『ビューティフルマインド』って映画があったけど、あれは身につまされる。
天才数学者が自分の理論に没頭し、幻覚を見始め統合失調症になる。ひどい幻覚に悩まされながらも妻とともに生きていく美しい話らしい。
だけどやまんばにとっちゃあ、ちっとも美しくない。
天才数学者ね、ああ、頭が良過ぎて狂っちゃったのね。ああ、幻覚見ちゃったのね、ああ、かわいそうに。だけど美しい奥さんが、それをけなげに支える、おお、なんて美しい話だ、なんてね。
他人事だと思っているから、そう思える。でもあれは他人事じゃないと思うのよね。みんなその世界にいる。
ナッシュを悩ます男チャールズは、自分自身の自我が形になってはっきりと現れているだけだ。
わしらは自分の中で騒ぐ、非難する自分の声にずっと悩まされている。チャールズの言うことを聞き、ふりまわされるナッシュとどこがちがう?
それが表に出ちゃって明らかにだれかに向かってしゃべっているように見えるから、頭がおかしいと思われるだけで、心の中でやっていることにかわりはない。
それが表に出ちゃって明らかにだれかに向かってしゃべっているように見えるから、頭がおかしいと思われるだけで、心の中でやっていることにかわりはない。
レッテルをはられるのは、社会の中で目に見えて迷惑をかける人たちだからだ。
「あらおくさま、おはようございます。今日はいいお天気ね」
と、他人に微笑んでいるそのかげで陰口をたたいている姿は、狂気ではなくて何なのだろう。人に見えなくて、迷惑かけなかったら、正常人といえるのだろうか。
それは外に向けてフリをしているだけだ。
演技上手な人がこの社会でうまくやっていける人々なのかもしれないね。
やまんばもこーみえて、演技上手だ。あまり人迷惑なことはしていない(つもり)。
だが心の中は嵐が吹き荒れる。ダメだしのオンパレード。ナッシュのように、自我の姿が見えるわけじゃない。だけど明らかに心の中でしゃべり続ける存在に気がついている。その存在はやまんばをつぶそうとあの手この手をつかって挑んでくる。
その声に気づき続けていて、その声に乗っからないようにしていると、だんだん声がとぎれはじめる。そして、こんどは声にならない感情のようなものも、気がつきはじめる。しかし同じように無視をしているととぎれはじめてくる。
だけど、決して消えることはない。ただ遠くの方にそれは存在している。まるでチャールズのように。
今にあるとは、この心の様子をただ見つめ続けることのようだ。それは座禅を組まなくてもできる。日常の作業の中でできる。
お茶の作法はまさにそれを体現している。お椀をもつしぐさ、柄杓をもつときの指の動き、ふくさをたたむ動き。。。全てが意図的に動かされている。その時、心は真っ白だ。茶を立てるとき、ただその動きだけに心が定着している。それはまさに心もカラダも「今にある」ことじゃないだろうか。
千利休は心がもつ特徴、そしてその正体を知っていたのだ。
やまんばはそれを日常に取り入れてみる。
トイレのドアを開けるとき、閉める時、トイレットペーパーを取り出すとき。
お湯を沸かすとき、ガスのスイッチを入れるとき、止めるとき、お湯を急須に注ぐ時。
指の動き、腕の動き、カラダの動き、全てに意識を向けると、おのずとゆっくりとした動作になり、そして美しい動作になる。どんなにゆっくりになろうとも、結果的にムダな動きが消え、最短距離をいく。
心はここにあり、どこへも飛んでいかない。
心はここにあり、どこへも飛んでいかない。
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