「人は自分が正しいと思うものなのよ。。。」
その言葉を聞いた時、ドキッとした。
ああ、私のことを言っている。
その後「お前のやり方を強要するな!」と怒られる。
自分のやり方だけが正しいと思うなと言われた。
私は自分の正しさと間違いの中で苦しんだ。
先日、誰も間違っていないなどと書いた自分が恨めしい。
ちっともそう思っていない!
二人とも正しい。。。
そういうところに行けない私がいた。
自我の中では、自分が正しいと、相手は間違っていて、
自分が間違っていると、相手が正しいとなる。
しかし後者は、はっきり言って受け入れがたい。
「私が間違っているんだ、、、」とは。
だから心は延々と、
「いや、だから、、、そうではなくて、、、、」
と、言い訳と、正当化で、一人エアー演説を繰り返し、
挙句に、「いや!やっぱり私が正しいっ!!」
と、暴れまくり、
どうにかして自分が正しいはずだ!という決着を探し続ける。
しかしここに決着はない。終わりのない葛藤。
また「人は自分が正しいと思う」という言葉は、
暗に「つまりそう思うあなたは間違っている」と促している。
だがそこに、そう言って発言する私は正しいという、
もう一つの正しさが見え隠れする。
相対的な意見をいう位置に立ちつつも、
相対的な位置に立つ私は正しいということになる。
どのみち、正否を問うものは、どちらも不幸にするのではないか。
だから私は別の見方がしたいと思った。
この「正しいものがいて、間違っているものがいる」
という間違った信念の訂正を聖霊にお願いした。
朝起きても心は晴れなかった。
静かな時間の中、ふとキリストならどう見るのだろう?と思った。
もしここにキリストがいて、これを見るなら、どう思うのだろう。
その時、優しさと温かさが現れ、慈悲の心があふれた。
ああ、正しい、正しくないなど、どうでもよかったのだ。
差異を見る必要もなかった。
誰かに何かをする必要もなかった。
私たちはひとつなのだった。
行きつ戻りつしながら、ゆっくり真実を思い出していきたい。
絵:「飛び石」
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