2023年2月26日日曜日

ネジが10本抜けた


 

車の中で信号待ちをしているとき思った。


今にいるってすごいことだ。

明日のことを考えない。未来のことを考えない。

これから家に帰って、あれしてこれして。。。

そういうことを全く考えないことができることを知る。


一瞬先のことを考えることは恐れからだ。

未来のこと、即恐れ。

恐るから、未来どうにかしようと躍起になる。


だが今ここに本当にいるということは、何の心配もしていない。


未来のことを考えていることも今だというけれど、少し違うと思う。

そのことが恐れと一緒にいることに気がつくことが、

今にいることに、近づいている。


本当に今にいるとは、全く恐れがないことだ。

だから未来のことさえも考えつかない。

ただこの今にくつろいでいる。


それをはっきりと教えてもらえる瞬間が、

自分に来るとは思ってもいなかった。


今は確定申告真っ最中、

町会の仕事も山積み、聞き取り調査で町会をウロウロ。

しかも仕事もなし。一体仕事はいつ来るのやら。

なのに私は呑気にプールで泳いで帰ってくる最中。


どこかのネジが10本ぐらい抜け落ちた。


ああ、大丈夫だ。

このまんまでいーんだ。

頭真っ白でいーんだ。


意図的に考えなくできる。

それは自分の人生への信頼感。


罪悪感が減っていくほどに、

心の中の考えに意味がないことに気がついていく。

あしたのジョーをやる意味がないことに。


心の中の考えをよく見ると、ほとんどが恐れからくる考え。

これこそ、何の意味もない考え。

だけどそれに気がつくことから始まる。

恐れからくる考えは、いくら考え続けても、恐れに到達するだけだ(笑)。


赦しという呼吸法は、その罪悪感という恐れを少しづつ消していく。






私たちは常に「あしたのジョー」を生きている。


明日のためにその1。

明後日のためにその2。

明々後日のためにその3。


路頭に迷わないために、人に迷惑かけないために、

ひたすら今じゃないどこかに向かおうとしている。


じゃあ、考えなければいいじゃないかと。


冗談じゃない。

考えなくできることなんてできない。

5秒と持たないだろう。


心は絶えず考えている。ひたすら考えている。

まずはそのことに気がつかないと。


自我はうまくそれをごまかして、そこに向かわせないようにさせる。

他に気を散らさせる。

それは自我そのものが恐れでできているから、その恐れを見られることを拒む。


だがその恐れこそ、自分で見なければ、そこにあるものを知ることができない。


自分の体感を通して恐れは気がつく。

不快感、違和感、イラつき、心配。

何を恐れているのか。


赦しという呼吸法は、そこで発揮される。


誰かにイラつき怒る。しかし事実は自分に怒っている。

自分に向けられた怒りが苦しいので、誰かに向かって怒っていることにする。

その時心は私は善人だと思える。


しかしその時、実は自分を傷つけている。

他人と自分は一つであるならば、

怒ることも、責めることも、全て自分に向けられている。


その自分を赦すことだ。

とことん、赦すことだ。


恐れている自分、怒っている自分、不安な自分、違和感を感じる自分。。。

ぜーんぶ、そんな自分を赦すことだ。




で。あの時、一瞬見せてもらったけど、また元に戻った(笑)

でもそれを指針に進んでいくのだー。

ありがとう!



絵:「おぼろ月夜」




2023年2月21日火曜日

あいまい


 

最近見るドラマが、なんかおもしろい。


お化けを見る人、同じ人生を何度も生まれ変わる人、耳の聞こえない人。



耳の聞こえない人って聞くと、気の毒な感じがしたけれど、

よく考えてみると生まれてこのかた音というものを知らない人は、

そこに何の不自由を感じるだろうか。


それを気の毒に思うのは、

五感があって当然と考えてる私たちのちょっとした傲慢さなのではないか。


逆に、あるべきものがないと知らされた時初めて彼はショックを感じるのではないか。




今度は、お化けを見る人。


一見気の毒に思えるけど(いや、中には羨ましいと思う人もいるかもしれないが)、

それが99%の人が見えていたのなら、そこで気の毒も何もあったものじゃない。


むしろ「あら。あなた。お化けが見えないのね。お気の毒」となる。


だからこれは比率の問題なのではないか?と思ってしまう。



さて五感というもの。


五感って勝手に分けているけど、そもそもそれ自体が怪しい。


「赤色」が、他の人の「赤色」と同じだと、どうやって証明できる?

「これ、赤だよね。」

「うん。これ、赤だよ」

という会話が、どこまで成り立っているかなんて誰にもわからない。


先日会った人は、音に色を見ていた。


「君、今、青色弾いてたけど、僕はここ赤色にして欲しいんだよね~。」

といって、同じバンドのミュージシャンにドン引きされて、

初めて自分が音と色を同じところにみているのを知ったという。


「音がなっているよね」

「うん。なってるね」

という会話が、どこまで成り立っているのか。


お化けが見える見えないも、怪しい。


私は普通にそこに人がいると思ってるし、ふれられるけど、

他の人からしたら、その人は見えてないかもしれないし、

はたまた、見えているけど、

「ああ。つくしは今お化けと会話している。。。」

と、気づいている人もいるかもしれない(笑)。




ふつーに、人生何度目かを生きている人だっているかもしれない。

あっ、そうだ。思い出した。


先日、自分の前世をはっきり覚えている人がいて、

「私、今40歳なんですけど、前世35歳で死んだから、実年齢75歳なんです」という人がいた。




だからこのところのドラマは面白い。

今までとは違う感覚を動員してくれる。


五感は、はっきり分けられるものでも、

そもそも、音というものが存在するのかも、

今この見えている世界は果たして存在しているのか、

マジなのか、マジじゃないのか、

さえもめちゃくちゃ曖昧にしてくれる。


単なる作り話。で済まさず、

もしそうなら、、、と想像するのも面白い。


そうすると、足元が揺るがされる。


小さい時感じていた、

「そもそも地面って硬いって思っているから私は立ってられるんだよね。

これ、地面が柔らかいって思った瞬間、私は地面にめり込んでいく~~~」

と、焦ったことも、

「君。バカじゃないの?」とも言いきれず、

まんざらでもなかったのかも(笑)


だから価値観なんて、どっかに吹っ飛んじゃう。

こうであるべき、こうなることが幸せの形、、、、なんてえものもめっちゃあいまい。

どんな形でも、その人が、正直に、心底幸せなら、それが本当のことだ。



でも幸せは形からやってくるものではない。

反対だ。


幸せの理由はどこにもない。


もともと私たちは幸せな存在。


そこにお化けが見えようが、

耳が聞こえまいが、

人生何度も生きていようが、関係ない。


幸せはもともと私たちが持っている機能。


たとえAIが、全てを支配したとしても、

ゆいいつAIにできないことがある。


それは喜ぶこと。


喜びが私たちの本当の姿なのだ。




絵:ミステリー表紙イラスト




2023年2月19日日曜日

赦しという呼吸法


 

自分の闇/罪悪感を見て、見て、見て、深く降りていくのに、

なんで出口にたどり着くんだろう?って考えた。



深く降りていくことは、自分以外の人たちも、同じように苦しんでいる。

つまり一緒だったと気がつくのは、決して分離ではない。


下へ下へ降りて行けば行くほど、

分離ではなく、ひとつだった。




波の表面にいれば、ずっと分離という形に囚われ続ける。

あなたと波と私の波は違うと。


でもその波はあっという間に別の形に変わる。

一瞬たりとて、「この形が私の波の形」というものが維持できない。


私であったはずの波がいつの間にかあなたの波になっていたりする。


それほど、この波という表層は、絶えず移り変わるのに、

互いの違いを見つけて互いに比較し、戦う。


でもそのせわしなく変わる戦いの波に疲れてきたら、トプンとその下に入ってみる。

するとそこは今まで見た世界と違う世界があった。


恐ろしくなって、すぐに波のところに帰る。

馴染んだ世界だ。絶えず移り変わる比較の世界。そこは息もできる。


しかし水の中に潜ると、まるで違う世界が広がる。

そこは心の中。私の心の中。


荒れ狂う自分の闇。

あいつが悪い。私は悪くない。

このやろう、殺してやる。

あまりにエグい自分に恐ろしくなる。


でも私は赦すという、新しい呼吸方法を知った。


最初はぎこちない。うまく赦せない。

赦し方も形ばかり。赦した気になるだけ。


それでもめげずに他人を赦し、自分を赦すという呼吸法をだんだん習得するうちに、

さらに深く潜ることができ、さらに深く心の中を見ることができた。


ああ、こんな罪悪感があった。

そうだこれも罪悪感だ。

罪悪感の海の中で罪悪感がなんであるかを知り始める。


気がつくと、そばに兄弟の罪悪感を見つけた。


そうだ。彼もまた同じ罪悪感の海で苦しんでいたんだ。

だからあの時、波の表層で、あんな怒り方をしたんだ。


そして自分の恥ずかしさはみんなが持っているものだと知る。

数々の失敗、後悔、葛藤、反省、打ちひしがれた思い、

これだけは誰よりも辛いと思う、惨めな思い。。。

全てはみんなが隠し持っているものだった。

私だけの苦しみじゃなかったんだ。


彼も、彼女も、あの時も、あの自体も。。。。

みんなの思いは同じだったんだ。。。

波の表層では見えなかったものが、ここでは手に取るようにわかる。

みんな苦しんでいる。

たとえ平気そうな顔をしていても。

たとえいっぱいお金があっても。



そこまでくると、赦しという呼吸法は、必要なくなる。

分離が起こっているのは、波の表層の部分だけだった。

肉体があるという思いが、

酸素というものを必要としていただけだ。


そして海の底深くには静けさと絶対的な安心があった。

そこに扉がある。

その扉はその人が持っている罪悪感次第で、

重くもあれば、軽くも開けられるという。



私はそれを開けられるだろうか。

一人ではなく、誰かと。





絵:「MF新書」表紙イラスト


2023年2月17日金曜日

深い淵

 


ここのところ、コケたり、滑ったり、

コケそーになったり(そればっかりやな)する。


このことを通して、自分が老いていくってこういうことなんだ、、、と実感する。


体と頭が一緒に機能しない。

そしてそのことに心はいつも終始する。


この足がどうにかなってくれれば、、、

この体がもうちょっと動いてくれれば、、、

ああ、やっぱり私は御多分に洩れず、

老いさらばえて、人様のご厄介になるのか、、、。



そう考えると、ご近所さんたちのグチの意味がわかる。

年行ったからねえ~。

年には勝てないわ。。。


自分の体の変化を通して、

老いということがどういうことかを知り、その思いを知る。



そして昨日、恥ずかしい思いをして、

ひとしきり悶え苦しんだ。


罪悪感がゆえに、悶え苦しむ。

老いもまた罪悪感がゆえに苦しむ。


体を通して、心を通して、

罪悪感がいかに私に深く浸透しているかを、改めて知る。


その苦しみの深い淵に入っていくほどに、

罪悪感の深い淵に入っていくほどに、

他人だと思っていた人たちが、

実は自分とまったく同じ悩みを抱えて苦しんでいることを知る。


ワンネスって、いっしょって意味じゃないだろうか。


悩みもいっしょ。


ひとりぼっちだ。という思いも、


私は無価値だ。という思いも、


私はここにいてはいけない存在なんだ。という思いも、


みんないっしょだった。



例えば、波の先っちょから見たら、隣の波はみんな別々に見えるんだけど、

波の下に潜っていくと、みんな繋がっていて、

みんな同じ海水だったってわかる感じ?


だからご近所のちっとも空気を読めないオヤジも、

ああ、苦しんでいるんだなあってわかる。


俺を認めてくれ~~~っ!愛してくれ~~っ!

って、愛を求めて叫んでいるのだ。

それは私といっしょなのだ。




心の深い闇をずーっと降りていく。


分離しているように見えているけど、

実はひとつだから、

ぜんぶ同じ。

みんな同じだった。

考えたら、当たり前だった。


そしていとしさや、慈悲の気持ちが溢れてきて、

優しい気持ちになってくる。


自分の弱さはみんなの弱さ。

自分の強さはみんなの強さ。


違っているみたいに見えるけど、本当は思いは同じ。

ひとりぼっちじゃなかった。

誰とも違ってたりしなかった。




そしてなおも深く降りていくと、ハッチがある。


そこにこの深い淵からの出口がある。





絵:「ドイツトウヒ」





2023年2月14日火曜日

幸せへのまわり道

 



心がふさいでいた。

静かではあるものの、絶望を感じていた。

早くここから抜け出したい!と。


そしてふと気になってある映画を見た。


それはアメリカで34年間、子供向けの番組を作っていた司会者のと

それを取材した記者との、実話に基づいたお話だった。


「幸せへのまわり道」

トムハンクス主演の映画。


映像が古いイメージなので、てっきり古い映画だと思っていたが、

その割にはトムハンクスが十分年老いている。

2020年に上映された新しい映画だった。


舞台は1998年ごろのNYとピッツバーグ。

あの頃NYにいた私は、その映像に生々しさを感じる。


ビルとビルの間の狭い路地に固まるゴミ。

デコボコした地面。

地下鉄の落書きは消えているものの、

引っ掻くように窓ガラスに書かれた落書き。

出版社のオフィスの様子。

窓側にあるボスの個別の部屋。

机の上には後ろが出っ張ったパソコン(笑)。

どっしりと重く冷たいNYの街。

私の記憶の中にあったNYがそこにあった。


その中で展開されるトムハンクス演じる、超有名な司会者、Mrロジャー。

私は知らなかったけど。


彼の初めて会う人にさえ、大きな心で迎え入れるその姿を見たとき、私は心が震えた。


毎日大勢の人から相談を受ける彼の、まるで違うものの見方。まっすぐに見つめる目。


すべてを素晴らしいものを見るように見る、その彼の喜び。


見せ場でもなんでもないところで、私は泣いていた。

何が起こっている。。。?



「今、私にとって一番重要なことはなんだと?」

「分かりません」

「ロイド・ボーゲルと電話で話すことだ」


ここで泣いてしまう(笑)


今ということの重要さを、すべてがここに集約されていることを、

どの瞬間も大事だということを、

そしてそれがありのままであることを。


大人は、子供を早く大人にしようとする。

それは消費者にするためだと。


その存在が、そのままでいることを否定する大人の世界。

それを無意識に子供に押し付ける。




彼がいるところ、全てに幸せが広がっていた。

小さな時から彼を見て育ったアメリカの人々。

年老いても彼の思いは心のどこかに残っている。


彼は、老若男女全員の心に、何かを思い出す要石を置いたのではないか。



そう思った時、911の頃のことを思い出した。

私はあの時NYにいた。


あの事件の後、アメリカ中のすべての人々が、優しくなったのだ。

そこには愛が溢れていた。すれ違う人々が、見ず知らずの人々が、

それぞれ互いに思いやりをもって接していた。


彼に触れる人々がそれを思い出したように、

あの時、あまりにも緊張を強いられたあの時だからこそ、

私たちが持っている真実を思い出させる力になっていたのではないか。



すごい仕事を成し遂げた人だった。

アメリカは時々そういう人々が突然現れる不思議な国だ。


彼は奇跡のコースを生きている人だった。


静かな絶望の中で、私はこの映画を見せてもらった。

その後ふつふつと湧き上がる力に、

それまでの悲しさは消えていった。


この世界から抜け出す前に、

やることはあるのだと思い出した。





絵:水滴神