この橋の上で。写真は去年1月まだ父が生きていた頃。
先日、高知で母の引っ越しの準備をするために、あちこち行ったり来たりしていた。
鏡川にかかる橋の上で、対岸のビル群を見ながら思った。
「ああ。。この見えている世界の中に、何一つ救いはないのだ。。。」
その言葉がよぎった時、
私は全身の力が抜けると同時に、なんとも言えない解放感と、深い安堵が広がった。
「もう、、、どこも探さなくていいんだ。。。」
私たちは心の救いや癒しを世界に求める。
どこかにあるはずだ。どこかにその兆しがあるはずだ。この世界を探せば、きっとどこかに私を救ってくれる何かを見つけるはずだ。。。!と。
そうやって何十年も探し続けた。聖地に、巨石に、文献に、人に、思想に、精神世界に、、、。
私はずっと外に探し続けた。自分の外にあるものに。
そして今、鏡川の上で、この、今見えている世界には、
その救いは何もないことを知った。
(高知にないって話じゃないよ)
その救いは何もないことを知った。
(高知にないって話じゃないよ)
見えている世界は、私の心が現れたものだ。
つまり今見ている世界は私の自我が反映されたもの。
自分で抱えきれない恐れと罪を、自分から突き放して投影させた。
その恐れと罪の形の中に、いくら救いを求めても、そんなものありはしないことを、
なぜ今まで気がつかなかったのだ。
つまり今見ている世界は私の自我が反映されたもの。
自分で抱えきれない恐れと罪を、自分から突き放して投影させた。
その恐れと罪の形の中に、いくら救いを求めても、そんなものありはしないことを、
なぜ今まで気がつかなかったのだ。
「あるわけないじゃん!」
私は橋の上で、ひとりツッコミをしていた。
私たちは人生がうまくいかないと、うまく変わるようにあらゆる努力をする。
ところが一瞬変わったように見えても、また問題が浮上する。
そしてその問題に取り組み、変えようと努力をする。
ほんとうは、現れているものをなにひとつさわらなくていい。
なにも変えなくていい。
なぜならそれは、ただ結果が現れているだけなのだから。
なにも変えなくていい。
なぜならそれは、ただ結果が現れているだけなのだから。
普通は問題があるから、それを変えようとする。
問題(原因)が先にあって、変える(結果)ことをする、というふうにおもって来た。
問題(原因)が先にあって、変える(結果)ことをする、というふうにおもって来た。
しかし本当は現れているものは、結果に過ぎないというのだ。
問題は原因ではなく、結果なのだと。
問題は原因ではなく、結果なのだと。
そもそもの原因はなにか?
心だ。
最初に心の原因があって、それが結果としてこの世界に現れる。
だからこの世界に原因を求めることは不可能だ。もともとこれはすべて結果なのだから。
では問題はどのように解決するのか。
それは見方を変えることだ。
今まで現象に対して、同じ解釈、同じ反応をしていた自分の、見方を変えていくことなのだ。
同じ反応に気づき、
もうその今までと同じ反応はしないと決めること。
そして別の見方をしたいと切に願うこと。
橋を渡りながら考えた。
私はこの高知でありとあらゆる価値判断を育てて来た。
生まれて知る世界、そして学校。小学校、中学校、高校。。。
ほぼ今の自分を作った基礎の部分をなしている。
そしてその価値判断が私を苦しめているのも事実。
ならば、この地で、この考えを培って来たのだから、
この地で、それを解体する!
強い決意を持って、私は橋を渡り切った。
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