夢を見た。
夢の映像は友達と一緒にご飯を食べている。
だけどそのシーンとはまったく関係なくメッセージは訪れていた。
それは、すべての兄弟は誰も悪くないというメッセージだった。
人の行為は、その人がそうせざるを得ない信念があるから生まれる。
たとえ他人にひどいことをしても、
そこに至るまでどんな思いで苦しんできたのか、
どんなところまで思い詰めてきたのか、
だからそうせざるを得ないことをした。
たとえチクっと誰かに悪態ついても、
悪態つかざるを得ないほど、
その人は苦しんできたのだ。
その人の中にある信念がゆえに、
そうせざるを得なかったのだ。
過去に一体どんな経験をし、
その時たくさんの信念を持ち、
そのたくさんの信念で、いいか、悪いかを判断し、
迷い、葛藤の中で苦しんできた経緯があるとしたら、
誰が責められるだろうか。
人を責めるのは、自分の中に罪悪感があるから。
自分の中にあると思っている罪の意識が苦しいがゆえに、
それを人に見て、一瞬心をなぐさめる。
しかし人を責めることは、同時にまた自分を責めることになる。
人に罪を見ることは、自分に罪があると、また宣言することになる。
ところが人に無罪を見れば、その瞬間自分も無罪になる。
これが真実。
誰かが何かやったことに対して、他人を責めそうになるとき、
その人がそうせざるを得なかったその経緯を想像してみる。
そして自分に問うてみる。
もしこれを私がやったとしたら、
私は私を責めるだろうか。
想像力は力だ。
一体誰が誰を責められる?
だから、誰も悪くない。
誰一人悪くないのであれば、誰も赦す必要もない。
コースの赦しは、何も起こっていないがゆえに赦す。
この赦しがコースの赦しとつながるかどうかはわからない。
しかしこのメッセージは、私を安堵させる。
絵:「雨の杉林」
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