母が描いた日本画/ケイトウ
「今月中に引っ越すことになりました」
高知の一人暮らしの母の支援をしてくれているケアマネさんから11月中頃電話があった。
ついに来たか。。。
母は30年前父と離婚して以来、ずっとアパートで一人暮らしをしていた。
今年3月、父の一周忌で高知にもどったとき、母のケアマネさんから聞いた。
「お母様は施設に行かれる決心をなさいました」
その言葉を聞いたとき、胸にぐっと来るものがあった。
どれだけ彼女のことを考え続けて来ただろう。いつか彼女の面倒を見なければいけない、どうにかしなかればいけないと。。。
ニューヨークで仕事が軌道に乗って来た頃、彼女は仕事をやめていた。それ以来彼女に仕送りをしてきた。帰国後だんだん私の仕事が減っていく。毎月の彼女の仕送りのためにバイトも始めた。じつは離婚した父から法的に彼女への生活費の支給が出来ることも知っていた。しかし父はその後再婚している。最後までその言葉を言い出せなかった。「わたしがなんとかする」と。
しかし実際、わたしにはなんともできなかった。
彼女は9年前にある難病が発見され、からだが徐々に動かなくなっていた。
母をここ高尾に呼ぶか?と考えるたびに心が苦しくなる。
この家に母を迎え入れたのち、どうなっていくのかはたやすく想像できた。彼女の日々の行動へのサポート、およびダンナからのサポート、病院通い、先の見えない現実に心が互いのストレスへと発展して行くさまが見てとれた。やがてうちでは面倒見切れなくなり、母は生まれ育った故郷からほど遠い、どこかの施設に送られていくのだ。
そう思うと、心は踏み切れなかった。
「さいきん高知に帰るときは、いつも悲しいなあ。。。」
真っ暗な海から着陸態勢に入った飛行機の窓から見える高知の小さな明かりが、心をキュンとさせる。
父の入院、手術、遺言、葬式、49日、初盆、一周忌。
そして今、私は母を施設に入れに行く。
初老になってから、大好きな高知に帰る時はいつも悲しさがともなう。
ゆいいつ高校時代の友だちとおいしいものを食べる時だけが救いだ。
高知に帰るときいつも使うホテルがある。母のアパートのすぐ近くにあり、こぎれいで心地よいホテル。最低限のサービスだけど、ベッドは心地よく静かだ。私はこのホテルの部屋でどれだけ泣いただろう。どれだけ考えただろう。時には仕事を持ち込んで、ここでスケッチをしていた。
そんなホテルとも今回でお別れだなあとおもいながらチェックインする。
するとホテルマンにいわれた。
「いつもご利用ありがとうございます。じつは今年いっぱいでこのホテルを閉じます」
あいた口がふさがらなかった。
すべてが消えていく。
そんな言葉が浮かんだ。
つづく。。。かな?
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