2015年2月28日土曜日

茶の湯の作法は、今にある行為だ



『ビューティフルマインド』って映画があったけど、あれは身につまされる。
天才数学者が自分の理論に没頭し、幻覚を見始め統合失調症になる。ひどい幻覚に悩まされながらも妻とともに生きていく美しい話らしい。
だけどやまんばにとっちゃあ、ちっとも美しくない。

天才数学者ね、ああ、頭が良過ぎて狂っちゃったのね。ああ、幻覚見ちゃったのね、ああ、かわいそうに。だけど美しい奥さんが、それをけなげに支える、おお、なんて美しい話だ、なんてね。
他人事だと思っているから、そう思える。でもあれは他人事じゃないと思うのよね。みんなその世界にいる。

ナッシュを悩ます男チャールズは、自分自身の自我が形になってはっきりと現れているだけだ。

わしらは自分の中で騒ぐ、非難する自分の声にずっと悩まされている。チャールズの言うことを聞き、ふりまわされるナッシュとどこがちがう?
それが表に出ちゃって明らかにだれかに向かってしゃべっているように見えるから、頭がおかしいと思われるだけで、心の中でやっていることにかわりはない。
レッテルをはられるのは、社会の中で目に見えて迷惑をかける人たちだからだ。

「あらおくさま、おはようございます。今日はいいお天気ね」
と、他人に微笑んでいるそのかげで陰口をたたいている姿は、狂気ではなくて何なのだろう。人に見えなくて、迷惑かけなかったら、正常人といえるのだろうか。
それは外に向けてフリをしているだけだ。
演技上手な人がこの社会でうまくやっていける人々なのかもしれないね。
やまんばもこーみえて、演技上手だ。あまり人迷惑なことはしていない(つもり)。

だが心の中は嵐が吹き荒れる。ダメだしのオンパレード。ナッシュのように、自我の姿が見えるわけじゃない。だけど明らかに心の中でしゃべり続ける存在に気がついている。その存在はやまんばをつぶそうとあの手この手をつかって挑んでくる。

その声に気づき続けていて、その声に乗っからないようにしていると、だんだん声がとぎれはじめる。そして、こんどは声にならない感情のようなものも、気がつきはじめる。しかし同じように無視をしているととぎれはじめてくる。
だけど、決して消えることはない。ただ遠くの方にそれは存在している。まるでチャールズのように。



今にあるとは、この心の様子をただ見つめ続けることのようだ。それは座禅を組まなくてもできる。日常の作業の中でできる。

お茶の作法はまさにそれを体現している。お椀をもつしぐさ、柄杓をもつときの指の動き、ふくさをたたむ動き。。。全てが意図的に動かされている。その時、心は真っ白だ。茶を立てるとき、ただその動きだけに心が定着している。それはまさに心もカラダも「今にある」ことじゃないだろうか。
千利休は心がもつ特徴、そしてその正体を知っていたのだ。

やまんばはそれを日常に取り入れてみる。
トイレのドアを開けるとき、閉める時、トイレットペーパーを取り出すとき。
お湯を沸かすとき、ガスのスイッチを入れるとき、止めるとき、お湯を急須に注ぐ時。
指の動き、腕の動き、カラダの動き、全てに意識を向けると、おのずとゆっくりとした動作になり、そして美しい動作になる。どんなにゆっくりになろうとも、結果的にムダな動きが消え、最短距離をいく。
心はここにあり、どこへも飛んでいかない。



2015年2月25日水曜日

お、ま、か、せ。おまかせ〜。



わしらは、自分の人生の場面場面で、目の前に起っていることを疑う。
こんなはずじゃない。
あってはいけないことだ。
あの人はどうしてあんなことをするのだ。
このままでは、わたしはだめになってしまう。
等々。

心はこういう。
どうしよう。
なんとかしなきゃ。

すると心は、「ほいきた。わしにまかせろ」と、あれやこれやと戦略を練ってくれる。
それに乗っかって、作戦通りに実行するのだ。

それが人生。


やまんばはそれを「ひょっとしたら逆じゃないか?」と疑った。

やまんばは自分の目の前に起っていることを信じる。
きっとそのことは偶然にやってきた不幸ではなく、今そのことを知ることが必要で、やってきたことだ。
そして、それに対してなんとかしようと画策する心のほうを疑う。


起ることは、起る。そこにはいいも悪いもない。ただ起る。
その次の瞬間、それを「これはいいこと」「これは悪いこと」と判断をするのが心だ。
心は「これは悪いこと」と、判断したものに作戦を練る。
「どうしよう」は、単なる動揺することばではなくて、
「この悪い状況をどうにかしよう」という意味だ。

心は、ほとんど自我に占領されている。この自我は、起ったことを疑えと言ってくる。これは恐れを抱かせることができる。恐れは、支配するのに最も使いやすい道具だからだ。
いったいだれがだれを?

心には対立する二つの意識がある。
「いいじゃあ、ないのお~」というものと、
「だめよ~ん。だめだめ」というものだ。

流れに身を任せ、おおらかに広がっていく心と、いい悪いの判断の中で、堅くなっていく心。自我は後者にあたる。自我は自分が存在していたいので、恐れをあおってこっちを向かせつづける。自我の作戦はいつもこうだ。

「それはいけないことだ。それをどうにかしなければいけない。わたしはそれを解決することができる。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。わたしを指示しなさい」だ。
どっかの種類の職業の人に似ていないか?
問題をあおり、その問題に集中させておく。人々はその問題が解決できない限り、私たちは幸せになれないのだと信じ込んでいく。

これのミクロバージョンが個人個人の中で起っている。

鼻水がだーだー流れたとき、くしゃみがとまらないとき、目がかゆいとき、いけない!と心が騒ぐのは、自我にのっとられている状況。
別の選択がある。そこに乗らないことだ。その騒ぐ心を疑ってみるのだ。そのようすをもう一人がただ見ている。疑うのは心の方。
そしてそのからだの状況を受け取る。こっちは疑わない。
するとその状況はもう『問題』ではない。起ることが起っている。

季節の変わり目だもの。からだは変化しつつ、新しい季節への調節をしているのだ。ありがたいことじゃないか。こうやって、私たちの知らないところで、からださんは動いてくれているのだ。そのおかげで生きていけるのだ。


しかしそれもやがて過ぎ去る。
すべては何かがひたひたと解決してくれている。
心がどう騒ごうが、七転八倒しようが、フンソウしようが、収まるところに収まっていく。
これは自我の策略のおかげではない。もっと大きなものが動いている気がするのだ。


やまんばはその大きなものに意識を向ける。
とても自我では考えきれないものへ、心を預けていく。

お、ま、か、せ。
おまかせ~。
(小仏川クリステル)




2015年2月24日火曜日

「欲しい」は「今ない」と言っている



たとえばわたしは、どうやってイラストレーターになったんだろう。

そもそも「わたしはイラストレーターになりたいっ!」って、頑張ったわけではない。もともと「わたしはデザイナーになりたいっ!」だったのだ。
デザイナーに憧れて、デザイナーになってあーしてこーして。。。と夢を描いてフンソーしたにもかかわらず、デザイン事務所に転職する度に、なぜかデザインの仕事はちっとも与えられないで、絵ばっかりかいていた。ちなみに飲料水のはちみつレモンの走りだった『ハチミツ通り』のミツバチの絵はわたしの絵だ。


なりたいものって、なれないんだろうか。
たとえば仕事が欲しい欲しいって思ってフンソウするけど、ちっともゲットできないのに、忘れているころ、ほいっと入ってくる。
たとえば、お金が欲しい欲しいとフンソウするけど、そのときはのれんに腕押しでも、忘れた頃にぽろっと入ってくる。

ビギナーズラックってあるじゃない。
あれはどういう原理なのだろう。

畑を始めたとき、最初の年は巨大な野菜だらけだった。なのに次の年からいきなりできなくなった。
絵本が出せたのは、絵本作家になりたいなりたいと思ったわけでもなく、ただ描いていたら、「これ、絵本にしない?」と、出版社の方がおっしゃってくださって、いきなり三冊も出ちゃった。だけどその後、ぱったりでなくなった。

これはどーゆーこっちゃ?
確かに絵本は売れなかったので、その後は出るわけもない。しかし絵本のアイディアはいろいろあるし、他の出版社で出てもいいではないか。たまたまその担当の方がいい人だったのだ、というのはもちろんだが、それだけではないなにかがありそうだ。



これは「欲」とからんでくるのではないか。
畑に最初に種をまいたとき、「大きい野菜ができろよ!」なんておもいもしなかった。
絵本のアイディアをおもいついたとき、「わたしは絵本作家になりたい!」なんておもいもしていなかった。
ただ種をまくことにワクワクしたし、絵本のアイディアを考えていることにワクワクした。
ただそれだれだったのに、それがうまいこと行ったとたん、「去年みたいにおっきい野菜ができて欲しい!」に変わったし、「また絵本が出したい!」に変わっていった。

やっぱり欲を持ってはいけないのか、という話ではない。
「○○したい」という言葉は、今そこにないと信じているのだ。

「イラストレーターになりたい」という言葉は、今なっていないことを意味する。
やまんばは、「わたしはイラストレーターになりたい」とはおもわない。すでになっているから。

引き寄せの法則で、なぜかイヤなことばっかりがいつも簡単に引き寄せられてくるのは、この原理があるからではないか。

「完全に信じているものが形になって現れる」

たとえば、やまんばの畑の野菜がちっとも大きくならないのは、「大きくなって欲しい」という言葉に言い表されている。小さい事を信じ続けているからだ。
「仕事が欲しい」という言葉は、仕事がないと信じ続けていることが現れているのだ。「お金が欲しい」という言葉は、「お金がない」と信じていることが現れているのだ。

ではどうやったら仕事やお金や大きな野菜がとれるのか。
やまんばは必死で考えた。スンゲー考えた。

その結論が今朝でた。
答えは、「ない」だ(爆)。



人の意識はそう簡単には変われない。ない、ない、ない、と信じ込んでいるものを、
「あー、そーか。わかったぞ。そんならさもあるかのようにふるまえばいいんだ」
なんてできるわけがない。
他人は外面でだませても、自分の中を自分でだませやしない。どこまでやっても絶対自分にバレる。

「ほしい」とおもっていることは、今そこにないと信じ続けていることだと、心底理解することだけなのではないか。そこまでしか私たちの頭は理解できないのではないか。そっから先の、なにが生まれてくるか、は、宇宙さんのエリアなのではないか。

わたしに絵本のオファーが来たのも、畑の最初の年に巨大な野菜ができたのも、なぜか絵ばっかり描かされていたのも、なにか宇宙の計らいがおこってのことだったのではないか。そこにはわしらのちっぽけな頭で考えつく次元のものではないのではないか。このことが「おまかせ」や「降参」や「明け渡す」ってことなんじゃないか。

自我ができることは、「欲しい」は「ない」と言っていることだと知ることまで。
そこから先は、自我の範囲を超えている。


花粉が飛び交って、やまんばの鼻をむずむずさせる。
だがやまんばはそれになにもしない。鼻もかまない。起きたことをそのまま明け渡す。するとしばらくすると消えている。
無抵抗。
起きたことを抵抗せず、そのまま受け取る。
すると宇宙は今まで気がつかなかったものを、そっと提示してくれる。









2015年2月20日金曜日

やまんばの花粉症対策



花粉が舞いはじめた今日この頃、皆様がたにおかれましては、にくったらしい季節がやって来たとお察し申し上げます。

去年、やまんばは石けんなし生活でほぼなくなったものの、まだ若干のこっていた症状にたいして、2つの方向性でアプローチした。

ひとつは物理的な方法。もうひとつは精神的な方法。
この二つの方法は効果的だった。

まず物理的な方法。
目はかゆくなりはじめた頃がポイント。けしてこすらない。こすると、目の表面が削れて、敏感なところがさらに敏感になる。かゆさにガマンができなくなったら、アルガードなど目の洗浄液についてくるゴムとかプラスティックの容器をつかって、液体ではなく、水だけで洗う。最初はぐわーっとなるが、ほっておくとおさまる。

鼻水も出たら、そのつどかまない。人に迷惑かけないほどに、ほっておく(笑)。ほっておくと、たれない程度に鼻の中で溜まり、逆に言えば外からの刺激から保護される。たれてくるのを拭くぐらいにする。
それでもひどい時は、不織布でなくて昔ながらのガーゼのマスクをつかう。マスクの中で鼻水が滝のよーに流れるままにするには、吸収してくれるガーゼがちょうどいい。

なぜそうするかというと、鼻水が出るのは、自然の摂理だと考えたからだ。冬のあいだに熱を保存するために固くなったからだが、春の兆しとともに、しだいにほぐれていく。このほぐれて外のものを取り込みはじめたときが一番敏感なのだ。

だからカラダはくしゃみしたり、鼻水を出したりと忙しい。それを不快とかいけないことと言って抵抗するからよけい苦しくなる。
自然に起こる事をそのまんま受け取る。
それが季節の変化に、からだも心もいっしょについていく事なんじゃないかなあとおもうのだ。

もうひとつやまんばがやっていたのは、マスクの中にもう一枚ティッシュをたたんでしのばせて、そこにほんのわずか、ハッカ油をつけるのだ。
これはキョーレツなので、まちがってもボトルからハッカ油をたらすよーな事をやってはいけない。確実に死ぬ(笑)。そうではなくて、ふたを開けた小さなボトルをふさぐよーにティッシュを乗せ、一瞬ひっくり返してまたもとの位置に戻す。それぐらいほんのすこしにする。
そーして、ほんの少し濡れたティッシュは、鼻側にせず、マスク側に向けてあてる。そうすれば、ハッカ油のすーっとする匂いの効果で鼻も通るし、目のかゆさも和らぐし、何より気持ちが楽になる。



暖かくなってきて、最近目のかゆさをふっとかんじる。
だけどやまんばはそのままほっておく。これも自然の摂理と、なるがままにさせておく。すると知らないあいだにかゆさは消えている。


症状を深刻にとらえない。
わたしたちは自分のカラダにいつもとちがう変化が起こったとき、大騒ぎで対処しようとする。なんでも深刻にとらえるクセがある。だがこの深刻さが、事態をより大きくするのだ。これに気がついたときがチャンスだ。これは何にでも応用が効く。肉体の問題にも、心の問題にも、人生の問題にも。

カラダは私たちが頭で考えるよりも何かを知っている。彼らの英知におまかせするのが一番じゃないかとやまんばは最近おもうのだ。

かゆさを感じている。かゆさをイヤな事だとして抵抗せず、かゆさを味わってみるのだ。

どんなかんじ?
どんなふうに変化する?
自分のカラダを私よりも知っている存在だと尊敬し、おまかせする。
大好きな春はもうここにいる。


2015年2月15日日曜日

自我はうるさい



以前に「人は他人の言葉は疑うが、自分の心の中に出てきた言葉は鵜呑みにする」と書いたと思う。

そんなことってない?
自分に浮かんだ言葉って、そのまま素直に聞いて、そーだ、そーだ、あいつはここがいけないんだ、とか、そーだそーだ、やっぱし、そのとおりにしよう、とかおもったりしない?

やまんばはその自分の中の声を疑いはじめたんだ。
それって、どおよ?と。

心の声は、二つあるようだ。
ひとつは大きな声。もうひとつは、蚊のささやくよーな声。

前者はいつもわたしの中で訴えかけてくる。
「これってどおよ。おかしいとおもわない?だってそうでしょ。理屈に合ってないわよ。だいたいあんたはねえ。。」とか、
「ほーら、いったとおりでしょ。やっぱりあいつはいつもそうなのよ」とか、
「寒いから布団からでちゃダメ!」とか、
なだめたり、すかしたり、早く早くとせかしたり、どきどきおろおろさせたり、とかく大音響で訴えかける。
このての声、止めようとしても止まらないのは、一度でも座禅してみればわかる。

心の中で聞こえてくる声のほとんどはこれ。
よーく聞いてると、すべてに否定が入っている。
他人の批判、社会の批判、自分の批判、できないこと、やれないこと、まちがっていること、だめなこと、いやなこと、心配なこと、腹が立つこと、。。。。

この言葉に素直に従ったら、たいていイライラする。イライラするからなんとか落ち着かせようと、あの手この手を使ってごまかす。テレビみたり、スマホみたり、飲んだり、騒いだり、仕事に没頭したり、畑耕したり。でも耕しているあいだも、仕事しているあいだも、ずっとこの声にふりまわされている。


これが自我の声のようだ。
この声に方向性はないし、破壊的だ。
少なくとも、やまんばの人生において、この声に創造的なものはなかった。いつもどこかで聞いたことのある常識的なことを言って、やまんばを小さく矮小な存在に持っていくのが目的のようだ。

ネットやテレビやコマーシャルは、訴えかけてくる。
これがだめです。あれもだめです。そんなことしたらもってのほかです。ちいさなことからこつこつと。少しでも助けになるように。あなたは小さな存在です。その小さな存在はもっと小さくならないとダメです。なぜなら人に迷惑をかけるからです。
これ、心の中の自我の訴えそのものではないか。

禅寺が心の雑音を消せと座禅をさせるのは、その声に創造性がないことを知っているからではないだろうか。

先日、エレベーターを待っている女の子二人が、待っているあいだスマホをしていたのをみる。電車に乗った子供連れのおかあさんも、子供そっちのけでスマホをしていた。心はじっとしていない。いつも何かに向けて、発信したり受信したり、反応したりしていないといられない。
これはどこからくる?心が訴えてくるんじゃない?
返信しないときらわれるからとか、子育てはこれでいいんだろうか、とか。

そこに答えはないとやまんばは確信した。
だからその声をほっぽらかすことにした。
自我は訴えてくる。
「ほら、なにぼーっとしているの。やらなきゃ」
「。。。」
「ほらほら、なにしてんのよ!仕事しなきゃ!」
「。。。。」
「なっ、、なにしてんのよ!確定申告しなきゃ!」
「。。。。」

自我の声に乗らない。
ただ心の大音響を聞いているだけ。聞いている間に冷静にパターンを見つけることができる。クセを知る。その分析もまたおもしろい。

滝のようにふりそそぐ自我の声をあびながら、静かな自分を見つける。まるで、滝の後ろに空間を見つけるように。
そこにとどまると、一瞬のひらめきがおとずれる。

「あ。。。」

創造的なアイディアは静けさの中にある。
その一瞬の蚊のささやくような声は、今まで考えもつかなかったものを教えてくれる。それは目の前に展開する世界の後ろにある、とてつもなく無限の広がりの一部なのだ。


2015年2月14日土曜日

サルの軍団



畑に行ったら、サルの軍団がいた。
こっ、、、、こんなにいたんだ。。。

その数、12匹。
やまんばの姿を見て、親分子分子ざる等引き連れて、わらわらと畑から出て行く。
みな西の山の方に逃げていったが、一匹だけどんくさいやつが反対方向の東側に逃げた。フェンスの向こうに行って気がついたんだろうな。あれ、自分だけ取り残されてるって。
その13匹目は、じっとみんなが逃げた方をながめながら、その場を動かなかった。

やまんばは悠々と畑の中を歩く。「ここはわたしの畑よ」と無言の主張をする。
コブシをあげて「こらあー!」などと、大人げない行動はしない。(ほんとは全身鳥肌立ってんだけど)

畑はほぼなにもない。
白菜は根こそぎ食われ、大根は最初は引っこ抜いてちょこっとかじってほっぽらかしていたが、そのうち自分でほっぽらかしていたそれにも手をつけて、ちゃんと食べ尽くしていく。三浦大根のような、簡単に引き抜けないものは、前は土から出たところだけをかじってあったが、今はそれもわざわざ掘り起こして、土の中まで顔を突っ込んで食っているようだ。よっぽど山に何もないようだ。

ネットを厳重にかけた葉牡丹みたいに広がった白菜はかろうじて食われないままでいる。でも網をかけたキャベツはどうやったのか、食い尽くされた。

「西洋と中国野菜は食わないわよ。さすがニホンザルね」
と、近所の畑のおばちゃんはウケをねらう。
おばちゃんの畑のルッコラとチンゲンサイは食べなかったらしいが、ウチの畑のチンゲンサイは食われた。
どっちかとゆーと、苦いものやからいものは食わないみたいだ。それと豆科の植物には今のところ手を付けてない。絹さややソラマメが出来るまで待っているというのか。

みんなが心配しているのは、夏野菜だ。キュウリやナスやトマトや。。。いったいどーやって防御するのだ?

このさいだから、サルに野菜作りを教えてしまおうか。
イノシシにそこらの山を耕してもらって、サルにキュウリの種をわたす。食おうとするのをとめて、土に植えるのをみせるんだ。マネをするとほめてあげて、じっと待つことを教える。実がなったら食べる。どおよ。
やまんばの畑のとなりに、サル農園ができて、みんなで収穫のよろこびを分かち合う。
どおよ。


13匹目のサルは、いまだにフェンスの向こうで、地面に落ちてるなにかを食いながら動かない。
やまんばは作業しながらサルを見る。するとすぐ視線に気がついてこっちをみる。すかさず目を逸らす。また見る。すぐ気がつく。目を逸らす。。。を繰り返した。
さっきまで真っ赤だった顔の色が、今はピンク色に変わっている。心が落ち着くと顔の色が変わるようだ。

やまんばが小屋の陰に隠れると、13君は畑の中に入ってきた。畑を横切って西に行こうとしているのだ。畑の途中で余裕ぶちかまして座って何かを食おうとしている。やまんばは、なにげに近寄った。13君は食べるのをやめて逃げる。
そしてまたフェンスの上でこっちの様子をうかがっているので、すかさずこっちも余裕ぶちかましながら近づく。下手に騒がない。無言の威嚇をする。

13君はピンクのたまたまをぶらぶらさせながら、悠々と西の山に消えていった。




2015年2月13日金曜日

善意の受け取り方



ある会があって、やまんばはそれに参加している。
最初のうちは会が終わると、お茶だけで終わっていたが、そのうちみんな好きにお菓子や漬け物や煮物などを持ち寄って、楽しいお茶の時間をもうけはじめた。

するとだれかがいった。
「わざわざ煮てきてもらうなんてわるいんじゃない?」
「そうねえ、わるいわよ。」
「会費制にしたら?」
「100円、どお?」
「いいわね。じゃ、100円できまり」
いつも煮物をもってきてくれる人は複雑な笑顔で、
「どうもありがとう」といった。

一見、正しい行為に見える。
だけどやまんばは少し複雑だ。


去年大雪が降ったあと、近所の人がユンボで雪かきをしてくれた。ものすごく助かった。みんなでありがとうってお礼を言いまくった。
そしたら、ある人が、
「わるいじゃないの。せめてガソリン代だけでも出さないと」と言った。

そうだよなあ。わるいよなあ。こんなの業者に頼んだら、すっごいお金とられるよ。そうだよ。わるいよ。せめてガソリン代だけでも。。。
でも何となく腑に落ちなかった。

「ようするに、チャラにしたいんだろ。借りを作りたくないだけじゃないか」
口の悪いヤツがいった。
なんていいぐさだ!。。。とおもったが、良ーく考えるとそういうことだ。

その善意をそのまんま受け取るとなんだか居心地がわるい。その居心地の悪さをなんとかしようと心がさわぐのだ。
居心地のわるさとは、罪の意識だ。やってもらっている自分はいけない。だからその罪をナントカチャラにするために、「せめてガソリン代だけでも」という発想になる。

もし善意をそのままチャラにするのであれば、業者が請求する通常の値段を払えばいいのだ。すると「そんなことしたら失礼じゃないの。人様の善意は受け取らないと」という。
つまり材料費は支払って、手間ひまの善意だけを受け取るということなのだろう。

はて、それをしてもらって、はたしてやった側は嬉しいのだろうか。
やまんばも自主的にあることをやっているが、その材料費だけを受け取るたびに、複雑なおもいにかられる。
手間ひまも材料もひっくるめて、業者の誇りなのだ。赤字が出るほどのことはしないものだ。その誇りを子分けにして支払われると、善意がにじんでくる。

日本には「お返し」の文化がある。なにかをもらうと、お返しをする。
だけどお金って「お返し」の姿じゃなくて、「支払う」ことにつながっている。だから材料費といえども、お金をもらうと、その人の行為全体に対する値段がつけられたような感じがするんだな。「あんたのギャラはこれだけ」って。



人の善意を100%受け取れきれないのは、どこかでうしろめたい意識があるんじゃないだろうか。人の善意を受け止めるなんてできない。私にはそんな資格はない、みたいな。
だからせめて材料費だけでもチャラに。。。と。

煮物だって、作れたり作れなかったり、お菓子だってあればあったで、なかったらなかったでいい、ぐらいの臨機応変さでいいんじゃないだろうか。決まり事など作ると色々面倒なことになる。全ては流動的な物なのだもの。

人の善意は、心からの感謝の言葉で受け取るだけでいいんじゃないかとおもう。

でもさ、善意をそのまんま受け取ることってさ、ほんとは強さではないだろうか。
まぶしいくらいの人様の善意を、そのまんま受け止めるって、自分にもそれくらいの価値がある!って認めることでもあるとおもうの。

「すごくたすかったです。ほんとうにありがとう!」
ただその言葉だけで、やった人は「やってよかったなあ~」って、心が温かくなる。またなんかあったらやりたいなあ~って、おもう。

彼女の複雑な笑顔は、ただよろこんでもらえたらいいだけなんだけど、っておもっているようにみえた。


2015年2月11日水曜日

「のんき」か「深刻」か



やまんばはかんがえた。
深刻に人生を生きるのと、のんきに人生を生きるのと、どっちがいいか。
数ある情報の中で長寿のジジババがいうことばのキーワードは「のんき」である。
どーも「のんき」が長寿でケンコーのひけつのよーなのである。

ははは。のんき?
そりゃ、のんきに生きるがいいに決まってるさ~。

と、おもうのだが、そうことは簡単じゃない。
いざ出来事が起ってみると、「げ!やばい!」となるのがおちである。深刻になってんじゃ~ん。

出来事が起ると、瞬時に「これはいいことか。わるいことか」と判断し、カラダが凍りついて「やばい!」という。「これはわるいことである!」と判断したがゆえに、自動的におこってしまう心とからだの反応なのであーる。
「のんき」でいることは、そう簡単なことじゃないようだ。


砂漠のど真ん中で方向を見失って暑さとのどの渇きの中で途方に暮れていると、主人公が、ペットボトルに残った残り少ない水を頭からかぶって「あ~、気持ちいい!」と言った。それを見た彼女がびっくりして「もう飲み水がないのよ!どうしてくれるのよ!」と怒った。
むかし見たドラマのシーンがいつも頭に残っている。

漂流した船の中で生き残った人、タイガの森の中で11日間生きていた少女、実際起った出来事で彼らに共通するものがあるような気がする。物理的に水があるとかないとか、暖をとるとかとらないとかよりも、もっとおおきななにか。それは意識じゃないだろうか。



ドラマの二人の主人公、のんき野郎と深刻野郎。この対照的な二人の心とからだのエネルギーの消耗の仕方はまるでちがう。
深刻になればなるほど、エネルギーはみるみる消耗するに違いない。
先のことを考えないで、今気持ちいいことをした主人公はどうだろうか。心配事がないのでエネルギーは温存される。いやむしろ増えているかもしれない。


深刻でいると、心はあれやこれやと考えうるさい。心は自分で考えてなんとかしようとする。でも考えて出てくるのは、たいてい消極的な後ろ向きな解決法。やまんばはいつもそうだった。自分をぎゅっと小さくさせるような、ガマンを強いるような、人の目を気にするような、つまんない方法論。そういう解決法を見つけると、ぎゅっとからだが堅くなるが、心は「そうしなければいけないんだ」と、自分に言い聞かせている。自分で自分をだましていく。
するとほどなくして、「え~い!こんなんやってやれるかいっ!」って、ひっくりかえしちゃうんだ。

ほんとは心はもっと他のことを望んでいる。
人の目を気にし、常識とやらを気にしている自分、じゃない自分。

「のんき」は、それをうながしている。
「のんき」は心が静かでおだやか。
起った出来事をそのままにして、ほほに触れる風を感じ、空気の匂いを感じ、今そこに存在する自分を受け入れる。
自分本来を教えてくれる声はほんとうにちいさい。ふっと瞬間に訪れる。「えっ?。。」と。
その声をたよりに生きたら、ステキな何かが展開される。

2015年2月7日土曜日

簡単キムチ



キムチは食いたいけど、専門店のはめっちゃたかいし、スーパーのはそれなりだし、かといって自分で作るにはめっちゃめんどくさいし、どーしたもんかのーとおもってたら、いーのをみっけた。簡単キムチ。

干したり巻いたり煮出したり、いろんなことせんでいーわりには、めっちゃうまい。ま、やまんばのお口なので、どこまでうまいのかしらんけど、NYでいっつも食ってたコリアンタウンのキムチをおもいだしながら、ダンナと食ってます。


まず、畑でうまく結球できなくて、葉牡丹みたいになった白菜を収穫する(わざわざそんなもん収穫せんでよろし。スーパーでちゃっちゃと買いなさい)。
そこにサルに頭をかじられたあとの、おこぼれの大根を掘り起こし(とっととスーパーで買いなさい)、れいぞーこで根っこと芽が出たニンジンと、これまたサルにかじられた残りのネギを用意すれば、もうできあがったもどーぜん。

。。。とまあ、やまんば流は無視してフツーに行きます。


野菜:
白菜  4分の1ぐらい(小口切りにする)
大根  てきとー(千切り)
にんじん てきとー(千切り)
ねぎ  てきとー(千切り)

白菜、大根、ニンジンをまとめて3%ぐらいの塩でほろほろまぶして、重しをして水を出す。1~2時間くらいかなあ。まあてきとーで。
んでそのあいだに、キムチのよーな液体を作る。

キムチのよーな液体:
唐辛子粉/細びき(韓国産の高級な粉のほうがうまい) 大さじ1
にんにくすりおろし  1、2個
ショウガすりおろし  親指大1
りんごすりおろし   2分の1個
めんつゆ       40~50cc
だしの素       小さじ1
(やまんばは、お気に入りのかやのやのダシを袋から出して使う)
はちみつ       大さじ1
ジョッカル(韓国産の魚醤)大さじ2

以上の調味料を全部合わせ、そこに千切りにしたネギをいれる。
水が出た白菜を、ちょちょっと水洗いして塩気をとりぎゅっと絞って、キムチのよーな液体に混ぜ合わせる。おわり。
タッパーに入れて、れいぞーこへ。次の日から食える。

このレシピははちみつが入ってちょっと甘めで、そんなにからくないバージョンなので、唐辛子粉の粗挽きなどいれたりして、お好みで増やしたり減らしたりしてちょ。



戦場は心の中にある



「悪行は許さない。たとえどんな理由があろうとも。」
「殴られたら、殴り返せ。」
と、ドラマの主人公たちが言った。

前者は正しいことで、後者は悪いこと。
前者は正論で、後者はサバイバー。
前者はみかたによっちゃあつまんない性格で、後者は、うほほ~と魅力的な性格。

でもどっちもやったことを憎むというありかたで、けっきょく同じ穴のムジナだ。

大人的に殴られても殴り返さないとしても、そのやったやつを心の中で恨んでいたら、心の中でおなじことをしている。表に見えるか見えないだけのこと。

表に見えなかったらいいってなかんじがある。最近とみに表裏が激しい。表面を繕うのがうまくなってきた。だから能面みたいな顔になる。

社会のテスト前の生徒みたいなもんだ。
「揺らすなよ。オレを揺らすなよ。ゆすったら、きのう徹夜で覚えた年表が頭から落ちるだろ!」
と、シカトするよーなもんだ。

「オレをこそばすなよ。こそばしたら、ホンネが出ちゃうじゃないか!」
と、アルカイックスマイルをキープする。
そんなもんだから、とってもあやうい。ちょっと揺らせば、思いっきりぐらつくぐらい不安定な心。

心の中はたいへん。嵐が渦巻いている。あのヤロこのヤロのオンパレード。
言葉にならない裁く心が人や自分を責め立てる。
そしてあるとき、それが満杯になったとき、ぶち切れる。唐突にキレる。あばれる。

ひとはそれをみて、いったい何がおこったの?という。おかしーんじゃないの?という。ぜんぜんわかんなーい、という。

本人もびっくりする。いったいオレに何がおこったんだ?!と。
そして自分が怖くなる。自分を監視するようになる。自分を信じられなくなる。自分をおさえこむ。いけない、いけないんだ。そんなことしたら、そんなこと考えたら。。。と、めちゃくちゃおさえこむ。
そしてそれが満杯になると、なんてことないことでぶち切れる。

ニュースで見聞きする事件に突発的なものが多いのも、そんな心の状態を表しているんじゃないだろうか。犯人と知り合いの人々は口々に言う。
「あんなおとなしい人が。。」
「あんないい子だった子が。。。」

そうなんだ。いい人であるからゆえに、くるしむ。
心の中はこうであらねばならない。人としてこうでなければ。。。と。



やまんばはずっと自分を責めていた。裁いていた。
こんな絵じゃないけない!もっと上手にならなきゃ、もっとぐっとくる絵にしなきゃ、もっといいアイディアで、もっとああで、こうで。。。!!!

そりゃ、描くの、いやんなるわな。
だれだって、そばでベシベシムチ打たれてたら、
「かっ、、描きたくねえ!!!!」って、なるわな。

自分を憎んでいたんだ。
自分はいたらない、中途半端なニンゲンなんだ。だからムチ打って絵を描かなきゃいけないんだ。そうでないとこの世に生きている資格はないのだ。
そう思ってきたんだ。
でも、そんなことは自分を痛めつけるだけでしかなかった。自分を小さくしているだけだった。矮小のそのまた矮小の自分を作り上げるだけだったんだ。。。。



ねえ。これはわたしだけじゃないと思うんだ。
みんな自分を責めてる。
これじゃいけないんだ。それでもいけないんだ。もっともっともっと。。。って。
自分でなんとかしなきゃって思ってる。

その自分を責める行為が、はじけようとするほんとうの心を抑圧していく。自分を責めているのが、いつのまにか身近な人を責めている。こうじゃないんだ!そうじゃないんだ!って。



戦争は自分の心の中でおこっている。
その戦場をながめてみよう。何の判断もせず。いいとか悪いとか言わず。否定もせず。

そこで戦っている自分をながめ、
そしてそんな自分を、そっと赦そう。



2015年2月6日金曜日

自分の中にあるいじめっこといじめられっこ



「あたしねえ、小学生のとき放課後に集団リンチにあっちゃって、背骨にヒビいっちゃったのよ~ん」
と、近所のコンビニで働いている同い年のお姉さんに言ったら、
「何でも相談して」って言われた。
45年も前のことを相談するも何もないんだけど。


いじめられることはあってはならないこと。
いじめることはもってのほか。

いじめられっこは、気の毒な人。
いじめっこは、とんでもない悪い人。

「だからいじめっ子は、おしおきよ!」
って、それこそいじめっこのやってることじゃないの。

いじめっこは悪で、いじめられっこは善、という白黒はっきりしたものではないと思うんだ。

いじめっ子は、そもそもいじめる子が何かしらカンにさわるから、ねちねちいじめて自分の中にある何かを解消しようとしている。いじめっこは、家の中での自分の立場を、いじめの対象であるその子の中に見るのではないだろうか。そして親の姿をそのまま外でまねているのではないか。

というのも、やまんばもおなじことをしていたから。いじめられたストレスを犬で解消していた私。叩いたりした記憶はないけど、私が王として犬に君臨していた。

いじめっこと、いじめられっこは、お互い似ているのではないだろうか。
いじめっこは、心の中を深くさぐっていくと、暗く辛いおもいを抱えているはずだ。いじめられっこもいじめられること、つまり罰せられることによって自分の罪を解消できるような気がしていたりする。

二人はお互い罪の意識を抱えている。
いじめればいじめるほど、罪の意識は大きくなり、その重みに耐えられなくなって、目の前で怯える存在によけい腹を立てる。
いじめられるこは、「あたしは罪深い悪い子だから、罰を受けているんだ」とおもい、しだいに自己憐憫にひたりはじめる。これは悲劇の主人公になれる魅力を持っているゆえに、その世界に没頭しがちだ。その姿を見て、またいじめっこはイライラしていじめる。。。。



私たちの心には、いつもこの2つの存在は同居しているんではないだろうか。自分にムチ打ち、おびえ、なげき、いかり、そしてまたムチ打つ。。。

「あたしはそんなことしないわよ」
と、いじめっこを他人事として外に置くことはできるだろうか。

いじめっこのこころはきっと、「たすけて!」と大声で泣き叫んでいる。



2015年2月2日月曜日

エゴは二極しか知らない



「あたしはちゃんとできただろうか。」
最近ご主人をなくされた彼女は言った。

言葉のはしばしにご主人の死に対して、自分がしてきたことを悔やんだり、恥じたり、心配したりしている。そしてこれでよかったんだろうかと自問するようにわたしに問う。はたから見ていたら、これ以上できないくらい美しく完璧な伴侶のみとり方に見えた。

ご主人の8年間の自宅での闘病生活に不満ひとつ漏らさず、まわりもふりまわさず、いつも笑顔で過ごしていた彼女。最後の晩の二人だけのやり取りの逸話に、思わず泣いてしまったわたし。人は悲しさで泣くんではない。圧倒的な美しさ、命の荘厳さに感動して泣くのだ。


そんな妻の鏡のような人がいうのだ。あたしはまちがっていなかった?と。
どんな完璧に見えても、どんなに頑張ったとしても、必ず人はこういう。
「これでよかったんだろうか」



私たちは自分を否定する。
この否定する心に、私たちは振り回されている。一見謙虚な振る舞いにみえるところがみそだ。
自分を否定することに関しては筋金入りのプロフェッショナルなやまんばがいう。これは意味がない。意味がないどころか、かなりな被害を及ぼす。

わたしたちは心の中に浮かぶ言葉を分け隔てなく取り入れる。あれもこれもどれもそれも。だけどよーくきいていると、とんでもなく矛盾に満ちている。あれをしなきゃいけないと心が言う。いわれるままにやると、今度はそれをするなと言う。結局混乱させて疲れさせるのが心の声だ。
心にはエゴ的な声と、それとは別な声がある。

「いやだ」という声と「いけない」という声は、心やからだにズシンとかビシッとくるとおもわない?
「いいよ」という声や「たのしいね」という声は、心やからだがホワ~んと上に飛んでいって、空気と一緒にとけ込んでいくようなかんじがしない?

前者は他人と自分を分ける分離の衝動がある。
後者は他人も自分も分け隔てなく、みそクソ一緒くたになる。
私たちの心には、この二種類のものがごちゃ混ぜになって入っている。しかし実際は、前者の声に圧倒的に支配されている。

「人に後ろ指さされないために。」
「あとでなにか言われないために。」
その呪いのような言葉に、自分のほんとうにやりたい衝動をおさえこみ、自ら限界をつくる。

「じゃあ、人に迷惑かけていいのか?あとでなに言われても知らん顔すればいいのか?」
これはエゴの声だ。
白か黒か、正しいかまちがっているか、右か左か。二極しかないかのように言ってくるのがエゴの特徴。エゴの世界は小さい。過去見聞きしたものしか知らない。前例主義。前例にないものは生み出せない。それがエゴさんのお仕事。

心に否定が生まれたら、エゴからの声だと思ってまちがいない。否定することによって、エゴは存続できるのだから。その声に乗っかって、アチャコチャしてくれると、エゴさんはますます喜ぶ。それそれ、ほーれほれ、そのまま行ってくれたらあたしが居続けられる~っ!って。




やまんばはずーっとその声に振り回されてきた。
作品作るあいだ中鳴り響く声。
「だめだめ、そんなんじゃだめ。あ~、もっとひどくなった。さいてー。あんたそれでもイラストレーターなの!?」
だめ押しの言葉にえんぴつを投げ捨て、頭をかきむしる。

しかしだんだんエゴさんの存在に気がつき始める。

やまんばはえんぴつをもつ。声にならない声が心の中で聞こえる。
「だめだめ、ひどい。そんなのだめ。」
無視。

久しぶりに紙を切る。
「あ~、ひどい。へったくそ~。切り口がぐちゃぐちゃじゃないの!」
その声に抵抗もせず、ひたすら無視。

エゴが訴えてくるものすごい量の言葉の嵐を無視し続けながら作品を作った。
今までになかった方向性が見えてきた。