たとえばわたしは、どうやってイラストレーターになったんだろう。
そもそも「わたしはイラストレーターになりたいっ!」って、頑張ったわけではない。もともと「わたしはデザイナーになりたいっ!」だったのだ。
デザイナーに憧れて、デザイナーになってあーしてこーして。。。と夢を描いてフンソーしたにもかかわらず、デザイン事務所に転職する度に、なぜかデザインの仕事はちっとも与えられないで、絵ばっかりかいていた。ちなみに飲料水のはちみつレモンの走りだった『ハチミツ通り』のミツバチの絵はわたしの絵だ。
なりたいものって、なれないんだろうか。
たとえば仕事が欲しい欲しいって思ってフンソウするけど、ちっともゲットできないのに、忘れているころ、ほいっと入ってくる。
たとえば、お金が欲しい欲しいとフンソウするけど、そのときはのれんに腕押しでも、忘れた頃にぽろっと入ってくる。
ビギナーズラックってあるじゃない。
あれはどういう原理なのだろう。
畑を始めたとき、最初の年は巨大な野菜だらけだった。なのに次の年からいきなりできなくなった。
絵本が出せたのは、絵本作家になりたいなりたいと思ったわけでもなく、ただ描いていたら、「これ、絵本にしない?」と、出版社の方がおっしゃってくださって、いきなり三冊も出ちゃった。だけどその後、ぱったりでなくなった。
これはどーゆーこっちゃ?
確かに絵本は売れなかったので、その後は出るわけもない。しかし絵本のアイディアはいろいろあるし、他の出版社で出てもいいではないか。たまたまその担当の方がいい人だったのだ、というのはもちろんだが、それだけではないなにかがありそうだ。
これは「欲」とからんでくるのではないか。
畑に最初に種をまいたとき、「大きい野菜ができろよ!」なんておもいもしなかった。
絵本のアイディアをおもいついたとき、「わたしは絵本作家になりたい!」なんておもいもしていなかった。
ただ種をまくことにワクワクしたし、絵本のアイディアを考えていることにワクワクした。
ただそれだれだったのに、それがうまいこと行ったとたん、「去年みたいにおっきい野菜ができて欲しい!」に変わったし、「また絵本が出したい!」に変わっていった。
やっぱり欲を持ってはいけないのか、という話ではない。
「○○したい」という言葉は、今そこにないと信じているのだ。
「イラストレーターになりたい」という言葉は、今なっていないことを意味する。
やまんばは、「わたしはイラストレーターになりたい」とはおもわない。すでになっているから。
引き寄せの法則で、なぜかイヤなことばっかりがいつも簡単に引き寄せられてくるのは、この原理があるからではないか。
「完全に信じているものが形になって現れる」
たとえば、やまんばの畑の野菜がちっとも大きくならないのは、「大きくなって欲しい」という言葉に言い表されている。小さい事を信じ続けているからだ。
「仕事が欲しい」という言葉は、仕事がないと信じ続けていることが現れているのだ。「お金が欲しい」という言葉は、「お金がない」と信じていることが現れているのだ。
ではどうやったら仕事やお金や大きな野菜がとれるのか。
やまんばは必死で考えた。スンゲー考えた。
その結論が今朝でた。
答えは、「ない」だ(爆)。
人の意識はそう簡単には変われない。ない、ない、ない、と信じ込んでいるものを、
「あー、そーか。わかったぞ。そんならさもあるかのようにふるまえばいいんだ」
なんてできるわけがない。
他人は外面でだませても、自分の中を自分でだませやしない。どこまでやっても絶対自分にバレる。
「ほしい」とおもっていることは、今そこにないと信じ続けていることだと、心底理解することだけなのではないか。そこまでしか私たちの頭は理解できないのではないか。そっから先の、なにが生まれてくるか、は、宇宙さんのエリアなのではないか。
わたしに絵本のオファーが来たのも、畑の最初の年に巨大な野菜ができたのも、なぜか絵ばっかり描かされていたのも、なにか宇宙の計らいがおこってのことだったのではないか。そこにはわしらのちっぽけな頭で考えつく次元のものではないのではないか。このことが「おまかせ」や「降参」や「明け渡す」ってことなんじゃないか。
自我ができることは、「欲しい」は「ない」と言っていることだと知ることまで。
そこから先は、自我の範囲を超えている。
花粉が飛び交って、やまんばの鼻をむずむずさせる。
だがやまんばはそれになにもしない。鼻もかまない。起きたことをそのまま明け渡す。するとしばらくすると消えている。
無抵抗。
起きたことを抵抗せず、そのまま受け取る。
すると宇宙は今まで気がつかなかったものを、そっと提示してくれる。
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