2016年4月15日金曜日

展覧会案内『つくし紙絵展』/洋紙、和紙、そして植物



個展の案内状が出来ました~。

今回は、ファンシーペーパーと和紙を駆使して、新たな挑戦をいたします。
今までは和紙を使うことも色をつけることも自分でタブーにしていましたが、去年の個展以来、それを外して制作することが、がぜんおもしろくなりました。

洋紙や和紙に、クレヨンや、水彩や、色鉛筆で、ほんの少し効果を付けることで、ぐっと深みが出ることを発見。ぬったり、切ったり、ちぎったり、、、なんだか描いていると言うよりは、触覚で制作している感じがします。

今回の絵のテーマは植物。
高尾にある植物をじかに見て触れて描いてみました。人物と植物のシリーズも。

そして今回は、今までこのブログで好きなよーに書いてきたことを、しゃべってみます!ひゃ~!はずかしー!
ひょっとしたら、何も喋られないかもしれません(笑)。。
いったいどんなことになりますやら。。。。

8日、日曜日の、午後3時から、1時間半ほど喋ります。
つくしの大失態も含めてw、ご興味もある方は、ぜひおこしください!
入場無料です。

初日、7日(土)、ささやかではありますが、オープニングパーティを開きます。

どちらもお気軽にお越し下さい。

期間中、つくしは毎日午後1時頃から画廊にいます。
みなさまにお会いできる時をたのしみに!


『つくし紙絵展/洋紙、和紙、そして植物』
開催期間:2016年5月7日(土)~5月13日(金)
開催時間:11:00~19:00(最終日は17:00まで)
開催場所:もみの木画廊
〒158-0083 東京都世田谷区奥沢6-33-14
もみの木ビル201
tel:03-3705-6511
home.catv.ne.jp/kk/mominoki/



あたまの中の出来事


朝、コタツに入りながら、窓の外の風景を見る。
庭の樹々の新芽についた朝露が朝日にあたってまぶしい。

ここには私しかいない。
私と、コタツと、庭の木々。
インスタントコーヒーを飲む。鳥のさえずり。時々聞こえる電車の音。

静かだ。
だけど心の中はいそがしい。

きのうあんなことを言ってしまった。あの人はどう思っているのだろう。言わなければよかった。私はどうしてあんなことを言ってしまうのだろう。やっぱり自分を認めてもらいたいからか?まだ認めてもらいたがっているのか?小学生じゃあるまいに、何を大人になってまで人に認めてもらいたがるんだ。ああ、なさけない。。

そうだ。九州に地震があったんだ。九州に友だちはいないけど、友だちの実家だよなあ。電話した方がいいんだろうか。心配だよなあ。ああ、他人事じゃないぞ。どこもいつだって危ないのだ。どうしよう。何か対策を練らなきゃ。。。

今日はご近所さんのお通夜だ。ああ、お香典。。。展覧会の出費が多いのに、ここでの出費はきついなあ。。。出るのやめようかな。でもでないとまわりに何言われるかわからんし。。。。お香典にさえも悩む自分がなさけない。。。


まわりは満ち足りている。
コーヒーの味、鳥の声、樹々のきらめき、コタツの暖かさ。
脳内だけが騒いでいる。心配、恐怖、そしてまた心配。

ここには私しかいない。だけど心の中には、つねに誰かといる。目の前にだれもいないのに、だれかさんのことを考え、悩み、苦しむ。

私たちは、こうやってあたまの中の出来事に没頭する。
誰かに認めてもらいたがり、自分の正当性をうったえ、いつか起こるかも知れないことに悩み、策を練る。
どれもいつも自分を守るために。

心配の種を安心に変えるために、策を練っても安心しきれない。
それが出来ても、次の瞬間
「でももし、こうなったら?いやいや、これだけじゃたりない。。」
そういって、また次の策を考える。
他人に認めてもらえても、一瞬ホッとし、そしてまた認めてもらいたがる。
延々と続くこの脳の中の出来事。エンドレスの不満足。



でもこの今の瞬間、満ち足りた世界が目の前にある。

ただ、私はそれを見ていない。


2016年4月13日水曜日

過去に死ぬってこうゆうこと?


ダンナにちくりとイヤなことを言われる。
なんだってえ?
なんでそんなこと言われなきゃいけないのよ。
あんただってそんなこと言える立場じゃないのに。
だいたいあんたはねえ。。。。

あたまの中がおおさわぎする。
売り言葉に買い言葉。
こっちが正しいことの説明。
あっちがまちがっていることの理由。

全部エアー。
あたまの中でエアー演説。

ふと、そのちくりと言われたことがなかったら、こんな思いになってなかったことに気づく。

あのちくりがなかったら、こんな気分にならなかったのに!
とはじまる。

あのたった一言があるだけでこんなに不快になっているんだ私。。。。。
たったあの一言だけで。。。。

あの言葉を聞く前は、私はすごく静かな気持ちだった。
あの言葉を聞いたとたん、すごくイヤな気分になっている。

そして今は?
あの言葉はもうここにはない。
一回聴いただけだ。


それに気がついたとき、その前の静けさが戻っていた。

「過去に死ぬ」
クリシュナムルティがよく言ってた言葉だ。


私は一瞬聞いた言葉をだいじに持ち続けていただけだったんだ。
だいじにもって、ずっと不快さを味わっていただけだったんだ。

たったそれだけで、人は苦しむ。
今目の前にないのに、あたまの中でずっと持ち続けて苦しみ続ける。

すこし前のことに次々に死んでいけば、つらかったことも、ことごとく消えていく。

次々に自分の過去に死んでいけば、「私」と言うアイデンティティも消えていくのだろう。


ほんの一瞬の気づきに、心は開きはじめる。


2016年4月3日日曜日

ここが濃厚になる



ただウグイスの声を聴く。
ただキーボードを叩く感触を味わう。
ただ肩の痛みを味わう。
おとなりさんが開ける雨戸の音を聴く。
ただイスとお尻が出会っている感覚を味わう。

ここにいるとはこう言うことか。

わたしたちは意識をちょっと先にむける。
「これが終わったら、こんどはあれしよう。」

わたしたちは意識をちょっと前に向ける。
「あのことが心配だ。」

そしてそれを解決しようと、ちょっと先に向ける。
「どうしたらいいだろう。。」

そして過去の記憶から、答えを導き出す。
「ああ、やっぱあれがいけなかったから、こうしよう。」

そうやって、ウグイスの声よりも、お尻とイスの感覚よりも、あたまの中を優先する。
あたまの中は先の未来と、前の過去を行ったり来たりする。

それはきりがない。
考えれば考えるほど、ますます問題は膨らんで来る。するとますます頭はその考えの中に没頭する。心は目の前のことじゃなく、どんどん頭の中の世界に巻き込まれ、恐怖は増大する。

そういうことをわたしは繰り返して来たけれど、それは底なし沼なんじゃないかと思いはじめた。

『問題は、問題だと思ったときから、問題になる。
現象は、現れては消えていく。
心に浮かんだ問題は、それを重視しないうちに消えていく。』

そんな言葉を最初聞いたときは信じられなかった。
だけどほんの些細なことから実験を始めた。

ほんの些細な問題は、それをつかまないで放っておいたら、いつのまにか気がつかないうちに消えていた。
「あれ?」

少し気になる問題を見つける。でもそれをつかまないで放っておいたら、やっぱりこれも消えていった。

そんなことを繰り返すと、どれが重大な問題なのか区別がつかなくなって来る。どれも大した問題じゃなくなってくる。

それでもやっぱりこれだけは問題。。。と思うものが浮上して来る。
それを問題視する自分がいる。
でも、それもただ味わう。
起きては流れていく現象として、ただ見ている。



ただ見ていると、わたしはそこにいる。
すると車の音が聞こえる。カジカの声が聞こえる。キーボードのカチャカチャが聞こえる。指とキーボードの出会いを感じる。イスとお尻の出会いを感じる。

わたしは、ここにいる。
ここがどんどん濃厚になっていく。
そしてわたしと言う感覚は、だんだんあいまいになっていく。
大きな静けさがそこにある。