう野菜とかかわるかをすこしづーつ教えてもらっている気がする。
やまんばは、とりあえず、従来の「野菜の育て方」という知識を、ほとんど頭から捨てることにした。

植物には、植物が持つ時間の流れというものがあるようだ。それはやまんばの人生になかった時間の流れ方だった。だからすごくとまどった。だけどここにきて、なんとな~く彼らの時間に寄り添えるようになってきたかなあ、とおもう。

いままで野菜が育とうとすることを邪魔してたんじゃないかなあっておもうんだな。それはニンゲンの時間で野菜をコントロールしていたんかもしれん。

畑の野菜の種さんは、自分の意志でそこに育ちたいと思って来たわけではないわけだ。ニンゲンの欲のために、むりやりそこに置いたわけで、種さんにとっては、ありがた迷惑なことなのだ。だから、ムリヤリお越しいただいている彼らに敬意を示し、どこまで彼らのお邪魔にならないようにするかってことが、結果的に育つことを手伝う事になってるんじゃないかとおもう。なんか不思議な感覚だよ。

スナップエンドウ様、おいしゅうございます~。

2013年5月14日火曜日

空き家



ともだちたちがひっこした。
ともだちっていうよりは、向こうにとってはこっちは年上の先輩ってかんじだったかもしれないんだけどね。
最初パートナーが先にひっこしちゃったときは、まだ完全にいなくなるってかんじじゃなかった。まだ彼女もここにいるってかんじがしていたから。でもがらんとなった空き家を見て、寂しさは現実のものになった。彼女にもらったもんぺまでが消えていくような。

やまんばはいつもひっこしてばかりで、ぎゃくに置いてけぼりの側の気分をあまり知らなかった。だけどいまはわかる。なんだか心にあるいつもの風景の中に、ぽかんと白い余白が出来て、そこがみょうに真っ白くうきあがっているのだ。まるでジグソーパズルのワンピースがぽろっと消えて、後ろの白い紙が見えているかのように。心はそこをなんとか埋めなきゃ埋めなきゃとあせっているような。

だけどかれらは明日を見つめている。これから始まる全く新しい世界を見つめている。不安もあるんだろうけど、その先にあるまだ知らない世界に向かってワクワクする心が深いところから温泉のように吹き出してきているんだろうな。やまんばもいつもそうだったから。

すべてはいつもベストな状態で進んでいる。この世は完璧な世界。

彼らのおかげで高尾生活が今までにない彩りをつけてくれた。
やまんばの心の中にできたその白いスペースは、これから別のものに変化していき、友だちの前にある、まだ見ぬ大きな真っ白いスペースは、これからどんどん彩られていくのだ。

ありがとう、みんな。
広い世界でおもうぞんぶん飛び回っている姿を遠くでたのしく眺めてます。
元気でね!

2013年5月11日土曜日

石けんなし生活に方法論はない



人は何かになろうとする。
そこにいて、ぼーっとしていると、
「こらあ、なにぼーっとしている!」
といわれた経験がある人は、そのショックが人生の後々まで尾を引く。
なにもしないでいることは、いけないことだとインプットする。
今ここにいて、あるがままでいることは、いけないことだと心底思っている。
だからつねに何かをしていようとする。

が、あまりに無意識になっているので本人はそれに気がつかない。

本屋さんにいって、成功本をみつける。
心が刺激される。そのままではいけないとおもっている人は、その成功者の姿を見て、「将来はああなりたい」とその方法論の成功者を目標にする。
ここに二つの利点がある(ホントに利点かどうかは知らないが)。

1:その本の通りにやると、あの成功者のようになることを保証される(と、おもいこむ)。
2:なにかをやっていると、怒られなくてすむ(いったいだれにやねん)。

だからあらゆる方法論が存在するのだ。これじゃなきゃあれ。あれじゃなきゃそれ。飽くなき戦いである(だれと戦ってんのや)。


石けんなし生活には、方法論がない。
単に石けんを使わないというだけだ。
だが人はつねになにかをしようとするので、これは非常に物足りない。

方法論とは、どうもプラスすること(とおもわれている)のようだ。
今ある自分のスタイルに、プラス何かを足す事によって、あの成功者のようになれると思う。しかし石けんなし生活はプラスするものが何もないのだ!手応えがないじゃないか!
とくにシャップーなしはけっこうハードルが高いので、そこに何かを足そうとしたくなる。

どっちでもいいのである。
いろいろやってみるといーのであーる。

だけど、問題はそこじゃなくて、なにかをプラスしようとする、足さないではいられない、心の切迫感のほうだ。起きてくる出来事に一喜一憂して、抵抗して、嘆いて、バタバタして、なんとか今ある状況を止めさせようとする、その意識だ。
人は「プラス思考」になれているけど、なにもしないという「マイナス思考(引くって意味ね)」には、全くなれていない!

それはちっちゃいとき、とーちゃんに怒られたからかえ?
「こらあーっ、ぼーっとするなーっ!」って、せんせーに言われたからかえ?
クラスのみんなに笑われて、はずかしーおもいをしたからかえ?

「ゆだねる」とは誰もが使う言葉で、「今を生きる」とか「あるがまま」というのも誰もがいう言葉だ。
だけどそれを実行するのは、とってええええええええ~も、むつかしいようだ。

あの、子供時代。ぼーっとしていた瞬間は、今を生きていたんじゃないだろうか。
目の前に広がる自然の美しさや雲の流れや光の暖かさを、肌や心で体験していたんじゃないだろうか。

何かをしているとその事を忘れてしまう。あのおこったとーちゃんや、せんせーも、きっとその事を忘れていただけだ。

ニンゲン世界がこんなにつらいのは、あの瞬間を忘れちゃっただけなんじゃないだろうか。
みんな、あの子供時代の、あのすべてを体感していた頃があったんだ。
ただそれを思い出すだけでいいんじゃないだろうか。

カラダも動かさず、心も動かさず、ただそこにいる瞬間を。


2013年5月6日月曜日

おばちゃんガンバってる感



近所のおばちゃんたちと会話。
「あたしなんかねえ、ここから2時間もかかるところに毎日通ってたんだから!それも1年半も!」
するととなりのおばちゃん。
「あたしなんかねえ、1日10時間も働いてたわよ!娘の弁当も作って、家のことぜーんぶやって、それで10時間よ!」
「すんごいねえ」と私。
「そりゃあもお、たいへんだったんだから!」
「すんごいねえ。。。」
そのあとはおばちゃん二人のガンバッタ自慢がえんえんとつづく。


近所のおばちゃんたちの会話にはパターンがある。
1:自分がどれだけがんばってるか。
2:自分がどれだけ身体の調子が悪いか。
だいたいこれに終始する。

1の方は、付録がついている。
「それなのに、ウチのダンナったら。」
「あたしがこんだけ頑張ってるのに、うちの子たちはな~んにもしないのよ」
「それなのに町内会のひとったら」など。
すると、だいたい次は2に移行する。
「だからこんなにカラダの調子が悪いのよ~」
あとは薬の量自慢。

彼らは「わたし、わたし、こんなんにがんばってるんですう!だから認めてよ!」っていってるようにみえる。
なんでこんな若造に、あなたの「ガンバってる感」を?

むむむむむう~。
認めてっていわれたって。。。認めてるよ。おもいっきり。
だけど、いつまでたってもその会話のパターンは変わらない。

人が頑張るのは、ときどき人に認めてもらいたくて頑張っちゃったりするけど、「だから認めてるよお~」って何度言ったところで、「やっぱし認めてくれてない!」っておもっているようだ。
きっとダンナだって何度も言ってるにちがいない。
でもけっきょく自分で自分を認めないかぎり、これはやめられないんじゃないだろか。


やまんばは、人は年がいったら、ふんべつのあるいい大人になり、人格者になるとおもっていた。
だけど実際きんじょのおばちゃんたちをみていると、精神年齢はあの若かりしころの、ロマンチックで夢見る乙女のままで止まっているんではないだろうかとおもう。
そのうちカラダはどんどん衰えてきて、その「ガンバっている感」をどこで主張するかと言うと、今度は老化と戦って頑張っていることを主張する。

ホントに死ぬまで「がんばらなきゃ、がんばらなきゃ」っておもっているようだ。

物質文明を豊かにするために頑張ってきたわたしたちだけど、それによって精神はずっと後ろの方に回されてきたような気がする。しかし年がいっても精神はこんな状態で、どこが「豊かな文明」なのだろうか。
あふれる高尾の豊かな自然の中に住みながら、心は自分を認めてもらうことに終始する。

わしらはあまりに心の中が忙し過ぎる。

2013年5月4日土曜日

人の気持ちは伝染する



おとついegasunのマスターこと舞台美術家江頭さんのパートナー、令子先生の生徒たちのダンスパフォーマンスを見せてもらった。
きらびやかな照明と音楽の中できれいな衣装で踊る彼らは華やかだった。久しぶりに違った世界を楽しませてもらった。

その中で一人とっても輝いている女の子がいた。年は4歳ぐらいだろうか。終始ニコニコして踊っていた。その彼女のかわいい雰囲気が会場に暖かさをもたらしていた。
取り立てて踊りが上手でもないのに、なぜか彼女に視線がいく。そしておもわずほほえんでしまうのだ。

彼女はただ踊っていることだけを楽しんでいるように見えた。失敗したらどうしようとか、ちゃんと踊らないといけないとか、間違えないようにとか、なんてさらさら考えもつかなくて、ただきれいな衣装を着て、楽しい音楽の中で、明るいライトに照らされて身体をおもいっきり動かす。心は「ああ、うれしい」というおもいだけが彼女を満たしているように見えた。
きっと何度か失敗もしたんだろうけど、そんなことちっとも気にならなかった。

それとは対照的に、顔がこわばっている人たちもいた。彼女たちは失敗しないように、間違えないようにというおもいが顔にでていた。
だからこっちも何となく固唾をのんで見てしまう。間違えないだろうか、大丈夫だろうか、ああ、やっぱしやっちゃった。みたいな。
人の気持ちは伝染する。踊り手の緊張が見ている側にも伝わってくる。するとその人の気持ちにぴったりと合っちゃうのだ。

失敗したらどうしようという気持ちは、他人にもちゃんとわかるのだから、共感してもらっているのだ。みんなやさしいじゃないか。
失敗しても共感してもらえているし、失敗なんか気にしてなくてただ楽しんでも、共感してくれている。
どっちでもいいのだ。失敗しても、しなくても。

失敗してはイケナイというおもいは、人の視線を気にしている。だけどその他人さえもその失敗に共感してくれている。だったら、失敗のどこがいけないの?

すべてのダンスが終わり、全員が出てきてあいさつをした。あの緊張していた彼らはいつもの笑顔に戻っていた。じつはとってもかわいい子だった。もったいないなあ~。あの笑顔を本番でだせたらもっとよかったのになあ。

あの小さな女の子には、まだ自我がなかったのだろう。他人と自分という区別があまりなかったのだろう。だがやがて他人と自分という境界線をもち始める。となりで踊っていた少し年上の女の子は、すでに自我を形成しはじめていて、顔に緊張の色が出ていた。

他人と自分という区別が人生に苦しみを生む。
それはひとえに他人の心が読めないからだろうな。だけど他人の心が全部読めたら、じつはみんな同じように苦しんでいることを知る。ということは、他人は自分とほとんど変わらないということだ。
失敗してはいけないというアイディアは、他人が自分とは違うというおもいからくる。でも本当は何も違わないんだ。だとしたら失敗を恐れる必要もないんではないのか。

ただあの子のように「ああ、うれしい」という感じで生きれたら、きっとまわりにも伝染してあったかくなるんだろうな。
やまんばもあの子のように生きたいなあ。

2013年5月1日水曜日

うっとおしい苗親ごころ



毎年このころになると、やまんばはそわそわする。
夏野菜の苗定植の時期。

島村ファームに出かけていって、苗購入。さっそく畑に仕込む。きゅうり、ピーマン、唐辛子、ナス、白瓜。
今回トマトとズッキーニはうちの「衣装ケース育苗」で育てた苗だけでいってみる(ちょーこえ~)。

いつものことながら、買ってきた当初、濃い緑色の太くて短い、たのもしい苗は、うちのスパルタ畑(つまり肥料なし草だらけ畑)で、みるもむざんな結果となる。まともに育ったためしがない!(いばるな)なのに止められない。
去年、ウリハ虫におもいっきりやられた瓜系の苗は、不織布ではじめっからおおうことにする。

今年はなんだか寒い日と暑い日が交互に来る。
きのう仕込んだ「あたしの」ちっこいズッキーニの苗が気になる。

ああ、今夜は冷える。今日彼らを畑デビューさせるんじゃなかった。。今ごろ、畑で寒ーいおもいをしているんだわ。。。
それにトマトさんたち、だいじょーぶかしら。。去年と同じ畝にいれて連作してしまった。やっぱり連作しなきゃよかったかしら。。。(連作わざとやったくせに)
などと。えんえんと心がさわぐ。

これって、まるで親じゃねえか!
ああ、あの子今ごろどーしてるかしら。。大学を県外デビューせるんじゃなかった。
今ごろ部屋で寒ーいおもいをしているんだわ。。。
おかーさん、おかーさん。
子供はけっこうジューナンです。時には家を思い出して泣きますが、それでも新しい環境に適応しようとがんばります。
ほっといてやってください!

子も苗もじつはそだての親から自立している(ヒトと植物を一緒にするなって?)。
やまんばは「恐怖!やまんばのビーム光線」で何となく学んだのだ。
それに向ける意識の問題じゃないかって。

育てよお~、育てよお~、って念仏となえられてる子らは、ちっとも育たなくて、すっかり忘れられてるやつらは、のびのび育つ。
心配されている子らはちっとも親離れできなくて、「ん。この子はダイジョブ」って思われてる子はのびのび育つ。そんなかんじ?

だから下手に心配すればするほど、苗は自然に本来の力を発揮できなくて、「まかせて」おけば、本来の力をのびのびと発揮するんじゃないかと。
だって、彼らは一つの独立した生命なんだもの。自然の摂理に叶った方法で大きくなりたけりゃなるし、なりたくなけりゃならない。
ただそこにニンゲンの意識がどう関与するかにかかっているような気がする。

自然農の川口さんの言葉「困ったときはそのままにしておけ」は、自然の本来の力を知っている人の言葉なのだろう。


やまんばはさいきん、ちょっとづつ畑の自然へのかかわり方をおべんきょさせてもらっている。
ちょっと、かかわるのだ。

ちらっとみて、「うん。げんきだな」といって、その場を立ち去る。
ちらっとみて、「あ、草とらないとだめだな」とかんじるとさっと手をかける。

でろよ~でろよ~でない気かあ〜、あん?と「疑いの目」をかけない。心配しない。

およそ野菜という植物は、ニンゲンが手をかけた植物。少し手をかけることなんではないだろうか。元々そうやって生まれた種族だ。それはさっと手で触るだけでもいいのではないか。
双葉を間引く、草を取るという手作業はどうしても彼らに触れる。それが彼らを触発していくのかもしれない。
それは野草とは違う性質をしている。
だけど自然なんだよね。

なんかこれって、ペットと似ている気がしね?自然界がニンゲンとかかわると、別の性質をもつような。。。

なかなか深いなあ。