2019年12月19日木曜日

存在しないものを怖がる




人が自分の内側を見ないようにするのは、
もし自分の中を覗こうものなら、
何か恐ろしいものを見るような気がするから。


自分の中の声/自我が訴える。

「見るなよ。見るなよ。見たら最後だ。
日頃お前が外に向かって何を悪態ついているのか、おれは知ってる。
お前がどんだけイジクソが悪いか、おれは知ってる。

お前の本性を見たいか?
ああ。。。とてもじゃないが教えられねえ。
お前の残酷さはおれがよく知ってる。
おれは肝要なんだ。だから今まで付き合ってやってんだぜ。
見たっておれはお前を守ってやらねえからな。知らないぞ。
だからいいか?ぜったい見るなよ」

自我は最初に大声で訴える。

日頃自我の声と友だちだとおもっている私たちは、
その言葉を聞いておそれおののく。
「あーやだやだ。ぜったい見ない!」



そうやって、自我は私たちが内面を見ようとすることを妨げる。
それはなぜか。自我が困るからだ。
私たちが内面を見るということは、自我の正体を知ることになる。

ほんとうは、自我など、どこにもいないことがバレるからだ。



私たちが見ないことによって、自我が温存されている。
しかし見ることによって、自我の解体が始まる。

自我は罪の意識をでっち上げ、それで私たちを縛り付ける。

自我とずいぶんと長いこと仲良しだった私たちは、自我がいうことは正しいと信じて疑わない。自我は私たちの味方だと信じて疑わない。


そうやって自我は私たちをコントロールする。

自分が「犯したかもしれない罪」
(そう思わせることによって)その「罪」を見ないと選択させることで、
私たちをこの世界に縛り付け、自我を温存させている。

だがそんなものは本当は存在しない。



後ろにお化けがいるような気がして、恐怖におののく。
いやだいやだ見たら絶対そこにお化けがいる!
といって見ないでいることによって、
そこにお化けを存在させる。
しかし勇気を持ってふりむくと、そこには何もない。


だた、そう思い込んでいることだけが、
それを存在させているのだ。




絵/ミステリー表紙


2019年12月16日月曜日

橋の上で

この橋の上で。写真は去年1月まだ父が生きていた頃。



先日、高知で母の引っ越しの準備をするために、あちこち行ったり来たりしていた。
鏡川にかかる橋の上で、対岸のビル群を見ながら思った。

「ああ。。この見えている世界の中に、何一つ救いはないのだ。。。」

その言葉がよぎった時、
私は全身の力が抜けると同時に、なんとも言えない解放感と、深い安堵が広がった。

「もう、、、どこも探さなくていいんだ。。。」


私たちは心の救いや癒しを世界に求める。
どこかにあるはずだ。どこかにその兆しがあるはずだ。この世界を探せば、きっとどこかに私を救ってくれる何かを見つけるはずだ。。。!と。

そうやって何十年も探し続けた。聖地に、巨石に、文献に、人に、思想に、精神世界に、、、。
私はずっと外に探し続けた。自分の外にあるものに。

そして今、鏡川の上で、この、今見えている世界には、
その救いは何もないことを知った。
(高知にないって話じゃないよ)



見えている世界は、私の心が現れたものだ。
つまり今見ている世界は私の自我が反映されたもの。
自分で抱えきれない恐れと罪を、自分から突き放して投影させた。
その恐れと罪の形の中に、いくら救いを求めても、そんなものありはしないことを、
なぜ今まで気がつかなかったのだ。

「あるわけないじゃん!」
私は橋の上で、ひとりツッコミをしていた。




私たちは人生がうまくいかないと、うまく変わるようにあらゆる努力をする。
ところが一瞬変わったように見えても、また問題が浮上する。
そしてその問題に取り組み、変えようと努力をする。


ほんとうは、現れているものをなにひとつさわらなくていい。
なにも変えなくていい。

なぜならそれは、ただ結果が現れているだけなのだから。


普通は問題があるから、それを変えようとする。
問題(原因)が先にあって、変える(結果)ことをする、というふうにおもって来た。

しかし本当は現れているものは、結果に過ぎないというのだ。
問題は原因ではなく、結果なのだと。



そもそもの原因はなにか?
心だ。

最初に心の原因があって、それが結果としてこの世界に現れる。
だからこの世界に原因を求めることは不可能だ。もともとこれはすべて結果なのだから。

では問題はどのように解決するのか。
それは見方を変えることだ。
今まで現象に対して、同じ解釈、同じ反応をしていた自分の、見方を変えていくことなのだ。


同じ反応に気づき、
もうその今までと同じ反応はしないと決めること。
そして別の見方をしたいと切に願うこと。




橋を渡りながら考えた。

私はこの高知でありとあらゆる価値判断を育てて来た。
生まれて知る世界、そして学校。小学校、中学校、高校。。。


ほぼ今の自分を作った基礎の部分をなしている。
そしてその価値判断が私を苦しめているのも事実。

ならば、この地で、この考えを培って来たのだから、
この地で、それを解体する!


強い決意を持って、私は橋を渡り切った。



2019年12月12日木曜日

母の決心3

母の油絵一番最近の作品。ほとんど抽象画になっている




スタッフの方々に挨拶をしてのち、母が先に行った食堂に向かった。

わたしはそこで、食堂のテーブルに車いすで座っている母の後ろ姿を見て凍りついた。
そこには見知らぬ老人たちに囲まれて、えんじ色のコートを着て固く身をこわばらせた彼女がいた。

「こんなところに母を置いてしまった!」
どこに彼女がいるのかを現実的に直視したと同時に、大きな後悔の念が押し寄せた。

全身の血の気が引いて罪悪感に押しつぶされそうなまま、彼女に近寄った。
老人たちの奇異の目が私たちに向けられる。
私は母の手を強くぎゅっとにぎった。
「がんばって。。!」

それ以上何も言えなかった。
映画、楢山節考を思いだした。
私は山に母を捨ててくる息子の気持ちになった。




初日から連続でほとんど寝られなかったが、この夜はそれがピークを迎えた。
母を施設に送った罪悪感で頭がいっぱいになる。

もっと自分が稼げてたら、もっといいところに行けたのに、もっといい方法があったのかもしれないのに、自分の稼ぎのせいで、今彼女を苦しめている。。。!


日頃から自分の内面と向き合い、何を考え、何を感じて、どんな感情を引き起こしているのかを見て来た。そして一番の自我の特徴である罪悪感とも、長い時間をかけてていねいに対峙して来た私だった。

それが木っ端みじんに吹っ飛ぶ。
怒濤の思考の嵐に悶絶する。
おびただしい言葉の渦が私を襲う。
そのすべては自分を裁く言葉だ。自分のいたらなさゆえの母の苦悩。そういう図式がぐるぐるとエンドレスでまわり続ける。



私はベッドの上でゆっくりと座った。
頭は完全に冴え渡り、荒れ狂う頭の中の言葉の嵐を
その声と同一化はせず、ただその声を静かに聞き続けた。

過去の出来事が走馬灯のようにパッパッと一瞬現れては消える。そこには幼いころの私の母とのシーンも浮かぶ。
その頃培われて来た考え、そして大人になってからの考え。。。

その時、自分がどれだけ彼女の考えが基盤になっていたかを知る。
自分の考えだとおもっていたものが、ほとんど彼女の考えに似ていたことをはっきりと見た。それと同時に私の思考の7割が、彼女に関することばかりだったことを。

そうだ。夜中にトイレに起きるたび、ああ母は今ごろどうしているだろう。。苦しくなければいいが。。。そんなことを何万回、何百万回考え続けて来たのだ。

私の罪悪感の大本は、彼女への罪の意識だったのだ。

それは幼い子どもが、この世ではじめて見た母への、せつないほどの愛情表現だったのかもしれない。


私は自分が彼女に感じていたすべての罪の意識をゆるした。
そしてすべて手放すことにした。




母の日本画




翌朝、母のいないアパートにいく。大家さんにアパートの鍵を返すためだ。
母が描いて来た日本画や油絵や着物や食器も、ありがたいことに友だちにけっこうもらっていってもらえた。あとの処分は業者さんにお任せして、私は鍵を返した。

帰りの飛行機の前、時間がまだあった。
「おかあさんとこ、寄る?」
最近は、行きも帰りも高校時代からの友だちの車に乗せてもらっている。
「う~~ん。。。いいや。。」
「なんで?」
「だってえ。。。会いたくないとおもうよ。彼女。。」
といいつつも
「流れに身を任す」
とかなんとか言っているうちに、
友だちは、母のいる施設に車のナビをあわせていた。



母の部屋に顔を出すと、案外元気な顔で迎えてくれた。
「お母様、昨晩も今日もごはんを召し上がられなかったんですよ」
スタッフの方が心配して顔をだしてくれた。
「徐々になれてくとおもいます。気長によろしくおねがいします」

「お味噌汁、おいしかった」
と、彼女。
「え!ああ!そうですか!ああよかった~。心配してたんですよ。おいしくないんやろか~って」
スタッフさんも十分気づかってくれている姿がうれしい。


施設はいつも彼女が朝食べていたものに出来るだけあわそうとしてくれていたが、彼女は頑として断る。しばらく押し問答していて気がついた。

彼女は本当にここにきたのだ。ここにきたからには、ここのルールに従う。
そういう覚悟がはっきりとみえた。



帰り、彼女に呼び止められた。
「なに?」
「いってらっしゃい」
彼女は手をふった。

「はいっ。いってきま~す!」
私も手をふり返した。
それはあのアパートでいつもやっていたように。


もうここは彼女の家になった。



絵:上/母の油絵
  下/母の日本画




2019年12月11日水曜日

母の決心2

母が描いた日本画 ヒメジョオン
翌朝、母のアパートに行く。


三日連続で彼女の妹がやってきて、アパートにあった茶箪笥、鏡台、螺鈿入り漆塗りの座卓、自転車、絨毯、椅子、花瓶、漆器、お重、鞄の数々を持っていったらしい。

すこし空間が開いた部屋に、すこしだけ小さくなった母がわらって迎えてくれた。


六畳の部屋のまん中に、四つの衣装ケースと縦長の籐のタンスと布団。
それだけが彼女のすべての持ち物となった。


「お茶、入れよか。お急須は?」
「ない。妹が持っていった」
「お急須まで!?」
2人で大笑いする。
母と2人だけで過ごす最後の時間に、暖かいお茶はなかった。仕方ない。コンビニでペットボトルのお茶買って来よう。


お茶を習い、お茶の味に精通し、長年仁淀川の近くで取れる高級な緑茶を好んで飲んでいた母。毎年そこの新茶を送ってくれ、私もその味に親しんでいる。そんな彼女であるにもかかわらず、もう高級茶葉を名残惜しむ様子はない。彼女の覚悟が一瞬見て取れた。



父との離婚後、30年間住んで来たこの部屋を引き上げる。
今日一日で事務的なことをすべて終らせ、明日彼女は施設に向かう。


はじめは私とダンナで一週間ぐらいかけて、この部屋の処分をするつもりだった。
だがケアマネさんが機転を利かせてくれ、業者さんに一気に処分してもらう手はずを整えてくれた。そういう例をたくさん見て来られた方は、その判断が早い。遠くにいる身内の状況をよくわかってくださっているのだ。

ここまでの道のりを作ってくださったケアマネさんには、本当に感謝している。母のことで、彼女にはずいぶんとご苦労をおかけした。
地元を遠くはなれて住む娘には、じっさい何の力も持ち合わせていないことを思い知る。介護の人々の支えがないと、私たちはまったくここまで来れなかった。




母はいわゆるお嬢様だった。
「世が世なら、あなたはお姫様」と言われたらしい。
それがどういう意味なのかは置いといて(笑)、県庁に勤めるまで、彼女は「お金」という存在を知らなかった。浜まで出るのに、他人の土地を踏まずにいけた。360度見渡すかぎり、自分の土地だった。屋敷にある蔵の階段は大理石、築山にはいつも美しい花がきれいに手入れされていた。
没落貴族。その言葉がよくにあう彼女。


アパートに残っていたありとあらゆる高級品はすべて捨てていく。
着物、食器、漆器など、一切持っていかない。
「これ、ほんとに全部捨ててええが?私も持っていかないよ」
「えい。全部いらん。もう十分楽しんだ」

自分が描いてきた絵までもいらないという。
その中でたった一枚だけとりあげた。それは果物が描かれた絵だった。


「美味しいものがいっぱいあるから」

美味しいものが大好きで、それを極めて来た彼女。
その彼女がこれから人が作った料理をいただき生きていく。
ゆいいつもって行く果物の絵の中に、その心の救いがあるのだろうか。


母が描いた油絵




海に面した小高い丘の上に、その施設はあった。
古いけれど、だいじに丁寧に使われている。山の上のロッジのような内装。中庭には花壇もあった。
母の絵は何枚か気に入られて、もらってもらった。
なによりもほっとしたのは、施設で働く人々がとても感じのいい人たちだったことだ。



施設に着いた彼女は毅然としていた。
元貴族の風格は今でもある。まるで武士の妻のごとくその帯に懐刀をしのばせ、いざとなったら死をも怖れぬ覚悟を持った母。
泣き言は一切言わなかった。

施設では2人部屋。

これからどんな生活が待っているのか。
つづく。。。




絵:上/母の日本画(賞を取ったもの)
  下/母の油絵


2019年12月10日火曜日

母の決心

母が描いた日本画/ケイトウ



「今月中に引っ越すことになりました」
高知の一人暮らしの母の支援をしてくれているケアマネさんから11月中頃電話があった。

ついに来たか。。。

母は30年前父と離婚して以来、ずっとアパートで一人暮らしをしていた。
今年3月、父の一周忌で高知にもどったとき、母のケアマネさんから聞いた。
「お母様は施設に行かれる決心をなさいました」

その言葉を聞いたとき、胸にぐっと来るものがあった。
どれだけ彼女のことを考え続けて来ただろう。いつか彼女の面倒を見なければいけない、どうにかしなかればいけないと。。。

ニューヨークで仕事が軌道に乗って来た頃、彼女は仕事をやめていた。それ以来彼女に仕送りをしてきた。帰国後だんだん私の仕事が減っていく。毎月の彼女の仕送りのためにバイトも始めた。じつは離婚した父から法的に彼女への生活費の支給が出来ることも知っていた。しかし父はその後再婚している。最後までその言葉を言い出せなかった。「わたしがなんとかする」と。

しかし実際、わたしにはなんともできなかった。
彼女は9年前にある難病が発見され、からだが徐々に動かなくなっていた。
母をここ高尾に呼ぶか?と考えるたびに心が苦しくなる。
この家に母を迎え入れたのち、どうなっていくのかはたやすく想像できた。彼女の日々の行動へのサポート、およびダンナからのサポート、病院通い、先の見えない現実に心が互いのストレスへと発展して行くさまが見てとれた。やがてうちでは面倒見切れなくなり、母は生まれ育った故郷からほど遠い、どこかの施設に送られていくのだ。
そう思うと、心は踏み切れなかった。



「さいきん高知に帰るときは、いつも悲しいなあ。。。」
真っ暗な海から着陸態勢に入った飛行機の窓から見える高知の小さな明かりが、心をキュンとさせる。
父の入院、手術、遺言、葬式、49日、初盆、一周忌。
そして今、私は母を施設に入れに行く。
初老になってから、大好きな高知に帰る時はいつも悲しさがともなう。
ゆいいつ高校時代の友だちとおいしいものを食べる時だけが救いだ。

高知に帰るときいつも使うホテルがある。母のアパートのすぐ近くにあり、こぎれいで心地よいホテル。最低限のサービスだけど、ベッドは心地よく静かだ。私はこのホテルの部屋でどれだけ泣いただろう。どれだけ考えただろう。時には仕事を持ち込んで、ここでスケッチをしていた。
そんなホテルとも今回でお別れだなあとおもいながらチェックインする。
するとホテルマンにいわれた。
「いつもご利用ありがとうございます。じつは今年いっぱいでこのホテルを閉じます」

あいた口がふさがらなかった。

すべてが消えていく。
そんな言葉が浮かんだ。

つづく。。。かな?




絵:母の日本画「ケイトウ」


2019年11月20日水曜日

聖地巡りの記憶その2



私はそこでこの人生始まって以来、一度も味わったことのない
「音のない世界」を味わった。
全ての生命の息吹が消え、風の音もない世界。。。

音のないものがどんな感覚かわかるだろうか。
私たちは音によって、自分と他の物質との距離を測っている。
すぐ近くで聞こえる音、遠くで聞こえる音。
音があることで、私と他人、私と岩、という分離を感じられるのだ。

こんなことの気づきは、今になってわかることだ。その当時はただ「ひえっ!音がない!んでもって、何もかもがピッタリくっついてる~~」と言う驚きしかなかった。


私は物質と私の距離がまったく感じられなくなっていた。
すべてがくっついている。

肌にくっついた空気もビッタリ張り付いている。というよりも、それはつまり、私のからだと空気という境界線がなくなってしまったというべきか。だからその空気の向こうに見える岩も私の延長。すべてが濃厚に、空気さえも濃密につながっている感覚に圧倒される。それはまさに、すべてが一体となった感覚だった。

そしてそれとともに、ある感覚が迫っていた。
それは「私は愛されている!」という確信だ。

あの大国主神の感覚と言うのとはちがっていた。あのときは人物としての誰かがいた。しかしデスバレーのそれは、誰かという固有名詞がついたものではない。
人でもなく、何かの生き物でもなく、まったく物質として存在していない何か。。
あえていうなら、それは「神」というべきか。
とてつもなく巨大な神に包まれて、、、、いや、包まれているのかどうかもわからない、一体となったというのか。その感じが、もうどうしていいかわからないほどに幸せで幸せで、40歳の私は、乾いてひび割れた大地を、子どものようにコロコロと転げ回った。



「五感と言うものが、ぼくらに分離があるように見せているのではないか?」
その時感じたことをダンナに話すと、そう言った。

音楽家である彼なら、音の存在がどんなものであるかわかっているのだろう。
たった1つの感覚が消えただけで、ここまで分離感が消えてなくなる。

私たちが神を感じられなくなったのは、この五感にあまりにも頼りすぎているからではないだろうか。デスバレーでの出来事は、そのことを教えてくれていたのかもしれない。五感というスクリーンの中で展開するものにだけに夢中になってしまった私たち。賢人たちのいう、「見を弱く、観を強く」とは、そのことを言っているのだ。

その見えることを、聴くことをやめた時、そこに本来存在している神が、そしてまた神の子である私たちが、現れてくるのではないだろうか。デスバレーの一件は、その窓が一瞬開いて、真実をかいま見せてくれた瞬間だったのではないだろうか。




2004年に日本に帰って高尾山のふもとに住み、私はまた密かな聖地を探していた。
だがパワースポットで有名なこの高尾山でさえ、私の聖地は見つけられなかった。

出雲に行き、伊勢神宮に出向き、デスバレーに行き、エジプトでシナイ山にのぼり、ギザのピラミッドに入り、イギリスでストーンヘンジを見、セドナでボルテックスに会い、ハワイでヘイアウに出向き、沖縄で聖地を巡る。。。
どこに行っても、そのつどふしぎな体験をした。けれどもどこに行こうが、やがてその時の感覚は失われていく。あるときから、どこに出かけようと同じだと気づく。

聖地で神と出会う時、なにかとつながるとき、涙が出るほど幸せを感じる。でもそれはやがて消える。それはまるでケーキを食べているときはうれしいが、食べ終わってしまうと、うれしさが消えるのと変わらなかった。私はケーキを食べ続けられない。それと同時に聖地には行き続けられない。

これは本当のしあわせなのだろうか。
永遠に幸せであり続けられる聖地などあるのだろうか。

私は外に幸せを求めて歩く、外依存症に気がついた。
そして聖地を求めることは卒業していった。



しだいに私の目は、外をみることから、内をみることに向かうようになっていった。
デスバレーでの一件は、私に多くのヒントをくれていた。
外にあるものではない。私の内側に何かがあると。

それはこうして百回近く聖地を訪れ、
その時々で体験したことがあったからこそ行き着くことなのだ。
そのことを教えてくれた世界の聖地に感謝する。

そして

聖地は、外にあるのではなく、
私の中にあるのだ。



絵:「天狗舞い」




2019年11月19日火曜日

聖地巡りの記憶その1



聖地巡り。

この言葉がまだここまでポピュラーでなかった頃、私はずっと聖地巡りをしていた。


大地にはところどころにエネルギーが凝縮しているところがあり、そこから出てくるエネルギーが人や自然に影響を及ぼしていると、どうしたわけか根拠もないのに真剣に信じていた。

私の中に、世界を放浪しながら大地を調節していく誰かのイメージがあり、その記憶を辿るように、聖地を探し求めていた。
どこが本物の聖地か、まだ知られていない聖地があるはずだと、あやしげな古い本など、ありとあらゆる本を読みあさり、地図を広げ、地形を調べ、その知識を増やしていった。


日本の神社仏閣は、その場所を知っており、その時代時代にそこに建てられたとおもわれるふしがある。弘法大師もじつはそれを知っていたと言う話しだ。
西洋ではおもに教会のある場所。あるいはある特定の山であったり、谷であったり、ときにはなんでもない場所であったり。あらぶる大地のエネルギーの調節に、人類の平和のために、そしてこの地球のバランスを保つために、その場所は守られなければならない大切な場所であった。


私はその聖地に無性に惹かれて、ダンナと一緒に、時には一人で、その場所をひたすら訊ねて歩いた。
ニューヨーク生活中、マンハッタンの中に、その近郊に、密かな聖地を見つけ浸った。聖なるものととつながったと言う感覚や、ふしぎなビジョンを見た時には、なんともいえない高揚感があり、至福の中でただただその時間を味わっていた。


そんな聖地巡りの中で、際立った記憶の場所がある。

それは出雲大社に出向いた時のこと。
大社の中に筑紫社という社があった。

余談だが、母が最初に私の名前につけた漢字は「筑紫」であった。しかしその当時当用漢字でないものは使えなかったので、父が役所から帰って来たら「築紫」と言う、ふしぎな誰も読めない漢字になったという笑い話がある。

話しを元にもどして、その社には大国主神の妻がまつられている。
私の名前の由来である国。なんともいえない縁を感じた。

出雲大社から帰る電車の中で、いきなりある存在を感じた。
それはさっきまでいた出雲大社の主、大国主神だった。
見たこともないのに、なぜわかるかって?それは理屈を飛び越えているのさー(笑)。

さて、左背後からやって来たその存在は、私を包み込み、あっというまに私とひとつになった。強烈なエクスタシーがやって来て「私は大国主神に愛されている!!!」というたしかな確信が、まわりの空気全部を包み込んで押し寄せて来た。

車窓から見える景色はすべて美しく、愛されている自分への愛おしさが絶頂感ハンパない。胸のドキドキが止まらない。ここまで恋愛感情が高まったことは、かつて人間様のとの中でもあっただろうか。さすがに神さま恋愛はすごい!

その強烈な大恋愛劇を味わうとなりで、
ダンナはうつらうつらと舟を漕いでいた。




アメリカのデスバレーに、ふしぎな場所がある。
「動く石」がある場所だ。

そこに行き着くにはでこぼこ道を四駆で走らないと行けない。
けれどもどうしても行きたい場所だった。
からだが壊れるかとおもうぐらいガンガンに車にゆさぶられながら行き着いた場所は、
ただただどこまでも続く、だだっ広い平らな茶色い大地と、
各々すきな方向に向かって転がる、謎の小さな「動く石」たちと、
その真ん中にぽつんと横たわる大きな岩があるだけの、
命の息吹ひとつ感じられない、本当に何もない世界だった。

私はここで「音のない世界」とはどんなものかを知った。

さて、続きはまたこんど。




絵:「インディアン」



2019年11月12日火曜日

投影ってすごい!



投影。
この言葉は私たちを悩ます。

目の前の人に腹を立てているのに、それが自分の鏡だと?
ありえない!そんなわけない!

理屈ではわかる。
他人が他人にやっているのを見ると、
「なるほど。確かに投影や。ぐふふ」とか笑える。

そやのに自分のことになると、からきしわからん!

何であんなにボケかますAが、私の鏡なのよ~~~。
あたしはちゃんとしてる!あんなアホちゃう!

Aはぽかんとしたところがあって、こっちが注意してないと、とんでもないことしでかす。だから今日も見張ってる。ああ、またやらかした。。。
これだからほんとにあいつは~~~。。



庭で草刈りをしていた。
どうも草刈りをすると降りてくるらしい(ジョーダン)。

「あれ。。。?あれ。。。?え。。。?。。。
え~~~~~っ!!!!!
あたしやん!あれ、あたしやん!
そのまんま、あたしやん!!!
うわうわ。どないしょ~~~っ。
あいつのせいじゃないやん!いままで彼になにやってきたんや、あたし~~っ!」

自分がその「ボケかます張本人」だとおもっていたことに、
なんでかしらんが、
何の脈絡もないのに、いきなり気づかされた。


コースは言う。
自我は、投影という精神力動を使う。自分が罪悪を持っていることがきついので、他人にそれを押し付け、その罪は他人のせいだとして、とがめ続ける。
これこれ。そのまんまや。

自分はぼけっとして、へまばかりするから、それを見はってないといかん。。。
っていうのを、
Aはぼけっとして、へまばかりするから、私が見張ってないといかん。
となるわけだ!

そういう色眼鏡で彼を見ていた。
ほんとはそんな人ではない。
ただ私がそう見ていただけやった。。。

こっ、、、これが投影かあ~。。。
すごい。。。
こんなふうに、この世界を自我の視点が見せているのだな。
そしてあれこれ問題を見つけさせて、ずっとこの世界に取り込まれるようにしむけているんやな。。。



始まりは、私の両親からの罵倒だっただろう。
「なにをしよらあ~!あほか!」
「なにしゆうがぞね、つくし!」

その度ごとに、からだが縮み上がり、何を自分がしたのかもわからず、ただただおびえていた。そこから「私は何しでかすかわからない人物」と言うレッテルを自分に貼ったのだった。
そして絶えず自分を見張ってないと、何しでかして、たいへんなことが起こるかわからない。だからずっと見張っていようと。。。

それをそっくりそのまんま、Aに当てはめていたのだ。自分では持ちきれない罪の意識を彼に押し付けたのだ。見張ってさえいれば、たいへんなことは起こらないと。




その心の仕組みの謎がとけたとき、そんな自分をそっとゆるした。
もちろん彼もゆるす。。。
いや、ゆるすなんておこがましい。
そもそも、彼は何もしてない。
むしろこっちが「すまんかった!」やで!



今日もまた、ひとつの投影に気づいた。
わたしはきょうだいに救われていく。

ありがとう。

心でそっと感謝する。



絵:雨の杉林


2019年11月4日月曜日

恐れの花



フッと、小さな不安が心にあらわれる。

「あっ、、そうだ。あれやっとかなきゃ。。。」
心に浮かんだ不安なものに吸い寄せられる。

そこから次から次へと恐れが引きずり出されて、その不安を解決するために、私は奮闘する。

これが私に繰り返されて来た恐れだ。
私はその不安の種に気がついた。

小さな種がまかれる。
自我によって。

それに私が水をかければ、見る見るうちに芽を出し、育ち、花を咲かせる恐れの花。
私はその花に魅了された。
この花は保っておくべきだ。なぜならそれはとても魅力的だから。
なぜならそれは、この世を魅了させつづけるから。


恐れがこの世界を持続させる。
世界の目的は、怖れ/問題を保持することにある。




朝起きると、フッと小さな恐れの種があらわれる。
私はそれに水を掛けない。

現れては、水を掛けない。

それでも知らぬ間に水を掛け、芽を出させ、花を咲かさせる

恐れの中に埋没して、外に現れた問題を外で解決しようとして奮闘する。
しばらくたってそれに気がつく自分がいる。

それでもいい。

まだ心は赤ちゃんのままだ。
幼い子どもが、心の使い方を知らないだけだ。

これからじょじょに大人になっていこう。




絵:ほたるぶくろとどくだみ


2019年10月30日水曜日

自我の誘惑


「あいつはぜったいゆるせない」
彼女の怒りは頂点にたっする。

話しはその怒りをきっかけに、女性のエゴについて、男社会について、この社会の不条理についてと、どんどん発展していく。

彼女は正義感が強い。正しいことと、まちがっていることがはっきりと別れている。その割に仕事に失敗が多い。それはあまりに正しいまちがっていると言うことに固執するからなのだろうか。




つい最近まで、私はつねに自分がまちがっているかもしれないということにこだわってきた。
まちがいを犯す自分を恐れていた。
その恐怖におびえて50年以上過ごして来たのだが、それが自我の誘導であったのを知る。

私の中に住む自我は、私に「まちがい」を吹き込んでいたのだ。
それは私がこの世界に怖れおののくための手段だった。



恐れが、この世界を維持している。
自我の目的は、この世界を問題あるものとして維持することにあった。なぜなら自我は恐れと一体だからだ。自我は恐れがないとその存在を維持できない。

だから私たちの心にその恐れを吹き込む。
私には「お前はまちがっている。。。」と、ささやく。

そのささやきを聞いた私は、
「あっ!やばい!またなにかやってしまった!」
と、あわてて問題を見つけ、それを解決するのに躍起になる。
じつはそれがこの世界を維持させる武器だったのだ。


私はそのささやきを信じ、その「まちがい」を見つけることに魅了された。
いつのまにか、私はその自分のまちがいを「見たがっていた」のだ。。。!

つねに探し続ける自分のまちがい。あそこにもここにもある。探せば探すだけある。それは無限なまでに。その魅力にとりつかれていた。

「あれ。。?あほちゃう?わたし。。。。」
もう、見たくないとおもった。
もう金輪際、こんな馬鹿げたゲーム、やりたくない!とおもった。

だから聖霊に捧げた。
もういりません。この考え。あなたに捧げます。取り消してください!



それからそのクセは徐々に消えはじめた。消えれば消えるほど、軽くなった。
それでも段階があるのだろう、ちょっと楽になっては、またもとに戻る。相変わらず自分のまちがいを探す自分に気づく。

50年間ついてまわった癖は、そう簡単には取れないようだ。
深いわだちがある道路から、平らな道路にタイヤを移行させる、または右利きを左利きに変えるぐらいの難儀さがある。
それでももうこれは必要ない。この魅力はもう魅力じゃない。
気がついてはそれをやめ、気がついてはそれをほおっておく。




冒頭の彼女は、怒りを抱えている。怒りは恐れから来る防衛。彼女もまた恐れの中にいる。自分の中に恐れがあると、人はそれに耐えられない。その恐れはどうにかしてなくさないといけない。
その恐れに対抗するには、怒りという防衛手段をとった。
彼女は怒りを外に向けることによって、恐れを防衛している。



私は恐れを自分のまちがいを正すことによって回避できるとおもって来た。
彼女は自分の中にある恐れを、他人を責めて攻撃することによって回避できるとおもっている。

彼女もまた、彼女の中に住む自我のささやきを聞いている。
「ほら。またまちがいを犯すヤツがいるぜ。攻撃しろ」と。
そうやって延々と消えるはずのない戦いを挑んでいる。


その姿を見るということは、その意識は私にもあるのかもしれない。
だから彼女を見ているのだろう。
きっと自我の私はそれが見たいのだ。


自我の誘惑がちょろちょろと頭をもたげる。
「この世界は残酷だぜ。。。」と。
だがそれには乗らない。


心は、ただその場をゆるしていくことだけに捧げた。