過去を教訓にして、未来に備える。
これが私が今までやってきたことだ。
それが何を意味するかを考えてこなかった。
それは未来も過去と同じにするということだった。
未来に対して備えることは、
過去の自分自身に起こった出来事や、
誰かの出来事を通して、
そうならないために、またはそうあるために備える。
このことがだんだん無意味なことに思えてきた。
未来を過去と同じにしたくはない。
未来をイメージしたようになって欲しいとは思わない。
なぜかそう思い始めた。
それは、そういう計画を立てると、
心がどこかずしっと重くなったのだ。
過去のことを考えると、心がずしっと重くなり、
そして未来のことを考えても、ずしっと重くなった。
老後は目の前であり、いやまたは、もう老後そのものであり、
あまり未来に明るいものは見えてこない。
このまま老いさらばえて衰えて死にゆく前に
なんとかその体を死の直前にまで快適に過ごさせようと目論む。
その考え自体が、心をずしっと重くさせるのだ。
若い頃だったら、
ああなりたい、こうなりたいと思ったかもしれない。
しかし今の私なら、たとえ若かったとしても、
何も興味が持てる職業はなかった。
今、想像できる私の未来は、すぐ周りに見える。
想像しなくてもすぐ見える。
その見える範疇の中で、
どんなに楽しそうにしようと試みても、
せいぜい牢獄の壁をピンク色に塗るぐらいの気休めだ。
だから過去をいろいろ考察して、未来を考えることをやめた。
それは過去と同じことを見るだけだから。
過去にも、未来にも行けない。
私はどこに行くのか。
それが今だった。
ところがこの「今」というところが一番厄介だった。
じつは今が一番いたくない場所だったのだ!
今が気に入らないから、どうにかしようとしてきたのだ。
もともと今にいたくなかっただけだった。。。。チーン
今から逃げるために、過去と未来という時間の中にいた。いや、時間を作ったのだ。
今というところに、時間はない。
今は真っ白だ。
今日の雪のように真っ白だ。
それはどんなイメージさえも浮かばせてくれない。
だからこそ、未来は完全に未知なのだ。
何が展開するかわからない。
想定外。
過去を追いかけていれば、未来は既知だ。
いとも簡単に想像ができるおぞましい未来。
過去にも行けない、未来にも行けない、どこにも行けない。
もう、今、ここにいるしかないという状態になった時、
なんとも居心地が悪く、まったく今にいれない自分に気がつく。
しかし時間の中にいるのが本当に苦しく、唯一いられる場所が今だったのだ。
だがそこさえも居心地が悪い。
コオさんに質問してみた。
「それは慣れの問題です」と、シンプルな答え。
それは本当だった。
じょじょに今にいることに慣れてきている。
静かだ。
今にいる時、私は未来を解放している。過去も解放している。
私が自分で作り上げていく未来を、
別の存在に手渡している。
私は「自分で」作らない。既知のもので未来を埋めない。
しんしんと降る雪は実に静かだ。
真っ白で静かな今。
今にいる時、私は神と共にいる。
絵:「雪の梅林」
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